世界地理・世界史の謎

20世紀その4~第二次世界大戦中の世界~

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1941~2年頃の世界

 

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20世紀の第4弾。今回は第二次世界大戦終結までです。

史上最悪の犠牲を出した第二次世界大戦。それは同時に世界が最も大きく動く出来事でもありました。

※今回は、戦争の流れを重視し、地域別の記述を採りませんでした。気になる国を見たい方は、Ctrl+Fで検索してみてね。

第二次世界大戦開始!

 前回述べたように、ヒトラー率いるドイツは、スターリン率いるソ連不可侵条約(この線以上は進撃しないよ、という取り決め)を結びます。その上でドイツ軍がポーランドに侵攻したことで、第二次世界大戦が始まりました。イギリスフランスはドイツに宣戦布告しますが、戦闘準備に時間がかかり、直接対決には至らず。

独ソ不可侵条約

 

 英仏がまごまごしている間にドイツ軍は、ポーランドを占領するとすぐにきびすを返して西へ。1940年中に、中立を敷いていたデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクを、電光石火の早業で次々と占領してしまいます。その勢いのままついにはパリに侵攻。大国フランスがドイツ軍の手に落ちました。フランスではドイツ寄りのペタンが大統領となり、パリから遠く離れたヴィシー地方に拠点を置きます。一方、イギリスに逃れた軍人ド・ゴールは、現地のフランス人に武力抵抗を呼びかけました。

 

 

 ドイツは更にイギリスをも攻撃しますが、首相就任間もないャーチルは徹底抗戦を呼びかけます。ロンドンは激しい空爆にさらされたものの、英軍は当時開発されたばかりのレーダーを用いて、ドイツの戦闘機を予測。最終的にこれを撃退することに成功しました。

 

vsヒトラー

↑ イギリスがEUと距離を置いているのは?より

 

 この頃、ムッソリーニ率いるイタリアもドイツ側に立って参戦。すでにアルバニアを占領していたイタリアは、続いてギリシャに侵攻しました。ギリシャは必死に抵抗するも、ドイツがイタリアの援軍にやって来ると力尽きて降伏します。

 

 バルカン半島のユーゴスラビアもまた、この最中に占領されました。独伊はこの国が民族的に一枚岩でないことを見越し、独立意識の高かったクロアチアにドイツ寄りの政府を作って、セルビアからの分離をたくらみました。チェコスロバキアと似たような方法を、ユーゴスラビアにも行ったわけです。

 

 一方のソ連はポーランドの東部を占領し、抵抗した兵士を容赦なく殺害(カティンの森虐殺事件など)。続いて、同じく独ソ不可侵条約の“取り分”となっていたバルト三国フィンランドに対しても、あれこれ理由を付けて軍隊を進めようとします。バルト三国は大国ソ連に逆らえず、結局占領されてしまいますが、フィンランドはこれを断固拒否したため、1939年末戦争となりました(冬戦争)。フィンランド軍はソ連相手に善戦しましたものの、翌年に敗北を受け入れることに。そして国境付近の領土を譲り渡しましたが、国全体の占領は免れました。

 ソ連は続いて、バルカン半島にも侵攻。ルーマニアから北部のベッサラビア地方(現モルドバ)を奪いました。このようにバルカン半島は次第にドイツとソ連による草刈り場となり、不可侵条約にほころびが出始めます。

そのころアジアでは…

  この頃の日本とアジアを見ると、日中戦争が膠着状態に陥り、ノモンハン事件でソ連に敗北したことから、勢力拡大の目を南へ向けます。1940年、日本は占領した南京に汪兆銘おうちょうめい政権を発足させ、中華民国蒋介石しょうかいせき政権)との戦いでも日本に協力させました。また、同じ年にフランスとオランダがドイツに占領されたことから、日本軍はフランス領インドシナ(ベトナム等)や、後にはオランダ領東インド(インドネシア)にも侵攻します。

 

