世界地理・世界史の謎

ローマの中に「別の国」があるのはなぜ?

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イタリアの首都ローマ。かつて地中海に君臨した大帝国の都であり、世界的な観光地でもあるこの都市には、他の都市にはない特徴があります。それは、「街の中にもう一つ国がある」ということ。ご存知世界最小の国バチカン市国です。

 

 現在のイタリアには大統領や首相がいますが、バチカンを統治しているのはローマ法王(歴史的にはローマ教皇)です。このような国がなぜ誕生したのか。それはローマがカトリックの総本山であったこと。そしてイタリアが長い期間バラバラだったことに由来します。

永遠の都ローマ

ローマはキリスト教誕生以前、つまり紀元前から都市国家として栄え、やがては地中海を囲む大帝国にまで発展していきました。キリスト教は紀元1世紀、ローマ帝国支配下のイスラエルで誕生し、当初は迫害を受けながらも各地に広まっていきます。

ついにはローマ皇帝もキリスト教を国教として認め、各地に宗教拠点を築きますが、その一つは(当然ながら)ローマに置かれました。ローマ・カトリック教会の誕生です。しかしこの頃のローマ帝国は内紛で東西に分裂し、更に異民族の侵入等で混乱していきました。その挙句476年には皇帝が退位して西ローマ帝国が滅亡します。

 

ここで誤解してはならないのは、帝国が滅んでもローマの都市自体は残ったということ。教会や住民も引き続きローマで生活を続けました。しかし繁栄を誇った大帝国が消滅したことで、社会秩序等も失われ、人々は不安定な時代を長く生きました。暗黒の中世の時代です。

 

これを物心両面で支えたのが当時のカトリック教会。修道士が村を開拓し、聖書の教えが人々の心を支えました。こうして教会の影響力はヨーロッパ全体に強まり、それと同時にカトリックのトップ、つまりローマ教皇の権威も高まっていきました。

ローマ教皇(法王)の国

長い混乱は8世紀になってゲルマン系のフランク王国が強大化したことでようやく終息します。このフランク王国は、現在のフランスとドイツに跨る地域を支配した大国ですが、その後ろ盾としてローマ・カトリック教会と手を結びました。

 

特に8世紀半ばのフランク王ピピン3世は、フランク王位を奪って即位したため、それを正当化すべく教皇の”お墨付き”を欲していました。彼は756年に当時の北イタリアを支配していた敵国から戦争で土地を奪い、それを教皇に寄進しました。簡単に言えば、教会のお墨付きを得る「手土産」として、教皇に土地をプレゼントしたのです。

 

こうしてローマ教皇は、直接統治できる土地を持つことになり、そこから税金を得られるようにもなりました。これは「教皇領」あるいは「教皇国家」と呼ばれ、多少の変動はあったとはいえ、なんと19世紀まで維持されました。

ピピン3世の息子カール大帝は、更に北イタリアなどを征服。そして800年に、「ローマ帝国を継ぐもの」として教皇から冠を授かりました。フランク王国はフランク帝国へと”出世”したわけです。この後フランク帝国は分裂と統合を経て、962年神聖ローマ帝国となりました。現在のドイツ、北イタリアを中心とした地域です。

キリスト教のトップは誰?

さて、「皇帝」とは「国王」より上の存在であることはイメージに難くないのですが、ヨーロッパ世界=カトリック世界では更にその上に「教皇」が存在しました。

 

「皇帝」と「教皇」は、カトリック世界のトップの座を巡って次第に対立関係へと発展していきます。これを叙任権闘争じょにんけんとうそうと言います。

 

また、神聖ローマ帝国と名乗っていても肝心のローマは「教皇」が統治しており、「皇帝」はしばしばイタリアへ介入をしました。この結果、ドイツとローマとの間にある北イタリア(ミラノ、フィレンツェなど)は両者の争いの地となり、しだいに自立化していきました。

イタリアの“3つの世界”

北イタリアでは都市を中心とした自治国家が誕生し、工業と交易を重視して発展していきました。15世紀にルネサンス文化が開花したのも北イタリアでしたが、これも交易によって外から様々なモノや新しい思想が流入して、芸術家を刺激し、財力のある都市貴族が彼らを支えた結果もたらされたものでした。

一方イタリア中央部を統治するローマ教皇は、皇帝との叙任権闘争に勝ち、11~12世紀にはヨーロッパの王を従えて十字軍遠征などを行いましたが、最後はこれに失敗して権力を失っていきます。

 

南イタリアには12世紀シチリア王国という王国ができますが、地中海の要所としてその後フランスやスペインの干渉を受け続けました。

 

こうしてイタリア半島は、北イタリアの都市国家、中部イタリアの教皇領、南イタリアのシチリア王国という「3つの世界」に分断され、各々の歴史を展開していきます。ただしいずれも大国にはなり得ず、16~19世紀にはハプスブルク家やナポレオンなどの外国勢力によって代わる代わる支配を受けました。

三世界の統一へ・・・

ナポレオン失脚後の19世紀、北イタリアは大部分がオーストリアの支配下にありました。その支配を免れたサルディニア王国(トリノ中心)は、周囲の国が近代国家としてまとまる中、イタリア人としての統一国家成立を目指し動き出します。19世紀後半、同国はオーストリア下のミラノや、ハプスブルク家統治のトスカーナ(フィレンツェを中心とした地域)などを併合していきます。(この時例外的に併合されなかったのがミニ国家、サンマリノ共和国です。)

機を同じくして南イタリアでは、絶対王政を敷いていたシチリア王を英雄ガリバルディが追放します。住民の意向もあってサルディニア王国との統合が実現。1861年サルディニア王国は国名を「イタリア王国」に改めます。

 

しかし教皇領はいまだ独立した国として、半島の真ん中に存在していました。1870年イタリア王国はローマ教皇の反対を押し切って、強引にこの教皇領を併合しました。南北のイタリアが繋がり、現在の国に近い状態になりました。しかし当然ながら時の教皇はこれに激怒。イタリア王国と国交を断絶し、ローマの一角にこもってしまいます。

 

教皇領を併合したことでイタリア王国は、遂に首都をローマへと遷しました。これは南北に長いイタリアにおいて地理的なバランスを取るためであり、またローマ帝国を彷彿ほうふつとさせることで、この継ぎ接ぎだらけの国に正統性を持たせるという、イメージ戦略でもありました。

バチカン市国の誕生

20世紀になってもイタリア政府と教皇の間は断絶したままでしたが、1929年のラテラノ条約でついに両者の和解が実現しました。つまりローマ教皇(法王)の支配地をローマ市内のバチカン地区限定で認めるというものです。ちなみにこの協定を結んだイタリア側の首相は、あのムッソリーニでした。

こうしてバチカン市国が成立し、現在に至ります。0.44㎢という世界最小の国ながら、世界中に散らばるカトリック教徒にとって今もローマ法王の影響力は大きいといいます。これも長く特別な歴史をたどってきたローマという街ならではの特徴ともいえそうです。

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