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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

20世紀その1~日露戦争とアジアの革命~

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20世紀初頭の世界

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いよいよ20世紀に突入ですが、とにかくこの100年は濃密で激動!今回は第一次世界大戦直前までを見ていきたいと思います。

例によって長いので、少しずつお読みください。

北アメリカ

アメリカ カナダ 中米諸国

ヨーロッパに続き、帝国主義に乗り出したアメリカ合衆国。1901年、マッキンリー大統領が暗殺され、セオドア・ルーズヴェルトが後継となります。1902年アメリカは、米西戦争で奪ったキューバを約束通り独立させますが、その際、「キューバの政治にはアメリカの承認を必要とする」というプラット条項を認めさせます。つまり、事実上キューバはアメリカの属国になってしまったのです。

翌1903年アメリカは、コロンビアの一部だったパナマを分離独立させます。フロンティアが西海岸に達し、大西洋と太平洋両方に接するようなったアメリカは、2つの海を短絡させる運河を欲していました。その際目を付けたのがパナマだったわけです。この後パナマ運河が建設されますが、主導権を握っていたのは、やはりアメリカ政府でした。

棍棒外交

この他、財政問題を抱えていたドミニカ共和国にも干渉。武力をチラつかせて、中米やカリブ海に服従を迫るルーズヴェルトの強引な外交は、棍棒外交と呼ばれています。続くタフト政権(1909~13)でもハイチニカラグアに干渉。こちらは、アメリカの経済力を持ってこれらの国を影響下に置いたことから、ドル外交と呼ばれました。

この頃、国内はどうだったかというと、労働者と事業主との経済格差が深刻化しており、大企業による独占や政治との癒着、腐敗も問題視されていました。こうした問題に立ち向かう声が上がり、予備選挙による政治腐敗の防止や、労働時間の規制といった改革がなされました。ルーズヴェルトも、19世紀末に制定された反トラスト法をもって、大企業に規制をかけるようになります。こうした動きを革新主義と呼びます。

 

英自治領領カナダでは、この頃から「カナダ人」という自覚が強まります。これは、国内の発展と共にイギリスとの違いが大きくなったことや、棍棒外交を掲げるアメリカへの抵抗感が背景にあったものと考えられています。ただ、国内のイギリス系住民とフランス系住民の溝はまだまだ大きいものでしたが…

メキシコ

この時代、大きな動きがあったのがメキシコです。メキシコでは社会の成長を支えに、ディアス大統領の長期政権が続いていました。その中で政治面では腐敗や大統領独裁化が、社会ではやっぱり貧富の格差が深刻化。政治の民主化や、富の平等を求める声が高まっていきます。1910年、ディアスの対抗馬としてマデロ氏が選挙に立候補。ディアスはこれを妨害しますが、革命家のサパタビリャらの支援を得て、1911年マデロが大統領に就任。ディアスは辞任に追い込まれました。ここからメキシコ革命がはじまります。

マデロ大統領は政治の民主化を進めますが、貧富の格差を解消する方はなかなかうまくいかず。サパタは貧しい農民の声を代弁し、農地改革つまり地主の持つ広い土地を貧しい農民に再分配することを要求します。一方ディアス派は反動勢力として、マデロの改革を批判します。板挟みとなったマデロは、1913年政敵に暗殺されていまいました。革命はなおも続きます。

メキシコ革命

南アメリカ

南米諸国もまたアメリカ企業、アメリカ資本の強い影響力を受け、近代化とともに労働者問題が深刻化する、といった問題に直面していました。

旧スペイン領諸国

ペルーでは、最大の輸出品だったグアノ(肥料の原料)が底を突き、代わって砂糖の生産が盛んになります。

同じ様にアルゼンチンでは小麦や牛肉が、チリでは銅や硝石(火薬の原料)が、ボリビアでは錫(ブリキの原料)が、コロンビアではコーヒーが、ベネズエラエクアドルではカカオが、国を支える輸出品でしたが、当時その多くはアメリカ企業によって生産、加工されたものでした。当然生み出された富の多くはアメリカ本国へ流れ、現地の国民は米企業と結びついたごく少数の金持ちか、多数の低賃金労働者ばかりという状況に。

 

20世紀初頭、この問題に真っ先に取り組んだのがウルグアイでした。1903年大統領となったバッジェは、1911年に労働法を制定し、労働者の奴隷のような使い方を禁じます。また、電気や水道などのインフラはアメリカなどの外国企業によって建設、管理されていましたが、バッジェはこれをウルグアイ政府の管理下に置き、安定化を図りました。更に大統領の独裁を防止すべく、バッジェ大統領自らその権限を縮小。一連の改革が功を奏し、ウルグアイは一時、南米最先進国となります。

