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19世紀半ば~民族と植民地~

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19世紀半ば
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19世紀半ばの世界

 

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今回の19世紀半ばは、1831~70年頃までとします。

ヨーロッパやアメリカでは、工業化によって自国を強大にしていこう(簡単に言えば富国強兵)という動きが高まりますが、それは多くの犠牲を強いるものでした。富国強兵のために、ヨーロッパ列強はアジア、アフリカ、オセアニアといった地域を従属化、つまり植民地へと貶めていきます。

また、工業化は多くの労働者を必要としますが、労働者の置かれた環境は劣悪で、企業の経営者(資本家)との格差も拡大し続けました。この格差をなくそうという理想の元、社会主義という思想が生まれるのもこの頃です。1848年には、経済学者マルクスエンゲルスの2人によって『共産党宣言』が出版されました。

資本家と労働者の格差

また、フランス、ドイツといった国内を統合するため、民族や国民という概念がより一層強まります。ドイツやイタリアでは、この考えの元、バラバラだった小国がまとまりを見せていきます。しかし東ヨーロッパでは逆に、ロシア、オスマン帝国、オーストリアといった大国からの分離独立のために、民族主義が用いられました。

イギリス・アイルランド

当時時代の最先端を突き進んでいたイギリス。工業化、植民地化と共に世界に資本主義体制を広めていきます。深刻化した労働問題に対し、1833年には労働法が定められ、児童労働が禁止されました。また、関税を撤廃する自由貿易が理想とされ、1846年、地主を保護するため、穀物の価格を高くしていた穀物法が廃止されました。

 

穀物法廃止のきっかけとなったのが、当時イギリスに併合されていたアイルランドで起こったジャガイモ大飢饉でした(1845年)。大量の餓死者を出したアイルランドでは、海外へ逃れる人も多く、その人口は半減してしまいました。

 

政治面では、待遇改善を訴える労働者ら一般民衆による政治への関心が高まり、選挙権拡大などの運動(チャーティスト運動)を展開していきます。この結果、選挙法は何度も改正され、有権者は増加の一途を辿りました。

 

世界の工場となったイギリスは、原料の供給地、製品の売り先として全世界に進出してきました。後述するように、インドはイギリス最大の植民地となり、中国(清)に対してはアヘン戦争を機に権利や領土を削り取っていきます。この他、マレーシア、ミャンマー、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカといった地域もイギリスの支配下に置かれ、日本タイ(シャム王国)といった国とは不平等条約を結んで優位に立ちました。

 

こうした中、1837年ヴィクトリア女王が即位し1901年までの長きにわたり君臨。また、1851年にはその範囲を象徴する華やかなロンドン万博が開催されました。パクス・ブリタニカと呼ばれる、イギリスの黄金期がこの先19世紀を通じて続くことになります。

フランス

1830年の七月革命で、フランス・ブルボン王朝の絶対王政は今度こそ終焉。オルレアン家のルイ・フィリップ国王が立憲君主制(憲法で国王の権限を制限する体制)を認め、七月王政が誕生します。

 

ちょうどこの頃、フランスでも産業革命を経験し、労働者人口が増加しますが、これは同時に労働問題の増加を招きます。劣悪な労働環境に怒った人々は、1848年二月革命を起こし、ルイ・フィリップは退位。第二共和政が始まります。

 

ここで大統領に選出されたのが、ナポレオンの甥っ子。彼は1851年、クーデターで独裁者となってしまいました。ナポレオン3世による第二帝政の開始です。ナポレオン3世もまた、帝国主義の政策として世界各地に植民地(ベトナム西アフリカなど)を築いたり、圧力をかけて政治的優位に立とうとしたり(中国、メキシコなど)しました。

 

首都パリが近代的な都市に生まれ変わったのも彼の統治した1860年代のことです。オスマン知事の綿密な都市計画の元、この大都市は「花の都」へと変貌を遂げていきました。

 

1870年、拡大を続けるプロイセン(ドイツ)を脅威と見たナポレオン3世は、普仏戦争を起こしますが、これに敗北して退位しました。第三共和政が開始されます。

ドイツ

ウィーン体制下でも改革の行われていたプロイセン王国では、多くの庶民が農奴身分から解放され、人口も増加。この人口増に支えられる形で工業化も進展していきます。

 

