ブラジルのリオデジャネイロは首都じゃないのになぜ有名?
断崖絶壁に巨大なキリスト像が立ち、眼下には青い海が広がっている・・・そんなシーンをテレビで見たことがある人もいるでしょう。リオデジャネイロ(縮めてリオ)は、リゾートやカーニバルで有名な、ブラジルを代表する都市です。2016年には南米初のオリンピックが開かれ、話題となりました。
しかし、世界地図を広げてみると、この国の首都はリオデジャネイロではなく、ブラジリアとなっています。ではアメリカのニューヨークのように、ブラジル最大の都市かというと、そうでもありません。ブラジルで最大の人口を持つ都市は、リオから少し西にあるサンパウロ(約1000万人)で、リオは第2の都市(約700万人)です。首都でもなく最大都市でもない。にもかかわらず、リオデジャネイロの知名度がブラジルの都市でも際立っている理由は何なのでしょう。
ブラジリアとリオデジャネイロ
結論から先に言うと、リオデジャネイロはブラジルの“前の首都”なのです。首都がブラジリアに移ったのは1960年の事でした。後述するように、ブラジルが独立するのは1822年のことですが、実はそれ以前(植民地時代)からリオデジャネイロはブラジルの行政の中心でした。つまりブラジリアと比べ歴史の重みが違うのです。では、なぜ首都は移ったのか。ブラジルの歴史とともに見ていきましょう。
一月の川
コロンブスがアメリカ大陸に到達してから8年後の1500年。ポルトガルの航海士カブラルが南米大陸東岸に上陸し、ここをポルトガル領としました。これがブラジルの始まりで、最初の首都(植民地の拠点)はサルヴァドールという街でした。
この後、ポルトガル人は海岸沿いに調査を続け、1502年の1月に港町としてうってつけの入り江を発見。ポルトガル語で「一月の川」を意味する 「リオ・デ・ジャネイロ」と命名します。無理やり英語で言えば、「River of January」といったところでしょうか。
砂糖の時代 金の時代
ブラジルの国名は、染料に使われる樹木(パウ・ブラジル)に由来しています。植民地になった当初は他に目ぼしい輸出品が見つからなかったためです。 しかし16世紀半ば、ヨーロッパでコーヒーや紅茶が飲まれるようになると、砂糖の需要が高まり、サトウキビの生産でブラジルは発展していきました。
18世紀には金山とダイヤモンド鉱山も発見され、ブラジルにもゴールドラッシュが到来しました。金、ダイヤモンドはいずれもサルヴァドールよりずっと南の、ミナス・ジェライス地方で産出され、経済の重心が南に移っていきます。そしてそれらの積出港として発展したのが、ミナス・ジェライス地方に近い港町、リオデジャネイロでした。
1763年、遂にブラジル総督(国王の代理人的存在)がサルヴァドールからリオデジャネイロに移り、この都市はブラジルの首都ととして、その第一歩を踏み出しました。
ポルトガルからの独立
18世紀末、ヨーロッパではフランス革命が起き、その混乱の後、ナポレオンが各地を攻撃します。それはポルトガルも例外ではありませんでした。1807年ポルトガル王家はナポレオン軍の侵攻を察知し、国を脱出。大西洋を越えて植民地ブラジルに亡命しました。この結果、リオデジャネイロは、リスボンに代わる「ポルトガルの首都」にとなります。
※以前のイラストでは、亡命段階でジョアン6世が王となっていましたが、正しくは、当時のポルトガル君主は女王マリア1世で、ジョアン6世は彼女の没後1816年に、ブラジルにて即位したポルトガル王でした。お詫びして訂正いたします。<2020/6/10>
ナポレオンの倒れた後の1815年には国王(当時は女王マリア1世)のいる場所が植民地であってはならないということで、ブラジルは「ポルトガル本国の一部」(つまりポルトガルと同等の扱い)に格上げされます。しかし1820年にポルトガルで革命が起こると、ブラジルでポルトガル王となったジョアン6世も本国に帰るのですが、こうなるとまたブラジルが植民地に格下げされてしまうのではないか。そう思ったブラジルの人々は、帰国しなかった王子(ペドロ皇太子)を君主につけて、1822年独立を宣言しました。植民地に戻るくらいなら、もうポルトガルから独立してしまおうという(大胆な)発想です。
無論ポルトガル政府は反対したのですが、ちょうどこの頃、アルゼンチンやコロンビアなど他の南米諸国もスペインからの独立を達成していたこともあり、この独立運動は最終的に成功しました。
救世主現る
話をブラジル経済に戻します。先ほどお話しした砂糖は、19世紀までにはキューバなどカリブの島々との競争に負け、金もダイヤモンドも量が少なかったため、いずれも長くブラジルを支えることはできませんでした。