しかし、他の国では成功を見る事はありませんでした。前世紀末にグアヤキル革命を実現したエクアドルでは、格差是正を目指したアルファーロ大統領が1912年暗殺され、改革は挫折。コロンビアでは、政治闘争が千日戦争という内戦にまで発展し。その混乱の中、前述の通りアメリカがパナマを切り離してしましました。

ブラジル

19世紀末に皇帝が退位し、大統領制となったブラジルでは、州の権限が強い連邦制が導入されました。これは権力の分散をはかったものでしたが、結局はパワー(=経済力)のある少数の州が政治や経済を独占していってしまいます。20世紀初頭の大統領を見ると、かつては金鉱脈で、当時は酪農(=牛乳)で経済力をつけたミナス・ジェライス州と、コーヒーの産地だったサンパウロ州のいずれか出身の人物がほとんどを占め、この状況は人々に「カフェ・コン・レイテ(コーヒー牛乳)」と揶揄されました。一方、ブラジルへの日本人移民は増加の一途をたどり、その人口はこの頃、世界最大となりました。

オセアニア

アフリカ同様、オセアニアの島々もまた、20世紀初頭までに、米英仏独といった国々によって分割、征服されました。太平洋に面する日本も、遅れてこの地に進出をはじめます。

 

複数のイギリス植民地に分かれていた、オーストラリアは、1901年一つの植民地に統合されました。オーストラリア連邦です。しかし、この連邦発足と同時に、移民をヨーロッパ系(白人)に限定する法律を制定。日本、中国など地理的に近いアジア系の移住は大きく制限されてしまいます。アジア系移民はヨーロッパ系移民より安い賃金で働いたため、これ以上賃金を下げる要因を作るな!とヨーロッパ系移民が反発したからです。これを白豪主義と呼び、20世紀後半までこの政策が続けられました。オーストラリアほど厳しいものではなかったものの、ニュージーランドでも同じようにアジア系移民は制限されています。

白豪主義

オーストラリア、ニュージーランドにとって、日露戦争(後述)の後太平洋に影響力を強めてきた日本の行動は、次第に気になる存在となっていきます。一方、本国のイギリスは日本との同盟国だし、太平洋にも面していないばかりか、地球の裏側に位置しています。両国は、イギリスに守ってもらうのには限界があるだろうと考えるようになり、独自の軍隊や政治的権利を引き出していくことになります。

アフリカ諸国

アフリカ諸国の大半は、この20世紀初頭までに、ヨーロッパの植民地となります。お主な地域を挙げると、(以下、現在の国名で)

エジプト、ナイジェリア、ガーナ、ケニアといった地域はイギリス領、

ルジェリア、セネガル、コートジボワール、ニジェール、マダガスカルなどはフランス領、

アンゴラ、モザンビークなどはポルトガル領、

コンゴ民主共和国はベルギー領、

ナミビア、タンザニアの一部、カメルーンの一部などはドイツ領、

赤道ギニアはスペイン領、

ソマリアの一部とエリトリアはイタリア領

といった具合。

加えてイタリアは1912年、オスマン帝国領だったリビアを奪います(伊土戦争)。地中海に面する北アフリカに領土を得ることは、イタリアにとって、ローマ帝国の栄光を思い出させる悲願でもありました。

 

アフリカ北西端のモロッコの場合は、1912年までに、ラバトカサブランカなど主要部はフランスが、西サハラなど周辺部はスペインが領有し、モロッコのスルタン一族(アラウィー家)はフランスの保護下(事実上、支配下)になります。しかし後述の通り、ドイツがモロッコに戦艦を接近させるなどして(モロッコ事件)、独仏の関係は緊張することになります。

 

ベルゴー領コンゴ(コンゴ自由国)は、厳密には当時のベルギー国王レオポルド2世の土地という扱いでした。しかし、その経営がズサン過ぎたことから内外の批判を呼び、1908年この地は国王から、ベルギー政府の管理下に置かれました。

 

ヨーロッパ諸国は、自国の産業発展のために、各植民地で様々な商品を作らせました。いわゆるプランテーションです。現ケニアの首都、ナイロビを中心とする英領東アフリカ植民地では、綿花やコーヒーが、セネガルのダカールを拠点とした仏領西アフリカ植民地では、油を取るための落花生栽培が行われました。ガーナ(英領)やコートジボワール(仏領)で栽培されたのはもちろん、チョコレートの原料、カカオ豆ですね。そしてこの頃からアフリカでも鉄道建設が開始されますが、その目的はあくまでも、「プランテーションの作物を輸送する」ことが第一であり、農園や港と直結する路線が優先的に引かれました。