 この軍事行動の背景には、日本がアジアの植民地を“解放”し、日本主導でアジア全体を繁栄させる「大東亜共栄圏」構想という、“チョー上から目線な考えがありました。インドネシア独立運動のリーダー、スカルノなどは日本に協力しますが、結局は、人材や資源を日本の戦争のために利用されるばかりとなります。一方ベトナムではホー・チ・ミンが1941年ベトナム独立同盟(ベトミン)を結成し、フランスのみならず、日本からの解放を目指してゲリラ運動を開始します。

枢軸国側の国々

 軍事力という暴力を振るいまくって国際的に孤立した日本、ドイツ、イタリアは、1937年に結んでいた日独伊防共協定を更に発展させます。日独伊三国同盟です(1940年)。この同盟には他に、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアも参加しました。これらの陣営を枢軸国と呼びます。

 ハンガリーの場合は、近隣のオーストリアチェコスロバキアがドイツに併合されるのを見て、自らもドイツと同盟を組むほかないと考えた結果でした。ついでに第一次世界大戦後に失った領土を取り戻したいという思いもあったはずで、実際、1939年の防共協定加盟後、領土の拡大をドイツに認められました。国内では、親ナチス的な矢十字党の存在感が大きくなっていきます。

 

 ハンガリー再拡大のあおりを食らったのがルーマニア。歴史的に両国の間を揺れ動いていたトランシルヴァニア地方の一部を、ドイツと同盟を組んだハンガリーが奪ってしまいます。同時期には先述のベッサラビアもソ連に奪われ、それまで独裁を敷いていた国王カルロ2世は信用を失って退位します。この後、軍人のアントネスクが政権の中心に居座りますが、結局彼は1940年にドイツと手を結び、後にソ連と戦うことになります。ハンガリーとは同じ枢軸国側にありながら、トランシルヴァニアを巡って対立するという、ややこしい関係にありました。

 

 ブルガリアは、イタリア、ドイツ軍のギリシャ攻めが始まった際、地理的に重要な地だったことからドイツから圧力を受け、1941年枢軸国側に立ちました。そしてギリシャやユーゴスラビア攻めにも加わっています。しかし多くの国民はドイツと手を組むことを嫌がったといいます。もはやこの頃には独ソの対立は目に見えて深刻化しており、ロシア寄りの人が多いブルガリア人(同じスラヴ系、正教徒)は、ソ連と戦うことを恐れたのでした。しかしこの予想は現実のものとなってしまいます。

独ソ戦と真珠湾攻撃

 1941年、イギリス攻めをあきらめたドイツは、不可侵条約を結んだはずのソ連に攻め込みました。やはりヒトラーの本音は、共産主義絶滅にあったと言えます。不意を突かれたソ連の勢力は大きく後退。怒ったスターリンは徹底抗戦で対処すると共に、イギリスに接近します。

 ソ連の後退に、フィンランドルーマニアは領土奪還のチャンスと、おのおの奪われた領土の奪還を目指し、ソ連とリベンジマッチを繰り広げました。また、バルト三国からもソ連軍は一度引き上げ、入れ替わりにドイツ軍がここを占領。リトアニアなどのユダヤ人も迫害を受け、命を落としました。この時彼らに出国ビザを発行し、多くの命を救ったのが、日本の外交官杉原千畝すぎはらちうねでした。日本はドイツと結んでいたものの、ユダヤ人迫害には基本加担しなかったのです。

 

 ところでアメリカ合衆国はこの間、大西洋の向こう側でどうしていたかというと、相変わらずヨーロッパの戦争には直接加担しない方針を続けていました。ただし武器貸与法を制定するなど、外交面では明らかにイギリス寄りでした。1940年には、ルーズベルト大統領とチャーチル首相が会談し、侵略行為への反対や航行の自由を確認した、大西洋憲章を宣言しています。アジアにおいては、日本の侵略行為を非難し、石油の輸出禁止など経済制裁を課しました。

 