そんなブラジル経済を救ったのが、18世紀にもたらされていたコーヒーです。19世紀から本格栽培されたコーヒーは、特にサンパウロ州の土と相性バツグンで、盛んに栽培、輸出されました。
19世紀はヨーロッパの市民の間でも活発に議論が交わされた時期で、(お酒と異なり)頭をすっきりさせるコーヒーは人気でした。そのブームにうまく乗ったブラジルは、発展を続けることができたというワケ。また、コーヒーに関する企業の拠点として、サンパウロには多くの人が集まるようになり、最終的には同国最大の経済都市へと成長しました。(現在ではブラジルどころか、南半球でも最大規模の都市のひとつとなっています)
しかしサトウキビにしても、コーヒーにしても、栽培の労働力としてこき使われたのは、アフリカから連れて来られた黒人奴隷やその子孫でした。このためブラジルは奴隷解放が最も遅い国のひとつでもありました。19世紀末、時の皇帝ペドロ2世は遂に奴隷解放宣言を出しますが、これに反対する人の支持を失い、1889年には君主制自体が廃止。大統領をトップに据えた「共和国」となりました。
美しき港町
20世紀に入っても、ブラジルはコーヒーやサトウキビといった農業を中心に発展しました。なにしろ世界第5位の面積を誇る国ですから、土地は有り余るほどあったといえましょう。奴隷が解放されてからは、移民などの「安価な労働力」が用いられ、そこには明治維新を迎えた日本人(日系人)も多くやってきました。
政治的にはヴァルガス大統領の長期独裁政権なんかもありましたが、第1次、第2次世界大戦でも直接戦場になることはなく(兵士が派遣され犠牲になることはあった)、ヨーロッパやアジアと比べると大きな変化はありませんでした。そして、この間首都はずっとリオデジャネイロでした。首都であり、港町でもあるこの都市はまさにブラジルの正面玄関であり、都市の景観にも力が入ったのか、後には世界三大美港の一つにも数えられるようになります。1931年には、あの有名なコルコバードのキリスト像も完成しました。
※写真はPIXABAY様より拝借
世界遺産の首都
しかし、リオにしろ、サルヴァドールにしろ、サンパウロにしろ、ブラジルの主たる都市はいずれも海に近いところに位置しており、内陸部と沿岸部との間には大きな「差」が生じていきました。また、人口の増加と共に都市化(農村からの移住)も進み、多くの貧しい人々がリオの郊外にスラム街を形成(ファベーラと呼ばれています)していきます。更に自動車の普及は、渋滞などの交通問題を引き起こしました。
これらの問題を一挙に解決しようとしたのが、新しい首都の建設でした。車社会に対応した近未来的な都市を、開発の遅れている内陸部に建設すれば、ブラジル社会の更なる発展にはずみがつくと思ったのでしょう。時の大統領クビシェキは、1960年、新首都ブラジリアを建設。その中心部は交差点をすべて立体交差にし、渋滞を極力生まない構造になっていました。また、ブラジリアの街並みを上から見ると、ジェット機のような形をしています。これも、ブラジルが「未来にはばたく」というメッセージが込められているとのことです。
この近未来都市は、1982年ユネスコの世界文化遺産に登録されました。ただしそれだけに、ブラジリアの建設費用は莫大でした。皮肉なことに、新しい首都建設によって政府は財政難に陥り(まあ、原因はそれだけではないのですが)、一時は軍事政権が出現するなど、不安定な時代を迎えることになります。
問題解決せず
さて、首都移転から60年弱。ブラジリアはその後も発展していき、現在の人口は200万を超えています。しかし一方でリオデジャネイロの人口増はブラジリアの比ではなく、スラム街による治安悪化はなおも深刻です。
また、アマゾンの開発による環境破壊など、内陸部の開発にも賛否があり、それがブラジルの発展にどれだけ役に立ったかはビミョーな所です。クビシェキ大統領の思いは未だ中途半端な形でしか実現しておらず、ブラジリアの”地位”も、いまだリオを越えるものではないのが現状のようです。
リオの魅力とは
首都の座を明け渡したとはいえ、リオデジャネイロにはキリスト像も、美しい自然も残っています。またカーニバルに代表されるように、この都市はブラジル文化の中心地でもあります。こうした魅力は今も昔も変わらず、多くの人を惹きつけています。そのパワーこそが、リオデジャネイロがブラジルを代表する都市として認識されている理由なのでしょう。
※写真はPIXABAY様より拝借