世界地理・世界史の謎

世界史に(あまり)出てこない国の歩み③~ネパール~

SHIBA
WRITER
 
ネパールアイキャッチ画像
この記事を書いている人 - WRITER -
SHIBA

ありがたいことにこの度、本シリーズにてリクエストを戴きまして、第3弾はネパール史について見ていきたいと思います。エベレストで知られるヒマラヤの山岳国家ネパール。決して日本人にとっての知名度は低くないこの国ですが、高校世界史ではミャンマーやハンガリー以上に出てきません!

それだけにネパールの歴史を知る機会はなかなか貴重だと思います。ご一緒に見ていきましょう。

ネパールと南アジア

ヒマラヤ山脈の南側に位置するネパールは、アジア大陸にある内陸国です。更に東アジア、東南アジア・・・と細かく分けた場合、この国は南アジアに属します。簡単に言えばインド文明圏の国だということです。

それゆえネパールとインドにはかなり共通点があります。ネパール人の多くはヒンドゥー教徒であり、ネパール語もヒンディー語に共通するところが多く見受けられます。私の近所にも、ネパール料理店があるのですが、そこで食べられる料理はインドカレーとほぼ一緒!だったりします。

ネパールの位置

一方少数ながら仏教徒もいます。それもそのはず。仏教を開いたブッダガウタマ・シッダールタあるいはお釈迦様)はネパール人だったという説があり、その聖地ブッダガヤも、所在地こそインドですが、ネパール国境に比較的近い位置にあります。

リッチャヴィ朝

ネパールが王国として登場するのは4世紀頃、日本でいえば古墳時代です。インドでは西暦320年頃、チャンドラグプタ1世によるグプタ王朝が開かれ、ガンジス川一帯に広く支配域を広げていました。このグプタ家の支配を嫌ったのが、リッチャヴィ家と呼ばれる一族でした。彼らはグプタ朝の支配を逃れるようにヒマラヤ山中のカトマンズ盆地へ亡命。ここを本拠地としたネーパーラ王国が築かれました。この名前が転じてネパールとなります(以後ネパールに表記を統一)。

リッチャヴィ朝

なお、古代のインド・南アジアに関しては信頼のある資料が少なく、その解釈も研究者によってまちまち(例:どこまでが伝説でどこからが史実なのかナド)で、成立した年などについてもはっきりしたことは分かっていません。

その後国内の整備や統治システムが整えられ、5世紀後半のマーナ・デーヴァ1世の時代までには経済も発展し、グプタ朝から自立した独自の王国となりました。この時代、南アジア一帯にヒンドゥー教が広まりつつあり、仏教はそれにおされる格好で衰退していきました。リッチャヴィ朝下のネパールでもヒンドゥー教が重んじられますが、それによって仏教が弾圧されることは少なく、両宗教は現在に至るまで共存関係にあります。

 

リッチャヴィ朝は7世紀、アンシュ・ヴァルマーの治世中、ヒマラヤ山脈を越えた吐蕃とばん王国(現チベット)と友好関係を構築。インド~チベット交易の中継地として大発展します。荘厳な寺院なども築かれ、社会的にも文化的にも最盛期を迎えました。

7世紀ネパール

しかし彼の没後、吐蕃の影響力が次第に強まり、ネパールはその属国の地位に転落。そして9世紀に吐蕃が分裂すると、リッチャヴィ朝もそのあおりを受けて滅亡したといわれています。

 

長い分裂期とマッラ朝

リッチャヴィ朝崩壊後は、タクリ朝またはデーヴァ朝と呼ばれる王朝時代が到来します。これはその名の通り、デーヴァ家やタクリ家といった一族が王位を巡って争ったことを意味します。つまりこの時代は日本の戦国時代のごとく国内が分裂していたわけで、しかもネパールではそれが300年も続きました。不安定な社会が続く中、前王朝時代のような豊かな文化も失われてしまいます。

 

転機が訪れたのが12世紀頃末の事で、新たにマッラ家が力をつけ、従来の王族に取って代わったことでした。1200年マッラ朝の成立です。その後しばらくはマッラ家とデーヴァ家の王位争いが繰り広げられましたが、14世紀後半ステティ・マッラの時代に各地の平定に成功。国内の再建が進みました。そして1428年に即位したヤクシャ・マッラの時代(彼の治世は半世紀に及んだ)にマッラ朝の支配域は頂点に達しました。

