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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

19世紀前半~黄昏の皇帝・独立と帝国主義~

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19世紀前半の世界

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19世紀は更に、3つに分けます。今回は1801~30年頃まで。この辺からヨーロッパの記述がものすご~く長くなるのでご注意ください。

 

ヨーロッパでは、ナポレオン戦争とその後絶対王政が復活するウィーン体制の成立、およびその崩壊までが続きます。

アメリカ大陸では、中南米が独立ラッシュに沸き、合衆国はその国土を拡大していきました。

反対にアジア、アフリカ、オセアニアは、産業革命で強大な力を得たイギリスや、南下政策を始めるロシアに圧迫され、次第にその植民地への道を進むことになります。

ヨーロッパその1(ナポレオン時代)

外敵相手に勝利を重ねたナポレオンは、人々の人気を集め、1799年に政治のトップに君臨します。(ブリュメール18日のクーデター)。彼は、フランス革命の混乱は終わったとして、1804年皇帝に就任。しかし革命が目指した理想は受け継ぎ、自由や平等をかかげるナポレオン法典を制定しました。

 

ナポレオンはしかし、根は軍人だったのでしょう。自らの人気を維持するために戦争を続けました。1806年、ドイツに攻め込み、神聖ローマ帝国を正式に廃止。この他、オランダやスイス、現イタリアのヴェネツィア共和国ナポリ王国など、フランス革命の影響を受けて政情不安定だった国にも次々と軍を送り込みました。そして自分の親族を王に就けるなどしてフランスに従わせました。

 

プロイセンバイエルンなどドイツ地方では、このナポレオンの侵攻と神聖ローマ帝国の消滅という災厄がきっかけで、ドイツ人という共通意識が生まれます。無数の小国に分かれていたドイツが結束することで、大国と渡り合おうという考えです。1807年頃、思想家フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』を著し、「ドイツ人」としての結束を訴えています。

 

このナポレオンがどうしても勝てなかったのがイギリスです。1805年トラファルガーの海戦で手痛い敗北を喫した彼は、翌1806年「大陸封鎖令」を出して、ヨーロッパ諸国とイギリスとの貿易を禁じます。要は経済制裁です。しかしイギリスには、大西洋を隔てた所に、アメリカ大陸という強大な貿易相手がいたため、大きな打撃にはならず。むしろイギリスが報復として逆封鎖を行ったため、その貿易相手国だったロシアやポルトガルが経済的に苦しくなっていきました

 

一方のフランスも、大国相手の戦争に限界が見えたのでしょう。1807年ナポレオンは、宿敵プロイセンとロシア相手にティルジット条約を結んで講和します。しかし同年、ポルトガルが大陸封鎖令を破ってイギリスと密貿易を行ったとして、この国に侵攻。その道中にあるスペインでも反フランスを唱える人々が大勢いたため、スペインも占領下に置きます。これには現地スペイン人、ポルトガル人が猛反発。反乱やゲリラ活動で、ナポレオン軍に立ち向かっていきます。

 

この頃にはナポレオンの独裁政治が、政治の不正や腐敗を生み、国内にも不満を募らせていきます。そうこうしているうちにロシアもイギリスと密貿易をしていたことが発覚。1812年フランス軍はロシア遠征を行いますが、ロシア側はワザとこの軍を奥地へ入り込ませて、時間稼ぎ。そしてロシアの厳しい冬が訪れ、ナポレオン軍に壊滅的な打撃を与えました。これが通称「冬将軍」です。

ゲーム風冬将軍

このロシア遠征失敗を機に、フランス・ナポレオン軍は弱体化。その後は敗北を重ね、1814年ナポレオンは皇帝の座から転落します。野望をあきらめきれなかった彼は翌年、起死回生のクーデターを成功させますが、今度の天下は100日と続かず。イギリスやプロイセン相手に敗北(ワーテルローの戦い)し、アフリカ沖、セントヘレナ島へ流罪となり、そこで生涯を終えます。

北欧

ナポレオン戦争は、北欧の地図も大きく変えてしまいました。

 