 

 多くのアフリカ人は低賃金労働者となって農園や鉱山で働かされ、上記のような鉄道、道路を建設するために時には強制労働を課せられることもありました。当然納得いかない人々も多く、1905年現タンザニアで起きたマジマジの乱など、武力を持って抵抗することも。ただし、「マジ」が現地語で(魔の)「水」という意味だったことから分かるように、この反乱は宗教・迷信によって結束した反徒が起こした、つまりは現実を見据えないものだったため、結局ドイツ軍に鎮圧されていしまいます。

 

南アフリカでは、オランダ系の2共和国(オレンジ自由国トランスヴァール共和国)と、イギリス領ケープ植民地 との間で激しい戦闘が繰り広げられていました。この南アフリカ戦争はイギリスへの国際的な非難を呼びましたが、1902年オレンジ、トランスヴァールの降伏を持って終わりを告げます。

1910年、ケープ、オレンジ、トランスヴァール、それにすでにイギリスの支配下にあったナタール共和国が合併し、南アフリカ連邦が成立しました。といっても政治経済は少数のヨーロッパ系住民が牛耳る「白人の国」という扱い。圧倒的多数の先住アフリカ系住民の声はほとんど無視されていました。そして、降伏後なおもイギリス系住民に憎しみを抱いていたオランダ系住民(ブール人)と、支配層のイギリス系住民との関係を改善していきますが、その過程でアフリカ系住民は「踏み台」にされてしまいます。

 

すでに奴隷制は廃止されたアフリカですが、今度は別な形で、苦難の時代を歩むことになっていくのです。

東アジア

日本

帝国主義のもと、東アジアへの覇権を拡大していった日本(大日本帝国)ですが、日清戦争で中国に勝利した後、またもや別の大国と戦うことになりました。南下政策を続けるロシア帝国です。

日本と同じくアジアの「取り分」を巡ってロシアと争っていたのがイギリスでした。いわゆるグレートゲームです。利害の一致した両国の間に1902年日英同盟が締結された後、1904年日露戦争が始まります。新興国の日本と、ヨーロッパの大国ロシアとの戦いは、中国北東部を戦場に激化しますが、1905年には東郷平八郎率いる日本海軍がロシアのバルチック艦隊を破るなどして善戦。同じ年、ロシアで革命が起こったこと(後述)も有利に働き、日本はロシアに辛くも勝利を収めました。

日露戦争における日本の勝利は、ヨーロッパに圧力を加えられていた中国、オスマン帝国、ペルシャなどにも大きな影響を与える一方、日本自身は帝国主義を進めていきます。1910年の韓国併合(後述)はその象徴的な出来事でした。

韓国併合2年後の1912年、激動の明治が終わり、大正時代が始まります。

韓国 台湾

東アジアの覇権を狙う日本は日露戦争に前後して、韓国(大韓帝国、現北朝鮮も含む)に圧力をかけ続けました。1905年の第2次日韓協約により、韓国は外交権を奪われ、日本の保護国となります。

危機感を感じたのが、大韓皇帝だった高宗。彼は1907年オランダで行われた国際会議に密かに使者を送り、救済を訴えますが、アメリカなどの協力は得られず(ハーグ密使事件)。失敗した高宗は日本側によって強制退位させられました。最後の皇帝純宗は、同年第3次日韓協約を結ばされ、政治を事実上日本側に握られるように。

こうして日本による植民地化が進む中、各地でこれに抵抗する勢力が出現(義兵闘争)。1909年には朝鮮問題のトップにあった伊藤博文が、韓国独立を求める安重根により暗殺されました。しかし結局1910年、大韓帝国は廃止され、日本に併合されてしまいました。この後、韓国の統治は朝鮮総督府によって行われ、当然そのトップには日本人高官が就きました。彼らによって鉄道建設など朝鮮半島の近代化が進められた一方、日本語教育や天皇の崇拝なども強いられ、抵抗者は弾圧されました(武断政治)。

 

すでに日本の植民地となっていた台湾でも公教育やアヘンの取り締まり、鉄道の整備、辮髪や纏足の廃止といった「近代化」が進められていました。バナナや砂糖といった作物も日本企業主導で生産されますが、南米に対するアメリカと同じく、その富の多くは日本へと流れ、現地台湾人の大半は低賃金労働者のままでした。

 

中国(清)

1904~05年に起こった日露戦争は、主として中国北東部が戦場でした。両軍の戦いに巻き込まれて、命を落とした中国人も相当な数に及んだといいます。その中国(清)でもようやく改革が本格化し、1905年には伝統の科挙が廃止されています。改革派の中には国外へ留学する人々もいましたが、そのひとりだった孫文は、清を廃して中国を根本的に変えることを決意。興中会のほか複数の革命組織をまとめ、中国同盟会を結成しました。後の国民党です。

