世界地理・世界史の謎

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~オマーンの歴史~

SHIBA
WRITER
 
この記事を書いている人 - WRITER -
SHIBA

本シリーズ第5回目の今回、取り上げるのは、今年頭に国王の亡くなったオマーンです。皆さん、オマーンと聞いてイメージできるものと言えば・・・?

「・・・・・・」

「そもそもどこにあんねん!!」

まあそうでしょう・・・ オマーンの人には申し訳ありませんが、日本ではあまり知られていない国の一つです。

オマーン ~アラビア半島の王国~

 

オマーンはアラビア半島南東に位置する人口400万人ほどの国です。中東の中にあって治安も安定しており、いい意味でニュースにも登場しない、どちらかというとマイナーな国でしょう。(テレビでは時折サッカー・ワールドカップのアジア予選で日本と対戦する時くらい?)

オマーンの位置

ところがこの国、19世紀にはアジアとアフリカに跨る大帝国を築き上げたという、スゴイ歴史を持っています。

古代のアラビア半島

砂漠に覆われたアラビア半島では、紀元前の昔からラクダを用いた遊牧民が暮らしていました。彼らはベドウィンとも呼ばれ、後にアラブ人と呼ばれる人々の祖先にあたります。オマーンにも3世紀頃にはベドウィンの社会が作られていました。

 

このアラビア半島、6世紀末まではシャーマニズムのような伝統的な宗教のほか、キリスト教、ユダヤ教も伝わり、宗教面ではゴチャゴチャの状態でした。

昔のアラビア

 

しかし7世紀になると、メッカの商人ムハンマドイスラム教を開き、多くの支持を集めたことで強大化。イスラム勢力は7世紀半ばまでにアラビア半島のみならず、現在のシリア、エジプト、イラク、イランまでを支配下に置きました。

イバード派

このイラクやエジプトは、メソポタミアを始めとする古代文明を生んだ「豊かな土地」だったことから、アラブ人はこぞってここに移住。この後築かれたイスラム帝国(ウマイヤ朝、アッバース朝)も、その王都はダマスカスバグダッドでした。

 

一方、彼らの故郷アラビア半島は、聖地メッカがあるとはいえ、イスラム世界の中心から外れた「一地方」になってしまします。ましてオマーンはメッカからも遠い辺境!の扱い。イスラム世界の主導権を握ることなど夢のまた夢でした。

 

これを逆に言えば、中央の力が及ばない「隠れ家」にもなるということ。キリスト教がカトリックやプロテスタントなどに分かれるように、イスラム教にもスンニ派、シーア派といった細かい宗派があって、古くから互いに覇を争っています。

イスラム帝国とオマーン

中央のウマイヤ朝やアッバース朝はスンニ派を重んじていたので、それ以外の宗派は地方で成長しました。オマーンにはスンニ派にもシーア派にも属さない、イバード派という少数宗派が逃げ込みました。イバード派はイマーム(宗教指導者)の血筋を問わない、など、比較的穏健な宗派とされています。

 

現在でもオマーンではイスラム教イバード派が主流という、世界的にも珍しい(というか唯一の?)国です。以後、歴代のイバード派イマームがオマーンの統治を続けますが、12世紀には独自の王朝ナブハーニー朝が興り、15世紀まで存続します。

ペルシャ湾貿易の中継地

地図を見ればわかる通り、オマーンはペルシャ湾出口のホルムズ海峡に面しています。その対岸はペルシャ(イラン)。このような地の利から、オマーンはペルシャ湾を通じた交易で富を築きました。

ペルシャ湾

砂漠だらけのこの国で何が採れたか。今であればもちろん石油ですが、当時の輸出品は乳香でした。これは火をつけると独特の香りを放つ樹液のことで、オマーンはこの樹液を生む植物(何種類もあります)の産地でした。

乳香

 