 そんな中、日本の首相に就任したのが、軍人出身の東条英機とうじょうひでき。事態打開を目指す彼は、1941年12月、ハワイの真珠湾を奇襲し、アメリカとの戦争を開始します。これが太平洋戦争の開始であり、これでヨーロッパとアジアでそれぞれ起きていた戦争が、一つに繋がってしまうこととなります。同時にそれは、超大国アメリカがこの世界大戦に本格参入する瞬間でもありました。

アジア・オセアニアでの戦い

 日本軍は真珠湾攻撃と同時に、イギリス領香港、ビルマ(現ミャンマー)、マレー半島、シンガポールにも侵攻し、これを占領します。マレー半島やシンガポールでは、マレー人やインド系住民の反英、反植民地運動をあおり、中国系住民(華僑)の人々に対しては敵国の人間と見なして財産を没収し、時には命を奪うこともありました。こうしてこの地の住民は分断されていきます。

 

 続いてアメリカ領のフィリピンにも上陸。1942年にフィリピンの米軍は降伏し、マッカーサーも一時フィリピンを離れました。日本軍は捕虜たちを炎天下とマラリアの蔓延する中、収容所まで歩かせる(死の行進)など過酷な措置を行いました。同年にはオランダ領東インド(現インドネシア)ジャワ島も占領下に置きます。

 

 日本軍の東南アジア進出に脅威を感じたのがオーストラリアです。これ以上の拡大を恐れたオーストラリアは自国防衛のため、中立国ポルトガルの植民地だった東ティモールに軍を派遣。しかし、結局日本軍はこの東ティモールも占領し、ここを拠点にニューギニア島オーストラリア北部を攻撃しました。

 この他、ソロモン諸島のガダルカナル島など、メラネシアミクロネシアの島々も太平洋戦争の舞台となります。南国の楽園だった島のいくつかは、破壊と殺戮の島と化しました。

アジアの戦争

 こうして日本軍は中国、東南アジア、オセアニアと、どんどん戦場を拡大していきますが、インド(イギリス領)も一部戦場となりました。インドにも、日本に協力することで独立を勝ち取ろうという人々がいました。そのひとりチャンドラ・ボースは、ガンディーの非暴力主義に限界を感じ、日本軍とともにイギリス軍と戦います。最大の激戦となったのが1944年インド東部で行われたインパール作戦でしたが、この戦いで日・印軍は敗北。ボースはその後も独立を目指して動き続けましたが、志半ばで飛行機事故にあい、命を落としました。

 

 日本国内では、国民が一丸となるべく、世論も戦争支持一色に。反対する人々は、治安維持法の元、刑務所へ送られました。国内の朝鮮系台湾系住民も、創氏改名(日本風に名前を変えること)や天皇の崇拝を強いられるようになります。いわゆる皇民化政策です。これに対し、日本支配からの脱却を目指す動きも大きくなっていきます。李承晩イスンマン率いる韓国臨時政府は主としてアメリカに接近し、独立を目指しました。一方、ソ連に支援を求めた者の中には、金日成キムイルソンがいました。

 

 占領した東南アジアに対しては、1943年から45年にかけて日本寄りの政権(フィリピンのラウレル政権、ビルマのバー・モウ政権、ベトナムのバオ・ダイ政権、インドネシアのスカルノ政権など)を打ち立て、独立を宣言させました。しかし日本軍はそのまま現地に残るなど、独立は形だけのものでした。

 

 なお、当時東南アジア唯一の独立国だったタイピブーン首相も、周囲が日本軍の手に落ちたことから、日本に協力。1942年にはアメリカやイギリスに宣戦布告までしています。

アフリカでの戦い

 前回からの繰り返しになりますが、1935年イタリア軍がエチオピアに侵攻し、翌年首都アディスアベバを占領。エチオピア皇帝のハイレ・セラシエはイギリスに亡命しますが、国内では必死の抵抗が続きました(犠牲者は70万人とも)。1939年第二次世界大戦が始まると、エチオピアの隣国でイギリス領だったケニアやウガンダがイタリアに脅かされたため、イギリスはエチオピアを支援。1941年にイタリア軍からの解放を実現します。

 

