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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

ケニアの首都ナイロビが高地にあるのは?

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 アフリカのケニアと言えば、広大なサバンナとそこに住む猛獣、あるいは赤道直下の熱帯的なイメージを持たれる方も少なくないかと思います。その首都であるナイロビもまた赤道付近に位置し、周囲にはサバンナも広がっている都市ですが、実はその標高、実に1700m以上とかなり高い所に位置しています。日本一標高の高い空港のある松本市でさえ、標高約600mなので、それより更に1000m以上高い所に首都がある。これはいったいどういう訳なのでしょう??

サバンナ

富士山より高い山

 オリンピックのマラソン選手がケニアで高地トレーニングを良く行うように、実のところケニアは全体的に標高の高い国です。国名の由来となったケニア山は、ちょうど国のど真ん中にそびえていますが、なんとその標高5000mを超えています。富士山より高い!

ケニアの地形

一方、地図を見ればわかりますが、その東側は海(インド洋)に面しており、そこは当然標高ほぼ0mです。ケニアは日本の1.5倍ほどの面積を持っており、ある場所は熱帯雨林、別のある場所は山岳地帯、またある場所は砂漠地帯と、その表情は各地で様々です。いわゆるサバンナのイメージは、その一つに過ぎません。

ケニアの歴史を紐解くと…

 ケニアもアフリカの国なので、非常に古い時代から人類が住んでいたことがわかっていますが、ナイロビが都市として発展するのは19世紀になってから。それまではむしろ海に面したモンバサマリンディが大きな都市でした。現在のソマリアからモザンビークにかけての沿岸部には、紀元前からインド洋を経由した貿易が行われており、イスラム帝国が生まれた7~8世紀以降は、ちょくちょくアラブ人商人がこのアフリカ東海岸にやって来ます。やがて、現地のアフリカ人とアラブ人の文化が混ざり合った、独自の文化が生まれますが、これをスワヒリ文化と呼びます。ケニアの公用語の一つ、スワヒリ語はここから来ています。

スワヒリ語と英語

 

モンバサやマリンディの人々は、武器やガラス製品といったユーラシアの商品を輸入し、象牙や奴隷をアラブ人に売り渡しました。こうした「商品」はケニアを含むアフリカ内陸部からもたらされたもので、それを運んだのが、マサイ人などサバンナの民でした。つまりモンバサなどのスワヒリ都市は、アフリカ内陸部とユーラシアを結ぶ中継地点だったのです。その後の展開については、以前「オマーンの歴史」で紹介したように、ポルトガルやオマーンの支配下に置かれることもありました。

オマーン帝国

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~オマーンの歴史~ より、19世紀のオマーンの王様サイイド・サイード

 

しかし近代になって、ヨーロッパの国々が互いに国力を競い始めると、アフリカは植民地として分割されていきます。中でも最も力のあったイギリスは、アフリカ大陸の北(エジプト)から南(南アフリカ)までを結ぶように植民地を築こうとします。その過程でアフリカ東部も植民地化されますが、ソマリア南部はイタリア、タンザニアの大部分はドイツ、モザンビークはポルトガルと、スワヒリ文化圏もバラバラになってしまいました。モンバサやマリンディはイギリスの支配下となり、それまで「お隣さん」の関係だったマサイ人やキクユ人といった人々が住む内陸部と「一緒」になります。つまり現在のケニアに当たる地域がこの時(19世紀末)に生まれたのでした。

涼を求めて

 とはいえ、ケニアは赤道直下。イギリス人は慣れない熱帯の気候に耐えられず、暑さや病気で倒れてしまいます。そこで目を付けたのが、ケニア内陸部の、標高の高い地域でした。那須しかり軽井沢しかり、高原地帯であればその分気温は下がり、涼しくなります。また、赤道に近い地域というのは単に暑いだけではなく、一年を通じてあまり気温の上下がありません。常夏の地を標高だけ上げれば常春になる。ナイロビとその周辺は、正にそうした条件を満たす、うってつけの場所でした。

ホワイトハイランド

イギリス人はこうした高原地帯を先に住んでいたアフリカ人から奪って住まいとしたほか、コーヒー、お茶といった農作物の栽培も大規模に行いました。いわゆるプランテーションです。現地のアフリカ人は(奴隷制はすでに廃止されていたものの)安い労働者としてこき使われることとなります。ケニアにおけるこうしたヨーロッパ人のための農場はホワイト・ハイランドと呼ばれました。そして、ヨーロッパ人にとって最も過ごしやすかった都市のひとつナイロビは、ケニアのみならず、東アフリカ随一の近代都市として発展していくことになります。

 

 

しかし、ケニアでも近代化が進むと、植民地下の人々も自由や平等といった考えを持ち、なぜ自分達にはそれが適用されていないのか、と反植民地運動を始めます。それはやがて独立運動へとエスカレートしていき、政治団体も生まれました。その一つ、KAU(ケニア・アフリカ人民連盟)の代表だったジョモ・ケニヤッタは強いリーダシップを見せ、1963年ケニアは独立を達成します。

ケニア独立

独立後も、国境や政治の方法などは、イギリス植民地時代から大きく変わらず、首都もそのままナイロビとされました。とはいえ現在ナイロビに住む人の大部分は、現地のアフリカ人(キクユ人やマサイ人など)であり、ホワイト・ハイランドの名も、ある意味過去のものとなっています。ケニアでは独立後も長大きな内戦や災害などに見舞われなかったこともあり、ナイロビはアフリカ屈指の大都市として発展を続けています。

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