世界地理・世界史の謎

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~カナダの歴史~

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アメリカ合衆国の北隣に位置するカナダカエデの葉っぱが描かれた国旗や、美しい自然で知られています。世界第二位の面積を持ち、G7の一員でもある世界有数の先進国。そんなカナダですが、案外

「カナダと言えば・・・何だ?」

となってしまう人も多いのではないでしょうか?しかもその歴史となると、合衆国とは対照的に、高校世界史などにもほとんど出てきません。

カナダの地理

 カナダの面積は、998.5平方キロメートル。人口は3千7百万人です。国土のかなりの割合が人の住みにくい北極圏で、当然ながら人口は南の方に集中しています。人口構成として最も特徴的なのが、多数派であるイギリス系住民のほかに、フランス系住民が大きな存在感を持っていることです。この他、先住民の子孫も多数住んでいますし、アジア系移民の子孫も最近は増加中です。

カナダの地形

最初はフランスが進出!

 カナダを含む北アメリカ大陸に人類がやって来たのは、およそ2万年前。ロシアからベーリング海峡(当時は地続き)、アラスカを経て移住したのが最初と言われています。

 

 そこから多くの先住民文化が生まれました。例えば南部の五大湖周辺ではトウモロコシやカボチャの栽培が行われるようになります。逆に最北部では、アザラシなどを狩って生活する社会も形成されました。イヌイットと呼ばれる人たちです。また、アメリカ先住民といえば、トーテムポールを建てて、自然を崇拝する風習(シャーマニズム)もよく知られていますが、これも広~い北アメリカ大陸に数多く存在した文化のひとつに過ぎません。

アメリカ先住民

 10世紀になると、ノルウェーのヴァイキングがカナダ東部のニューファンドランド島に上陸しました。そこで現地人との接触もあったと思われますが、この交流は長続きせず、歴史からは忘れ去られてしまいます。

 

 ヨーロッパとアメリカ大陸とが本格的につながったのは、やはりコロンブスの活躍した15世紀末以降の事です。1497年には、イギリス人航海士のカボットが、改めてニューファンドランド島に上陸。1534年には、フランス人探検家カルティエが、セントローレンス川を「発見」し、そこをさかのぼって先住民と接触しています。探検隊のひとりが先住民に、「ここはどこ?」と尋ねたところ、「カナタ(村)です」との返答。これが「カナダ」の語源となった、というのが通説。カルティエと先住民たちはやがて貿易を開始しました。特に当時は、毛皮の材料としてビーバーが重要な商品となっていました。

 

 17世紀になると、フランス人によるカナダへの移住も始まります。1608年、フランス人の探検家シャンプレインは、セントローレンス川上流の岸に、最初の植民都市ケベックを建設しました。このケベックを中心に、フランス人による植民地、「ヌーベル・フランス」が形作られる事になります。

ヌーベル・フランス

 最初は民間事業でスタートした「ヌーベル・フランス」の活動ですが、1663年になると、王国じきじきによる経営が始まります。当時はルイ14世の治世で、経済により力を入れた政策を行った結果、植民地も大いに発展しました。

 一方、ニューファンドランド島イギリス領となります。この沖合はタラをはじめとする魚がよく獲れたため、イギリス人のみならず、ヨーロッパ中の漁船がニューファンドランド付近に押し寄せ、国際問題にまで発展してしまいました…

イギリスとアメリカのはざまで…

 18世紀になると、フランスとイギリスが度々戦争でぶつかるようになります。それはヨーロッパのみならず、海を隔てた植民地にも飛び火しました。北アメリカ大陸にはこの頃、イギリス人植民地も建設されていました。先述のニューファンドランド島のほか、ヌーベル・フランスの南には、ヴァージニアやジョージアなど、後にアメリカ合衆国となる13の植民地が築かれました。

 

 1754年、ヌーベル・フランスと、イギリス領ヴァージニア植民地が激突したことで、フレンチ・インディアン戦争が勃発。この戦争は2年後ヨーロッパで起こった七年戦争と連動し、激戦となりました。1763年、戦争はフランス側の事実上の敗北で終結。ヌーベル・フランスはイギリスに譲り渡され、イギリス領ケベック植民地と名前を変えました。

