世界地理・世界史の謎

ウクライナ問題、歴史的な背景は?

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ウクライナの位置
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2022年2月、ロシアがウクライナに軍事侵攻しました。この背景について、歴史的な観点から見て言いたいと思います。

報道を受けて急遽作った記事なので、イラスト等は間に合いませんでした。時間をおいて徐々に掲載しようと思います。

ウクライナはこんな国

 ウクライナは、ロシアの西隣に位置する人口約4000万人の国です。西ヨーロッパから見ると、ポーランドなど東欧諸国の更に「先」にある国といったイメージで、国名の由来も「辺境」という意味の言葉が転じたものです。面積は日本より広い約60万km2で、比較的東西に長い印象です。

ウクライナの位置

そしてその歴史を見ると、現在の領域がおおむね固まったのは20世紀に入ってから、独立はソ連が崩壊した1991年の事で、それまでは長くロシア帝国やソ連の一部でした。

ウクライナの歴史

 元々ロシア人とウクライナ人は、同じ東スラヴ系の人々で、ルーシ族と呼ばれた共通の祖先を持っているとされます。9~10世紀頃、ルーシ族は東方正教を受け入れつつ、複数の国を創ります。その中で最も強い力を持っていたのが、現在のウクライナの首都であるキエフを中心とした国(キエフ・ルーシまたはキエフ公国)でした。しかし13世紀に入るとモンゴル帝国が侵攻し、これらルーシの国々は次々と征服され、キエフも一度破壊されてしまいます。

キエフ・ルーシ

 同じくモンゴルの侵攻を受けたものの、征服を免れたのが隣国のポーランド王国で、更にその北隣にはリトアニア大公国がありました。現在のリトアニアは現在バルト三国の一つとなっている小さな国ですが、中世の頃は大国で、モンゴル帝国が弱体化を始めた14世紀には南に大きく支配域を広げることに成功。キエフを含む現在のウクライナ西部、およびベラルーシの地が、リトアニア公国の支配下に入りました。1386年にはリトアニア大公とポーランド女王が結婚し、連合王国となります。

1400年頃のウクライナ周辺

一方残るルーシはモンゴルの支配下のまま据え置かれ、その中から新たな勢力が拡大してきました。それがモスクワを中心とした国で、一般的にはモスクワ大公国と呼ばれます。

 モスクワ大公国は15世紀にようやくモンゴル支配から脱しましたが、そこから一気に支配領域を拡大し、現在のような大国、つまりロシア帝国へと発展していきます。17世紀にはロマノフ王朝がツァーリ(皇帝)を名乗りました。ウクライナの東部はこのロシア帝国内に置かれます。

この頃のリトアニアはというと、先にちらっと書いた通り隣国ポーランドと連合し、東欧の大国となっていました(ポーランド・リトアニア王国 以下ポーランド)。つまりウクライナ西部もポーランド領となったのですが、当時のポーランドでは国王より貴族達の力が強く、彼らの課す重税に苦しめられました。ウクライナ南部では、こうした貴族から逃れた農民達が、アウトロー的な自治社会を形成していきます。これがコサックで、あのコサックダンスはこの集団の名から来ています。

大洪水

17世紀~宗教改革とオランダの海~より

 17世紀、このコサックが反乱を起こすと、ポーランド王国と摩擦の多かったロシア帝国はこれを支持し、ポーランドにも侵攻しました。後には北からスウェーデンも侵攻。この「大洪水」と称された大規模な戦闘でポーランドは弱体化し、国内は分裂状態に。その隙を突いてロシアはコサックと協定を結びますが、後に皇帝とコサックとが対立し、18世紀の女帝エカチェリーナ2世はこれを解散してしまいます。彼女はまた、3度に及ぶ「ポーランド分割」を行います。この結果、ポーランド東部とベラルーシ、更にウクライナ西部の大半もロシア帝国領となります。

 

 そのロシア帝国が崩壊したのが1917年のロシア革命です。ウクライナは革命の混乱に乗じて一度独立を宣言しますが、国内がまとまらないまま、新しく成立したソビエト軍に制圧され、その一部となりました(なおポーランドはこの時、一応独立に成功)。そしてソ連の近代化、強大化に利用されます。スターリン政権下の1930年代には、ソ連の工業化(五ヵ年計画)を推し進めるため、ウクライナ産の小麦を大量に輸出して資金を調達。しかしそのノルマが極端だったことから、ウクライナ全土で100万を超える餓死者が出ました。また、1986年には、有名なチェルノブイリ原発が爆発事故を起こし、大勢のウクライナ人が避難を強いられたり、被爆、土地汚染の被害に遭いました。

