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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ハンガリーの歴史~

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セーチェニー鎖橋
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マジャロサーグ

ちょっとマイナー(?)国の歴史。第2弾は「マジャロサーグ」です。ん?そんな国聞いたことない?もちろんそうでしょう。この国はヨーロッパ中部の国、ハンガリーの事です。日本人が「ジャパン」という国を「ニッポン」と呼ぶのと同様、ハンガリー人は自国を「マジャロサーグ」と呼んでいるのです。

ハンガリー位置図

ハンガリーはヨーロッパの真ん中に位置する内陸国です。面積は9.3万k㎡(北海道より一回り大きい)、人口は970万(都道府県人口2位の神奈川県よりやや多い)ほど。

 

特徴的なのは、隣り合うルーマニアやスロバキアと比べて山が少なく、プスタと呼ばれる大平原が広がっていることと、国のど真ん中を大河川ドナウ川が貫いていることでしょう。

プスタ

古代、このドナウ川より西がローマ帝国の領域で、川を挟んだ二つの都市がローマにより築かれました。これが「ブダ」と「ペシュト」です。

平原を駆け抜けた人々(~10世紀)

遮るものが何もない」と言っても過言ではないこの大平原を、古代から多くの民族が駆け抜けました。

有名なのは5世紀に大帝国を築いたフン族アッティラ大王です。フン族は当時の西ローマ帝国をはじめとするキリスト世界を震撼させましたが、彼の本拠地のひとつが現在のハンガリー近辺にあったとされます。

フン族の後にも、ゲルマン系ゲピド族、アジア系遊牧民アヴァール人、彼らに追われたとされる南スラヴ系民族(現在のセルビアやクロアチアの祖先)などが平原を支配したり、横切ったりしました。

アヴァールの攻撃

その最後にやって来たのが、やはりアジア系の遊牧民マジャール人でした。9世紀末の事です。902年、マジャール人を率いた首長アールパードは、現在のチェコとスロバキアにあった、モラヴィア王国を滅ぼし、ヨーロッパ内陸部の人々にとって恐怖の存在となります。

マジャール人の征服活動はその後も続きますが、他のヨーロッパ人と関わるうちその文化を受け入れていきました。馬を降り、農業を開始し、遂にはキリスト教も受け入れ、彼らはヨーロッパ社会の一員となっていきます。そして西暦1000年、時の君主イシュトヴァーン1世は正式に国王として認められ、ここにハンガリー王国が成立しました。

ハンガリー王国成立

なお、先ほどの「マジャロサーグ」という国名は、「マジャール人の地」という意味で、現在でもハンガリー人はマジャール人の末裔という意識が強いといわれています。

一方「ハンガリー」の国名はいわゆる”他称”です。かつては「フン族の地」という言葉が「ハンガリー」の語源となったという説が有力でしたが、現在は否定的な見解が優勢のようです。他にも「オノグル」という別の遊牧民の名が転じたもの、など諸説あり、はっきりしたことは分かっていません。

王と貴族の権力争い(11~15世紀)

10~11世紀の間、ハンガリーの領地は拡大しました。前述のアールパードは、モラヴィア王国を滅ぼした際、現スロバキアの地を併合しました。イシュトヴァーン1世はトランシルヴァニア地方(現在のルーマニア西部)を征服。11世紀後半には南にあるクロアチアの王を兼ね、事実上この国を支配するようになりました。

 

しかし、国が広くなるということは、多くの貴族や農民を抱えるということでもあります。権威ある国王たれども、実力がなければ地方貴族も従ってはくれません。この先、国王と貴族による、権力の綱引きが続くことになります。

例えば、13世紀半ばのベーラ4世。彼の治世中、アジアからモンゴル帝国が侵攻し、ハンガリー各地が荒らされました。ベーラ4世は広い国内を速やかに復興するため、各地の貴族に土地や様々な特権(裁判権など)を与えなければなりませんでした。

13世紀末にアールパードから続いた王家一族が絶えてしまい、イタリアのナポリ王国からアンジュー家の王が迎えられました。その2代目ラヨシュ1世は対外戦争に連勝する実力者で、一時期国王の権力は高められました。

しかし、ラヨシュ1世には息子がいなかった為、後継者争いが生じ、貴族も敵味方に分裂。この争いに勝った娘婿ジグモンド1世は、自分に味方した貴族には返礼として、敵対貴族には反発をなだめるために、またしても様々な特権を与えることになりました。

