20世紀その5~冷たい戦争と独立の熱~
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今回は第二次世界大戦後の1945年末から1965年までを扱います。
もくじ
東西冷戦の始まり
1945年第二次世界大戦は終わりましたが、その少し前、新たな火種が生まれていました。同じ連合国として、日本やドイツ相手に戦っていたアメリカとソ連が、戦後の世界をどう引っ張って行くのかをめぐって対立するようになったのです。
もっとも、戦争前からアメリカはソ連のような共産主義の国を嫌がっていたので、ファシズムという共通の敵がいなくなったことで対立が“再燃“した、といった方が正確かもしれません。
第二次世界大戦という未曽有の悲劇を生んだことは、国際社会の利害対立を調整する強力な組織が必要という事で、以前の国際連盟に代わる国際連合(以後国連)が設立されます。
特に紛争解決などで大きな役割を果たす「安全保障理事会」には、連合国の大国であったアメリカ、イギリス、フランス、中国、ソ連(ロシア)の5か国は必ず出席することになっています(常任理事国)。この5か国は拒否権を持ち、重要な決議が否決される危険性を持っています。共に拒否権を持つ米ソの対立は、安全保障理事会の機能にマイナスの影響を与えたと言えるでしょう。
戦後の「共産化」は、東アジアとヨーロッパでほぼ同時に進み、アメリカも自国を中心とした「陣営」を築いたため、世界は米ソ2カ国により、大きく分断されることになりました。
更に1949年、アメリカに加えてソ連が核兵器を持ったことが、この状態を固定化させてしまいます。つまり、原爆や水爆のような大量破壊兵器を1度使ってしまえば、報復による打ち合い合戦が始まり、世界滅亡は必然。ゆえに両国とも下手に動けない。20世紀後半は大国同士の戦いが行われない「冷たい戦争=冷戦」とよばれる時代となります。
もう一つ、この時代の特徴としては、アジア、アフリカの植民地が独立を果たしたことが挙げられます。第二次世界大戦を経験したヨーロッパの国は、復興のためにアメリカの支援を受けるほどにボロボロになっていました。そのため、遠く離れた植民地で起きていた民族主義の運動を抑えることは難しく、イギリスはインドを手放し、オランダはインドネシアの独立を、フランスはベトナムやアルジェリアの独立を認めざるを得なくなります。
しかし、独立を達成した国々もまた、冷戦のうねりに翻弄されていきます。ある国はアメリカ陣営、ある国はソ連陣営、またある国は、どちらにも付かない、第三の陣営に入ることになりました。そして時には違う「陣営」の者同士の間で対立、戦争が生じました。
東アジアの冷戦
戦争に負けた日本は、ソ連に占領された北方領土を除き、マッカーサー率いるアメリカ軍の組織GHQの統治下に入ります。軍国主義は否定され、平和主義と国民主権を軸とした新憲法を発布。昭和天皇は残ったものの、政治にかかわることが出来なくなりました。
また、日本の植民地や委任統治領はすべて手放すことに。パラオやミクロネシア連邦はアメリカに、台湾は中国の支配下に入り、千島列島や南樺太(サハリン)はソ連に占領されました。
そこで問題になったのが朝鮮半島でした。朝鮮も日本から解放されたのですが、そのかじ取りをめぐり、大きく3つの勢力が争っていました。1つ目が、呂運亨を中心とした地元の勢力で、日本の敗戦直後、早くも朝鮮建国準備委員会を立ち上げていました。2つめがアメリカを後ろ盾とした李承晩率いる大韓民国臨時政府、3つ目がソ連を後ろ盾とする金日成を中心とした朝鮮労働党でした。
呂運亨は、激しく対立する「臨時政府」と「朝鮮労働党」をまとめて1つの朝鮮を築こうとしますが、1947年暗殺されてしいます。両勢力の対立に米ソの対立がからんだ末、1948年に妥協が成立。北緯38度を臨時の境界として、2つの「国」が誕生しました。これが大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)です。
同じ頃、中国でも争いが生じていました。日中戦争中は手を組んでいた中国国民党と中国共産党が、日本を打ち負かしたことで再び対立をはじめたのです。両者の対立は内戦へ発展。最終的には多数の農民を味方につけた中国共産党が勝利。その党首、毛沢東が、1949年に中華人民共和国を立ち上げました。敗れた蒋介石ら国民党は台湾に逃れ、台北に中華民国の臨時政府を立ち上げます。この構造は現在も変わっていません。
ソ連に加え、中華人民共和国という共産主義の大国が出来たことで、勢いづいたのが北朝鮮でした。1950年、金日成は朝鮮半島を統合せんと、突如韓国側に侵攻。朝鮮戦争が勃発しました。不意を突かれた李承晩政権は、ソウルを追われ、半島の大部分を北朝鮮軍に占領されてしまいます。
このままでは朝鮮半島全体、ひいては東アジア全体が共産化されてしまうと、危機感を感じたアメリカは、韓国軍の支援を開始し、逆に北朝鮮軍を押し戻していきます。すると今度は、アメリカ勢力が国境付近まで進出してきたことに中国政府が危機感を感じ、北朝鮮に義勇兵を送りました。
一進一退の攻防の末、1953年最終的に休戦協定が結ばれ、朝鮮戦争は一時ストップ。現在に至る休戦ライン(軍事境界線)が、北緯38度付近に引かれました。この間、朝鮮人同士の戦いで、100万人を超える犠牲者が出たといいます。韓国と北朝鮮は、今でも、形式上「戦争状態」にあります。
朝鮮戦争という危機に対し、アメリカが資本主義陣営の「防波堤」として利用したのが、日本でした。朝鮮戦争で日本はアメリカを物資的に支援。この朝鮮特需で、日本の経済は一気に好転し、戦後復興にはずみがつきました。吉田茂政権下の1951年にはサンフランシスコ平和条約が結ばれ、日本は国際社会への復帰を遂げます。
一方、平和主義は見直しを迫られます。1950年に警察予備隊(後の自衛隊)が結成され、翌51年には日米安保条約で、米軍基地が国内、特にまだアメリカ統治下にあった沖縄に残ることになります。
ヨーロッパの冷戦
戦争に敗れたドイツは、下の図のように、4カ国によって分割されてしまいます。また、ポーランドやハンガリーなど東ヨーロッパの国は、その多くがソ連によってナチス・ドイツから解放されたため、戦後もソ連の影響力下にありました。
一方、同じくドイツに占領された国でも、フランスやオランダなど西ヨーロッパの国々は、米英を中心とする軍によって解放されたため、戦後もアメリカの影響力下に入ります。
このように、終戦直後から、ヨーロッパは、アメリカ陣営とソ連陣営に分断されてしまいます。1946年、チャーチル元首相が「ヨーロッパに鉄のカーテンが下ろされた」と演説したことは、この構造を的確に説明したものでした。
アメリカ、ソ連のこれ以上の拡大を抑えようと、東ヨーロッパに近いギリシャとトルコを軍事的に支援するトルーマン・ドクトリンと、ヨーロッパの復興を支援するマーシャル・プランを相次いで発表します。財政的や軍事的な支援で、自分の仲間を増やそうとしたわけです。
これに反発したのがソ連のスターリン。東ヨーロッパの国がマーシャル・プランを受け入れないよう圧力をかけると共に、政治面でも介入を始めます。当時の東ヨーロッパでは、共産主義の政権が発足し始めていたものの、自国の身の丈に合った、比較的自由度の高い政治が行われていました。しかしスターリンは、自国と同じような強力な政治体制を求めます。この結果、多くの国で政治的な自由が失われ、共産党による一党独裁体制が始まりました。
1947年にはソ連、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラビアなどの共産党が情報を共有する組織、コミンフォルムがつくられます。こうして徐々に東ヨーロッパ諸国はソ連の属国となっていきますが、ユーゴスラビアは例外でした。この国は戦時中、ティトー率いる軍が、ソ連の力をほとんど借りることなく自国解放を実現しており、戦後もソ連にヘコヘコする必要はありませんでした。ソ連の圧力に抵抗したユーゴは、1948年コミンフォルムを除名され、以後、独自の社会主義路線を続けていくことになります。
この間、ドイツはどうだったかというと、米英仏の占領地と、ソ連の占領地との間で対立が激化します。結局、アメリカ陣営側の政府と、ソ連陣営側の政府が1949年各々成立しました。つまり、これが西ドイツと東ドイツです。以後、ドイツは東西冷戦の最前線となっていきます。
そして、ソ連に対抗する軍事的な組織として、1949年NATO(北大西洋条約機構)が結成されます。西側陣営の軍事的な結束により、東側陣営との対立は、これで決定的となります。
↑ウクライナ問題、歴史的な背景は?より ※ワルシャワ条約機構は後程出てきます。
ソ連の動き(雪どけ~キューバ危機)
緊張した米ソ関係は、1953スターリンが死去したことで新たな局面を迎えます。次のソ連の指導者となったフルシチョフは、西側との関係改善に乗り出します。1955年ソ連と米英仏との間で開かれたジュネーヴ4巨頭会談では、ドイツの問題や軍縮について話し合われ、緊張緩和(通称雪どけ)の第一歩となりました。