 とはいえ、それまで暮らしていたフランス系の住民が、いきなり英語を話したりするわけはなく、イギリス政府も彼らの主張をくみとった、柔軟な対応を迫られました。そんな折、今度は元々のイギリス植民地が本国政府の政策に反発。1775年に独立戦争を開始します。この戦争を経て、アメリカ合衆国が成立することになりますが、イギリスの政策にある程度満足していたケベック植民地は、この独立運動には加わりませんでした。

 

アメリカ独立とカナダ

 1783年アメリカ合衆国は正式に独立を認められました。しかし、アメリカ人全員がイギリス本国から独立したい人ばかりだったわけではなく、まだまだイギリスの保護を受け続けたいと思う人もいました。この人たちはアメリカが独立すると困ってしまい、イギリス植民地のままだったケベックへと逃れます。

 

 こうして、当初フランス系住民の多かったケベック植民地にイギリス系住民がどっと押し寄せるようになり、民族構造が複雑化していきました。そこでイギリス政府はケベック植民地を再編し、イギリス系住民の多い地域をアッパーカナダ、フランス系住民の多い地域をロワーカナダと名付け、別々に管理するようになります。

植民地合体!

 19世紀に入ると、イギリス本国からカナダへの移住者も増加。1817年にはアメリカとの国境(北緯49度)も定められます。これに対し、相対的に人口少数派となってしまったのがフランス系住民。彼らは、イギリス系住民が政治の何もかもを決めてしまうことに危機感を覚え、自分達の権利を主張していくようになります。

 

 例えば、植民地の首都を巡っての争い。1841年にアッパー、ロワーの両カナダが再統合されましたが、この「カナダ植民地」の首都をどこに置くかで、フランス系住民の中心、ケベックシティと、イギリス系の多いトロントが争いました。1857年両都市の間に位置する町、オタワが首都となることで決着しましたが、これも両住民による妥協の産物だったと言えます。

 

 この19世紀半ばになると、広大な土地を使った小麦の生産や林業が発展し、経済がうまく回るようになりました。鉄道の建設も始まり、人や物が大量に遠くへ運ばれるようになります。この勢いを絶やさぬよう、更に開発が進みますが、その動きは、カナダ植民地の周辺にも広がっていきました。

 実はカナダ植民地の周囲には、ブリティッシュコロンビア植民地ハドソン湾会社領といった、いずれもイギリス人の経営する土地や植民地がつくられていました。これらを統合すれば、経済は効率化、大規模化できるし、当時西部開拓で大国化してきたアメリカ合衆国にも団結して対抗できる(実際、1861年に南北戦争が起こり、カナダとの間にも緊張が高まっていた)。カナダ植民地の人々も、イギリス政府も、次第にそう考えるようになります。

カナダ自治領

 1867年にカナダ植民地と大西洋側のノヴァスコシア植民地が合併し、改めて「カナダ自治領」が成立。初代首相には、合併に尽力したジョン・A・マクドナルドが選ばれています。その後1870年代までにハドソン湾会社領、ブリティッシュコロンビア植民地も合併し、現在のカナダにほぼ匹敵する巨大なものとなりました(ニューファンドランド島が加わるのはずっと先の1949年)。

自立した国へ

 ところで、この大合併には、先述したフランス系住民の主義主張を抑える狙いもありました。周囲の「イギリス系植民地」と合併したことで、フランス系住民はますます少数派となってしまい、その声がなかなか政府に届かなくなっていったわけです。

 もうひとつ、自らの権利を奪われつつあったのが、元々北アメリカ大陸に住んでいた先住民たちでした。ヨーロッパ系移民による開発は、彼らの土地を奪い、またその生活に大きな役割を果たしていたバッファローの減少を引き起こしていました。そのため、先住民による反乱もたびたび発生。中でも1869年に起こったレッドリヴァー蜂起や、1885年に起こったノースウェストの反乱は大規模なものでした。

 

 内部分裂を抱えたままでは、カナダ社会は安定しない。1896年、フランス系住民として初のカナダの首相となったローリエは、イギリス系、フランス系といった垣根を越えた「カナダ人」を創ろうとします。

 

 しかしながら、英仏両住民の溝はまだまだ深く、重要な局面ではたびたび意見が分かれ、その都度妥協を強いられました。1914年に始まった第一次世界大戦では、カナダも連合国側に立って参戦し、多くの志願兵がヨーロッパの戦場へ向かいました。しかし戦争が長引くと、志願兵だけでは足りず、最後には徴兵制が導入されましたが、これには多くのフランス系住民が反対しました。