 一方、フランスがドイツの占領下に置かれた後のフランス植民地での反応は様々でした。モロッコでは国王ムハンマド5世がフランス支配からの解放を訴える一方、アルジェリアではフランスを支援することで、アルジェリア人の待遇改善を求めました。とはいえ、北アフリカの大部分とエチオピアがドイツ・イタリアの占領・支配下に置かれた事で、連合国はピンチに。イギリスとエジプトは、スエズ運河を獲られまいと抵抗したため、リビア(伊領)との国境付近でドイツ・イタリア軍と激しい戦闘になりました。この時ドイツ軍を指揮した軍人ロンメルは、その戦略の巧妙さから「砂漠のキツネ」と呼ばれました。

 

 このようにアフリカで第二次世界大戦の戦火を浴びたのは、イタリア軍の侵攻を受けたエチオピアと、ドイツ軍・イギリス軍が激突したエジプトなど北アフリカの一部に限られましたが、第一次世界大戦の時と同様、この時も多くのアフリカ人が、兵士としてアジアやヨーロッパに派遣されました。そこでヨーロッパ人と共に戦ったアフリカ人は、自分達黒人が白人より決して劣った存在ではないことを確認します。帰国後こうした考えが一般人にも広まり、アフリカ人に自信を取り戻すきっかけとなりました。

 

 こうした背景から、アフリカ人エリート達主導による「脱植民地化」が本格化します。そのひとりクワメ・エンクルマは、アフリカ人(特に中南アフリカの黒人)が連携してヨーロッパ支配からの脱却を主張。これをパン・アフリカ主義と言います。終戦間もない1945年10月開かれたパン・アフリカ会議では、ヨーロッパからの「独立」が明言されました。

南北アメリカ大陸

 第二次世界大戦中、南北アメリカ大陸は戦場にはならなかったものの、アメリカ合衆国に逆らえず、連合国側に立って参戦した国が数多くありました。カナダ、メキシコ、ブラジルなどは多くの兵をヨーロッパへ送り込み、無言の帰国をした者も少なくありませんでした。また、国内の日系人やドイツ系住民は、本国への強制送還や収容所への連行といった迫害を受けます中米カリブ海では、多くのドイツ系企業も進出していましたが、こうした企業も戦時中には追放されました。この結果、市場を失って経済が苦しくなる国も出現し、民衆は恐慌の時から独裁を敷いていた大統領を非難し始めます。こうして第二次世界大戦の終わりまでに、中米の独裁者たちは政権から去っていきました。

 

 南米諸国では、ファシズムへの反発から民主化を求める声が高まる一方で、大衆の人気を武器に権力を握るポピュリストの活躍も依然として続いていました。ブラジルでは終戦直後の1945年10月にヴァルガス大統領がクーデターで失脚しますが、大衆の人気は高く、後にもう一度大統領の座を獲得することになります。アルゼンチンでは1943年に始まった軍事政権下で、労働問題に取り組んだフアン・ドミンゴ・ペロンが人気を博していきます。俳優出身の妻エヴァ(エヴィータ)の存在も、ペロンの人気を後押ししました。

エヴァ・ペロン

西アジア

 フランスの委任統治領レバノンは、1939年に独立する事が決まっていたのですが、正にその1939年、第二次世界大戦が始まり、独立は延期になります。しかし1940年フランスがドイツに占領されると、これをチャンスと見たレバノン政府は1941年独立を宣言。1943年には新憲法を制定して、フランスの委任統治から脱しました。

 

 戦争を通じ、アラブ人の民族主義も再び高まりを見せていきます。サウジアラビア王国の成立や、エジプト、イラクといった国の(一応の)独立達成、といった出来事の中、アラブ系国家同士の繋がりも重視されるようになります。1945年3月には、7カ国によるアラブ連盟が結成されました。

 

 トルコでは、ケマルを継いだイノニュ大統領の元、国内の安定化を優先して中立を宣言しつつ、国内には戒厳令(今は非常事態だから、勝手なことするなよ!的な命令)を敷いて国民を統制しました。トルコが連合国側に立って参戦するのは、枢軸国の敗北がほぼ確実となった、1945年2月の事です。