1908年、11代皇帝光緒帝と事実上のトップだった西太后が相次いで死去し、12代皇帝宣統帝がわずか3歳で即位。政治の実権は側近の袁世凱が握っていました。清の近代改革はなおも進みますが、鉄道の利権などをめぐって地方との対立が激しくなり、1911年革命派の軍隊による大規模な武装蜂起が武昌(現武漢の一部)で発生。これをきっかけに、中国全土に反乱が広まりました。辛亥革命です。

辛亥革命

翌12年孫文は中国に帰国し、清に代わる新しい国家、中華民国の建国が南京で宣言されました。これに対し北京では、袁世凱が宣統帝を廃位し、清王朝を正式に終わらせました。袁世凱は孫文から中華民国大総統(政府のトップ)の座を譲り受け、次第に独裁化していきます。

 

チベット  モンゴル

清が欧米に圧迫される中、北京から遠く離れたチベットでは、清から自立の動きを見せていました。しかしこの地もまた、英露のグレートゲームに巻き込まれました。1904年にはイギリス軍の侵攻を受けた上、敗れて多額の賠償金を課せられました。清はこの賠償金の肩代わりを申し出、チベットが今も清の支配下であることをアピール。自治運動を抑え込んでいきます。

当時チベットでトップだったダライ・ラマ13世は、清のやり方に反発。1911年の辛亥革命後は、チベットから漢民族系の住民を追放し、1913年の5箇条宣言で独立を宣言しました。しかしながら新生の中華民国はこれを認めず、チベット内部にも独立に慎重な勢力も多くいたため、この独立宣言は現実味を失っていきました。ダライ・ラマ13世はチベットの近代化にも着手し、それは続く14世にも受け継がれていきます。

同じく清の支配下にあったモンゴルも辛亥革命の混乱をまたとない機会とし、ボグド・ハーンをトップとする政府の独立を宣言します。モンゴルは当初、北隣のロシアに支援を求めたため、中華民国とロシアによる交渉の結果、1914年に自治権を得ます。

東南アジア

東南アジアは、その多くが欧米の植民地にあり、アフリカと同じくプランテーション農業が盛んになっていきました。その働き手には現地の人々のほか、地理的に近い中国人やインド人もおり、民族構成は複雑化していきます。また、支配層の欧米人は、「進んだ」西欧の文化や考えを「教育」して、アジア人を「文明化」するようになります。(今の視点からだと、随分な上から目線・・・)しかし「近代教育」を受けた人々の中には、知識人や政治エリートが出現し、民族主義運動や脱植民地運動をリードしていくことになります。

 

ベトナム(仏領インドシナ)他

フランス領インドシナ成立後、その一部であるベトナムでは文紳と呼ばれる地方エリートが、フランスに対し度々反乱を起こしていました。こうしたエリートの一人ファン・ボイ・チャウは、科挙(ベトナムでも行われていた)に合格したこともある知識人でしたが、ベトナム独立を望み、1904年維新会という組織を結成します。

目標達成のためにファン・ボイ・チャウが参考にしたのが、近代化に成功した日本でした。東京に移り住んだ彼は、多数のベトナム人留学生を呼び寄せて技術や知識を学ばせました。これを東遊(ドンズー)運動と言います。しかし同じ頃日本は朝鮮半島の植民地化を進めており、フランスはこの動きを認める代わりに、ドンズー運動へ圧力をかけるよう日本に要請。ファン・ボイ・チャウも日本を去らざるを得ませんでした。しかし1911年中国で辛亥革命が起こると、維新会を再編してベトナム光復会を結成し、独立運動を本格化させていきます。

東遊運動

さて、フランスはインドシナで大量のコメを作らせ、これを輸出させました。地方の統治にはベトナム人の官僚も起用しましたが、彼らの一部は、ラオスカンボジアにも派遣されました。当時ラオスやカンボジアはベトナムよりも相対的に「低い立場」に置かれ、エリートの数も少なかったためです。同じ植民地内であっても、こうした格差が存在していたわけです。

 

フィリピン(アメリカ領)

独立のチャンスをアメリカに押しつぶされたフィリピン人は、当然ながらアメリカ支配に強く反発しました。後にアメリカ27代大統領となるタフトは、この時期のフィリピン統治を任された人物でした。彼はフィリピンにアメリカ式の議会制度を導入し、現地の人にも選挙権を与えましたが、フィリピン人の求めたものは、やはり即時独立。タフトは少しずつ政治的な権利を拡大させ一方で、経済面では対米貿易を最優先させて従属下に置き、現地人に対しては英語教育を広めていきます。