また、民族主義は小国に分かれていたドイツの統合を促していきました。1834年にはドイツ関税同盟が結ばれ、一つの経済圏を形成。プロイセンはここでも主導的な役割を果たし、特に1862年宰相になったビスマルクは、時に武力をもってドイツ統一を進めていきます。

鉄血政策

ベルリンに壁が築かれた理由とは? より

1863年、デンマーク領だったシュレースヴィヒ、ホルシュタイン地方を奪い、1866年には同じドイツ語圏を中心としたオーストリアを普墺戦争で排除。1870年には、先の通り普仏戦争でフランスに勝利します。この間に南ドイツのバイエルン地方を併合したプロイセンは、翌1871年、ドイツ帝国に名を改めました。現在に続くドイツがここに誕生します。

オーストリア、ハンガリー

先の通り、1848年フランスで二月革命が起きると、この動きは3月にウィーンにも飛び火します。ウィーンでは、メッテルニヒが失脚、亡命し、ウィーン体制が名実ともに終わりを告げます。

 

一方、オーストリア下にあったハンガリーでは、コッシュートら民族主義者により、オーストリアからの独立が宣言されますが、農民を含む大多数の支持を得られず、難航。そうこうしているうちに、フランツ・ヨーゼフ1世が即位し、革命を押し潰していまいました。

1848年革命

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ハンガリーの歴史~より

 

1866年オーストリアが普墺戦争に敗北し、ミラノなど北イタリアサルディニア王国に奪われるなど苦戦が続くと、皇帝も政治を考え直しました。翌1867年、ハンガリーに独自の議会が設けられ、事実上独立国のような状態になりました。オーストリア・ハンガリー帝国、二重帝国、あるいは「アウスグライヒ(妥協の意味)」と称されるこの中途半端な体制は、民族主義に配慮しつつ、帝国の維持はしたいという、文字通り妥協の産物でした。

同じくオーストリア下にあったスラヴ系の人々(チェコ人、クロアチア人、スロベニア人)などの間にも民族主義は広まり、同じく自治権などを獲得していきます。

イタリア

イタリアは当時、トリノを中心としたサルディニア王国が一応の独立を保っていましたが、ミラノやヴェネツィアといった北部はオーストリア帝国下にあり、ナポリ、シチリアでは絶対王政が続いていました。

 

小国に分かれた現状を打破し、イギリスやフランスといった大国と渡り歩くために、イタリアを統一しようという声が高まっていきます。1831年マッツィーニの組織した青年イタリアはその先駆け的存在でしたが、時期尚早だったため、失敗に終わりました。

 

他方、サルディニアのカヴール宰相は、現実的な外交を駆使してフランス・ナポレオン3世の助力を得ます。そして1850年代、ミラノやフィレンツェをオーストリアから奪取し、これを自国に併合しました。

 

南部ではナポリ王国とシチリア王国が連合した両シチリア王国が、1860年ガリバルディ率いる赤シャツ隊の起こした革命で崩壊。ガリバルディは両国をサルディニア王国に「献上」したため、南イタリアも組み込まれました。

ローマの中に「別の国」があるのはなぜ?より

 

1861年、サルディニア王国は、イタリア王国と名を改めました。ヴェネツィアは1866年、ローマを中心とする教皇領は1870年に併合されます。

東欧・ロシア

ロシア下のポーランドでは、1830年の七月革命以降、貴族を中心とした民族主義者が度々反乱を起こしましたが、大衆の支持を得らなかったことから大きな運動にならず、失敗に終わります。

 

そのロシアでは皇帝による独裁の元、工業化と植民地政策(南下政策)を続けていました。清、中央アジア、コーカサス、ペルシャ、オスマン帝国などがロシアの圧迫を受け、一部は実際ロシアに併合されていきました。1853年にはオスマン帝国から領土を奪おうとしますが、これ以上の拡大を恐れた英仏は、この時ばかりはオスマン側に付きました。ここにクリミア戦争が勃発します。