翌1956年フルシチョフは、スターリンによる虐殺や個人崇拝が「間違いだった」というスターリン批判演説を行い、国内外を驚かせます。これに東ヨーロッパの国々では、ソ連の態度が変わったと思い、政治にも改革のメスを入れる動きが起こりました。
特にハンガリーでは、民主化や東側陣営からの離脱など、思い切った動きを見せます。ところがフルシチョフは、スターリンの誤りを認めたものの、東ヨーロッパの政治体制を変えるつもりはありませんでした。同じ1956年、ソ連軍はハンガリーに侵攻し、改革を挫折させます(後述)。
更に1961年には東ドイツ政府にベルリンの壁構築を指示するなど、その体制維持には犠牲を惜しみませんでした。
一方のアメリカは、共産主義の拡大を徹底的に抑え込むべく、国内での摘発(赤狩り)を行います。外交面でも、その国のトップが反共産主義、親米政権であれば、たとえそれが独裁者であっても関係を維持しました。南ベトナムのゴ・ディン・ジェムや、キューバのバティスタなどは、その典型でした。
このキューバのバティスタ独裁政権はしかし、国民の支援を受けたカストロやゲバラなど若き革命家たちにより、1959年崩壊しました(キューバ革命)。本来であればこうした革命政権は、アメリカの支援を受けたクーデターで押し潰されてしまうのですが、首相となったカストロはそうはさせまいと、ソ連に接近。ソ連もアメリカの「喉元」に自分の友好国ができれば、戦略的に有利になるとして積極的にカストロを支援しました。こうしてキューバは社会主義国家へと変貌します。
1962年、キューバにソ連のミサイル基地が建設されつつある、という情報がアメリカに入ります。もしそうなれば、ワシントンやニューヨークに核ミサイルが撃ち込まれる可能性が出てきてしまいます。時のケネディ大統領は、キューバを海上封鎖し、建設を押しとどめようとします。一歩判断を間違えれば核戦争になってしまう。世界中が恐怖におびえました(キューバ危機)。
最終的には、カストロ政権をアメリカが攻撃しない、などの条件をアメリカが飲んだことで、ソ連はキューバから撤退。危機を乗り切ることが出来ました。フルシチョフもこのような危機を繰り返さないよう、アメリカとの関係を再び改善させようとしましたが、それがソ連内部の批判を呼び、1964年失脚しました。
米ソはまた、科学技術の面、特に宇宙分野でも競争を繰り広げました。1957年最初に人工衛星スプートニクの打ち上げに成功したのはソ連でした。1961年にはやはりソ連の軍人、ガガーリンが、初の有人宇宙飛行を成功させます。
後れを取ったと感じたアメリカは、1958年NASAを立ち上げ、1960年にはアポロ計画を実行に移します。その目的地は「月」でした。地球以外の天体に人類が降り立つことは出来るのか。実験と研究が両国の間で繰り返されることになります。
アメリカ国内の動き
前述のように1950年代のアメリカ国内では、赤狩りと称した共産主義撲滅運動が行われていました。FBIやCIAのような情報局も本来は共産主義者を見つけ出して叩くために設置された組織でした。1954年、就任間もないアイゼンハワー大統領は、共産党を非合法化(法律違反とする)しています。ただ、赤狩りは政府を批判する人に共産主義のレッテル貼って、押さえつけるといった手段に利用され、深刻な問題となりました。特にこれを声高に象徴したのが、マッカーシーという議員だったことから、マッカーシズムなどと称される事もあります。
一方で、アメリカ社会は繁栄の絶頂に達します。多くの家庭でマイホームやマイカーが当たり前となり、新しい家電が次々と登場するようになりました。しかしこうした物質文明の頂点は同時に上限でもあり、人々は社会の停滞を危惧するようになります。また、国内には黒人差別などまだまだ深刻な問題が残っていました。
そんな中、1961年大統領となったのが、ケネディです。彼はアメリカの停滞しつつある空気を打破すべく、新しい産業の構築や、人種問題への対処などを強力に推し進めていきます。ニューフロンティア政策と呼ばれています。40代の若き大統領は、中南米や西側諸国と改めて絆を深める一方、前述のキューバ危機を乗り越えるなど精力的に活動しました。
人種差別問題に対しては、公民権法の成立を目指します。この時期、ローザ・パークスやキング牧師ら多くの活動家が、黒人差別撤廃の運動を繰り広げていました(公民権運動)。ケネディもこうした動きを無視できず、法の整備を進めますが、1963年パレードの最中に銃撃されるという、衝撃的な最期を迎えました。公民権法はその翌年、1964年に成立します。
しかし法的に平等になったとはいえ、白人と、黒人やアジア人やラテンアメリカ人達との間には心的な差別意識が残り、それは現在も続いています。
東ヨーロッパ
事実上、ソ連の属国となった東ヨーロッパの国々は、1947年頃からスターリン型の強力な共産主義政治を押し付けられました。1949年社会主義国の経済協力を目的として、コメコンという組織がつくられますが、ここに参加したヨーロッパの国は、ソ連、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアでした。これらの国が、いわゆる「東側陣営」の国です。1955年にはNATOに対抗する組織として、ワルシャワ条約機構が設立されました。上記の国々はいずれもこの組織の加盟国でもあります。
1953年ソ連のトップがスターリンからフルシチョフに代わると、歩調を合わせるように、各国もスターリン型体制を転換し、それまで力を持っていた「スターリン派」は失脚。ブルガリアではジフコフ政権、チェコスロバキアではノヴォトニー政権、ハンガリーではナジ・イムレ政権が発足。ルーマニアでは小スターリン化していたデジ書記長が素早く反スターリン派に転換したことで体制を維持しました。ポーランドの小スターリンと言われたビェルトは、1956年スターリン批判を聞いてショック死したといいます。同年コミンフォルムも廃止され、人々は、一つの時代が終わったことを痛感しました。
<ポーランド>
スターリン批判の直後、ポーランドとハンガリーでは、多くの民衆が自由を求めて活動を活発化するようになります。ポーランドでは、共産党の引き締めを批判した労働者による暴動(ポズナニ事件)が発生し、全国に拡大。事態を収拾すべく改革派のゴムウカが政権の座に就き、実際に一部の規制を緩めるなど改革を進めました。
<ハンガリー>
ハンガリーでは、改革派のナジ・イムレ首相が民衆の声により担ぎ出されます。彼は共産党以外の政党を認め、更に東側陣営から脱して中立外交に転ずることを宣言するなど、思い切った改革を試みました。これに脅威を感じたソ連は1956年にハンガリーへ侵攻。ハンガリー動乱(革命)という流血の惨事へと発展しました。ナジ・イムレの処刑後、カーダール書記長がハンガリーのトップとなります。彼はソ連との関係を改善する一方、ゆっくりとしたペースで国民の自由化を進めていくことになります。
↑世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ハンガリーの歴史~より
<ユーゴスラビア>
一方、コミンフォルムを追われたユーゴスラビアは、ティトー大統領の元、独自の社会主義を追求していきました。フルシチョフ政権発足後、ソ連との関係改善も進みましたが、ハンガリー動乱の後に関係は再び冷却化。1961年には第三世界(後述)の一員として、非同盟諸国首脳会議を首都ベオグラードで開催しました。
<アルバニア>
逆にフルシチョフ政権発足を機に、ソ連との関係が悪化に転じたのがアルバニア。この国では戦後から一貫してホッジャ第一書記が国を率いてきましたが、1953年以降はフルシチョフの方針転換を批判し、もう一つの共産党大国、中華人民共和国との関係を重視します。この結果アルバニアは1965年にソ連と国交断絶し、ワルシャワ条約機構からも追放。孤立を深めていくことになります。
南アジア
イギリス領インドでは、戦時中からガンディーやネルーが、クイット・インディア運動(イギリスにインドを去れと訴える運動)を行い、しかもヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が激化。イギリスもこれを抑えることが難しくなっていきます。1946年インドで選挙が行われますが、ここでも、ヒンドゥー教徒が支持するインド国民会議と、イスラム教徒が支持するインド・ムスリム連盟が真っ向から対立。暴力事件も多発していきました。イギリスはついにこの最大の植民地を手放すことを決定。1947年インド総督がイギリスへと帰国しました。
ところが、インド独立の際行われた国民投票でこの国は分断されてしまいます。すなわち、対立をどうしても解消できなかった、「会議派」と「ムスリム連盟」どっちを政権に選ぶか。その結果によってインド共和国とパキスタンという、2つの国が出来てしまったのです。朝鮮半島とはまた違った背景ですが、一つの社会が政治的な理由により2つに分かれてしまった事例です。
しかも両国の間に位置するカシミール藩王国は、王(マハラジャ)がヒンドゥー教徒、王国民の多数派はイスラム教徒だったことから、インド、パキスタン双方が「ここは自分の領土だ」と主張。1947年の内に、軍事衝突が起こってしまいます(第一次印パ戦争)。