 

マレーシア(英領マレー連合州)

イギリス領だったマレー半島の国々は、まとめて英領マレー連合州という植民地となります。(シンガポールなどは直轄地として別扱い)。前章にも書きましたが、この地域は伝統的に錫鉱の産地で、多くの中国人が労働者として働いていました。20世紀に入ると、ゴムの需要増から、天然ゴムのプランテーションが始まります。こちらには同じイギリス領のインドから多くの労働者がやって来ました。

こうして、マレー半島には、昔ながらのマレー人(イスラム社会)に加え、中国人(儒教系社会)、インド人(ヒンドゥー教社会)の社会が形作られました。しかし、イギリス政府は団結して抵抗されないように、こうした社会を分断したままに据え置きました。このことは、独立後のマレーシアにも大きく関わる問題となっていきます。

 

インドネシア(蘭領東インド)

オランダの植民地となった現在のインドネシア。最後まで抵抗を続けたスマトラ北部のアチェ王国も20世紀初頭に降伏し、オランダの武力行使は一段落します。すると彼らはジャワをはじめとする現地の島民を「文明化」せんと、西洋風の教育やインフラ整備を行いました。この上から目線的な政策倫理政策と呼びます。この政策に対し、現地人の中にも様々な反応を見せました。倫理政策に合わせて悪しき伝統を改善しようという動きとしては、女性解放を目指した活動家、カルティニの運動があります。

逆に現地人の民族主義をもって、オランダに抵抗しようという動きもありました。こちらは1908年、政治組織「ブディ・ウトモ」の結成が挙げられます。伝統見直しという面でイスラム教にも光が当たり、1911年にはイスラム同盟という政治団体も誕生します。蘭領東インドは、ジャワ、スマトラ、マルク諸島など無数の島で構成され、言語や経済状況もバラバラでしたが、住民の大半はイスラム教徒でした。イスラムは、これらの島民たちを結束させるためにも大いに活用されます。

 

英領ビルマ(ミャンマー) シャム王国(タイ)

イギリス領インド帝国の一部になったビルマ(ミャンマー)や、独立を守ったシャム王国(タイ)でも、民族主義の立場から西欧の圧力に抵抗しようという運動が芽生えます。その際光が当たったのが伝統的な社会を支える、仏教でした。近代化(西洋化)の上で遅れた存在とみなされた仏教に、アジア民としてのアイデンティティを求めるようになったのです。

南アジア

インド

イギリス領インド帝国では、イギリス支配に対する抵抗とともに、宗教的な民族対立が発生していきました。19世紀の大反乱以来、インドでは民族主義運動の火が消えることなく続いていました。イギリス側はこの動きを分断することで弱体化させようと画策。当時インドの首都は、ベンガル州のカルカッタ(現コルカタ)でしたが、イギリス総督カーゾンは1904年、このベンガル州を東西に分割して別の自治体にしようとしました。

実はこのベンガル州、西側にヒンドゥー教が多く、東側にはイスラム教徒が多い傾向にありました。民族運動指導者のティラクらは、インド人を宗教別に分断して勢いを削ぐという、この政策の真の意味を知り、英製品ボイコット運動を呼びかけるなど強い反対の意を示します。結局1911年ベンガル分割令撤回され、更に首都はカルカッタからデリーへ移りましたが、この出来事を機に、宗教の異なるインド人同士の間に「自分とアイツは違う」という意識が芽生え出していきました。

とはいえ、インド社会への批判、変革も同時にインド人によって行われました。カースト制度最下層の「不可触民」を解放しようと運動したアンベードカルはその代表格です。また、ベンガル語による詩や小説を通じて、インド社会の美点や汚点を浮かび上がらせた文学者タゴールは、1913年にアジア人初のノーベル賞を受けています。

 

インド周辺

同じくイギリスの植民地だったスリランカ(セイロン)でも住民同士の対立が深刻化しました。19世紀末から20世紀初頭にかけてイギリスは、セイロンで紅茶のプランテーションを行っていましたが、これに携わっていたのは主に沿岸部に住むインド系タミル人でした。その富の多くは無論イギリスに持っていかれましたが、彼らは近代的な街に住み、一定の収入を得ることができました。一方、多数派シンハラ人は多くが内陸部に住んでおり、こうした恩恵にもあずかれず。シンハラ人とタミル人との間に貧富の格差が拡大していきます。

 