おさらいですが、18世紀までの北欧は、スウェーデンデンマークの2王国が覇権争いをしていました。フィンランドはスウェーデンの、ノルウェーアイスランドはデンマークの統治下にありました。

 

絶対王政の復活していたスウェーデンは、フランス革命に反対の立場で、いわゆる対仏大同盟にも参加していました。しかし一方で隣国ロシアとの因縁も続いており、対立関係にありました。1807年ロシアがフランスとティルジット条約を結び、関係を改善すると、1808年、「フランスの敵」スウェーデンに侵攻。この結果フィンランドをロシアに占領されてしまいます。

 

デンマークではフレデリク皇太子フレデリク6世)の改革がフランス革命の影響で一時ストップしていましたが、その後もフランスとの関係を維持したため、1801年、07年にイギリスに攻め込まれます。怒ったデンマークはフランスと同盟しましたが、1812年以降、そのフランスが追い詰められていき、デンマークもそのあおりを受けます。1814年スウェーデン王カール14世はデンマークを攻撃。フィンランドを失った”腹いせ”といわんばかりに、デンマーク下のノルウェーを奪い取りました。

 

以上まとめると、デンマークはノルウェーを失い、スウェーデンはフィンランドを失った代わりにノルウェーを手に入れたことになります。

北欧の変化

北欧悲喜こもごも

そのノルウェーでは、フランス革命の影響を受けた「エイツヴォル憲法」を1814年発布します。この憲法は三権分立や、農民への参政権などを定めた、当時としては非常に先進的な憲法で、スウェーデン下に入った後も有効とされました。一方、ロシア下に入ったフィンランドも大幅な自治を認められ、1816年セナーッティとよばれる独自の議会が設置されました。

 

そしてナポレオン戦争後は、いずれの国でも民族や国民という意識が芽生え、その文化や歴史の研究が進んでいくことになります。

 

例えばデンマーク下にあったアイスランドでは、ナポレオン戦争中に本国と分断されたこともあり、民族主義とともに独立心を高めていきました。その中で伝統的な民主主義に光が当てられ、10世紀頃にあった議会(アルシング)の復活を望む運動も起こっています。

中南米・スペイン・ポルトガル

フランス革命は、その植民地にも影響を与えました。フランス領サンドマング植民地では、奇しくも革命直後(1791年)から自由を求める反乱が激化。そのリーダーで、アフリカ系(黒人)の解放奴隷出身のトゥサン・ルヴェルチュールは、1794年、本国の奴隷解放宣言を機に新しい憲法を制定し、黒人主導の社会を造ろうとします。その後彼は、奴隷制復活をもくろむナポレオンと対立し、その軍によって捕縛され命を失います。しかし後継者による粘り強い抵抗の末、1804年に独立を達成。現在のハイチです。これは黒人主体の初の近代国家であり、南北アメリカでは、合衆国に次ぐ独立国でした。

 

一方、この頃スペイン領、ポルトガル領の中南米植民地では、主にクリオーリョ(植民地生まれの白人)のエリートを中心に、植民地支配からの脱却を訴えるようになっていました。1808年にポルトガルとスペインがナポレオンに征服されると、いよいよこれらの植民地も独立に向けて動き出します。

 

メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ植民地)では、1810年ミゲル・イダルコ神父が先住民や奴隷など厳しい状況の人々を動員し、反政府デモを開始しました。しかしこのデモは反乱に発展し、支持を失ってイダルコも処刑されてしまいます。

 

コロンビアエクアドル、チリ、アルゼンチン等では、植民地政府を追放して、独立を宣言しました。しかし植民地政府の牙城ペルーは、これらの独立宣言を次々と鎮圧。この段階で実際に独立を達成できたのは、ペルーから遠いアルゼンチンパラグアイだけでした。ポルトガルでは、女王が本国を脱出し、ブラジル植民地へ亡命。これをきっかけにブラジルは「植民地」から、「ポルトガルの一部」に”格上げ”されました。

 