 

栄光と挫折(15~16世紀)

そのジグモンドが15世紀半ば没すると、またもや王家が断絶。以後しばらくは、ポーランドなど外国の王がハンガリー王を兼ねるようになり、王権はますます不安定化。事実上ハンガリーを支えていたのは各地の貴族でした。

 

1444年、今度は南からオスマン帝国軍が侵攻し、当時の王(ポーランド兼ハンガリー王ヴラディスワフ3世)が戦死したのに対し、ハンガリー貴族フニャディ・ヤノシュは56年に勝利を収めて名声を高めました。この結果、彼の息子マーチャーシュ1世が新たにハンガリー国王として迎えられます。

 

外国出身ではないマーチャーシュ1世は、地元貴族の支持を得て権力の強化にも成功。更に周囲のオスマン帝国、ボヘミア(現チェコ)、オーストリアなどを下し、ハンガリーを中央ヨーロッパ随一の大国に押し上げました。また王都ブダコルヴィナ書庫という図書館を建設。この図書館は当時のヨーロッパでローマに次ぐ規模を誇りました。この名君の元、中世ハンガリー王国は軍事面、文化面で最盛期を迎えました。

ハンガリー最盛期

ところが1490年、マーチャーシュが世継ぎを遺さず死去すると、また外国の王が即位。戦争の連続で圧迫された農民の一揆なども頻発し、ハンガリーは坂を転げ落ちていきます。1526年、モハーチの戦いでハンガリー軍は、北上してきたオスマン帝国軍に惨敗し、国王も戦死してしまいました。そして1540年代までにはハンガリーは3つに分割されてしまいました。

ハンガリー3分割

すなわち、現在のスロバキア、クロアチアなどがオーストリア(ハプスブルク家)領に、トランシルヴァニア地方がオスマン帝国下の属国「トランシルヴァニア公国」に、そしてブダを始めとするハンガリー中央部は、オスマン帝国の直接統治下に入ったのです。

オーストリア・ハプスブルク家の支配(16~19世紀)

オスマン帝国ではトルコ人のほか、アラブ人、スラヴ人、ギリシャ人、ユダヤ人など、言葉や宗教の違う人々が暮らしていました。多民族国家ゆえに、オスマン帝国は宗教や文化には寛容で、特にユダヤ人などは、同時代の西ヨーロッパよりも生き生きと生活できたといいます。また帝国内交易も盛んになり、ハンガリーでも城壁を持たない商業都市(市場町)も発展。ハンガリー南部のケチケメートはこの代表的な街の一つです。

 

17世紀、オーストリアとオスマン帝国は、幾度となく争いましたが、1683年の第二次ウィーン包囲失敗を機に、オーストリアが優勢に。1699年のカルロヴィツ条約で、オスマン下のハンガリーもオーストリアに割譲されました。以後、オーストリアによるハンガリー支配が20世紀まで続くことになります。

 

オーストリアはこの後、女帝マリア・テレジアやその息子ヨーゼフ2世(いずれも18世紀)といった名君による政治改革を経験しますが、この動きはハンガリー貴族には不人気でした。例えばヨーゼフ2世は、1784年オーストリアの言葉(ドイツ語)を広め、国内の一体化を目指す「言語令」を発しましたが、これにハンガリーの貴族はこぞって反対!6年後に撤回を余儀なくされています。

 

こうしたハプスブルク家支配への抵抗の中で、ハンガリー人の間にも自由民族主義といった近代的な考えを持つ者が出現していきました。つまり、ハンガリー人の事はハンガリー人で決める。オーストリアの皇帝の口出しは不要!という考えです。そして、「ハンガリー人」であることの「象徴」として、ハンガリー語(マジャール語)が見直され、大国だった中世の歴史も研究されました。

 

こうしたハンガリー復興運動の究極目標が、オーストリアからの独立でした。そのチャンスは1848年に訪れます。この年、フランスで二月革命が起こり、その波がオーストリアをも混乱させ、当時同国の宰相を務めていたメッテルニヒを失脚させました。

1848年革命

ハンガリーでは、運動家コッシュートを中心に、独自の議会や憲法がつくられ、ついにはオーストリアからの独立宣言も出されました。しかしこの独立は、間もなく力を盛り返したオーストリア軍によって失敗に終わりました。