ネワール語

社会の安定した14~15世紀、文化面でも復興が見られ、ネワール語やサンスクリット語の物語が多数作られますが、歴代の王も文学や戯曲を愛し、自ら優れた作品を残した人もいたと言われています。ネパールの王には単に政治力のみならず、文才や芸術的センスをも求められたのです。

ネパール三都物語

世界各地の君主がそうであったように、ヤクシャ・マッラにも大勢の息子がいました。晩年の彼は家族を愛する”理想のパパ”だったともいわれますが、そのせいで後継者をビシッと決められなかった。1482年王が没すると、この息子たちの間で跡目争いが起き、この結果マッラ朝はバクタプル(最初の王都)政権とカトマンズ(現在の首都)政権に分裂。更に17世紀には宗教都市のパタンにも政権が作られ、マッラ朝は三都時代を迎えます。

マッラ朝分裂

三都それぞれの政権は自らの利益を巡って、互いに短期間に同盟を結んだり破棄したりを繰り返し、また相手国の王に刺客を放って暗殺させるなど、非常に複雑な経緯をたどりながら、18世紀まで奇妙なバランスを保っていました。一方経済面・文化面では引き続き華やかな時代が続き、各々の国王や政治家が自分の都を競うように飾り立てました。

三都

こうしてマッラ王家が内輪揉めに明け暮れ、周囲への危機感をおろそかにするる中、地方で力を蓄えていたのが、グルカ(ゴルカ)王国でした。18世紀後半、グルカの君主、プリトビ・ナラヤンは、マッラ三都の生命線であるチベットとの交易ルートを占領。経済的に打撃を受けたマッラの三都は、1768年から69年にかけて次々とグルカの軍に敗れ、あっけない最期を迎えました。ここに、現在のネパールの基礎となった、グルカ朝の時代が到来します。

イギリスとネパール

グルカ朝がネパールの覇者となった頃、イギリスでは産業革命が起こり、この後原料や市場を求めて世界各地に植民地を築くようになっていきます。イギリス最大の植民地となったのが、ムガル帝国衰退後バラバラになっていたインドでした。一方、中央アジアにはロシア帝国が進出し、これを併合。アジアはイギリスとロシアの草刈り場となっていきます。

19世紀初頭、ベンガル地方(現在のインド、コルカタ周辺とバングラデシュ)を占領したイギリスは、隣接するネパールと国境を巡って対立。1814年グルカ戦争と呼ばれるイギリス・ネパール間の戦争が起こりました。ネパールはこの戦争に敗北、領土の一部を失ったほか、外交権など一部の権限をイギリスに抑えられるなど、同国の保護国のような扱いにされました。

グルカ戦争

これは南下政策を続けるロシアがもしヒマラヤにまで進出すれば、英領インドとの衝突が避けられないため、両者の緩衝地帯としてネパールを位置づけたかったというイギリスの計算がありました。そのためイギリスはネパールと前後してブータンシッキム王国(ネパールとブータンの間にあった王国)とも戦い、自国に有利な条約を結ばせています。一方で、あまりに圧力を加えすぎればネパールがロシア側に寝返ってしまうため、インドのような徹底した植民地化は実施しませんでした。こうしてネパールは、イギリスの影響を受けながらもインド植民地に飲み込まれることなく、王国を維持できました。

またグルカ戦争の際、ネパール人の軍隊は、イギリスの近代兵器相手に善戦しました。ネパール軍の強さはその後イギリス人の目に留まり、19世紀半ばのインド大反乱(シパーヒーの乱)や第一次世界大戦で多くのネパール傭兵が起用され、活躍しました。

ラナ専制時代

この間、ネパールの王室はどうだったのでしょうか。実はプリトビ・ナラヤンの後、敗戦や幼少の国王即位などによって王室の権威は下がり、重臣たちが政治を牛耳っていました。

1846年、有力な一族の一つ、ラナ家のジャンガ・バハドゥルはクーデターを起こし、対立する他の貴族を虐殺。国王は難を逃れたものの、飾り物同然となりました。そしてジャンガ・バハドゥルは自ら「大王」を称し、事実上のネパール君主となりました。この体制(ラナ専制)はネパールが独立を回復した後も続き、ジャンガの子孫も代々「大王」を名乗り続けました。