ナポレオン失脚後、スペイン、ポルトガルでは絶対王政が復活し、再び抑圧的な政治が行われました。しかし革命の自由な空気を望む声はやまず、1820年には再び絶対王政への反発や自由主義の復活を求める動きが本格化します。スペインの政治家リエゴの名を採って、リエゴ革命と呼ばれるこの動きは、国王フェルナンド7世に憲法の制定を認めさせました。つまり、国王が憲法によって権限を制限されるようになったのでした。

南米独立の英雄

これと前後して、中南米でも独立運動が再燃。特にシモン・ボリバルサン・マルティンの両名の活躍は大きく、1820年代までに前者はベネズエラ、コロンビア、エクアドル、後者はチリ、ペルーを植民地支配から解放。植民地政府最後の砦だったアルト・ペルー地方も、ボリバルの部下スクレによって解放されました。この地はボリバルの名に因んで、ボリビアと命名されました。

 

メキシコでも、本国での政変に翻弄されることを嫌がった将軍イトゥルビデが1822年に独立を宣言、皇帝を名乗ります。しかし彼は翌年失脚し、メキシコ支配を嫌がった中米諸国(今のグアテマラやコスタリカ)も分離しました。

 

ポルトガルもスペインと同様の政変が起こり、憲法が制定されますが、これはブラジルには適応されませんでした。植民地に格下げされることを恐れたブラジルは1823年に独立。すでに帰国した国王に代わり、その皇太子ペドロがブラジル皇帝ペドロ1世として即位しました。

ヨーロッパその2(ウィーン体制~七月革命)※西ヨーロッパ

1814年、ナポレオン戦争の戦後処理が、オーストリアのウィーンで開催されました。このウィーン会議では、当事国フランスのほか、オーストリア、プロイセン、イギリス、ロシアなど各国の利害が対立してなかなか結論を出せませんでした

 

会議は踊るされど進まず

1815年ようやく出た議決は、原則それぞれの領地や体制をフランス革命前に戻すというものでした。

フランスでは、処刑されたルイ16世の親戚がルイ18世として即位。ブルボン王朝が復活します。上記の通りスペインやポルトガルでも絶対王政が復活しています。一時ナポレオンに復活させられたポーランドも再びロシアやプロイセンの領地に組み込まれました。

 

しかし、オランダは共和国から王国へと変わり、しかも南ネーデルラント(現ベルギー)を旧来のオーストリア・ハプスブルク家に代わって統治するように。そのオーストリアも、イタリア北部のミラノやヴェネツィアを組み込みましたし、ナポレオンにより消滅した神聖ローマ帝国も復活することはありませんでした。

 

このように、すべてを革命前に戻すことは土台無理な話で、時計の針は進み続けます。それは、一度フランス革命という、自由を経験した市民も同じことでした。

 

そもそも絶対王政は18世紀における社会変化の結果崩壊したため、それを強引に戻したところで結果は目に見えていました。イギリスで生じた産業革命は、ウィーン体制中にフランスや南ネーデルラントにも伝わり、急速な工業化と労働者の出現が見られました。19世紀なってさらに加速する社会変化は、旧態依然の王政を揺るがしていきます。

 

ルイ18世を継いだシャルル10世は、これを力で押さえつけましたが、結果、新たな革命が生じます。1830年の七月革命です。シャルル10世は退位し、革命に理解を示す、オルレアン家のルイ・フィリップが国王に。ブルボン朝は今度こそ終焉を迎えます。ルイ・フィリップは、新たに出された憲法を認めました。こうして国王の権限が憲法で規制される立憲君主制が、フランスにも敷かれることになります。

 

この革命の影響を受けたのが、南ネーデルラントでした。この地方は同年、オランダから分離し、ベルギー王国と名を改めることになります。

 

プロイセンなどのドイツ地方では、すでにナポレオン戦争時から農奴解放などの改革が行われていました。解放された農民の一部は土地を買い戻して大地主と化していきましたが、それが叶わない多くの人々は、工場労働者となっていきます。ドイツの工業化はこの頃から一気に進んでいきますが、イギリスなどと同様、労働者問題も同時に深刻化していきました。