当然こうしたソ連政府(モスクワ政府)のやり方を快く思わないウクライナ人は増加し、1991年、ソ連崩壊と共に独立を達成します。しかし上記の歴史的背景から、ウクライナ東部やクリミア半島にはロシア系住民も多く、民族構成は複雑でした。

ロシアは何故侵攻した?

 時代は前後しますが、ソ連は第二次世界大戦中に侵攻して来たナチス・ドイツ軍との激戦を繰り広げ、結果2000万人を超える戦死者を出してしまいました。これはに国別で見ると日本や中国の犠牲者をはるかに上回る、第二次大戦最大の数字となります。戦後、西ヨーロッパ諸国は反共産主義的なアメリカの陣営に入ります。更にNATOという軍事組織までつくられ、ソ連と対立の度合いを深めていきました。いわゆる東西冷戦時代です。

NATOとワルシャワ条約機構

 ソ連政府から見れば西ヨーロッパは「脅威」の存在であり、ともすれば「ナチス・ドイツの悪夢再び」となるかも、という思いが強まっていきます。そこで、ソ連と西ヨーロッパの間にあったポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーといった「東欧諸国」に圧力をかけ、自国と同様の共産主義政権を立ち上げさせます。つまりソ連の言うことを聞き、なおかつ西ヨーロッパとの緩衝地帯となる国を間に並べて、簡単に侵攻して来れないようにしたのです。

 

 しかしながらソ連による締め付けに東欧の人々は反発。ソ連崩壊と前後して、これらの国々は共産主義を放棄、西ヨーロッパに接近していきます。そして21世紀に入ったあたりからEUやNATOに続々と参加していきました。結果ロシアとの緩衝地帯がなくなってしまった!ならば今度はポーランドやハンガリーとロシアとの間にあるベラルーシとウクライナを防御壁にしたい。2000年にロシア大統領となったプーチンはこう考えました。

拡大するNATO

 幸か不幸かベラルーシでは、1994年以降、独裁者ルカシェンコがずっと大統領を務めており、現在は親ロシア的な立場にあります。一方、ウクライナ情勢は不安定で、独立後しばらくはロシア寄りの大統領が続いていましたが、2004年のオレンジ革命以降、アメリカ寄りの大統領もちょくちょく誕生するように。2014年のロシアによるクリミア併合の際には、この親米政権とロシア軍との間で実際に戦闘が行われています。

 そして現大統領のゼレンスキーもまた親米派で、2019年からEUやNATOへの参加に向けて動いていました。ロシアと直接国境を接する大国がNATOに加盟してしまってはたまらん!こうしてプーチン政権は、ウクライナにNATO加盟を放棄させようとします。

 その口実に使ったのが(2014年のクリミア併合の時もそうでしたが)、ウクライナ東部に住むロシア系住民の存在でした。こうした「ロシア人」がウクライナ政府によって脅かされる、彼らを守らなければ!という理由を持ち出して、軍事侵攻を実行に移したわけですが、その本音は別にあるといえるでしょう。

 

 そもそもウクライナ東部にロシア系住民が多いからと言って、当然そこにはウクライナ系住民やそれ以外の人々も大勢住んでいますし、国内のロシア系住民がすべてプーチン政権下に入ることを望んでいるか?といえば、必ずしもそうではないと思います。それにすべてのロシア系、ウクライナ系住民が対立しているわけでもありませんし、両者のハーフやクォーターの人もいるはずです。多様化の時代において、民族や国籍だけで人々をスパッと区別できるわけではない、そう私は思います。

 

以上、ウクライナ問題を、ウクライナ側、ロシア側双方からの視点で書いてみました。どんな理由があるにせよ、社会的に弱い立場にある一般人が、政治家同士のもめ事によって生活や命までも脅かされる、ということはあってはならない事と思います。今後の情勢はどうなるのか、せめて一日でも早く戦闘が終わり、犠牲がミニマムになることを望むばかりです。

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