しかしヨーロッパで大航海が盛んになった15~16世紀になると、海路の拠点であるオマーンはポルトガルに征服されてしまいます。

海洋大国へ

オマーンと同様、ポルトガルに占領されたのが、インド洋に面するアフリカ東岸、現在の国名で言えば、ケニアやタンザニアの沿岸部でした(下地図赤い場所)。この場所は象牙の産地でもあり、イスラム商人との付き合いは昔から行われていました。そのためイスラム文化が深く根付いており、人々の間ではアラビア語と現地語の混ざったスワヒリ語が用いられました。

スワヒリ

17世紀、ナブハーニ朝に代わってヤアーリバ朝が成立し、ポルトガルの占領を脱したオマーンは、大航海時代の空気に刺激されたのか、こうしたスワヒリ地方にも進出。1698年、東アフリカの拠点フォートジーザスを落として、この地の覇者の座を手に入れました。

 

18世紀になるとヤアーリバ朝はイラン(サファヴィー朝)の攻撃で滅亡してしまいますが、まもなくブーサイード家が力を盛り返し、オマーンを再興。このブーサイード家(王朝)が現在まで続くオマーンの王家です。

 

そしてオマーンは、1806年即位したサイイド・サイードのもとで黄金期を迎えます。彼はヤアーリバ朝滅亡以来自立していた東アフリカを再び征服。さらにマスカット(現オマーンの首都)から、東アフリカの島、ザンジバル(現タンザニア)に都を移しました。こうして中東と東アフリカを拠点に、オマーンはインド洋の制海権を握る大国となりました。オマーン帝国と呼ばれています。

オマーン帝国

しかしさすがに両者の距離がありすぎたためか、名君サイイド・サイードが1856年に没すると、あっけなく王家は分裂(ザンジバル政権マスカット政権)。

さらに19世紀後半、スエズ運河が開通し、主要な航路が大きく変わったことでオマーン(マスカット政権)は経済的な打撃を受けました。結局この王国は1891年、イギリスの保護下に入ります(王朝は存続)。同じ頃ザンジバル政権もイギリス領となりますが、マスカットとの合同は実現しませんでした。

独立と新たな輸出品

20世紀に入るとオマーン社会を大きく変える出来事が起きます。それが油田の発見でした。アラビア半島の東に広がるペルシャ湾は、良質な石油の産地であることが分かり、開発が進みます。この湾に面する国は、現在の国名で言えば、イラン、イラク、クウェート、カタール、バーレーン、アラブ首長国連邦とことごとく産油国ばかり。

 

オマーンも例外ではなく、良質な石油が採掘されるようになりますが、沿岸部以上に内陸部での油田が開発されました。それまで沿岸部を重視していた王家も、この頃から内陸部へ目を向け始めます。1950年代には王家の進出による、地元民との内戦も起こりましたが、王家はこれを制し、オイルマネーによる発展を実現しました。

ジェベル・アフダル戦

 

1970年、父王サイードをクーデターで排し、自ら王に即位したのが、カブースです。彼は近代化を進め、1971年ついに独立を回復。以後50年にわたってこの国を統治しました。

現在のオマーン

さて、20世紀以降の中東社会は、国同士の争いや内戦が長く続く不安定な時代が続いています。その一つに、スンニ派シーア派というイスラムの宗派同士の対立(より厳密にいえば、宗教を隠れみのとした、政治的対立)があります。スンニ派の大国サウジアラビアとシーア派の大国イランは近年、特に仲が悪く、周囲の国々を巻き込んで対立を続けています。

イエメン内戦とオマーン

しかし、上にも書いた通り、オマーンはイバード派の国。ゆえにどちらの「陣営」にも属していません。近年では、オマーンの隣国イエメン(国内にスンニ派とシーア派がいる)が、サウジアラビアとイランの代理戦争のような内戦状態となっていますが、カブース国王はオマーンの中立政策を維持する一方、両者の仲介役として和平への道を探っていました。それだけに、今年1月の国王死去が中東に与える影響は、決して小さくないようです。

この記事を書いている人 - WRITER -
SHIBA

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 世界を学ぼう”知理・歴視” , 2020 All Rights Reserved.