東欧・ロシア

フランス革命やナポレオン戦争の動きは、オスマン帝国下にあった人々にも刺激を与えました。様々な言語が飛び交い、様々な宗教が共存していたバルカン半島では、次第に「民族意識」が形成されていき、トルコ人の支配から脱却したいという欲求が高まっていきます。

 

セルビアでは1804年以降、大規模な蜂起が連続し、1817年にはオスマン帝国から公国の地位を獲得。大きな自治権を得ます。

それ以上に強力な民族意識を持って、独立を目指したのがギリシャ人でした。当時のギリシャ人の多くは、「高度な思想や文化を持っていた」古代の歴史を、西ヨーロッパ人の研究等を通じて初めて知ったといいます。

古代と近代のギリシャ

ギリシャ独立戦争は1821年に開始されますが、古代歴史のロマンに魅せられた西ヨーロッパ人の支援もあって、1829年、オスマン帝国からの完全独立を成し遂げました(ギリシャ王国)。この時、一地方都市になっていたアテネに首都が置かれたのも、古代ギリシャ時代の栄光にあやかっての事だったのでしょう。

 

こうしたセルビアやギリシャを後方支援していたのが、同じ東方正教徒のロシアでした。ただしそれは、バルカンの人々に対し、オスマン帝国から自国の影響下に置こうというのが目的で、強力な権力を持つロシアの歴代皇帝は、決してフランス革命のような自由を許そうという気はありませんでした。

 

しかしその結果、ロシアでは古い体制が残ったままで、これを変えたいと思う人々が出現。その多くは、ナポレオン戦争でフランスの自由な空気に触れた兵士たちでした。彼らはデカブリスト(十二月党)と呼ばれ、1825年に皇帝がアレクサンドル1世からニコライ1世に代わったのを機に反乱を起こしますが、鎮圧されてしまいました。

 

また、オスマン帝国下のセルビアと同様の立場だったのが、ロシアにおけるポーランドでした。前世紀末に国を失ったポーランド人でも、この頃民族主義が高まり、支配者ロシア人への反発を強めていきます。ポーランド民族の栄光を音楽で表現した人物のひとりに、ショパンがいました。1830年フランスで七月革命が起きた際、ポーランド人もロシアに対し武装蜂起します(11月蜂起)が、力の差は大きく、敗れてしまいました。

 

同じく、オーストリア帝国下にあったハンガリー人やチェコ人、クロアチア人などの間でも、おのおのの民族の意識が高まりました。それを正当化するべく、文化や歴史の研究が行われ、オーストリア人(ドイツ系住民)との違いを意識するようになります。

イギリス

産業革命の最先端を行くイギリスでは、機械による大量生産が続いていました。新しい技術も導入され、1814年には、世界史上初となる、鉄道(蒸気機関車)が開通しました。一方で、機械によって仕事を奪われた人々は、このような社会変化を嫌がりました。ラダイト運動とよばれる機械を破壊する運動が激化したのもこの頃です。

 

大量生産と薄利多売による経済成長。そのためには制限の無い自由貿易、自由主義が理想とされました。この考えは他の分野にもおよびます。宗教面では1828年に審査法が廃止、29年にカトリック解放法が制定され、エリザベス1世の時代以来、イギリスでは弾圧の対象となっていたカトリック信者が(少なくとも法律上は)、信仰の権利を取り戻しました。

 

これに喜んだのは、カトリック教徒の多かったアイルランドの人々。1801年の合同法により、アイルランドはイギリスに完全併合されていました。今回の措置は、アイルランド人の不満をいくばくかは和らげる結果となります。この後もアイルランドにおける政治的な運動は強まっていきますが、時の政治家オコンネルは、イギリスに抑圧されていたアイルランド人の解放を訴え続けた代表的な人物です。

一方でイギリスは、大量生産を支えるための原材料と、製品の売り先を求め、世界中に進出するようになります。

東アジア

所かわって、当時の日本は江戸時代の後半。鎖国中とはいえ西洋の進んだ文化や技術がオランダ人を経由して伝わっていました。しかし、19世紀になるとオランダ人以外の西洋人も出没するように。イギリス船が上記の目的でアジアにもやって来たし、ロシア船も引き続き蝦夷地(北海道)周辺に出没しました。江戸幕府は国防という問題に真剣に取り組まなくてはならなくなります。