ガンディーは、インドが引き裂かれることを望まず(無論、それによる無数の暴力事件も望まず)、両勢力の宥和を説いて回りましたが、それが、ヒンドゥー教徒の過激派に「イスラム教徒の味方をしている」という疑念を抱かせ、1948年に暗殺されてしまいました。
東南アジア
東南アジアでは、終戦前後に独立宣言を出した国が少なくありませんでしたが、その後オランダやフランスが各植民地に戻ってきたため、植民地側の人々はこれに抵抗、場所によっては独立戦争へと発展していきました。
<フィリピン>
フィリピンは、タイを除く東南アジアでは最初の、1946年独立を達成します。これは戦前に予定されたもので、アメリカから“与えられた”独立でした。そのため、アメリカの影響力はなおもフィリピンに残り、この国と結びつきの強い地主や資本家の権力は残された一方、日本軍相手に戦った英雄であるはずのフクバラハップ団は弾圧されました。
< インドネシア>
インドネシアでは、スカルノ率いる「共和国派」が、戻ってきたオランダ植民地政府と対立し、独立戦争へと発展します。戦後復興にインドネシアの富を利用したかったオランダは、あの手この手で独立を妨害しますが、アメリカや国連に「やり過ぎ」と非難され、1949年正式にインドネシアの独立を認めました。
スカルノは、社会主義国家を目指しつつも、ソ連ら「東側陣営」ともアメリカとも距離をとった外交を行いました。1955年には、同じくどちらの陣営にも属さない国々(第三世界)が、インドネシアのバンドンに集まり、会合を開いています。
<ビルマ(ミャンマー)>
ビルマでは、アウンサンがイギリスと交渉を重ね、1947年独立承認を取り付けました。翌1948年ビルマは独立を達成しますが、アウンサン自身はその直前、ライバルに暗殺されてしまいます。そのため当初からビルマの政権(初代ウー・ヌ首相)は揺れ動き、特に国内の少数民族が、ビルマ人中心の政治に声を上げるようになります。1962年、軍人のネ・ウィンがクーデターを起こし、独裁政権を樹立。政党活動は停止され、少数民族は弾圧されました。
<マレーシア>
マレー半島では1948年、イギリスの保護下にあった複数の王国がマラヤ連邦としてまとまります。しかし国内のマレー人と中国系、インド系住民との間に利害対立が解決されておらず、これらの利害調整に時間がかかりました。
1957年なんとか独立を達成しましたものの、まだマラヤ連邦の領土はマレー半島だけ。今度はその周囲にあったイギリス領との連携を進めます。この結果、経済的に発展していたシンガポールを取り込み、更にボルネオ島北部のイギリス領(サラワク、サバ州)も連邦に参加。1963年国名をマレーシアと変えました。
<マレーシアとインドネシアその後>
マレーシアの拡大に脅威を感じたのが、直接国境を接することになったインドネシア。当時スカルノ政権は独裁化し、国民の支持が下がっていた時期でした。彼はマレーシアに侵攻して不満を外に向けようとしましたが、国際的な非難を受け、一時インドネシアは国連を脱退してしまいます。
1965年、マレーシア、インドネシア双方で大事件が起きます。マレーシアでは、経済的に不利だった先住のマレー人を優遇する政策が行われていましたが、中国系の住民が多いシンガポールがこれに抗議。この年の8月、マレーシアからシンガポールが分離独立しました。
同じ1965年、インドネシアのスカルノが軍事クーデターで失脚。代わってスハルト政権が発足します(九三〇事件)。スハルトは、彼に近しいとされた、国内の共産党員を徹底弾圧しますが、その混乱で奪われた人命は100万人を超すと言われています。
<タイ>
独立国タイでは、日本に協力して米英に宣戦布告したにもかかわらず、巧みな外交戦術により敗戦国の扱いを免れました。しかも、当時の首相だったピブーンが、今度は共産主義を抑える防波堤の役割をアピールし、政権に復帰しただけでなく、アメリカの承認を得るという、離れ業をやってのけました。第二次世界大戦の敵対勢力が、冷戦では味方になる・・・歴史の皮肉ですね。
タイは反共産主義の砦としてアメリカの支援を受け経済発展。1958年ピブーンを追い落として首相となったサリット首相は、強権をもって工業化を進めていきます。いわゆる開発独裁が、ここタイでも行われたのでした。
<ベトナム・ラオス・カンボジア>
フランス領インドシナでは、複雑な経緯をたどります。
戦後、フランス軍がインドシナ支配を再開したため、ホー・チ・ミンらベトミンは反発し、1946年から独立戦争(第一次インドシナ戦争)が始まりました。フランス政府は共産主義者だったホー・チ・ミンに代わり、阮朝の皇帝バオ・ダイと交渉。1949年、ラオス王国、カンボジア王国と共に「フランス連合」という結びつきを残した状態での独立を認めます。
しかしこのやり方ではフランスの影響力が残ってしまう。より完全な独立を求めてインドシナ戦争は続きました。1954年ベトミンはディエンビエンフーの戦いでフランスに勝利。フランスはアメリカなどと会談の末、ベトナム、ラオス、カンボジアの完全独立を認めました。
ただしアメリカは、ベトナムやインドシナの共産化を防ぐため、ホー・チ・ミンの政権をベトナム北部に限定。北緯17度を境に、ベトナムは南北に分かれます。南ベトナムでは、バオ・ダイ政権が発足します。
1955年南ベトナムのバオ・ダイ政権を、貴族出身のゴ・ディン・ジェムが打倒。彼はアメリカをバックに独裁化し、腐敗した政権は不人気でした。これを見た北ベトナムのホー・チ・ミンは、ベトナム統一戦線(ベトコン)を結成し、南ベトナムの政権を打倒しようとします。これがベトナム戦争の発端でした。
ベトナムの動きに、ラオスでは1960年親米政権が倒れ、カンボジアの国王シハヌークもアメリカから離れていきます。危機感を持ったアメリカは間もなく「実力行使」に踏み切ることに。1964年に起きたトンキン湾事件を口実に、1965年から米軍が北ベトナムへの空爆(いわゆる北爆)を開始。南ベトナムには直接米軍兵士を上陸させるなどして、ベトナム戦争への積極介入を始めていきます。
アラブ諸国とイスラエル
<イスラエル>
ナチスによるユダヤ人迫害は、ヨーロッパに住むユダヤ人の亡命を加速させました。その行き先の一つが、かつてユダヤ人が住んでいたという中東のパレスティナ。しかし、ここには既に多くのアラブ人が暮らしており、ユダヤ人移民の急激な増加に伴って両者の衝突も増えていきました。
パレスティナを統治していたイギリスはこれを抑えることができず、国連がこれを調停。パレスティナをユダヤ人居住地とアラブ人居住地に分ける、パレスティナ分割案を提案し、国連で採決されると、1948年ユダヤ人の政治家ベングリオンは、イスラエル国の成立を宣言しました。
しかしこれには周囲のアラブ諸国が猛反対。シリア、ヨルダンなど独立間もない国や、サウジアラビア、エジプトといったアラブの大国がイスラエルに宣戦布告し、第一次中東戦争が起こります。多勢に無勢と思いきや、アメリカの支援で最新兵器を持ったイスラエルは、未だラクダの騎馬隊が主力であったアラブ連合軍に勝利。先のパレスティナ分割案以上の領土を獲得しました。しかしアラブ諸国の多くはその後もイスラエルを認めず、国交を結んでいません。また、この戦争でアラブ側が負けたことで、パレスティナのアラブ人が難民として周辺国へ逃れることになります。
<エジプト>
アラブ最大の人口を持つエジプトでは、イギリスに寄りかかり腐敗していた、頼りない王室に敗戦の原因があるという考えが生じます。1952年軍人のナセル、ナギブら軍部がクーデターを起こし、国王一家とワフド党勢力を引きずり下ろしました(エジプト革命)。この後実権を握ったナセルは、アラブ民族主義を掲げ、イギリスからの「真の独立」を目指して動いていきます。
その一つが1956年、スエズ運河の国有化でした。19世紀以来イギリスが事実上支配していたこのドル箱運河をエジプト政府が「奪還」するという、正にアラブ人の為のこの行為は、当然ながらイギリスの反発を呼び、フランス、イスラエルと共にエジプトに侵攻します。
この第二次中東戦争ではしかし、ナセルが外交的に国際世論を味方につけ、この時ばかりはアメリカもイギリスに圧力をかけました。エジプトがソ連側に付くのを恐れたからです。翌57年、戦争はエジプト優位のまま終わり、ナセルはヨーロッパに勝ったアラブの英雄となりました。
<そのほかのアラブ諸国>
エジプトの勝利に対し、イラクでは、エジプトと同じくイギリス寄りだった王室が1958年軍部によって倒れます。そしてヨーロッパ系の会社が進出していた石油施設が国有化されました。1962年にはイエメンでも王政が打倒され、軍部によってアラブ民族主義的な政治が推し進められることになります。
シリアではバース党という、強くアラブ民族主義を唱える政党が力を付けてきます。1958年にはアラブの連携を形にすべく、シリアとエジプトとの連合が行われました(ただし、その後の利害対立の為、1961年に解消)。