 

これは、オーストリアからハンガリーが独立したがったように、ハンガリーからもスロバキアクロアチアといったスラヴ人、トランシルヴァニアのルーマニア人が独立を求めたため、活動が一枚岩でなかったことが要因だったとされています。また、運動の中心がエリート層に限られ、圧倒的多数派である農民の理解を得られなかったことも痛手でした。

オーストリア・ハンガリー二重帝国(19世紀後半~20世紀初頭)

独立は成し得なかったものの、彼らの努力は無駄にはなりませんでした。1866年、オーストリアがドイツ(プロイセン王国)に敗北すると、その皇帝フランツ・ヨーゼフ1世も国内の動きを見直すようになり、翌1867年アウスグライヒ(「妥協」の意)体制が発足します。

アウグスライヒ

これは、ハンガリーに独自の議会や憲法を認めながらも、君主はオーストリアの皇帝であるというビミョーな関係で、文字通り妥協の産物でした。ハンガリーに大幅な自治を与えることで、この多民族国家を何とか存続させようという魂胆が、この二重帝国を生み出したのです。

 

この後ハンガリーでも工業化、都市化が進み、鉄道や工場も各地に建設されました。1873年にはドナウ川を挟んだブダとペシュトが正式に合併。現在まで続くハンガリーの首都、ブダペスト(ブダペシュト)が成立しています。

セーチェニー鎖橋

↑セーチェニー鎖橋 ドナウ川にかかる、ブダペストのシンボル

戦争と独立(20世紀前半)

1914年、オーストリアの皇太子がセルビア人に暗殺されるサラエボ事件が起きたのを機に、オーストリアの同盟国ドイツ、オスマン帝国と、セルビア支援に回ったロシア、フランス、イギリスが激突。第一次世界大戦が始まります。なお、日本も日英同盟を理由に英仏露側につきました。

この第一次世界大戦は、農民や工場の労働者といった一般人をも巻き込むようになり(総力戦といいます)、ハンガリーでも戦争が長引くにつれ人々の生活が悪化。各地でデモストライキが発生し、政府を揺るがしました。最終的に大戦は、ヨーロッパ全体で1000万以上という空前の死者を出し、1918年ドイツの敗北で終わりました。

 

ドイツ側に立ったオーストリア・ハンガリー帝国はこの戦争に敗北し、ついにアウスグライヒ体制も崩壊。ハンガリーはオーストリアの支配を離れ、今度こそ完全な独立国となりました。しかし、それでも「敗戦国」の立場を免れることはできず、1920年のトリアノン条約で定められた領土は、かつてのハンガリー王国よりも遥かに小さいものでした。(下図参照)

トリアノン条約

 

戦後、国内の再建が目指されましたが、土地問題や貧困問題の解決は困難でした。この頃ロシアでは、革命でソビエト連邦が成立しており、彼らに影響された社会主義者の活動(身分的、経済的な平等が目標)も活発になっていました。経済が軌道に乗らないまま、1929年には世界恐慌が発生し、ますます国内は混乱していきます。

第二次世界大戦(1930~40年代)

 この時期、国内の安定を素早く行うべく、イタリアのムッソリーニや、ドイツのヒトラーのような独裁政権、ファシズムの政権が生まれました。ハンガリーでも、ファシズム政党「矢十字党」が作られ、政治への参加を目指すようになります。

 

1930年代後半、ドイツがオーストリアやチェコスロバキアを占領すると、ハンガリーもこの動きに乗じて(あるいはドイツの征服を恐れて)ドイツと同盟。しかし、そのドイツが1939年ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まると、ハンガリーもこの大戦に巻き込まれていきました。ハンガリーの同盟国ドイツは、序盤はフランスをも占領するなど強大でしたが、その後ソ連との戦いに敗北すると、次第に追い詰められていきます。

 

戦況の悪化から、ハンガリーはドイツとの同盟を切り、戦争からの離脱を試みました。しかし「裏切りは許さん」と怒ったドイツ軍は、1944年ブダペストを占領。そしてファシズムを掲げる矢十字党に政権を担わせました。

 