 

膨大な犠牲の後、1856年ロシアは英仏相手に手痛い敗北を喫しました。戦争中に即位したアレクサンドル2世は、ロシアの近代化がまだ道半ばであることを痛感し、1861年の農奴解放令、教育の実施などの改革や、鉄道の建設を進めていきました。

バルカン半島

1829年独立したギリシャでは1834年アテネに首都が定められました。この後、「ギリシャ人居住地はギリシャのもの!」という理屈で、バルカン半島内のオスマン帝国から領土を奪取していきます。この主張を「大ギリシャ主義」と呼びます。

 

オスマン帝国下で大きな自治権を得ていたセルビアでは、ガラシャニン首相の下で、近代化が行われました。彼は一方で、かつて強国だった中世セルビア王国時代の領土を取り戻さんと、「大セルビア主義」を掲げますが、当然それはギリシャの「大ギリシャ主義」と衝突することになります。

 

ルーマニアは当時、ワラキア公国、モルダヴィア公国(オスマン帝国の属国)、トランシルヴァニア公国(オーストリア帝国の属国)に分かれていました。ギリシャ独立後、これらの国でも民族主義が高まった結果、1859年にワラキアとモルダヴィアが統合され、ルーマニア公国が成立しました。ここにトランシルヴァニアが加わるのは、20世紀を待たねばなりません。

 

未だオスマン帝国下にあったアルバニアでも、中世の英雄スカンデルベグの偉業など、アルバニア文化や歴史が研究されました。これを「リリンジャ」といいます。ブルガリアでも同じく民族運動が高まり、中世ブルガリア王国時代の歴史などが盛んに研究されました。

その他ヨーロッパ

民族主義の高まりはデンマーク下にあったアイスランドでも起こり、伝統的な議会アルシングが1843年に復活しています。民族主義者ヨーン・シグルスソンらの働きかけが功を奏し、独自の憲法も1874年制定されました。

 

デンマークでは1848年の革命により、絶対王政が放棄され、49年に憲法が制定されます。他方「ドイツ」の章で見た通り、1863年からの戦争では、プロイセンと領土問題になっていたシュレースヴィヒ、ホルシュタイン地方を奪われました。

 

スペインでは、改革を進めたい「自由主義者」と、伝統を残したい「保守派」が対立。この両勢力の争いは「カルリスタ戦争(1820~40)」と呼ばれています。この戦争では自由主義者の勝利に終わりますが、その中にも穏健派や急進派がおり、もっとも急進的な人々は国王の廃止をも主張し、混乱が続きました。

アメリカ・カナダ

アメリカでは、米墨戦争(後述)の結果、西に領土が大きく拡大。西部開拓が活発化します。特にカリフォルニアで金が発見され、ゴールドラッシュが始まると、その勢いは加速。また、国土が太平洋に面するようになったことで、アメリカはこの大海原にも目を向けるようになります。西海岸の遥か沖にはハワイが、そして日本がありました。

 

一方で国内では分裂も加速していました。自国工業を保護したい北部と、綿花の輸出を自由貿易で伸ばしたい南部の対立が次第に高まっていきます。これに奴隷解放の是非が絡み、1861年、南北戦争が起こりました。

 

北部の大統領リンカーンは、1863年、奴隷解放を宣言して、南部の奴隷を味方につけました。同年には「人民の人民による人民のための政治」の格言で知られるゲディスバーグ演説を行います。こうして1865年南北戦争は北部の勝利をもって終結。黒人奴隷は解放されますが、生活が白人並みに向上することは無論、彼らが差別から解放されることも叶いませんでした。

リンカーン

カナダでは、増加を続けるイギリス系住民に対し、少数派となってしまったフランス系住民が民族主義運動を始めます。反目する両住民を抑えるためには強い政府の存在が求められました。北アメリカにあった複数のイギリス植民地が統合され、1867年、カナダ自治領が誕生しました。

メキシコ・中米

ラテンアメリカでは、いまだ独立後の混乱(自由主義者vs保守派)が続いており、争いを抑えるべく、各地でカウディーヨと呼ばれる独裁者が誕生しました。

 