エジプトに逃れていたパレスティナ難民達は、この勝利に勇気を得て、イスラエル対抗する武装勢力、ファハタを結成。ゲリラ活動を始めました。また、パレスティナの亡命政府PLOが1964年組織され、ヨルダンの首都アンマンに置かれます。そのヨルダンでは、エジプト、イラク、イエメンの王室が倒れた事から、国王がアメリカとの関係を強化しました。以来ヨルダンでは、サウジアラビアなどと同様、アラブ諸国とアメリカとのバランス外交に苦心することになります。
国内にキリスト教徒とイスラム教徒が混在するレバノンでは、キリスト教徒の大統領がアラブ民族主義を抑え込もうとしたため、かえってイスラム教徒の反感を買います。1950年代の前半には、金融業を発展させ、中東のパリとまで言われていたこの国ですが、その末頃から治安悪化が深刻化していきました。1958年にはイラクの王政打倒の動きが波及し、キリスト教系の政権に対し、イスラム系住民の大規模な暴動も起こっています。
イラン・アフガニスタン・トルコ
<イラン>
イランでは1941年に即位したモハンマド・パフレヴィ国王の統治下、イギリスの会社による油田開発が行われていました。しかしその利益の多くはイギリスが持って行ってしまっているのが現状で、イランで出る石油の富がなぜイランにもたらされないのか、という声が強まります。
1951年首相に就任したモサデクはこの声に応え、イギリス大手の石油会社を接収して、石油の国有化に踏み切りました。これと並行してイランの民主化を進め、国王の政治的権限を減じようとしたため、旗色の悪くなったパフレヴィ国王は一時国外へ亡命しました。
しかしモサデクの読みは外れます。石油国有化に反発したイギリスは、アメリカと共にイランの石油をボイコットし、イラン国内は不況に。1953年パフレヴィ国王と手を結んだアメリカは、CIAの援助によって反モサデク運動を起こさせ、彼を失脚させました。
この後帰国したパフレヴィ国王は、イラン統治を再開。1960年代には、農地改革(農地の再分配)や工業化、女性参政権付与など、上からの改革(白色革命)を推し進めていきましたが、アメリカという巨大な味方を持った国王は、独裁化していきます。また、アメリカの文化や風習がイランにも入り込み、伝統文化を重んじる人々は、急激な社会の変化に困惑していくことになります。
<アフガニスタン>
アフガニスタンでは、国王ザーヒル・シャーの統治下にありましたが、彼の親族が首相として政治の実権を握っていました。1953年には王の従兄弟である、ダーウドが首相となり、近代改革を進めていきます。この少し前の1947年、パキスタンが独立していますが、アフガニスタンはこの国と国境をめぐって争うように。パキスタンがアメリカや中国と関係を深めていたため、ダーウド首相はソ連と手を結びます。ただし共産主義を受け入れることはしませんでした。
ダーウドの近代化改革は、アフガニスタンの社会を徐々に変えていきますが、彼自身は次第に支持を失い、1963年首相の座を降りました。以後、国王ザーヒルが自らの主導で政治を動かしていきます。とは言え彼は独裁化には至らず、むしろ新憲法を制定するなどして民主化を進めていきました。
<トルコ>
トルコは、戦後西側陣営に組み込まれ、1952年にはNATOにも加盟しました。時の首相メンデレスは、ケマル・アタテュルク時代の体制(国家資本主義)を改め、経済の自由化などによってトルコ経済を成長させました。しかし成長に伴い、貧富の格差による不満が出始めると、メンデレスは政府批判を弾圧し始めます。1960年国民の支持を失った彼は、クーデターで失脚。翌年憲法が改正され、首相の権限が抑えられるなどの民主化が進みました。
東アジアその後
<日本>
日本では、1955年までに政党が再編され、与党の自民党と野党の社会党という体制、いわゆる55年体制が形作られました。この状態は平成初期まで続くことになります。社会面では、1950~60年代を通じて高度経済成長期に入ります。1960年、池田勇人大臣(翌年から首相)は、10年で国民の所得を倍増させる計画を打ち出しましたが、実際には10年もかからずに所得倍増は達成されます。1964年には東京オリンピックが開かれ、それに合わせて高速道路、新幹線、東京タワーなどが次々と建設されました。一方で、水俣病や四日市ぜんそくといった公害病が深刻化したのもこの時期です。
<韓国>
朝鮮戦争で一時ボロボロになった韓国は、1953年以降、反共産主義の砦としてアメリカの経済支援を受け、復興を進めていきます。しかしアメリカという強力な後ろ盾を持った李承晩大統領は、次第に独裁化したため民衆の怒りを買い、1960年失脚しました(四月革命)。
翌1961年、今度は朴正煕率いる軍がクーデターで実権を握ります。1963年大統領となった朴正煕は経済大国となった日本との関係改善を進め、1965年日韓基本条約を結びました。この結果、ようやく日韓の国交が正式に回復しましたが、一方で植民地時代や戦時中に起きていた問題のいくつかは棚上げされ、後々問題となっていきました。
<北朝鮮>
北朝鮮では、金日成が国家主席として長く権力のトップに居座ることになります。1957年からは、工業化計画、千里馬運動が始まりましたが、大きな成果は見られなかったと論じられています。
<中華人民共和国>
中国は共産主義国家になったとはいえ、必ずしもソ連陣営とはなりませんでした。中国ナンバー2の周恩来首相は、1955年のバンドン会議に出席し、中国が「第三世界」の一員であることをアピールしています。トップの毛沢東は、農業の集団化や企業の国営化といった、社会主義らしい政策を行います。1958年には農村に人民公社と呼ばれる組織をつくり、農業のみならず、工業や教育をもこの組織に担わせました。
その上で国内の経済を一気に発展させんとする、大躍進政策を進めました。つまり中国を短期間で工業大国にしようとしたのですが、実情に合わない強引な政策が農村を荒廃させた結果、数千万というトンデモナイ餓死者を出して大失敗に終わりました。
さしもの毛沢東もこの政策については批判を免れず、1959年国家主席の座を劉少奇に明け渡しました。しかし毛沢東は、それで引き下がるような人物ではなく、地位回復に向けて着々と準備を進めていくことになります。なお、1964年中国は核実験を行い、5番目の核保有国となりました。
この頃、北京から遠く離れたウイグルやチベットにも、中国共産党の手が及びます。日中戦争までは半独立状態だった両地域ですが、1950代に北京の人民解放軍が進出して以降、これらの地にも農村の集団化などの政策が押し付けられました。1955年には新疆ウイグル自治区が早くも成立しますが、民族運動(ウイグルの人々はトルコ系のイスラム教徒が多い)などは激しく弾圧されていきます。
チベットでは、1950年代後半から北京政府に対する抗議がエスカレートし、1959年には大きな反乱となって現れました。チベット動乱です。政府がこれを武力で抑え込んだ結果、チベットのトップであるダライラマ14世はインドへ亡命しました。チベット自治区が成立したのは1965年のことです。
<台湾(中華民国)>
一方、台湾に逃れたしょうかいせき[/rt]政権(国民党)は、台北で独裁を敷きました。彼は1950年に朝鮮戦争が起こると、アメリカは北京政府と台北政府の武力衝突を恐れ、台湾海峡の中立化、つまりそれぞれの軍が海を渡って攻め込んではいけない(中国大陸→台湾島も、台湾島→中国大陸もダメ)としました。
その上でアメリカも日本も、台湾の国民党政府を「正式な中国政府」だとして扱い、1952年には日本と台湾(中華民国)との間に日華平和条約が結ばれています。その後台湾は、韓国などと同じく、アメリカ支援の元、工業化を進めていくことになります。
<モンゴル>
1920年代から共産主義国家となっていたモンゴルは、1949年に中華人民共和国が成立したことで、2つの共産主義国戦に挟まれることとなります。そして中国はもちろん、新たにソ連陣営となった東ヨーロッパとも関係を深めていきました。ただし、中国内のモンゴル人が多く住む地域については、1947年内モンゴル自治区がつくられ、現在まで両者は「別の国」となっています。
南アジアその後
<インド>
ガンディー亡き後、インドを引っ張ったのはネルーでした。ネルーはインドのこれ以上の分裂を防ぐべく、政教分離(政治に宗教を持ち込まない)を敷いて、シク教徒やジャイナ教徒にも配慮しつつ、地方へ支配域を伸ばしていきます。地方にはイギリスから自治を認められていた、マハラジャの治める藩王国がまだいくつも存在していましたが、ネルーのインド政府は時に武力を用いてこれらを併合。フランス領だったシャンデルナゴルや、ポルトガル領だったゴアなども取り戻していました。
内政では、貧困者の生活を底上げする目的で社会主義を導入し、1951年から第一次五カ年計画による工業化へのテコ入れが始まります。しかしソ連や東側諸国の陣営に入らず、「第三世界」の一員としての立場を貫きます。
中国とは当初「第三世界」の重要なパートナーでしたが、1959年チベット動乱が起こり、ダライラマ14世がインドに亡命すると、関係は微妙なものに。さらに1962年には、中印国境紛争が起こり、関係は冷え込んでいきます。
また、ネルーは工業化を重視する一方、農業にはあまり力を入れなかったため、度々起こる飢饉の発生を解決するには至りませんでした。このような課題を残しつつも、ネルーは1964年に死去するまで、この大国を支え続けました。