こうして矢十字党の独裁政権が誕生しますが、時すでに遅し。ナチスや独裁を嫌う国民の抵抗が各地で起き、更に1945年ソ連が侵攻しました。独ソ軍の激しい戦場と化した末、4月にハンガリーはソ連軍(連合国軍)の手に落ちます。ヒトラー政権が崩壊し、ヨーロッパにおける大戦が終わったのはその翌月でした。

冷戦と動乱(20世紀後半)

ハンガリーをはじめ、ポーランド、ブルガリアといった東ヨーロッパ諸国は、いずれもソ連の軍によってドイツから解放されたために、戦後もその影響が残りました。当時のソ連のトップはあのスターリンです。1947年スターリンは、アメリカがこれらの国に影響を及ぼすのを恐れ、自国と同じような共産党の政権を強引に発足させていきました。東西冷戦下、ハンガリーは「東側」の一員となったのです。

 

この共産党により土地改革重工業の導入が行われますが、これらの政策もまたかなり強引なものだったため、国民の不満は解消されませんでした。1953年スターリンが死去し、跡を継いだフルシチョフが1956年、「スターリンのやり方は誤りであった」という内容の演説(スターリン批判)を行うと、東ヨーロッパ諸国の間でも、ソ連の態度が変わったのではという期待が寄せられました。

 

戦後もソ連の圧力が続いていたハンガリーでは、この期待が大規模なデモを呼び、自由を求める運動が始まりました。その運動の末、首相に抜てきされたのが、共産党員でありながら、より現実的な路線をかかげるナジ・イムレでした。彼はより自由な共産主義を目指し、ハンガリー国民の支持を得ました。

ハンガリー動乱

しかしフルシチョフは、このままではハンガリーが「西側」に付くのではないかと疑い、ソ連軍をブダペストにまで侵攻させます。この結果ハンガリー人とソ連軍の間で武力衝突が起き、数千人の死者、数十万人の難民を発生させる惨事となりました。一連の事件はハンガリー動乱、あるいはハンガリー革命と呼ばれています。結局ナジによる新政権もソ連によって潰され、彼自身も1958年処刑されてしまいました。

ソ連崩壊とEU(20世紀末~)

ハンガリー動乱後、政権のトップとなったのがカーダールです。カーダールは、ソ連を刺激しないような、ゆっくりとしたスピードで社会の自由度(集団化の見直し、政治犯の釈放、西側諸国の技術受け入れ等)を高めていき、1988年までの長きにわたって政府の中心にい続けました。

 

1980年代、ソ連経済は限界に達し、その後半にはゴルバチョフによるペレストロイカが始まりましたが、ハンガリーではこの時期すでに、ある程度の自由経済(資本主義)や表現の自由が達成されていました。

 

1989年には、共産党の以外の政党が活動を認められるようになり、5月には「西側」オーストリアとの国境も解放されました。1956年とは違い、もはやソ連もこのような動きを抑える力を失っていました。そして同年10月憲法が改正され、民主化が一気に進みました。ハンガリー民主化の動きは、他の東ヨーロッパ諸国にも及び、ベルリンの壁解体やルーマニアでのチャウシェスク独裁政権崩壊、そして1991年のソ連の崩壊をも引き起こすことになります。

 

社会主義を捨て、資本主義国家となったハンガリー。しかし半世紀におよぶ社会主義を転換することは、失業の増加、貧富の格差拡大といった問題を引き起こしました。それでもハンガリーは地道な努力により国内の再建を実現し、2004年にはEUに加盟します。かつてはソ連を中心とした東ヨーロッパ世界の一員だったハンガリーは、EUという、ヨーロッパ全体をカバーする国際的な団体の一員となったのです。

 

この事はハンガリー社会の活性化にも大きな役割を果たしましたが、一方でEU特有の問題も引き起こしました。特に2012年以降、シリア難民が大量に発生すると、難民受け入れを表明したドイツへの通り道として、大量のイスラム教徒がハンガリーにも押し寄せるようになしました。現首相のオルバンは、こうした非ハンガリー人やEUに否定的な所があり、難民や移民の排除(排外主義)が高まるのではないかと不安視する声もあります。

おまけ

ハンガリー人は、祖先がアジア人だったという名残りから、一般に名前も「苗字→ファーストネーム」に表記します。

先述の政治家ナジ・イムレの場合、「イムレ」がファーストネーム。音楽家リストも、ファーストネーム「フェレンツ」を後に書く、「リスト・フェレンツ」という表記が一般的です。

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