メキシコでは、1833年大統領となったサンタアナが独裁政治を始めます。当時メキシコ最北部の領土だったテキサスは、サンタアナの独裁に反発して、1836年に分離独立しました。更に1845年にはアメリカ合衆国への編入を決めます。怒ったメキシコは、1848年アメリカとの間に米墨戦争を起こしますが、あえなく敗北し、テキサスのみならず、同じくメキシコ領だったカリフォルニア(現カリフォルニア州の南部)をも手放しました。

 

間もなくアンタアナは失脚し、彼の政敵だったフアレスが大統領に。彼はレフォルマ改革とよばれる政策で、古い社会体制を解体していきました。改革を嫌がる保守派は、ナポレオン3世下のフランス軍を侵攻させ、1863年にはメキシコシティを一時占領します。しかし1865年、フアレスがアメリカの支援を受けてフランス軍を駆逐。その後レフォルマ改革が再開されました。

 

メキシコと南米の間には、中米連邦と呼ばれる国が成立していましたが、各州をまとめる力がなかったため、1840年までにグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカに分裂。いずれの国でも、自由主義と保守派の政争に明け暮れる一方で、コーヒーやバナナといった輸出作物に経済成長の望みを託していきます。

 

カリブ海では、1844年ドミニカ共和国ハイチから独立しました。他方、キューバはいまだスペインの植民地で、奴隷制も残っていました。この時期キューバでは、当時重要な輸出品だったサトウキビの生産量がハイチを抜いてカリブ一位になります。

自信をつけたキューバ人は1868年独立運動を起こしますが、内部抗争もあって失敗に終わります。その後奴隷解放は進んだものの、解放された黒人はなおも低賃金労働者として苦しい立場に置かれます。

南アメリカ

ブラジルでは、1834年にペドロ2世が即位。この頃からコーヒーがブラジル経済の牽引役となりますが、この国ではまだ奴隷制が続いていました。アルゼンチンでは、代表的なカウディーヨ、ロサスの独裁が19世紀半ばまで続きました。その隣国ウルグアイでは1864年、政策の違いから内戦が勃発。一方はパラグアイに救援を要請し、もう一方はアルゼンチンとブラジルを頼りました。

 

当時のパラグアイは、独裁者ソラノ・ロペスの元、先進的な強国となっていましたが、彼の支援したウルグアイの政党が敗北した後も、強引に戦争を継続。この結果、パラグアイは、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイを相手に絶望的な戦争を続けました。パラグアイ戦争と呼ばれたこの戦争は、ソラノ・ロペスが戦死した1870年に終わりますが、この間成人男性の半数を失うなどパラグアイは大打撃を受け、強国から転落。復興に長い時間を要することになります。

 

ペルーボリビアは、サンタクルス大統領のもと、一時合同しましたが、巨大な隣国の誕生を嫌がるチリの攻撃で再びバラバラに。そのチリでは保守派の安定した政権のもと、銅の輸出で繁栄しました。

 

南米諸国でもこの頃、産業革命が始まり、ゆっくりと工業化や近代化が進みます。また近代化の中、不足しがちな労働者を補うために移民が推奨されました。特にペルーやブラジルにはこの頃より、開国して間もない日本からも大勢の労働者がやって来ました。日系人の祖先です。

中国・朝鮮半島

イギリスによるアヘン輸出は中国(清)社会を荒廃させ、貿易面でも財政赤字を深刻化させていました。清の政治家林則徐りんそくじょはアヘンの輸入禁止に踏み切りましたが、この結果、イギリスとの間にアヘン戦争(1840~41年)が勃発。

アヘン没収

世界最大の国と目されていた清は、まさかの大敗を喫し、この国が「張子の虎」であることが露呈してしまいます。1841年、清は南京条約で香港をイギリスに割譲したほか、皇帝により制限を設けられていた貿易を、自由貿易へと転換させられました。

 

これを機に列強が次々と清に進出。社会不安の中、中国国内では新興宗教「太平天国」が流行します。その教祖洪秀全こうしゅうぜんは、1853年に南京を占領し、一時清から独立した国を生み出しました(~1861年)。