<パキスタン>
インドと別の道を歩み始めたパキスタンですが、国は大きくパンジャブ地方、シンド地方、ベンガル地方に分かれており、おのおの強い独自性を持っていました。極端な話、国内で共通していたのは「イスラム教徒が多数派で、インド・ムスリム連盟を支持した」ということだけだったわけです。
これらを統合すべく、インド・ムスリム連盟のカリスマ的指導者、ジンナーの力量が試されるところでしたが、不幸にも建国翌年の1948年に病死。パキスタンは内部分裂を克服できないまま、1958年に軍事政権が発足し、そのトップとして軍人アユーブ・ハーンが大統領となります。彼はアメリカと連携して投資を呼び込み、農業を充実させて何とか国内の安定化を成し遂げます。インドとの関係は相変わらず悪く、1962年の中印国境紛争後は、「敵の敵は味方」理論から中国との関係も強化していきました。
<セイロン(スリランカ)>
1948年には、同じイギリス領だった、セイロンも独立。こちらは分裂こそしなかったものの、内部にやはり対立を抱えていました。
植民地時代、多数派で仏教徒中心のシンハラ人は冷遇され、少数派でヒンドゥー教徒のタミル人が優位にありました。独立後、シンハラ人の権利や利益を「取り戻す」という、シンハラ・ナショナリズムが大きくなり、1950年代には実際にシンハラ人優遇政策を始めたため、今度はタミル人が窮地に立たされることになります。
1960年シリマヴォ・バンダラナイケが首相となります。彼女は前年暗殺された夫のソロモン・バンダラナイケ首相を引き継いだ格好でしたが、世界初の女性首相は意外にもこの国で誕生したのでした。彼女もシンハラ人優遇政策を続けます。
<ネパール>
ネパールでは19世紀から「ラナ」(大王の意味)という地位の人物が、国王を差し置いて独裁を敷いていました。1947年インドが独立すると、民主化を求める人々が、インドに倣ったネパール国民会議という政治団体を結成。そのリーダーであるコイララは、インド政府や国王の支持を得て、ラナ専制体制にNoを突きつけていきました。
↑世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ネパールの歴史~より
1951年、当時のモハン・ラナがついに会議派の要求を受け入れ、ラナ専制体制は終わりを告げました(七年革命)。間もなく議会が設置され、ネパール初の憲法も作られます。しかし1955年即位したマヘンドラ国王は、議会と対立し、自身に権力を集中。1960年にはできたばかりの憲法も停止され、今度は国王の専制(パンチャヤート制)へと転換。ネパールの民主化は一時的なものに終わりました。なお、ヒラリーとノルゲイが、人類初のエベレスト登頂を成し遂げたのは、このさなか、1953年のことです。
<ブータン>
チベット仏教の国ブータンは、1949年イギリスの保護から外れますが、ヒマラヤ山中の小国として、事実上鎖国のような状態でした。1952年、新国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクが即位すると、その状況が大きく変わります。
彼はイギリスに留学した経験を持っており、その経験を生かして、議会の設置や農奴制廃止など(むしろ農奴がまだ残っていたのにオドロキ!)近代化政策を一気に進めました。1960年代には道路や学校など、インフラ、福祉政策にも力が入れられる一方、中国が本家チベットを攻めた関係から、インドとの連携を強めていくことになります。
西ヨーロッパ
第二次世界大戦で戦場となったヨーロッパですが、特に西ヨーロッパは、アメリカの復興支援計画、マーシャル・プランを受け入れることで、再建を進めると共に、「西側陣営」として連携してきます。また、惨劇を繰り返さないように、大国同士の対立関係(特にドイツと英仏)を改める動きを見せました。西ヨーロッパ諸国の持っていたアジア、アフリカの植民地が独立したこと、アメリカという超大国に経済的に負けないようにすることも手伝い、ヨーロッパ内での統合が加速します。
1950年代には、地下資源を共同管理するECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)や、経済的な結びつきを強めるEEC(ヨーロッパ経済共同体)、原子力の平和利用を進めるEURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)が次々と組織されます。
その原加盟国は、西ドイツ、フランス、イタリア、そしてこうした大国に翻弄され続けてきたオランダ、ベルギー、ルクセンブルクでした。3つの組織は後に融合し、EC(ヨーロッパ共同体)、そしてEU(ヨーロッパ連合)へと生まれ変わることになります。
<イギリス>
終戦後チャーチルに次いで首相となった労働党出身のアトリーは、企業の国有化、義務教育年齢の引き上げ、国民保険法といった福祉の面での改革を推し進め、イギリス国民は「ゆりかごから墓場まで」生活支援が得られるようになります。
このことはしかし、出費を増やす要因となり、1951年に保守党のチャーチルが首相に返り咲き、その後もしばらくは保守党政権が続きました。冷戦の深刻化から、1952年イギリスも核兵器を保有。なおこの年は、エリザベス2世女王が即位した年でもあります。
保守党政権も一度開始した高福祉政策をやめることは難しく、1963年労働党ウィルソン政権が発足。彼の時代死刑が廃止され、人種差別撤廃法が成立するなど、新たな局面を迎えます。
この間インド、パキスタン、ビルマ、イスラエルなどが独立。1956年にはエジプトがイギリス管理のスエズ運河を国有化し、1960年代にはナイジェリアやケニアなどアフリカ諸国もイギリスから離れていきました。大英帝国の栄光は縮小していきました。
<アイルランド>
第二次世界大戦で中立を貫いたアイルランドは、1949年イギリス連邦から正式に離脱し、共和国となります。1960年代には高度成長を遂げますが、一方でイギリス領である北アイルランドとの関係が危うくなっていきます。北アイルランドをアイルランド共和国と統合しようという声と、イギリスに留めるべきという声が相争うようになり、後々深刻な暴力事件を引き起こすことになります。
<フランス>
ナチスからの解放後、フランスでは第四共和制が開始され、女性参政権なども認められます。しかし先述のようにインドシナで独立戦争が起こり、フランスはこれを抑えようとするも敗北。1954年にベトナム、ラオス、カンボジアの独立を認めます。
すると今度は北アフリカのアルジェリアでも独立戦争が起こりました。こうした中、今の共和制では事態に対処できないとして、1958年大統領の権限を強化した第五共和制へと転換。初代大統領にはフランス解放の立役者ドゴールが就任しました。しかしアフリカ諸国の独立運動や独立戦争は止まず、1960年には10を超えるフランス領の国が一斉に独立。アルジェリアも結局は1962年にフランスの支配から脱しました。
なお、ドゴールは米ソの超大国に飲み込まれないよう、独自の外交を展開し、1960年には核兵器を持ちました。
<西ドイツ・東ドイツ>
初代首相となったアデナウアーの元、西ドイツは復興と国際社会への復帰を進めました。1954年にはNATO、翌1955年には国連への加盟も実現しています。国内では被災者、海外からの引揚者が多かったことから、西ドイツでも高福祉政策が行われましたが、高い経済成長率に支えられ、幸い財政問題はそれほど深刻化しませんでした。
一方、東ドイツはソ連の影響力が非常に強く、ウルブリヒト第一書記の元で一気に共産化が進みました。これを嫌がる東ドイツ国民は、西ドイツの飛び地だった西ベルリンに入ることで「亡命」を果たします。この動きがどんどん加速したことから、困った政府は、1961年東西ベルリンの間に「壁」を建設。無理に「西」へ逃げようとする者には、射殺など厳しい措置が取られました。
<オーストリア・スイス>
戦時中ドイツと命運を共にしていたオーストリアも、戦後は米英仏ソにより分割統治されました。ただオーストリアの場合、ソ連の後押しした共産党政権を、米英仏も認めたことで、この国が東西に分かれることはなく、しかもその後共産党の勢いが弱まったことから、東側諸国の陣営に入ることも免れました。1955年連合国の占領を解かれたオーストリアですが、東西陣営の中間に位置していた関係もあって、永世中立国を宣言しました。
以後、オーストリアは、永世中立国の先輩格であるスイスと共に東西冷戦下でのバランス外交を続ける一方、紛争解決や難民の受け入れなどを積極化していきます。そのスイスの政界では、1959年に4つの政党が連携する体制(通称、魔法の公式)が始まり、政治の安定化が図られました。
<北欧諸国>
北欧諸国は、冷戦の中、「西側陣営」に属してはいたものの、距離的にソ連との関係も無視しえない立場にありました。
