世界地理・世界史の謎

ベルリンに壁が築かれた理由とは?

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平成生まれの人にはピンとこないかもしれませんが(あ、私は昭和末期の生まれです)、一定の世代から上の人に、「ベルリン」といえば?と聞けば、半数以上が「ベルリンの壁」と答えるかもしれません。ベルリンの壁が壊されたのが1989年、日本でも昭和から平成へと時代が移った歴史の転換期でした。

 

今やEUの中核を担い、ヨーロッパの動きにも大きな影響を与えているドイツ。その首都ベルリンがなぜ壁に囲まれてしまったのでしょうか。非常に簡単に言えば、ベルリンが「ドイツ東部にあったから」です。

バラバラの神聖ローマ帝国

ドイツの歴史は複雑でなかなか難しいのですが、重要な点をかいつまんで書くと以下のようになります。まず、962年に神聖ローマ帝国という国が成立しました。なぜドイツなのに「ローマ」かというと、5世紀に滅亡した西ローマ帝国の、正式な跡継ぎという意味が込められていたからです。

 

そのトップが「神聖ローマ皇帝」(以下皇帝)なのですが、仰々しい名前のわりに、その権限は決して大きくはありませんでした。ドイツではシュバルツバルトなど深い森が広がり、当時は交通網が発達していなかったこともあって、皇帝が広いドイツの地を一人で統治することは困難でした。そのため帝国内の大半は、地元の貴族に統治を任せきりにしていました。

神聖ローマ帝国

また11世紀頃から皇帝はローマ教皇(法王)と、「カトリックのトップがどちらか」を巡って争うようになります。そのため、皇帝はしきりにイタリアへ目を向け、ドイツをそれほど重視しなくなっていきました。

 

その結果、ドイツ(神聖ローマ帝国)内では、皇帝ではなく地方の貴族司教が、各々の土地の統治者となり、独自の法律を作ったりしました。これを領邦りょうほうといいます。簡単に言えば、神聖ローマ帝国という枠の中に、更に小さな独立国がひしめくような状態だったわけです。

ブランデンブルクとプロイセン

さて、肝心のベルリンですが、ここは「ブランデンブルグ辺境伯領へんきょうはくりょう」という領邦の中心都市でした。「辺境伯領」とあるように、この場所は神聖ローマ帝国でも「東の外れ」に位置した、言ってしまえば「遅れたイナカ!」でした。

一方、ドイツ人は商業の盛んなバルト海へ進出し、現在のバルト三国やポーランド北部にも都市を築きました。その一つがバルト海沿岸のプロイセン地方です。この地は一時ポーランドの支配下に入った事もありましたが、17世紀に入って、とある君主がここを統治することになります。それこそがブランデンブルクの公(君主)で、以後ブランデンブルクはプロイセン公国、1701年からはプロイセン王国と名乗るようになります。

 

プロイセン王国は、18世紀のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世、続くフリードリヒ2世の時代に軍事力を強化し、フランスやロシアなどの大国と肩を並べるまでに成長しました。

18世紀プロイセン

統一されたドイツ

19世紀、フランスではナポレオンが登場し、ドイツにも侵攻して神聖ローマ帝国を正式に廃止します。ドイツ人は、民族としては数が多いのに、小さな国に分裂している状態ではフランスなどと戦っても勝てない。そう思った人々は、ドイツの統合を進めていきます。そのリーダー格となったのが、先のプロイセン王国でした。

 

プロイセンは鉄血宰相と呼ばれたビスマルクの強力な政策によって各地の領邦を併合していきます。1866年同じくドイツ系の大国だったオーストリアを排除し、主導権を握ったプロイセンは、1871年ついに統一を完成。名前を「ドイツ帝国」に改めました。また、プロイセンの首都ベルリンは、そのままドイツ帝国の首都に昇格しました

ビスマルク時代

ただでさえ軍事大国だったプロイセンが、周りを併合して更に強力なドイツ帝国として生まれ変わった・・・これに恐怖したのがフランスイギリスなど、ヨーロッパの先進国でした。