ブータンはチベット仏教の一派、ドゥク派によって築かれた国で、最高位にあった僧侶が名目上そのトップに据えられていました。しかし政治の実権は僧侶の摂政にあたる人物が代々握っていました。1907年、当時の摂政の息子だったウゲン・ワンチュクは摂政政治を廃止し、自らは国王を宣言。ブータンは王制となります。ウゲン・ワンチュクは1910年からイギリスの保護を受け、自らの政治基盤を固めていきました。

西アジア

トルコ(オスマン帝国)

前世紀にせっかく制定された憲法を停止したオスマン帝国のスルタン、アブデュルハミト2世は、20世紀に入っても独裁を続けていました。一方で、同じく19世紀に始まった恩恵改革(タンズィマート)の成果により、オスマン帝国内にも近代的な考えを持った知識人が出現し、スルタンの独裁を批判するようになります。彼らは総じて青年トルコと称されました。

1908年、青年トルコの思想に共鳴した軍人達が蜂起し、アブデュルハミト2世に対し、憲法の復活つまり立憲君主制への移行を認めさせました。この青年トルコ革命は成功し、翌年アブデュルハミトは退位に追い込まれます。

青年トルコ

新スルタンのもと、内閣制の政治が始まりましたが、その後も宮廷などにいた有力者が政治の主導権を握り、下層身分の者が多い青年トルコの人々をなかなか寄せ付けませんでした。革命の混乱が収まらぬ中、バルカンアラビアといった非トルコ人地域が、次々と帝国から独立したり、大国に征服されたりしました(後述)。

青年トルコの中心人物、エンヴェル・パシャらによって運営されていた政治組織「統一と進歩団」は、1913年遂にクーデターで政権の座に就きましたが、社会を収めるにはまだまだ経験不足なところがありました。エンヴェル・パシャは帝国再建のために西洋、特にドイツとの関係を深め、最終的には同盟を結ぶまでに至りました。

 

アラビア

アラビア半島の砂漠地帯に、2度にわたり王国を建てながら、オスマン帝国に潰されたサウード家。しかし彼らは諦めることなく、1902年第3次サウード王国を建設します。その初代王、イブン・サウードは、伝統的に砂漠をかけるアラブ系遊牧民(ベドウィン)を抱き込み、強力な軍隊へと組織しました。オスマン帝国も今回ばかりはイタリアとの戦争を優先させ、サウード王国の拡大をゆるしてしまいます。

シリアから紅海に面するアラビア半島西側、さらに南端のイエメンまでは、アラブ人の多い地域ながら、当時はオスマン帝国の支配下にありました。しかし19世紀以降はこの地でもアラブ人の民族主義から、トルコ人への反発がエスカレート。20世紀初頭にはイエメンやメッカなどで、実際に反トルコ運動が起こりました。

 

イラン(ペルシャ)

カージャール朝ペルシャもまた、イギリス、ロシアなどの進出により苦しい立場にありました。ペルシャ国内の人々の中には、西洋諸国への抵抗を主張するとともに、このような状況を招いた国王への批判も行われていました。1905年、同じアジアの日本日露戦争でロシアを打ち破ると、ペルシャの人々も「自分たちも近代化すれば列強に勝てる!」と行動を起こし、国王ムザッファル・ウッディーンに近代的な憲法の制定や議会の設置を要求しました。イラン立憲革命です。1906年にはペルシャに初の議会が設置されました。しかしペルシャへの影響力をさらに強めたかった英露は、国王と共にこの運動を弾圧。1911年、議会は解散に追い込まれ、革命は押しつぶされてしまいました。

ロシア

日露戦争をロシア側から見てみます。戦いの舞台となった北東アジアは、当時の首都サンクトペテルブルクから何千キロも離れた地でしたが、シベリア鉄道が建設されたこともあって、ロシアの関心を引いていました。特に豊富な資源の眠る満州地方は魅力に映り、同じくここを狙う日本と対立。1904年開戦に至ります。当時のロシア皇帝はニコライ2世でした。

しかし、ロシア経済は疲弊しており、ロシア支配下にあったポーランド人フィンランド人、帝政を批判する社会主義者の中には、戦争反対を主張する人や、日本側に協力した人も少なくありませんでした。

ロシアは格下と思われていた日本を相手に思いのほか苦戦します。陸上戦では、1904年末にロシア軍の本拠地だった旅順が陥落しました。また、有名なバルチック艦隊は、その名の通りバルト海から日本海へと出発することになるのですが、当然シベリア鉄道に乗せて運ぶわけにもいかず、ヨーロッパ、アフリカ、アジアをぐるっと回って行かなければなりませんでした。長旅の末にやってきた艦隊は、東郷平八郎らの攻撃を受け、撃沈されます。