大戦中、ナチスに占領された経験から、デンマークとノルウェーはNATOに加盟。ヨーロッパと北アメリカの間に位置するアイスランドも加盟しました。一方、占領を免れたスウェーデンと、ソ連と闘って敗北したフィンランドはNATO加盟を見送ります。デンマーク、ノルウェーにしても、加盟に当たっていくつかの制限をかけて、ソ連との関係を維持しました。いずれの国もソ連を下手に刺激しないよう、気を配った形で戦後社会を生きることになります。特にソ連と長い国境を接するフィンランドでは、パーキシヴィ、ケッコネン両大統領が親ソ路線をとり、緊張の緩和に努めました。
国内ではいずれの国でも、年金や児童手当などを充実させた、高福祉政策を続けます。また、アジア、アフリカの新興国を積極的に援助したり、紛争を仲介したりと、平和外交にも努めました。1953年には北欧会議が始まり、北欧諸国の結束も強化されていきます。
<オランダ・ベルギー・ルクセンブルク>
戦時中、ナチス・ドイツに占領されたこのベネルクス三国。このような経験は二度としたくないと、戦後は中立政策を捨て、1949年NATOに加盟しました。前述のECSCなどの組織に積極的に加盟したのも、周辺の大国がぶつかると自国が危機に陥るからでした。
一方で、オランダもベルギーも復興に植民地の資源を利用しようとし、その独立には反対していましたが、結局1949年にはオランダ領のインドネシアを、1960年にはベルギー領コンゴ(コンゴ民主共和国)を手放しました。
<イタリア>
イタリアでは1946年国民投票が行われ、その結果僅差ながら共和国派が勝利し、王政が廃止されます。国王はムッソリーニ政権を支持していため、その責任をとらされた形です。
敗戦国だったイタリアは、デ・ガスペリ率いるキリスト教民主党政権下、アメリカ陣営に積極的に働きかけることで、国際社会復帰を成し遂げます。1950年代は日本と同様高い高度成長を実現し、1960年にはローマオリンピックが開かれました。
<スペイン・ポルトガル>
スペインとポルトガルでは、それぞれフランコ政権、サラザール政権というファシズムの色の濃い独裁政権が敷かれていましたが、両国とも第二次世界大戦に参加しなかったことから、戦後も独裁体制が残ってしまいました。とはいえ戦後の反独裁的な空気の中、国際的信用を得られずいた両国は、冷戦を利用します。元々ファシズムは反共産主義的な性格でもあったため、アメリカに積極的に近づくことで、両国は「西側陣営」として生き残ることになります。
国内の賃金は西ヨーロッパにしては安く抑えられていたことから、1950~60年代には外国資本の導入により両国とも高い経済成長を実現しました。なお、ポルトガルはアフリカに多くの植民地を持っていましたが、1960年代に他の地域が独立しても、サラザール政権は頑なにこれを手放そうとしませんでした。
<ギリシャ・キプロス>
バルカン半島の国が次々と共産主義化する中、ギリシャは反共産主義の防波堤としてアメリカに重視されます。先述のトルーマン・ドクトリンによるギリシャ支援発表はその象徴で、1952年にはNATOにも加盟しています。その後ギリシャは海運業や観光業を積極化させて、戦後復興を進めていきました。
そのギリシャへの併合を主張したのが、当時イギリス領でギリシャ系住民の多かった島国キプロス。ギリシャへの併合運動(エノシス運動)は戦後過激化し、島を統治するイギリス人や、少数派のトルコ系住民を襲うようになります。
1960年イギリスはキプロス独立を認めますが、国内のトルコ系住民に配慮してギリシャとの併合は実現せず。初代大統領にはギリシャ系マカリオス、副大統領にはトルコ系キュチュクが就任するなど、島の現状にあった政治体制が築かれました。
中南アフリカ
アジアの独立は、アフリカの植民地にも影響を与え、ヨーロッパからの独立運動を後押ししました。まず、元イタリア領だったリビアが1951年に王国として独立。フランス領のアルジェリアでは、1954年同じくフランス領だったベトナムが独立した事に触発され、独立戦争を開始し、この動きが両隣のフランス領、チュニジアとモロッコにも飛び火します。
戦火拡大を恐れたフランスは1956年にチュニジアとモロッコの独立は認めましたが、より植民地の歴史が長く、多くのフランス系住民も暮らすアルジェリアを手放すことは断固拒否しました。なお、同じ年にはイギリスとエジプトによって支配されていたスーダンも独立しています。
これらの国はいずれも、いわゆるアフリカ系(黒人)の住む地というより、アラブ人やベルベル人などが多く暮らす国でした。しかし黒人の多く住む中南アフリカでも、西洋の知識や経験を身に着けた政治的なエリートが出現しており、彼らが独立運動を引っ張っていきます。現在の国名でいえば、ガーナのエンクルマ、セネガルのサンゴール、ケニアのケニヤッタ、ギニアのセク・トゥーレ、コンゴ民主共和国のルムンバなどなど。特にエンクルマは、アフリカ人の解放と連携を主張した代表的な人物でした。
1951年ガーナ(当時は英領ゴールドコースト)にて行われた選挙で、自身の率いる政党が勝利するなど実力を見せた結果、1957年中南アフリカの植民地で初めて独立を達成。エンクルマはガーナの初代大統領となりました。
これを機に、アフリカ諸国独立の機運が高まり、翌1958年にはギニアがフランス領アフリカ植民地の中でいち早く独立。2年後にはコンゴ、チャド、ニジェール、コートジボワール、中央アフリカ共和国、ナイジェリア、マダガスカルなど17の国が立て続けに独立。そのためこの1960年は後に「アフリカの年」と呼ばれることになります。長年独立戦争が続いたアルジェリアも、1962年ようやくその悲願を達成しました。その後も1963年にケニアが、1964年東京オリンピックの真っ最中にはザンビアが独立しています。
しかし、その後のアフリカ諸国の多くは、決して順風満帆とはいきませんでした。以下に主な国の、独立前後の状況を列挙してみたいと思います。
<コンゴ(コンゴ民主共和国)>
ベルギーから独立したコンゴですが、長年この国を統治していたベルギー人が一斉に帰国してしまったことから、人材不足が深刻化し、その舵取りは当初から困難を極めました。アフリカ人の権利を強力に主張していたルムンバ首相と、欧米との連携を目指すカサブブ大統領が対立する中、ベルギー政府は、銅の産地である南部カタンバ州に影響力を残したいと、ここをコンゴから分離させようとしました。
これがきっかけでコンゴ動乱とよばれる内戦が発生。ルムンバはこれを抑えようとソ連に接近したため、対立するカサブブ大統領はアメリカに接近。カサブブの元にいた軍人モブツが、クーデターでルムンバを処刑するなど混乱が続きました。結局は国連軍も出動し、動乱は沈静化していきますが、独立後であっても欧米の国々が社会をかき回すこのような事態は、アフリカ各地でみられるようになります。
<ケニア>
イギリス植民地時代のケニアでは、豊かな農地をヨーロッパ人に占拠され、アフリカ人の間では、独立と共にこれを取り戻そうという声が高まっていきます。この声を代弁したのが、ケニア・アフリカ人民連盟(KAU)という政治団体で、そのリーダーがケニヤッタでした。しかし、団体の中でも急進派や過激派が勢いを増し、1952年マウマウの乱という大規模な反乱が発生。植民地政府は戒厳令を出し、ケニヤッタも関与を疑われ一時逮捕されました。乱は1955年鎮圧されますが、独立を求める声は止まず。1963年ようやく独立を達成し、ケニヤッタが初代大統領となりました。
<タンザニア>
この国は元々、大小2つの国が合併してできた物でした。大陸部のタンガニーカ地方では、1954年、タンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU)が結成され、そのリーダー、ニエレレが独立運動を引っ張っていきます。この結果1961年タンガニーカは独立しました。
かつてオマーン帝国の中心地として栄えた島国ザンジバルは、イスラム系王国として1963年に独立しますが、王族のアラブ人と、現地の黒人系住民との間で争いが発生し、1964年王国は廃止されました。
ニエレレはこの1964年、タンガニーカとザンジバルの連合を持ち掛け、これを達成。国名を、「タンガニーカ+ザンジバル→タンザニア」としました。面積比にして500倍近い開きがある両者ですが、形式上は、「対等」の関係にあるそうです。
<エチオピア>
1941年にイタリア軍が撤退し、皇帝ハイレ・セラシエも帰国したエチオピアでは、復興ととともに工業化に力を入れ始めます。なお、沿岸部のイタリア領エリトリアは、一時イギリスの支配下に入ったのち、1952年にエチオピアに組み込まれました。しかし宗教や言語の違いから、エリトリア人の権利は次第に抑え込まれるようになり、1962年には完全にエチオピアの一部と化してしまいます。
エリトリア人や、南部のオロモ人(いずれもイスラム教徒が多い)は、主導権を握るアムハラ人(キリスト教徒中心)や、次第に独裁化していくハイレ・セラシエに対し、自らの権利を主張するようになっていきました。
一方、アフリカの独立運動が盛んになる1950年代、数少ない独立国だったエチオピアはこれを支援。1963年アフリカの連携を目的とした組織、アフリカ統一機構OAUが発足すると、その本部はアディスアベバに置かれました。なお1960年と64年のオリンピックで活躍したアベベ・ビキラ選手は、オロモ系のエチオピア人でした。