 イランは当初中立を宣言しますが、伝統的にイランに強い影響力を持つイギリスとソ連が1941年ともに連合国陣営になって手を結ぶと、連合国側に入りなさいと圧力を受けます。国王レザー・ハーンはこの圧力に耐えきれず退位。2代目モハンマド・レザー(パーレヴィ国王)が即位しました。1943年には、米英ソのトップが集まる会談が、イランの首都テヘランで行われています。

 同じくイギリス、ソ連の圧力を長年受けていたアフガニスタンでは、どちらかといえばドイツ寄りの姿勢を見せていました。しかし第二次世界大戦中が始まると、国内のドイツ人、イタリア人らを追放しています。戦争そのものは中立を貫き、戦火を免れました。当時はイギリスやドイツよりアフガニスタンの方がまだ「平和な国」だったのかと思うと、いろいろ考えてしまいますね…

ヨーロッパ(中立を守り抜いた国々)

 ここでヨーロッパの中立国についても触れておきます。北欧諸国は基本的に中立を掲げていましたが、前述の通りノルウェーデンマークはドイツに占領されてしまいます。逆にアイスランド(当時はデンマークの自治領)は、地理的、戦略的な理由から、イギリス軍ら連合国に占領されました。フィンランドはソ連と戦争を続けていました。こうしたことから、北欧の中で最後まで中立を保つことが出来たのは、スウェーデンだけでした。しかし連合国・枢軸国両陣営から、逃げてきた捕虜の引き渡しや、戦車の通過許可など、難しい要求を受け続けました

 スペインでは、ファシズムを掲げるフランコの独裁政権が始まっていました。しかし彼はスペイン内戦でボロボロになった国内の再建が優先!と理由をつけて、最後まで中立を貫きます。とはいえ、外交は明らかに枢軸国寄りで、非正規の義勇兵が多く戦争に参加しています。ポルトガルも同様に枢軸国寄りの姿勢を示しながら中立を貫きました。

 逆にデ・ヴァレラの強権政治が続くアイルランド自由国は、連合国寄りの中立国でした。独立して日が浅く、やはり内戦も経験していて、戦争どころではない!というのが正直なところだったのでしょう。大陸ヨーロッパに対して、イギリスが「盾」になる位置にあったのも幸いしました。

 

 地理的に最もヤバい場所にあったのが、永世中立国スイス。なんせドイツとイタリアの間に位置している国ですから。中立を容赦なく踏みにじるドイツに対し、それでも占領を免れたのは、スイスの現実を見据えた外交戦術にありました。

 実のところスイスも、外交的、経済的には明らかに枢軸国寄りで、多くの商品をスイス経由でドイツ~イタリアに通していました。両国を結ぶ重要なルートだからこそ、変なマネをしたらここを遮断してしまうぞ!という圧力をドイツにかけることができました。この結果、ドイツもスイスには無闇に手を出せなかったのです。とはいえ、スイス人にとって非常事態である事には変わりません。伝統的に独裁を嫌うお国柄ですが、この時ばかりはギザン将軍による強権体制が終戦まで続きました。

スイスの中立

戦争の終わり

 ドイツソ連の代表的な戦い、スターリングラードの戦いでは、双方合わせて200万を超える犠牲の末にドイツが敗北(1943年)。これを機にドイツは連合国に押され気味になります。イタリアでは1941年エチオピアをイギリス軍により奪い返され、ヨーロッパでも苦戦が続きました。1943年ついにムッソリーニが政権を降りると、後継のバドリオ首相は連合国に降伏しました。ムッソリーニは間もなく逮捕されます。

 

 ハンガリールーマニアも徐々にドイツから離れようとしました。これに怒ったヒトラーはハンガリーに侵攻、占領し、前述の矢十字党に政権を委ねました。ドイツ軍は更にイタリアにも進軍し、逮捕されていたムッソリーニを救出。イタリア北部からローマまでを占領します。こうしてイタリアは親ドイツ・ムッソリーニ派と、バドリオら親連合国派に二分され、内戦となりました。