ラナ専制時代

もっとも、この強力な独裁体制の元、ネパールでも近代化が進んだのも事実です。19世紀から20世紀にかけて、鉄道の建設、近代教育の普及、サティ(夫の死後妻が跡を追って命を絶つ南アジアの風習)禁止といった改革がなされました。当時、隣の大国インド(当時イギリスの植民地)が、イギリス主導で近代化(欧米化)を推し進めており、ネパールでもこれに倣った格好です。

「会議派」と民主化

1914~18年の第一次世界大戦でネパールはイギリスなど連合国を支援し、その武功もあって1923年、正式に独立を回復しました。この頃、インドではイギリス支配に対するガンディーらの非暴力非服従運動が始まっており、ネパールでもラナ家による支配を批判する動きが現れます。

 

第二次世界大戦後の1947年、ついにインドが独立しますが、これと前後してネパールでは民主化を求める「会議派」というグループが誕生し、ラナ家に対しストライキなどの抵抗運動を始めました。この「会議派」とは、インド独立運動や独立後の政治を率いた「インド国民会議派」という政党(党首はインド初代首相のネルー)を真似たものです。このインドの協力もあり、1951年ラナ家の「大王」モハンを退位させることに成功しました。

 

コイララは王室を残しつつ、ネパールの政治は会議によって決める「立憲君主制」(日本と同じです)を定めた憲法を制定。自身は選挙により初代首相に選ばれました。それまで隅に追いやられていた国王の権威も回復されました。

1953年、この民主化間もないネパールを訪れたのが、登山家エドモンド・ヒラリーテンジン・ノルゲイでした。2人は同年、人類初のエベレスト登頂を成し遂げています。

王室の独裁

しかし、1955年にマヘンドラ国王が即位すると、せっかく達成された民主化が危うくなっていきました。マヘンドラは昔のように国王による政治(君主制)を望むようになり、「会議派」と対立するようになります。そして1960年、国王は憲法を停止し、コイララを逮捕。以後このマヘンドラ国王が政治を動かす、独裁政治が始まりました。ラナ専制が終わってから10年も経たずに、またしてもネパールでは独裁政治が復活してしまったのです。

専制復活

「会議派」がインドとの関係を築いていたことから、マヘンドラはインドと対立関係にあったパキスタンや中国との外交を重視します。特に中国の影響力は強く、皮肉にも君主制を批判し、社会主義を求める「マオイスト」(毛沢東主義の意味)と呼ばれる人々が国内に増えていきました。

 

1972年マヘンドラが没し、ビレンドラが即位しますが事態は変わらず、当時世界で「流行」していた学生運動による王室批判が激しくなっていきます。この間、ネパールの三方を囲むインドとの関係は当然悪化しました。1989年には国境を封鎖され、社会が混乱。この混乱は反王室運動を一層激化させました。当時世界では冷戦が終結し、東ヨーロッパの独裁政権が次々倒れるといった転換期にあたり、ネパールもこのような世界の流れを無視できる状況にはありませんでした。

1990年、ビレンドラ国王もようやく政党制の復活を認め、ネパールにおいて民主主義と立憲君主制が復活します。すでにコイララは死去していましたが、「会議派」も復活し、政治を担うようになりました。

惨劇と震災を乗り越えて

ネパール王室はその後も存続していました。しかし2001年、その王室で皇太子による銃の乱射事件が発生。この結果、ビレンドラ国王以下、多くの王族が命を落とす大惨事となりました(皇太子も死亡)。この事件の真相は未だ謎ですが、事件後に即位し、またも王による政治を復活させようとしたギャネンドラ国王と、王制廃止を掲げるマオイストの運動が激化。2008年遂にギャネンドラが退位し、ネパールは王政を廃止して共和国となりました

王室廃止後の混乱がなかなか収まらない中、2015年に首都カトマンズ近郊を震源とする大地震が発生。建物の損壊や、ヒマラヤでの雪崩などで8千人を超える人命が失われたほか、世界遺産の寺院が被災するなど大きな被害を受けました。

↓ネパールを代表する寺院、カトマンズの「スワヤンブーナート」

スワヤンブーナート

 

とはいえ2011年の日本と同様、ネパールでも震災による大規模な暴動やテロは起こりませんでした。実はネパールも度々地震に見舞われる国であり、このような災害に対する人々の受け止め方も、どこか日本と通じる所があるのかもしれません。現在ネパールはは復興に向けて着実に進んでいます。

この記事を書いている人 - WRITER -
SHIBA

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 世界を学ぼう”知理・歴視” , 2019 All Rights Reserved.