↑法則クイズ2より
<ナイジェリア>
アフリカ最大の人口を持つナイジェリアは、250以上の民族が共存していますが、イスラム教徒の多い北部と、キリスト教徒の多い南部に大別できます。
植民地時代イギリスは、南部住民(ヨルバ人、イボ人など)には西洋型の教育を行うなど近代的で直接的な統治を行った一方、北部住民(ハウサ人など)には、伝統的なイスラム社会を温存し、間接的な統治にとどめていました。この違いは、「近代化の進んだ南部」と「遅れた北部」という差をナイジェリア内に生み出し、独立後に民族間の対立を引き起こすことになります。
その事を予想していた政府は、ヨルバ、イボ、ハウサの3大民族に対し、議員の数をバランスよくあてがう事で対応しようとしますが、その甲斐なく、やがては大規模な内戦を引き起こしてしまいます。
<南アフリカ>
アフリカ人が自らの政治的権利を獲得していく中、全く逆の方向に進んでいたのが南アフリカでした。少数の白人が支配するこの国では、戦前から多数派の黒人に対する差別的な政策を打ち出していましたが、1948年国民党(NP党)が政権につくと、この動きが加速します。国民は、「白人」「黒人」「カラード(インド人など)」などに強引に「分類」され、異種間の結婚が禁じられたり、「白人用」「黒人用」「カラード用」のバスやレストラン、公衆トイレまでもが各々作られたりしました。これが悪名高い、アパルトヘイトです。
当然これに対し、黒人やカラードたちは反対の声を挙げます。その代表的な人々がマンデラ率いるアフリカ民族会議(ANC)のメンバーでした。彼らは非暴力の範囲でアパルトヘイトの法を無視し、政府に抗議を続けました。しかし政府は黒人らの動きを暴力的に弾圧。1960年には、警官隊がデモ隊を多数射殺するシャープビル虐殺事件を起こし、世界中から非難を受けました。
こうした批判をかわすべく、1961年南アフリカはイギリス連邦からも脱退。外交的に孤立していくことになります。また、ANCは違法とされ、マンデラも1962年に逮捕、64年には終身刑を言い渡され、彼は長い獄中生活を強いられることになります。
なお、アパルトヘイトのような人種差別的な政策は、隣国のイギリス領南ローデシア(現ジンバブエ)でも行われていました。こちらも少数の白人系住民が政府を牛耳る国で、1965年にやはりイギリスの批判をかわすべく、一方的に独立を宣言しました。
オセアニア
太平洋戦争中、オーストラリアやニュージーランドが頼りにしたのはイギリスではなく、同じ太平洋に面したアメリカでした。こうしたことから、戦後両国はアメリカとの関係をイギリス以上に重視するようになります。
1949年から66年までオーストラリアの首相を務めたメンジーズは、反共産主義の姿勢を貫き、1950年始まった朝鮮戦争にも兵を派遣。1951年には太平洋の平和維持を目的に、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカの間に防衛協定ANZUSが結ばれました。
日本の委任統治領だったミクロネシア(パラオやマーシャル諸島を含む)は、今度はアメリカの統治下に入りました。アメリカ政府もまたミクロネシアの近代化を進めますが、一方でこの地を舞台に核実験を繰り返すようになります。特に有名なのが1954年ビキニ環礁で行われた水爆実験で、この時日本の漁船第五福竜丸が死の灰を浴びた他、周辺の島民にも被爆して命を落とした者が少なくありませんでした。
メラネシアやポリネシアの島々は、終戦時その多くがイギリス、フランスの植民地でした。しかしその後アジア、アフリカでの独立が相次ぐと、両国とも自国から遠く離れた島々の統治を改め、次第に自治や独立を与えるようになります。1962年にはサモアがイギリスからの独立(当時の国名は西サモア)を達成しました。
オーストラリアとニュージーランドは、こうした近隣のオセアニアの島々とも関係を強めていきます。この結果、特にポリネシアからニュージーランドへ移住する人々が増加していきました。オーストラリアでは依然として有色人種の移民を制限する白豪主義が続いたことも背景にあります。
北アメリカ
<カナダ>
カナダもオーストラリアなどと同様、戦後はイギリス以上にアメリカとの関係を深めていきます。冷戦下では西側陣営に属し、NATOにも加盟しました。一方、1956年の第二次中東戦争では、外相ピアソンがエジプト、英仏双方の仲介役を務めるなど、より柔軟な立ち回りができる国として、アメリカとの差別化を図っていきます。また、戦後は石油、ウランなどの地下資源開発が本格化し、カナダの工業化を引っ張っていくことになります。
<中米諸国とキューバ>
中米のコスタリカでは、富裕層に対する貧困層の不満が膨張する中、1948年の大統領選に軍の不正な関与があったとして、貧困層の蜂起が発生。内戦へと発展します。翌49年内戦に勝利したフィゲーレス新大統領は、争いの元となった軍隊廃止に踏み切りました。
グアテマラでは、1951年就任したアルベンス大統領の元、農地改革を含む貧困者向けの改革を実施します。しかしこの改革が共産化に繋がると踏んだアメリカ政府は、反アルベンス勢力を支援して、1954年にこの政権を崩壊させました。
以後グアテマラでは軍事政権が発足し、アメリカと歩調を合わせる一方で、反政府運動を弾圧。同様の軍事政権は、エルサルバドルやホンジュラス、後にはパナマにも出現しました。一方ニカラグアでは、1956年に独裁者ソモサ・ガルシアが暗殺されましたが、政権がその息子達が引き継ぎ、状況が大きく変わることはありませんでした。
そんな中、キューバ革命が起こります。キューバでは、1902年の独立直後からアメリカの強い影響を受け、1930年代からはバティスタ大統領が親米独裁を続けていました。これに対し、貧しい民衆を味方につけたのが、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラら革命軍。彼らのゲリラ戦により、1959年バティスタ政権は崩壊し、革命政権が樹立されます。
アメリカはグアテマラと同じ様に革命政権を潰そうとしますが、カストロ首相はソ連と結んで防衛に成功します。この延長上にキューバ危機が起きたことは先述の通りです。
キューバ革命の成功に奮い立ったのがニカラグアのサンディニスタと呼ばれる革命勢力でした。1961年独裁政権に対する武装蜂起が起こり、ニカラグア内戦が始まることになります。同じ頃、グアテマラでも軍事政権と、これに反対する勢力の間で内戦が始まりました。
<カリブ諸国>
バティスタのような親米独裁政権は、他のカリブ諸国にも出現しました。ドミニカ共和国では、1961年のトルヒーヨ暗殺後、バラゲール親米独裁政権が発足。彼は反対派を弾圧せずに上手くこれを政権内に取り込むことで、この後長期政権を維持します。
ハイチでは当時、黒人の権利を主張するネグリチュード運動が盛んに行われていましたが、この中で1957年大統領となったのが、医師出身のデュバリエでした。当初彼は、黒人系住民の要求に応え、福祉政策を充実させるなどして、人気を集めました(パパ・ドックという愛称もつけられました)。しかし伝統のブードゥー教を政治利用するなど、デュバリエも独裁者と化し、反対派を虐殺する恐怖政治を展開していきます。
西インド諸島のイギリス領の島々では、戦時中から少しずつ政治的権利を勝ち取っていましたが、1950~60年代になると、いよいよ独立へ向けての動きが本格化します。1958年、ジャマイカからトリニダード・トバゴにかけてのイギリス領の島々が、西インド連邦として独立しました。しかしながら、間もなく島同士の足並みが乱れはじめ、特に大きな島であるジャマイカ島と、トリニダード島という、互いに最も離れていた両島が対立したことで、連邦は1962年解体。ジャマイカとトリニダード・トバゴは同年単独の島国として独立、間の小さな島々は「仕切り直し」としてイギリス領に戻りました。
<メキシコ>
中米やカリブ海が、軍事政権や革命、内戦で揺れる中、比較的安定した社会を送っていたのがメキシコでした。1946年組織された制度革命党(PRI党)の長期安定政権下、戦後の工業化に上手く乗った事で、「メキシコの奇跡」と呼ばれる高い経済成長を実現。首都メキシコシティは人口500万を超える巨大都市へと成長し、東京の4年後にオリンピックが開催されることになります。
南アメリカ
南アメリカのいくつかの国では、第二次世界大戦前後から、ポピュリズム政治が行われるようになります。これは、大多数の貧しい国民が喜ぶ政策(賃金アップや年金などの福祉政策)を進めるもので、これに加えてアメリカやイギリスの企業を国有化(自国による経営)して、その経済的な支配からの脱却をはかろうとする動きもありました。
南米は大戦で直接の被害を受けなかったものの、モノ不足など間接的な影響から、一応工業化は進みました。しかしその品質は悪く、工業で外貨を稼ぐことはできませんでした。加えてポピュリズム政治が政府の負担を重くし、財政赤字とインフレが深刻化。1960年代までにこうした政権は、軍事政権に取って代わられ、強力な引き締め政策へと転換していきます(ブラジル、アルゼンチン、エクアドル、ボリビアなど)。