 

敗戦を受け、曾国藩そこくはん李鴻章りこうしょうといった政府の改革派は、西洋の進んだ技術を取り入れる洋務運動を開始します。しかし当時清の事実上の支配者である西太后せいたいこうをはじめ、保守派の腰は重く、十分な成果を上げるには至りませんでした。

 

列強は、朝鮮半島にも進出。当時朝鮮では、王室の外戚が実権を握っていました。1863年高宗コジョが即位しますが、当時は父親の大院君テウォングンが事実上の政治のトップ。大院君は朝鮮の鎖国体制を頑なに守ろうとしました。

また、思想家崔済愚チェジェウは、朝鮮内に広まっていたキリスト教が西洋文明侵入の要因として、これに対抗する宗教を作ります。これは、キリスト教=西洋の宗教に対し、仏教や儒教など東洋の宗教を基盤とするもので、東学と呼ばれました。

日本

1830年代の日本では、天保の大飢饉が発生し、それにともなう一揆なども頻発しました。大坂(大阪)の役人であり儒学者でもあった大塩平八郎は、民を救うべく1837年に反乱を起こしています。江戸では老中水野忠邦が「天保の改革」を実施しましたが、2年ほどで挫折しています。

幕府がテンテコマイ状態の中、財政改革に成功した地方藩もありました。薩摩藩(現鹿児島など)長州藩(現山口)はその代表でした。

 

ペリー率いるアメリカ艦隊が現神奈川県の浦賀に姿を現したのは1853年のこと。すでにアヘン戦争を通じて西洋の強さを知っていた幕府は、翌54年鎖国政策を改め、58年からは貿易も開始されます。しかし欧米との競争に突然さらされ、日本経済は混乱していきます。当初その不満は外国人に向けられていました(尊王攘夷)が、次第にこの状態を許す幕府に矛先が向けられました(倒幕運動)。

 

開国後、西洋へ若者を派遣してその社会を学んだ薩摩藩士や長州藩士は、新政府を作らねば日本も植民地にされると痛感。幕府に圧力をかけ、1867年に政権の返上(大政奉還)を実現します。最後の将軍徳川慶喜はなおも力を持っていましたが、王政復古の大号令(天皇中心の政治を復活させるぞ!という宣言)もあり、結局は同年中に江戸城を退去。江戸幕府がここに終焉しました。

翌1868年、元号が明治となり、江戸の名は東京と改められました。ただし幕府を支持する人々の抵抗は東北を中心になおも続きます(戊辰戦争~1869年)

インド

イギリス東インド会社によるインドの植民地化は最終段階を迎えていました。

1833年、インド統治法がイギリスにより制定され、植民地政府はカルカッタ(コルカタ)に置かれます。イギリスの影響力がインドの政治経済、社会に浸透すると、失業者などイギリスに不満を持つ者が増加していきました。

 

彼らの怒りは1857年、シパーヒーと呼ばれる傭兵の反乱を引き起こし、やがて全インドに広がっていきました。このインド大反乱ではムガル皇帝バハードゥル・シャー2世が担ぎ出され、ラクシュミー・バーイーら地方の王族も参加しましたが、イギリス軍の前に勝利を収めることは叶いませんでした。

ラクシュミー・バーイー

インド大反乱鎮圧後、イギリス政府はムガル皇帝を正式に廃止する一方、東インド会社にも責任をとらせて、解散させました。以後、インドはイギリス政府による直接統治に切り替わります。

東南アジア

 インドネシアのジャワ島では、植民地化を進めるオランダに対し、地元貴族ディプヌゴロが反乱を起こします(ジャワ戦争1825~30年)。オランダは最終的にこれを鎮圧しますが、戦争のため財政は悪化。これを補うため、コーヒーやサトウキビなど高く売れる「商品作物」を強制的に現地人に作らせるようになります(強制栽培制度)。この結果、ジャワ島など各地では、生活に必要な作物が作られなくなり、飢饉が頻発。国内外から非難された強制栽培制度は1870年代に廃止されました。

 