 

 戦いに勝ったソ連は、東ヨーロッパを”解放”せんと軍を西に進めます。バルト三国はドイツから奪還(1944~45)後、そのままソ連に組み込まれました。ソ連軍は続いてドイツ占領下のポーランドにも軍を進めます。1944年ポーランド亡命政府(in英)とワルシャワ市民は、この強力なソ連軍に期待して、ドイツ軍相手に蜂起しました。しかし、ソ連政府とポーランド亡命政府は、実は仲が悪く、不信をぬぐえなかったソ連軍は動かず。このワルシャワ蜂起は、市民20万人が命を落として失敗します。亡命政府のプライドをズタズタに切り刻んだ後、ソ連軍はようやくドイツ軍をポーランドから追い出しました。

 これと前後してソ連軍は、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリアにも侵攻し、ドイツから解放させたり、枢軸国から離脱させたりしています。

 一方アメリカ・イギリス両軍は、1944年、史上最大のノルマンディー上陸作戦フランスを解放した後、オランダやノルウェー、北イタリア、ギリシャなどからもドイツ軍を追い出していきます。

 

 無論、現地の一般市民も占領軍に対し果敢に抵抗しました。特にティトーの率いたユーゴスラビア共産党と、ホッジャの率いたアルバニア共産党のレジスタンスは、連合国の力をほとんど借りることなく、自国の解放に成功しました。両者は戦後、救国の英雄として権力の座に就くことになります。

 逆にムッソリーニやフランスのペタン、ノルウェーのクヴィスリング、ルーマニアのアントネスクら、枢軸国のもとで政権を握った人々は、重罪人として処刑や終身刑を課せられました。また、一般人の中にも様々な理由で枢軸国に協力した人もいましたが、解放後、彼らの多くが、他の市民から私刑リンチを受けるなど、ツライ目に遭いました。チェコスロバキア併合の発端となったズデーテン地方では、ほとんどのドイツ系住民が追い出され、中には殺害される人もいました。

私刑の怖さ

 1945年5月、ソ連軍がベルリンに侵攻ヒトラーは自殺し、ついにドイツが降伏して、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は終了しました。連合国によってユダヤ人の強制収容所も解放されます。しかし、そこでの光景は、まるで人を人として扱わない、目を覆うような光景だったといいます。強制労働はいうに及ばす、人体実験の犠牲になり、栄養もロクに与えられず、繰り返し「お前は死ななければならない」と言い聞かせられた・・・ その惨状はここでは書ききれません。

 なおオランダで隠れるように暮らしていたアンネ・フランクはその後捕らえられ、1945年3月に収容所の中で短い生涯を閉じました。彼女の日記は戦後、家族で唯一生還した父親の手で世に出ることになります。

 

 ドイツの降伏により、日本は孤軍奮闘を強いられました。1942年のミッドウェー海戦以降、アメリカ軍らの猛反撃にあった日本軍は、ガダルカナル島フィリピン、パラオなど太平洋の島々でも激戦を繰り返し、軍事拠点を奪われていきます。この島々からは連合国の爆撃機が飛び立ち、東京大阪を空襲。沖縄ではアメリが軍との地上戦が繰り広げられ、島民の約3分の1が犠牲となりました。

 

 東南アジアでも日本に対する抵抗運動が激化。ベトナムベトミンに続いて、ビルマでは当初日本に協力的だったアウンサンにより、1944年に「反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)」が、フィリピンでは武装組織フクバラハップ団がそれぞれ結成されました。タイでは日本に協力していたピブーン政権が倒れ、親米の自由タイ政権が発足。1942年の米英への宣戦布告は無効と主張して、日本から離れていきました。

 

 米英ソなど連合国の間では、1945年2月にヤルタ会談、ドイツ降伏後の7月にポツダム会談が開かれますが、戦後の世界を巡ってすでに連合国同士が争いを始めていました。ソ連や共産主義のこれ以上の拡大を防ぎたかったアメリカのトルーマン大統領(ルーズベルトは4月に死去)は、日本を早く降伏させて戦争を終わらせようと、悪魔の武器に手を出してしまいます。1945年8月、広島(6日)と長崎(9日)に原子爆弾が投下され、それぞれ14万、7万の市民を一瞬のうちに虐殺。ソ連軍もこの間に中立条約を破って、満州国や千島列島、後には北方領土にも侵攻しました。