 

幕府はまず「日本の範囲」を明確にしようとしました。特にその支配が曖昧だった北海道の調査が行われ、間宮林蔵近藤重蔵らが派遣されました。そして伊能忠敬らによって、日本初の全国地図が作られます。一方、1808年には長崎にイギリス船が来航し、略奪を働くフェートン号事件が起きます。幕府は1825年異国船打払い令を出して、不法な船の取り締まりを強化しようとしました。1828年には、長崎で活躍していたドイツ人医師シーボルトが、スパイ容疑をかけられ、国外追放の憂き目にあっています。

伊能忠敬

朝鮮王朝では、1800年に正祖チョンジョが死去。代わって周囲の外戚や、一部の有力貴族(両班)が競うように政治を牛耳るようになっていきます。彼らと結んだ保守的な老論派が復権を果たす一方で、正祖が重視していた実学派は弾圧の対象となり、社会変革の芽は摘み取られてしまいました。以後、少数の貴族に富が集中する一方で、農民の生活は苦しくなるばかり。1811年には官僚の腐敗をただすべく、大規模な農民反乱(洪景来ホンギョンネの乱)も起きました。

 

中国はの後半、7代皇帝嘉慶帝かけいていから8代同光帝どうこうていの時代でした。当時のイギリスは日本以上に中国との貿易を重視していました。何しろ紅茶大好きイギリス人。お茶はその多くを清から輸入していました。そのかわりに清へ輸出したのが、アヘンです。この時期、アヘンは中国社会で爆発的に広まり、ついには清の方が赤字になってしまいました。政府もアヘンの取り締まりを強化していきますが、決定的な効果は出ずにいました。

南アジア

ところで中国社会を乱したアヘンはどこから持ってきたか?実はこの麻薬、当時イギリスによる植民地化が進んでいたインドで作られたものでした。

イギリス政府や東インド会社は、最初に植民地化したベンガル地方(インド東部~バングラデシュ)を拠点に、インド各地の王国を次々と服属、滅亡させていきます。

この頃ムガル帝国の皇帝の権威は地に落ちており、代わってインドの有力者となっていたマラータ王国も、イギリスとの戦争に敗れ、1818年に事実上滅亡しました。

他方、ニザーム王国マイソール王国(いずれもインド南部)などイギリスに屈服した王国もあり、制限はありましたが、20世紀まで生き長らえたところもありました。こうした国の王はマハラジャと呼ばれるようになります。

マハラジャ

セイロン島(スリランカ)では当時、沿岸部をオランダに支配されていました。しかしナポレオン戦争中オランダはフランスに占領されてしまいました。フランスを破ったイギリスは、これに乗じて、オランダの統治下にあったセイロンを奪い取り、しかもウィーン会議でその領有を認めさせてしまいます。

東南アジア(島しょ部)

イギリスに奪われたオランダの植民地はセイロン島だけではありませんでした。東南アジアもこれしかり。

17世紀以降オランダは、ジャワ島(現インドネシア、ジャカルタのある島)をジワジワと征服し、東南アジア交易の拠点から植民地へと変えていきました。しかしナポレオン戦争中、オランダがフランスに占領されると、ジャワはイギリス人植民地官ラッフルズの統治下に。ナポレオン失脚後、ジャワはオランダに返還されますが、オランダ人は自国再建のためにジャワ人へ重税を課したため、1825年大規模な反乱を招いてしまいました。ジャワの貴族ディポヌゴロに主導されたこのジャワ戦争は5年間も続き、オランダの財政はかえって悪化してしまいます。

 

同時期のイギリスは、今度はマレー半島に進出していき、ジョホールなど現地の王国にも圧力を加えていきます。一方でマラッカ海峡を挟んだ対岸スマトラ島にはオランダが影響力を強めていきました。伝統的に「ひとつの世界」を築いていたマラッカ海峡の両岸は、19世紀になって英・蘭勢力に分断されることになります。