ベトナムではキリスト宣教師が現地人に殺害されたこと等を口実に、フランスが外交圧力を強めていきます。時の嗣徳トゥドックは1858年フランスとコーチシナ戦争を起こしますが、敗北。1862年に第一次サイゴン条約が結ばれ、南部がフランスに割譲されます。

 

カンボジアでは1845年アン・ドゥオンが即位し、ようやくベトナムとタイの争いにも終止符が打たれます。しかしベトナムには既にフランスが進出し、カンボジアにも迫っていました。アン・ドゥオンは外交努力と近代化を通じ、何とかこれを防ごうとしましたが、道半ばで死去。1863年、万策尽きたカンボジアはフランスの保護国となります。カンボジアとベトナム南部は1867年フランス領コーチシナとされました。

 

一方のコンバウン朝ビルマ(ミャンマー)は、イギリスの圧力に抗しきれず、1852年、戦争となります(第二次英緬戦争)。結果はイギリスの圧勝で、ミャンマーはラングーン(現ヤンゴン)など沿岸部を奪われてしまいます。国王ミンドンは、1858年首都を内陸のマンダレーに遷し、工業化を進めていきました。近代化の陰で薄れていった仏教に対しても、1871年に仏教結集(高僧らによる宗教会議)を招集して、その再興に努めました。

新都マンダレー

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ミャンマーの歴史~より

 

タイ(シャム王国)では1855年、国王ラーマ4世がイギリスとの間に通商条約(バウリング条約)を結ばされますが、これは幕末期の日本同様、不平等なものでした。ただこのラーマ4世は開明的な王で、西洋の先進性をいち早く理解し、息子達に留学や英語教育を経験させました。その一人、チュラロンコーンは、1868年父を次いで国王ラーマ5世となります。

西アジア

イスラム世界ではオスマン帝国ペルシャといった大国の停滞が響き、ヨーロッパ諸国の介入を招きます。特に南下政策を続けるロシアと、インド洋一帯を支配しようとしたイギリスの争いは「グレートゲーム」と呼ばれ、西アジアはその舞台となっていきます。

 

中にはこのままじゃイカンと、日本のように近代化を受け入れる国もありました。これにより西洋の技術や考えが広まりましたが、イスラムは「遅れた文化」として排除されるように。一例を挙げれば、西洋風の学校が建設される一方、イスラム伝統の学問所マドラサは閉鎖に追い込まれました。

 

アフガニスタンでは、イギリス寄りのシャー・シュジャーと、イギリスと対立するドスト・モハンマドの間で1838年、第一次アフガン戦争が起こります。シャー・シュジャーを倒して勝利したドスト・モハンマドは、イギリスを何とか撤退に追い込んだものの、講和条約で領土割譲など大きな譲歩を強いられました。インド植民地を守りたかった当時のイギリスは、中央アジアを次々と支配下に置くロシアの力が、アフガニスタンにも及ぶのを恐れたのです。アフガニスタンは次第に両国の緩衝地帯となっていきます。

 

カージャール朝ペルシャ(イラン)でも、ロシアの南下と、ペルシャ湾から北上してくるイギリスに挟まれ、苦悩していました。列強に対抗すべく、ペルシャでも近代化を受け入れますが、機械の導入に押し潰された手工業者が増加し、社会が不安定に。1848年には、それを代弁するかのように、バーブ教徒の反乱が起こりました。

 

ギリシャの独立を許してしまったオスマン帝国では、残る領内でも民族主義による独立運動が頻発し、それを口実に欧米列強の介入を受け続けていました。1839年即位したアブデュール・メジト1世は、トルコの近代化を必要と感じ、タンジマートと呼ばれる改革を断行していきました。これにより税制や教育の西洋化が進みます。

 

しかし列強、特にロシアの介入はやまず。1853年には先述のクリミア戦争が起こり、オスマン帝国の対欧従属の度合いはより高まっていきます。これと同時に、帝国内の民族対立も深刻化していきました。特に宗教の複雑なレバノン地方は、宗教対立による衝突が頻発したため、1861年にシリア州から分離させられ、事実上欧米の保護下に置かれました。

 