バルチック艦隊

バルチック艦隊が日本に向かっていた最中の1905年1月、戦争と激務に苦しむ労働者達が皇帝の宮殿に詰めかけ、自分たちの自由や労働時間短縮などを訴えましたが、これに皇帝側は銃を持って返答。血の日曜日事件と呼ばれるこの事件を機に、各地で反乱やストライキが勃発しました。これをロシア第一革命と呼びます。

戦争継続が難しくなったロシアは、同年7月、遂に日本との講和を決断。ポーツマス条約が結ばれ日露戦争は終わります。それでも国内の反乱は収まらなかったことから、ニコライ2世は彼らの要求に応じ、ドゥーマと呼ばれる国会の開設を宣言(十月勅令)。1906年には憲法も制定されました。こうした動きはロシア人以外の地域にもおよび、ポーランド人やフィンランド人も政治的な要求をいくつか実現。イスラム教徒が多い中央アジアでは、ロシア・ムスリム連盟が結成されました。

しかし同1906年に首相に選ばれたストルイピンは、土地改革などで民衆の不満を解消する一方で、革命分子は徹底弾圧。ロシア第一革命を強引に終わらせました。本人としては蓋をしたつもりですが、人々の熱意はたまり続け、数年後爆発することになります。

ヨーロッパ諸国

北ヨーロッパ

ロシア内でもっとも自治の度合いが高かったフィンランドでは、すでにセナーッティと呼ばれる独自の政治機関がありましたが、ロシア第一革命においてフィンランド人もストライキを繰り返して、さらなる自由を要求。新たなフィンランド議会が発足し、1906年にはヨーロッパ初の女性参政権獲得を実現するまでに至ります。しかしその後はロシア側の圧力により議会は機能不全に陥り、セナーッティも事実上ロシア人の管理下に置かれてしまいました。無論、フィンランド人がこれに納得するわけもなく、抵抗運動はその後も続くことになります。

 

革命を半ば利用する形で独立を達成したのが、スウェーデンと連合していたノルウェーでした。元々独自の憲法を使用するなど自立度の高かったノルウェーは、外交などをめぐってスウェーデンと対立するようになり、1905年新国王を迎えて独立を宣言します。スウェーデン側は反発したものの、同年に起こった血の日曜日事件のような事態を恐れて、結局は平和的にその独立を承認しました。そのスウェーデンでも1909年に男子普通選挙が実現するなど、現在のハイレベルな民主主義につながる動きが続きました。

 

デンマークでは19世紀を通じて、昔ながらの富裕層(保守派)が力を持っていました。しかしこの国でも、近代化や工業化と共に労働者らの声が高まっていきました。彼らにより結成された自由改革党は、1901年遂に政権を獲得。失業対策や女性参政権獲得(実現は1915年)といった政治改革を進めていきました。この過程で、デンマーク下にあったアイスランドでも、本格的な議院内閣制が始まりました。

 

南ヨーロッパ

20世紀初頭までには、西ヨーロッパと比べて遅れがちだった南ヨーロッパ諸国でも近代工業が発展し、それと共に富豪の出現や、労働者運動といった社会の変化も経験します。

 

スペインでは、特に工業化の進んだバルセロナを中心とするカタルーニャ地方が経済を引っ張るようになります。これは同時にマドリード政府への不信(頼りない!という感情?)をつのらせていきます。マドリード(カスティリャ地方)とは異なる歴史や文化を持つカタルーニャは元々自立心が強く、事あるごとに反発していたのですが、彼らの中にはスペインとは異なる、カタルーニャ民族主義を掲げて政治的自立を求める人も増えていきます。また、経済を下支えする労働者も自らの権利を求め、1909年には大規模なデモ行進がバルセロナで起こりますが、当局により残酷に鎮圧されました(悲劇の一週間)。

 

ポルトガルでも労働問題からデモやストライキが頻発。この責任を国王に求める人々も増加しました。1908年国王カルロス1世が暗殺されるという前代未聞の事件が起こると、王政廃止を求める共和派の声が強まります。この結果ポルトガル王国は1910年に廃止され、この国は共和国となりました。

国王暗殺

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ポルトガルの歴史~より

 

イタリアでもこの時期、保護貿易によって自国の工業が大きく発展し、大国と肩を並べる水準にまで達しようとしていました。当時の代表的な首相の名を採って、「ジョリッティ時代」とも称されています。ただし、豊かになったのはミラノやトリノなど主に北部の地域。元々異なる国が合体してできたイタリアでは、南北の地域差が激しく、工業化によりその格差がさらに広がってしまいました。