ジャワ経営にも携わっていたラッフルズは、マレー半島に新しい港を建設したいと思っていました。その結果、半島の先っぽにある島に注目。ここに近代的な港を築いて東南アジア交易におけるイギリス人の拠点としました。現在のシンガポールです。

マラッカ分断

スペイン下のフィリピンでは、同時代の中南米と同様に、その貿易がスペイン国王の独占ではなくなります。ただし、この地で独立運動が起こるのはもう少し先の事です。

東南アジア(インドシナ半島)

ベトナムで新たな王朝が誕生します。西山タイソンによって滅ぼされた広南阮クァンナムグエン氏の生き残り、阮福瑛グエン・プクアインが力を蓄え、1802年見事リベンジを果たします。ぐえんの成立です。この時、阮福瑛は国名を「越南」としました。実は、「ベトナム」とはこの「越南」のベトナム語読みなのです。

ところで、このリベンジを背後で支援したのがフランス人宣教師ピニョーでした。そのため、阮朝越南国は、建国当初からフランスと強く結びつき、清と同様、アヘンなどを輸入していました。1820年、阮福瑛(皇帝名だと嘉隆ザロン)を継いだ明命ミンマンは、フランスの力が必要以上におよぶのを恐れ、日本と同様に鎖国政策を採るようになります。

 

ミャンマーコンバウン朝)では、インドと接していた関係でイギリスの侵略を受けます。ナポレオン戦争の最中、ベトナムとフランスが結びついていたこともあって、それに対抗するべくイギリスは、ミャンマーの王家に圧力を加え、従わせようとしました。その結果、1824年英緬えいめん(イギリス・ビルマ)戦争が勃発。この戦いにミャンマーは敗北し、イギリスによる植民地化が始まります。

 

現在のラオスは、ビエンチャン、チャンパーサック、ルアンパバーンの3王国に分裂しており、当時はいずれもタイ(シャム王国)の属国でした。そのタイでは、新都バンコクが国際貿易港として大きく発展していましたが、東ではカンボジアを巡ってベトナムと長く争っており、西では英緬戦争の結果を見て、明日は我が身では?と、喧々諤々の状態でした。

 

ラオス3王国の一つ、ビエンチャン王国のアヌウォンは、タイのこの状況を見て、1826年反乱を起こし、チャンパーサック王国もこれに続きました。しかし結果はタイの勝利。アヌウォンは処刑され、ビエンチャンは破壊。チャンパーサックもその地位を大きく落とされてしまします。以後、ラオスの牽引役はルアンパバーン王国となっていきます。

西アジア・エジプト

ナポレオンは、エジプトでもイギリス軍と戦っています。この時発見され、フランスに持ち去られたのが、かのロゼッタストーンであることはよく知られています。

 

エジプトは当時オスマン帝国から総督が派遣されていました。当時の総督はアルバニア生まれのムハンマド・アリー。彼は西欧の軍事力や技術に驚き、エジプトでも近代化が必要として様々な改革を実施。ついには主君であるオスマン帝国をも脅かすまでに成長し、エジプトは半独立国のようになりました。1811年、メッカを抑えていたサウード王国(ワッハーブ王国)を倒し、その実力を証明。1820年代にもギリシャの独立戦争を抑えるのに貢献し、オスマン帝国と対等あるいはそれ以上に強力な国となっていきました。

 

ムハンマド・アリーが近代化を急いだのには、そのオスマン帝国と、隣国のイラン(ペルシャ)がヨーロッパに圧迫されているのを知ったからかもしれません。両国は北からロシア、南からイギリスの圧力を受け、どんどんその権利や領土を奪われていきました。

 

「東ヨーロッパ」の項でも述べた通り、オスマン帝国ではバルカン半島で独立運動が激化し、それを支援したロシアと対立を続けます。18世紀に分裂していたペルシャはその末、カージャール朝によって統合されました。しかし国内が弱まっている中でロシアの南下政策に見舞われ、1813年のゴレスターン条約、28年のトルコマンチャーイ条約で、北部の領土をロシアに奪われました。