一方でアラビア半島のブーサイード朝オマーンでは、時の君主サイイド・サイードが東アフリカへ進出。1837年に両者にまたがるオマーン帝国を作り上げ、一時アラビア海を手中に収めます。しかしさすがに距離的な無理があったのか、1856年にサイイド・サイードが死去すると、帝国は分裂してしまいました。イギリスはやがてこの地域にも進出し、隣国イエメンのアデンなどを占領しました。

オマーン帝国

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~オマーンの歴史~より

 

エジプト

ムハンマド・アリーによる改革で、主君オスマン帝国をも脅かすほど近代化したエジプトですが、ギリシャ独立戦争に協力した見返りに、オスマン帝国からシリア地方など領土割譲を要求、1831年エジプトトルコ戦争が起こります。

 

しかし、勢力均衡を望む列強は、1839年エジプトに圧力をかけ、シリアの放棄を強制。ムハンマド・アリーによるエジプトの大国化は挫折ました。その後継者も綿花栽培など近代化を進めますが、あまりにそのスピードが速すぎたため、財政悪化を招きます。

 

こうした中、1869年スエズ運河が開通しました。地中海と紅海を結ぶこの運河の開通で、物流の流れは大きく変わります。しかし、この恵まれた出来事をエジプトは生かしきれませんでした…

アフリカ(エジプト以外)

1830年アルジェリアは、北アフリカの中でもいち早くフランスに征服されました。それと共にフランス人の移民も増加します。しかし彼らに土地を奪われることを恐れたアルジェリア人は激しく抵抗。なかでも、アルカーディルの反乱は大規模なものでした(1847年鎮圧)。

 

アラウィー朝のモロッコでは、北からスペイン、大西洋からフランスが進出し、どちらにも敗北。列強の圧力を前に近代化に着手しますが、債務がかさんで挫折してしまいました。以後モロッコはこの2か国によりじわじわと植民地化されていきます。

 

東アフリカのエチオピアでは、長い分裂状態がようやく収拾されました。1855年即位したテオドロス2世は、国内の諸王侯を倒し、統一を成し遂げていきます。ここに欧米が本格進出するのはもう少し後のことです。

 

西アフリカでは1847年、アメリカ合衆国で解放された奴隷を先祖の地に還す目的で、新しい国が造られました。自由(リバティ)の名を採ったリベリアです。しかし、肌が黒いというだけで身も心もアメリカ文化に染まっていた人々伝統的なアフリカ社会で暮らしていた人々の間には、どうしても摩擦が生じてしまいました。

 

南アフリカのケープ植民地では、17世紀から植民していたオランダ系住民と、19世紀以降支配者となったイギリス系住民が衝突。前者はケープタウンを出て、新天地を目指すグレートトレックを開始します。オランダ系住民は地元アフリカ人と戦いながら、1850年代にオレンジ自由国トランスヴァール共和国を建設。

南ア諸国

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~南アフリカ共和国の歴史~より

 

一方でアフリカ人同士の勢力争いも繰り広げられ、ズールー王国、ソト王国、スワジ王国などが各地に成立。アフリカ南部は、西洋人とアフリカ人の国が混在する複雑な状況となっていきました。

オセアニア

イギリス領のオーストラリアでは、1850年代ゴールドラッシュが起こり、一攫千金を夢見る移民が増加します。また、この地でも近代化、工業化が始まりますが、すでにイギリス領では奴隷制が禁じられていたため、代わってアジア系(日、中、印)移民を受け入れるように。ところが彼らは低賃金でもよく働いたため、賃上げを要求するヨーロッパ系移民との間に溝が生じていきました。また、人口増に対し、ニューサウスウェールズ州やヴィクトリア州など各植民地の自治権が拡大しました。

 

ニュージーランドでもヨーロッパ移民が増加し、先住民オリ人と土地をめぐる争いが起きていました。1840年イギリスは、マリオ人とワイタンギ条約を締結。これはマオリの土地所有権を事実上奪う内容でしたが、マオリ側はその内容を十分に理解した状態ではなく、このため後には両者の間に大規模な土地戦争が勃発することになります。ともあれ、こうしてイギリスによる植民地化が本格化。の導入も1850年代から始まりました。