 

産業革命で世界を牛耳る両国に対し、ドイツは追い付け追い越せと言わんばかりの発展を実現。英仏はドイツを抑え込もうとし、この結果第一次世界大戦を招いてしまいます。膨大な犠牲者を出した末、敗れたのはドイツでした。帝国から共和国へと変わり、領土を縮小したうえ、天文学的な賠償金を払わされ、ドイツ人は憤慨ふんがいします。

 

それでも何とか国際社会への復帰と、戦争でボロボロになった国土の再建を進めていきますが、そんな矢先の1929年世界恐慌が起き、再び社会は大打撃!辛い時代を一刻も終わらせたいとドイツ人が頼ったのが、「強い信念」と「行動力」を持ったヒトラーでした。

第二次世界大戦の悲劇と占領

ヒトラーは、その悪魔的なリーダーシップで恐慌から脱却し、第一次世界大戦へのリベンジを掲げました。しかしこの結果1939年に第二次世界大戦が起こり、戦闘やホロコーストで「第一次」を上回る犠牲者を出してしまいます。

第二次世界大戦

第二次世界大戦でドイツはまたも敗北。「戦勝国」となったのがアメリカ、イギリス、ソ連で、これにフランスを加えた4か国によってドイツは「分割占領」されました。そして重要な点ですが、この時ベルリンも4つに分割されました

 

ヒトラーのような危険人物を首相に就かせてはならないということで、戦勝国に近しい人物による新ドイツ政府が作られるのですが、この時「じゃあ、どのような政府が理想か?」をめぐって資本主義国の米英仏と、社会主義国のソ連で、意見が食い違うようになります。

 

この結果、資本主義国家の「西ドイツ」政府と社会主義国家の「東ドイツ」政府が誕生してしまいます。

壁の建設

米英仏3か国の占領地を元にした領域が西ドイツになったのに対し、ソ連の占領地は、そのまま東ドイツになります。ここで問題なのが首都ベルリンの扱い。この街を含むブランデンブルク地方は東ドイツとなったのですが、先の通りベルリンはベルリンで4か国の分割統治を受けたため、東西ドイツ成立後も、旧米英仏の占領地だった場所(通称西ベルリン)は西ドイツとなりました。つまり、西ベルリンは西ドイツの飛び地となったのです(地図の青~緑色の箇所)。

大戦後のドイツ

やがて東ドイツでは、検閲や監視など、人々の自由が抑圧され始め、人々は機を見て西ドイツへ逃亡しました。特に西ベルリンは最も身近な西ドイツだったため、亡命者は増加の一途をたどります。

 

そこで東ドイツ政府は、1961年、東西ベルリンとの間に有刺鉄線ゆうしてっせんを張り、人々の移動をできなくします。この「壁」はやがてレンガにより「本物の壁」となり、監視塔なども設置されて亡命者の逮捕や殺害を断行したのです。

 

ベルリンの壁は東側では「防御の壁」としていましたが、西側では、自由を奪う「恥辱ちじょくの壁」として非難の的に。更にこの壁は、アメリカ対ソ連という当時の対立構造「冷戦」のシンボルとなりました。

冷戦期のドイツ

ドイツ再統一!

1980年代になってソ連や東ドイツの社会は限界を迎えます。1989年、オーストリア(西側)とハンガリー(東側)の国境が開放されると、こちら経由で亡命者が西側へ逃れるようになりました。

 

もはや東西ベルリンを壁で通れなくしても全くの無意味になったことが明らかになり、ついに壁はベルリン市民によって破壊されました。この間政府の交渉も進み、1990年ドイツは統合されました。

 

人々の強い意志の前には、壁を築いても無力だということを教えてくれる出来事です。それはまた、近年隣国との間に壁を造ろうとしている某国の大統領にも、ぜひとも知って欲しい、歴史の教訓と言えるでしょう。現在のドイツとブランデンブルク

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