現在のコーカサス3国(ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン)がオスマン帝国やペルシャから、ロシアの領土と移ったのは、まさにこの時期でした。

一方、イギリスはインド洋での覇権拡大のため、ペルシャ南部に進出。ペルシャはこうして北をロシア、南をイギリスに蝕まれる苦難の時代を迎えます。

アフリカ(エジプト以外)

アジアと同様、アフリカにおけるオランダ領もイギリスが奪ってしまいます。現南アフリカ共和国のケープ植民地がそれでした。イギリス系の移民がこの地に押し寄せ、先駆者のオランダ系住民と衝突するようになります。

 

西アフリカでは、イスラム改革の一環であったフラニ聖戦が最高潮に達します。現ナイジェリア北部にあったハウサ人の諸王国は、古くから西アフリカ~サハラ砂漠~北アフリカを結ぶ交易ルートの要として発展していました。しかしこの国を「奴隷貿易に加担している」として非難したイスラム神学者のウスマン・ダン・フォディオは、これらの王国を征服し、ソコト帝国を建てました。西アフリカの敬虔なイスラム教徒は、更にその矛先を西洋人にも向けるようになっていきます。

 

その奴隷貿易、奴隷制は、この19世紀頃から徐々に廃止に向かって動き出しました。もちろん人道的に廃止を訴える人の声もあったからですが、それだけではありません。大量生産が始まったことで、奴隷を無理やりに働かせるより、労働者に賃金を払って積極的に働いてもらった方が、「効率的」だということに気づいたからです。

奴隷から賃金労働者にバトンが渡されるまでには一定の時間がかかり、そのため奴隷制は、

貿易の停止(アフリカから新たに運んできちゃダメ!)

段階的に解放(現役の奴隷はそのままだが、その子は解放OKなど)

前面廃止(全員、奴隷でなくなるよ)というように時間をかけて廃止されました。

奴隷か労働者か

 

奴隷制と入れ替わるように始まるのが、ヨーロッパ諸国による植民地化でした。七月革命直前の1830年、貿易問題のこじれから、アルジェがフランスに占領されます。これはフランスによるアフリカ植民地化の第一歩となっていきます。

オセアニア

イギリスはオセアニアにも進出していきます。オーストラリアは18世紀後半にイギリス領となっていましたが、当初はあまり関心を払われませんでした。しかし同じ頃、イギリス最大の植民地だったアメリカが独立してしまったために、その「代替地」としてオーストラリアの経営がこの頃から本格化していきます。

イギリスから見て地球の反対側にあるオーストラリアは格好の流刑地でした。荒くれ者の流刑者は、積極的にこの大陸を開拓していきますが、当然先住民のアボリジニーへの配慮は無く、彼らは土地を追い出されたり、乾燥した内陸へ追放されたりしました。

 

更にイギリスを含むヨーロッパ人は、太平洋に散らばる小島にも影響力を及ぼそうとします。オセアニアの島々にも場所によっては王国や首長社会があり、互いに覇を競っていました。ヨーロッパ人はこうした争いに介入。片方に武器を与えるなどして加担し、味方に付けたうえで、キリスト教を受け入れさせます。こうしてヨーロッパとの結びつきを強めた側の国は、王国の統一を成功させますが、同時に彼らから離れられなくなってしまいました。

 

具体的な例を挙げれば、19世紀初頭までに、タヒチトンガ、ニュージーランド(マオリ族)、ハワイといった島の王がキリスト教に改宗。この内最も有名と思われるハワイのカメハメハ大王は、1810年ハワイ王国の統一を成し遂げますが、それはヨーロッパ人の支援によるところが少なくありませんでした。

カメハメハ大王

北アメリカ

1806年ナポレオンが出した大陸封鎖令は、イギリスの逆封鎖を招いた、と上に書きました。独立間もないアメリカ合衆国もまた、他のヨーロッパ諸国(もちろんフランスも)との貿易を制限された為、怒ったアメリカとイギリスとの間で、1812年米英戦争が起こりました。戦争の最中、イギリスに対するアメリカの自立心は経済面でも高まりを見せ、工業化(イギリスの機械に頼らない)と保護貿易(関税を高くして輸入を制限し、自国経済を発展させる方法)が進むことになります。