主な出来事

1831 マッツィーニ青年イタリア結成(イタリア)

1833 カルリスタ戦争~39(スペイン)

1834 ドイツ関税同盟結成(ドイツ)

1837 大塩平八郎の乱(日本)

モールス、電信を実用化(アメリカ)

1839 第一次アフガン戦争~42(アフガニスタン・イギリス)

ブデュール・メジト1世のギュルハネ勅書、タンジマート開始(オスマン帝国)

1840 ワイタンギ条約(ニュージーランド、イギリス)

アヘン戦争~42(中国・イギリス)

1841 水野忠邦老中就任、天保の改革開始(日本)

1842 南京条約、中国開国、香港をイギリスに割譲(中国・イギリス)

1844 ドミニカ共和国独立(カリブ海)

1845 アイルランド大飢饉(アイルランド)

シク戦争~49(インド・イギリス)

1846 米墨戦争~48(アメリカ・メキシコ)

穀物法廃止(イギリス)

ジャンガ・バハドゥルラナ専制政治開始(ネパール)

1847 リベリア建国(西アフリカ、アメリカ)

1848 カリフォルニアでゴールドラッシュ始まる(アメリカ)

マルクスエンゲルス『共産党宣言』発表

二月革命(フランス)

諸国民の春(ドイツ、オーストリア)

バーブ教徒の反乱~52(イラン)

1849 航海法廃止(イギリス)

リヴィングストン、アフリカ探検に出発~50s

1851 太平天国の乱~64(中国)

オーストラリアでゴールドラッシュ始まる(オーストラリア)

1852 第2次英緬戦争(ミャンマー・イギリス)

トランスヴァール共和国成立(南アフリカ)

ナポレオン3世、帝政開始(フランス)

1853 ペリー来航(日本・アメリカ)

クリミア戦争~56(ロシア、トルコ、ヨーロッパ諸国)

1854 オレンジ自由国成立(南アフリカ)

日米和親条約(日本・アメリカ)

仏、セネガル植民地化

1855 バウリング条約(タイ・イギリス)

テオドロス2世即位、エチオピア統一(エチオピア)

1856 アロー戦争~60(中国・英仏)

オマーン帝国分裂(オマーン、東アフリカ)

1857 インド大反乱~59(インド・イギリス)

1858 レフォルマ内戦~61(メキシコ)

アイグン条約(ロシア・中国)

井伊直弼安政の大獄開始(日本)

イギリス、東インド会社を解散(イギリス・アジア諸国)

1859 ワラキア公国・モルダヴィア公国合併、ルーマニア公国成立(ルーマニア)

ダーウィン進化論』発表

1860 崔済愚東学を開く(朝鮮半島)

桜田門外の変(日本)

ガリバルディシチリア王国を解放(イタリア)

1861 アレクサンドル2世、農奴解放令(ロシア)

リンカーン大統領に就任 南北戦争~65(アメリカ)

イタリア王国成立。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世初代国王に(イタリア)

1862 サイゴン条約(ベトナム、フランス)

生麦事件、薩英戦争(日本)

ビスマルクプロイセン宰相に就任(ドイツ)

洋務運動始まる(中国)

1863 一月蜂起(ポーランド)

カンボジア、仏保護下に(カンボジア、フランス)

ゲティスバーグ演説(アメリカ)

高宗即位(朝鮮半島)

1864 シュレースヴィヒ戦争(ドイツ、デンマーク)

パラグアイ戦争~70 (南米)

1866 普墺戦争(ドイツ・オーストリア)

1867 江戸城無血開城(日本)

オーストリア・ハンガリー帝国成立(中央ヨーロッパ)

自治領カナダ成立(カナダ・イギリス)

1868 明治維新開始(明治元年)(日本)

ラーマ5世即位(タイ)

ブハラ・ハン国、ロシアの保護国に(中央アジア・ロシア)

1869 大陸横断鉄道開通(アメリカ)

スエズ運河開通(エジプト)

1870 普仏戦争、ナポレオン3世退位(ドイツ・フランス)

イタリアローマ教皇領併合(イタリア)


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