一方で1959年のキューバ革命は、貧富の格差が激しい南アメリカにも影響を与え、社会主義を望む声が上がります。その一部は過激化し、左派ゲリラを出現させ、社会を不安定化させました。各国の政府はアメリカケネディ大統領の発した「進歩のための同盟」に参加して社会主義革命を抑え込むと同時に、農地改革(大地主の土地を貧しい農民にも再配分すること)を実施して、貧富の格差を改善しようとしました(チリ、ベネズエラ、ペルーなど)。
以下、主な国の出来事を列挙します。
<ブラジル>
ヴァルガス大統領の退陣後、ブラジルでは新しい憲法が制定され民主主義への転換が行われます。しかしヴァルガス人気は依然高く、1950年選挙で再び大統領になります。とはいえ今度は独裁を敷くには至らず、軍部などと対立した結果、1954年自殺に追い込まれました。
1956年就任したクビシェキ大統領は、50年分の成長を5年で成し遂げるという、壮大な「メタス計画」を発表。外国から多くの資本を呼び込み、一気に工業を発展させました。外国文化もこの頃流入し、ブラジルのサンバとアメリカのジャズが組み合わさったボサノバ音楽が人気となっていきます。
↑ブラジルのリオデジャネイロは首都じゃないのになぜ有名?より
続いてクビシェキは内陸部の開発を促すため、新首都ブラジリアを建設し、1960年リオデジャネイロから遷都します。しかしこの頃から経済成長のスピードが落ち、ブラジリア建設も財政悪化をもたらしました。加えて労働者や農民の政治的要求が強まり、政府は1964年から地主の土地再分配など農地改革を始めようとします。当然ながら地主ら保守層は反発し、彼らに近い軍部は同年軍事クーデターを起こしました。ブラジルで軍事政権が誕生します。
<アルゼンチン>
大戦中の軍事政権下、福祉政策で人気を得たフアン・ドミンゴ・ペロンは、1946年正式にアルゼンチンの大統領に就任します。妻のエヴィータ・ペロンも救貧の為の財団を設立し、夫の人気を後押ししました。しかしこのような高福祉政策は、当然政府の支出を増やし、財政赤字とインフレが深刻化。1952年のエヴァの死後、ペロンの人気は下がり、1955年の軍事クーデターで失脚しました。とはいえ彼にはペロニスタと呼ばれる熱烈な支持者がおり、1950~60年代を通じて、軍事政権とペロニスタの政権争いが繰り返されました。
<コロンビア>
大戦中からコロンビアの労働者側に立って改革を進めようとしたのが、穏健な社会主義を主張する自由党のガイタンでした。しかし保守党の政府はこれを弾圧し、1948年にはガイタン自身も暗殺されますが、かえってこれが暴力の拡散を招きました。ラ・ビオレンシア(暴力状態)と呼ばれるこの不穏な時代は、1957年自由党と保守党の和解によりようやく終息。この後、保守党と自由党の大統領が交互に選出される、国民戦線体制が1970年代まで続きました。
<ボリビア>
ボリビア人の権利を掲げるMNR党は、不安定なボリビアの政界で少しずつ力を蓄え、1952年政権を取ることに成功します(ボリビア革命)。パス大統領、スアソ副大統領は、普通選挙導入、鉱山の国有化、大土地所有制の解体などを実施。一連の政策は、ゆるい社会主義的政策でしたが、MNRはアメリカとの関係は維持します。アメリカも、MNRが急進化(共産化)しないようこれを繋ぎ止める意味で、ボリビアを支援しました。
その後MNRは分裂して力失い、1964年には軍事政権に取って代わられます。しかし一連の改革で撒かれた種は、この後しっかり芽を出すことになります。
<ウルグアイ>
大戦後、ウルグアイで一時後退していた民主主義がこの時期復活します。20世紀初頭に多くの改革を成し遂げたホセ・バッジェですが、1947年には甥のルイス・バッジェが大統領に。彼の元で高福祉政策と民主化は更に進み、1952年にはなんと大統領職そのものが廃止されました。国民執政委員という、複数の政治家が国のトップとなる独自の政治体制が確立することになります。しかし1960年代に左派ゲリラの活動が盛んになると、この制度はうまく機能しなくなり、後に大統領制が復活することになります。
<パラグアイ>
パラグアイでは1940年代からずっと軍事政権が続いていました。これに対し民主化を求める声も上がりましたが、政府はこれを弾圧。その政府内でも激しい権力争いが繰り返されますが、最終的な勝者となったのは、軍人出身で1954年大統領となったストロエスネルでした。以後、パラグアイでは35年にわたり、彼の長期独裁政権が続くことになります。
主な出来事
1945.10 国際連合設立
1946.3 チャーチルの鉄のカーテン宣言(ヨーロッパ)
1946.3 シリア独立
1946.5 フィリピン独立
1946.6 イタリア王政廃止
1946.10 フランス第四共和政開始
1946.11 日本国憲法公布
1947.3 トルーマン・ドクトリン発表(アメリカ・西側諸国)
1947.3 コミンフォルム結成(ソ連・東側諸国)
1947.6 カミュ『ペスト』発表(フランス)
1947.8 パキスタン、インド独立
1947.11 パレスティナ分割案を国連採択(イスラエル・パレスティナ)
1948.1 ガンディー暗殺(インド)
1948.2 チェコスロバキア、共産主義化
1948.2 ユーゴスラビア、コミンフォルムから除名される
1948.5 イスラエル独立宣言、第一次中東戦争~49(西アジア)
1948.6 ソ連のベルリン閉鎖~49.5
1948.8 大韓民国独立 9.朝鮮民主主義人民共和国独立
1948 アパルトヘイト本格的に開始(南アフリカ)
1949.1 コメコン成立(東側諸国)
1949.3 インドネシア独立
1949.4 アイルランド、イギリス連邦から離脱。共和政導入
1949.5 西ドイツ成立 10.東ドイツ成立
1949.9 ソ連核兵器保持
1949.10 中華人民共和国成立
1950.6 朝鮮戦争勃発~53.7
1951.3 イランのモサデク首相、石油国有化宣言
1951.4 ECSC設立(西ヨーロッパ)
1951.9 ANZUS発足(オーストラリア・ニュージーランド・アメリカ)
1951.9 サンフランシスコ平和条約、日米安保条約締結(日本)
1952.1 日華平和条約(日本・台湾)
1952.2 バティスタ政権成立(キューバ)
1952.4 ボリビア革命
1952.7 エジプト革命
1953.1 スターリン死去(ソ連)
1953.2 クリック、ワトソン、DNAの二重らせん構造発見
1954.3 ビキニ環礁で水爆実験、第五福竜丸被爆(アメリカ・日本・ミクロネシア)
1954.6 平和五原則(インド・第三世界)
1954.5 ベトナム、ディエンビエンフーを制圧(ベトナム・フランス)
1954.7 ベトナム南北に分かれて独立(ベトナム・フランス・アメリカ)
1954.8 パラグアイでストロエスネル政権発足
1954.11 アルジェリア独立戦争開始(アルジェリア・フランス)
1955.4 バンドン会議(インドネシア・第三世界)
1956.2 フルシチョフ、スターリン批判(ソ連)
1956.5 日ソ共同宣言(日本・ソ連)
1956.6 ポズナニ事件(ポーランド)
1956.7 エジプト、スエズ運河国有化 .10第二次中東戦争(エジプト・イギリス・フランス・イスラエル)
1956.10 ハンガリー動乱
1957.3 ガーナ独立
1957.3 EEC、EURATOM設立(西ヨーロッパ)
1957.10 スプートニク打ち上げ成功(ソ連)
1958.2 ギニア独立
1958半ば 大躍進政策開始(中国)
1958.10 フランス第五共和政開始
1959.1 キューバ革命
1959.3 チベット動乱(中国・チベット)
1959.4 伊勢湾台風襲来(日本)
1959.9 キャンプ・デーヴィッド会議(アメリカ・ソ連)
1960.4 リオデジャネイロからブラジリアへ遷都(ブラジル)
1960.4 韓国四月革命 李承晩失脚
1960 アフリカの年。一年で17カ国独立(中南アフリカ諸国)
1960.7 コンゴ動乱
1961.1 ケネディ大統領就任(アメリカ)
1961.5 朴正煕、クーデターで実権(韓国)
1961.8 ベルリンの壁構築開始(ドイツ)
1962.1 西サモア(現・サモア)独立
1962.3 ネ・ウィン、ビルマでクーデター起こす
1962.7 アルジェリア独立
1962.8 ジャマイカ、トリニダード・トバゴ独立
1962.10 キューバ危機(キューバ・アメリカ・ソ連)
1962 ウォーホル「キャンベルのスープ缶」発表(アメリカ)
1963.8 キング牧師ら、ワシントン大行進(アメリカ)
1963.9 マレーシア成立
1963.11 ケネディ暗殺(アメリカ)
1964.5 パレスティナ解放機構(PLO)結成
1964.10 東海道新幹線開通 東京オリンピック開幕(日本)
1964.7 公民権法成立(アメリカ)
1965.2 北爆開始(ベトナム・アメリカ)
1965.6 日韓基本条約(日本・韓国)
1965.8 シンガポール、マレーシアから分離独立
1965.9 九三〇事件(インドネシア)
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