英仏住民の争い

 それでも戦争は連合国の勝利で終わり、これに貢献したカナダは、イギリスから更なる政治的な権利を得ていきます。1931年出されたウェストミンスター憲章で、カナダとイギリスは「対等の関係」になりました。カナダの「元首」は変わらずイギリス国王ではあるものの、カナダは事実上の独立国となりました。この関係は現在まで大きく変わっていません(イギリスのエリザベス女王は、カナダ女王でもあるのです)。

多様な社会へ

 20世紀になると、カナダに住む人々も多様化していきました。旧来の先住民、英仏系住民に加え、北欧や東欧、加えて中国、日本などアジア系移民も増加していきます。しかし相変わらずカナダ社会を引っ張っていたのは、イギリス系、次いでフランス系で、それ以外のヨーロッパ系、そして先住民やアジア系との間には、明確な差別意識がありました。

移民と階層

 1930年代は他の国と同様、世界恐慌で経済的な打撃を受けます。カナダは当初イギリスの経済ブロック(関税を高くして、他国からの経済的な影響を減らす政策)に入りましたが、なかなか不況を脱出できずにいました。そこで1938年、隣国アメリカ合衆国と経済協定を結ぶことに。この直後始まった第二次世界大戦による「戦時特需」もあり、カナダ経済は回復していきます。

 

 これは同時に、カナダの最重要パートナーが、もはやイギリスではなくアメリカだという現実を知らしめる出来事でした。冷戦の始まった1949年には、カナダもNATOに加盟しています。

 とは言えアメリカに「べったり」という関係では決してなく、むしろ国際的なシガラミから比較的自由な立場を生かし、紛争解決などに力を発揮していきました。代表的な例が、1956年の第二次中東戦争で、この時カナダのピアソン外相は、国連に働きかけるなど積極的に交渉や仲介を行い、戦争終結に大きな役割を果たしています。この功績から彼は翌1957年にノーベル平和賞を受賞しました。

第二次中東戦争

 さて、この頃のイギリス系、フランス系両住民の関係はどうだったかというと、カナダ人としての統合の動きが見られた一方で、やはり、「フランス系住民の権利を!」との声はなおもありました。その拠点がケベック州だったことから「ケベック・ナショナリズム」とも呼ばれています。1960~70年代はこのケベック・ナショナリズムが過激化し、一時戒厳令が出される事態にまで発展していきました。一方でアジア系移民なども増え続け、カナダ社会はどんどん多様化していきます。

 

 こうした現状を踏まえた時のピエール・トルドー首相(ジャスティン・トルドー現首相の父親)は、1969年に英語とフランス語の二つをカナダの「公用語」としました。更に1971年には「多文化主義政策」を導入します。これにより、カナダは、イギリス人文化、フランス人文化、先住民文化など、多様な文化を持つことが確認され、その共存に向けて動き出します。多文化主義は、1982年に制定されたカナダ初の本格的な憲法にも記され、以後、カナダ社会の基盤となっていきます。この結果、あくまで法律上の話ですが、ヨーロッパ系、アジア系、先住民の間にあった差別は撤廃されました。

多文化主義

 ただし、ケベック・ナショナリズムはなおも力を持っており、1995年のケベック州投票では「ケベック州がカナダから分離独立すべき」という声が全体の49%を占める事となりました。遠くない将来、北アメリカにもう一つの国が生まれる可能性は、決してゼロではありません

豊かな国カナダ

 最後にカナダの産業についてももう一度触れておきましょう。アメリカと同様、広大な面積を持つカナダでは、小麦をはじめとする農業を大規模に行っています。加えて豊かな森林を利用した林業、世界一長い海岸線を持っていることからもわかる通り、漁業も盛んです。

 20世紀後半以降は、世界的に重化学工業が成長し、それに伴い、石油、鉄鉱石、ウランなどの需要も高まってきました。カナダはこうした鉱物資源の宝庫でもあり、鉱工業もまた、カナダ経済を支える重要な産業となりました。美しい自然は観光業をも盛んにさせています。

カナディアンロッキー

 近年は、リーマンショックや新型コロナウィルスの流行などの打撃もありましたが、それでもなお、カナダは世界的にも最も豊かな国の一つと言えます。G7に名を連ねているのも納得。とはいえ、隣国アメリカの存在感が大きすぎるため、相対的にカナダの印象は薄くなりがちです。「アメリカには無い、カナダらしさとは何か」に対する模索は今も続いています。

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