 

一方でアメリカはナポレオン戦争自体に対しては中立の立場で、3代ジェファーソン時代の1803年、フランスからアメリカ大陸の広い土地を得ます。ルイジアナ地方(現ルイジアナ州を大きく超えた地域)です。合衆国は西へ大きく領土を拡大し、ここにアメリカンドリームを持った多くの人々が進出。いわゆる西部開拓時代が始まります。

 

ラテンアメリカが独立すると、1823年、時のモンロー大統領は、その独立を尊重。これらの国が再びヨーロッパによって植民地化しないでほしい、その代わりにヨーロッパ内の国際問題に合衆国は介入しないという、モンロー宣言を出しました。

主な出来事

1801 イギリス合同法 アイルランド併合(イギリス・アイルランド)

1802 阮福瑛即位、阮朝越南国成立(ベトナム)

1803 ジェファーソン大統領、ルイジアナ地方を「購入」(アメリカ)

1804 ハイチ独立(カリブ地域)

セルビア蜂起(バルカン半島)

ナポレオン法典制定(フランス)

1805 トラファルガーの海戦(イギリス・フランス)

ムハンマド・アリー、エジプトの太守に就任(エジプト、トルコ)

1806  神聖ローマ帝国解体、ライン同盟成立(ドイツ、オーストリア)

大陸封鎖令(ヨーロッパ)

1807 英、奴隷貿易廃止法制定。(イギリス)

ティルジット条約(ヨーロッパ)

ナポレオン軍、ポルトガル占領(フランス、ポルトガル、ブラジル)

1808 スペイン独立戦争(スペイン、フランス)

フェートン号事件(日本)

1809 フィンランドがロシア領になる(フィンランド、スウェーデン、ロシア)

1810 カメハメハ大王、ハワイ王国統一(ハワイ諸島)

ドローレスの叫び。イダルコの反植民地反乱(メキシコ)

1811 パラグアイ独立

洪景来の乱(朝鮮半島)

1812 米英戦争(アメリカ・イギリス)

ナポレオンのロシア遠征失敗(フランス、ロシア)

1813 ノルウェー、スウェーデン領に(ノルウェー、スウェーデン、デンマーク)

1814 ナポレオン失脚、ウィーン会議~15(ヨーロッパ)

グルカ戦争~16(ネパール、イギリス)

1815 ワーテルローの戦い。ナポレオン、セントヘレナ島へ流刑(ヨーロッパ)

ガレオン貿易廃止(スペイン、フィリピン)

1816 ラプラタ連邦成立(アルゼンチン)

1817 第3次マラータ戦争~18(インド・イギリス)

1818 チリ独立達成

1819 ラッフルズ、シンガポール建設(東南アジア)

グランコロンビア成立~30(コロンビア、ベネズエラ、エクアドル、パナマ)

1820 スペイン立憲革命~23

カルボナリ党の革命(イタリア)

1821 メキシコ独立

1822 ブラジル独立

1823 中米連邦、メキシコから分離~38(中央アメリカ)

モンロー宣言(アメリカ)

ベートーヴェン「交響曲第9番」完成(ドイツ)

第二次サウード王国成立(サウジアラビア)

1824 第一次英緬戦争~26(イギリス、ミャンマー)

1825 異国船打払い令制定(日本)

ジャワ戦争~30(インドネシア、オランダ)

世界初の鉄道開通(イギリス)

デカブリストの乱(ロシア)

1828 トルコマンチャーイ条約(ロシア、イラン、コーカサス)

シーボルト事件(日本)

1829 ギリシャ独立(ギリシャ、トルコ)

1830 インディアン強制移住法(アメリカ)

仏、アルジェリアを植民地化(フランス、アルジェリア)

七月革命ルイ・フィリップ即位(フランス、ヨーロッパ)

ベルギー独立


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