 米英中ソと同時に闘う状況下の1945年8月15日。ついに日本はポツダム宣言の受け入れを決め、9月2日に無条件降伏。第二次世界大戦は終わりました。

惨禍

 この戦争では兵士以上に、多くの一般人が犠牲になった点で、第一次世界大戦ともそれ以前の戦争とも異っていました。

 空襲による都市への無差別爆撃、攻め込んできた兵隊による殺戮性暴力、また自国民であっても戦争を嫌がる人々を“裏切り”と見なして命を奪うといった行為も行われました。加えてユダヤ人に対するホロコーストも、この時代の凄惨さを助長しました。正確な人数はわかりようがありませんが、総勢で5千万を超える人命が、一連の戦争で失われたといいます。これは現在のウクライナの総人口をも超える数です。

 日本人もまた、多くの命を奪い、また命を奪われました。

 

 そして、生き残った人々も(勝った側も負けた側も)、強制労働を課せられたり、家や財産を失ったり、自尊心(民族、信条、性など)を傷つけられたりと、多くの苦しみを味わいました。こうした事に対する補償や賠償の問題は、戦後数十年経った現在まで尾を引き、外交問題にも暗い影を落としています。

 

 人間は心理的に、受けた被害を強調し、与えた被害については目をそらしがちです。そこにすれ違いが生じ、相互理解を難しくさせます。第二次世界大戦で生じた無数の加害・被害の問題は、その最たる例といえるでしょう。

主な出来事

1939.8 独ソ不可侵条約

1939.9 ドイツ軍ポーランド侵攻 第二次世界大戦開始

1939.11 冬戦争開始(ソ連・フィンランド)

1940.3~5 独軍、ポーランド西部・デンマーク・ノルウェー・ベネルクス占領、ソ連軍、ポーランド東部・バルト三国占領

1940.5 チャーチル首相就任~45(イギリス)

1940.5 ドイツ軍、フランス占領 ペタン政権発足

1940.7 日本軍、仏領インドシナへ侵攻(ベトナム 他)

1940.9 日独伊三国同盟締結

1941.4 日ソ中立条約

1941.6 独ソ戦開始

1941.8 大西洋憲章(アメリカ・イギリス)

1941.10 東条英機政権発足~44(日本)

1941.12 日本軍、真珠湾攻撃太平洋戦争開始 シンガポール・香港・フィリピン・インドネシアへ侵攻

1942.2 日本軍、オーストラリア北部のダーウィンを空爆(日本・オーストラリア)

1942.3 日本軍、英領ビルマ占領(日本・ミャンマー)

1942.6 ミッドウェー海戦(日本・アメリカ)

1943.7 ムッソリーニ政権崩壊 イタリア降伏

1943.11 カイロ会談(アメリカ・イギリス・中国)  テヘラン会談(アメリカ・イギリス・ソ連)

1944.6 ノルマンディー上陸作戦(フランス他)

1944.8 ワルシャワ蜂起(ポーランド・ドイツ・ソ連)

1945.2 ヤルタ会談(アメリカ・イギリス・ソ連)

1945.3 東京大空襲 以後、日本各地空襲受ける(日本)

1945.3 アラブ連盟結成(サウジアラビア・エジプト・イラク・イエメンなど)

1945.4 ルーズベルト死去、トルーマン大統領就任(アメリカ)

1945.5 ヒトラー死亡、ドイツ降伏

1945.7 ポツダム会談(アメリカ・イギリス・ソ連)

1945.8 広島、長崎に原爆投下 ソ連侵攻 日本、ポツダム宣言受け入れ 

1945.9 日本、降伏文書に調印 第二次世界大戦終結

1945.10 第5回パン・アフリカ会議開催(アフリカ諸国)

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