未だ貧しい南イタリアでは、保護貿易で農産物の輸出が伸びず、北部優先の政策を嫌がる人々も数多くいました。この声を拾ったのは、地主などの伝統的な南イタリア社会に根差す地方のボスでした。彼らは住民に団結を呼び掛けたため、シチリア・ファッシ(ファッシ=結束)などと呼ばれましたが、中にはマフィア集団もおり、犯罪や暴力が横行するきっかけにもなります。

更に一部の住民は仕事を求めてアメリカへ移住し、ニューヨークなどに大規模なコミュニティを構築。もちろん同じようなイタリアン・マフィアも持ち込まれました。こうした貧しいイタリア移民の子孫には、シカゴのマフィア、アル・カポネがいます。

 

イギリス  アイルランド

1901年、イギリスが世界のトップに君臨した19世紀が終わりを告げ、大英帝国の繁栄を象徴していたヴィクトリア女王がこの年亡くなります。

いち早く工業化を達成したこの国では、工場労働者の問題もいち早く深刻化し、彼らの要求を代弁する人々も登場しました。イギリス2大政党の一つである労働党の結成(1906年)です。労働党らの声を汲んだ自由党アスキス政権は1910年、富裕層への増税と低所得者への福祉政策を核とした予算を組みました(人民予算)。

外交面をみると、当初イギリスは、欧米のどことも同盟を組まない「光栄ある孤立」という方針を貫いていました。しかし植民地化競争がグローバルにおこなわれるようになると、この考えも見直すことになります。先述の通り日英同盟が結ばれた背景には、グレートゲームと呼ばれるロシアとの攻防がありました。しかし、それ以上の脅威となったのが急速に力を付け始めたドイツでした。日露戦争後、イギリスは、かつての宿敵だったフランス、ロシアと手を結び(三国協商)、ドイツ包囲網を築くことになります。

工場労働者と同じように自らの権利拡大を主張していたのがアイルランドでした。19世紀後半から度々否決されてきたアイルランド自治法案は、1912年遂に議会を通過し、今度こそアイルランドの独立が叶うかと思われました。しかしその法律が効果を発揮する予定だったのがまさに1914年だったことから、自治の約束は先延ばしになっていまいます。

 

フランス  ドイツ

ドイツ帝国が誕生してから19世紀末まで、ヨーロッパはある程度の平和が保たれていました。ビスマルクがバランス外交を重んじ、また各国の王族と血縁関係を持つヴィクトリア女王が対立を抑え込んでいたからです。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も彼女の孫でした。しかしビスマルクが引退し、女王も没すると、この均衡が崩れ始めます。

特に緊張が高まったのが、国境を接するフランスとの関係でした。20世紀初頭までに、北アフリカのアルジェリアとチュニジアを支配下に置いたフランスは、続いてモロッコに進出します。しかしドイツは1905年モロッコのスルタンに駆け寄り、独立を支持すると表明してフランスの植民地支配を遠まわしに妨害(第一次モロッコ事件)。更に1911年には軍艦を接近させ、一触即発の状態になりました(第二次モロッコ事件)。結局モロッコはこの後フランス(およびスペイン)の保護国となりますが、仏独間の相互不信は高まっていくことになります。

 

オーストリア・ハンガリー帝国   バルカン半島諸国

20世紀初頭の段階でバルカン半島では、ギリシャ、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの4カ国がオスマン帝国から独立、ブルガリアも半独立国家となっていました。しかし、いまだオスマン領も残っており、オーストリア・ハンガリー帝国(以下オーストリア)やロシアも隙あらば領土を奪おうとしていました。

1908年、前述の青年トルコ革命が起こると、これに乗じてオーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方を自国に併合してしまいます。この場所はセルビア人やそれに近いスラヴ系の人々が多く住んでおり、セルビア王国は猛反発します。一方、ブルガリアはこの革命を機に正式に独立した王国となりました。

革命後オスマン帝国は、残る領土を守るべく、その地域の住民をトルコ人と同化させようとしました。これはバルカン住民の民族主義をかえって刺激することとなり、1912年第一次バルカン戦争(オスマン帝国vsセルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリア)が起こります。

オスマン帝国はこの4カ国同盟に敗れ、ギリシャとセルビアの間に位置していたマケドニア地方を失います。また、バルカン南西部ではアルバニアも独立を達成しました。こうしてオスマン帝国の領土はバルカン半島から姿を消すことになります。すると今度はこのマケドニアを巡ってギリシャ、セルビアとブルガリアが対立し、第二次バルカン戦争が勃発。この戦争に勝利したギリシャとセルビアによってマケドニアは分割、各々に併合されました。

バルカン諸国は、いずれも大国を目指すために中世時代の帝国(ビザンツ帝国やブルガリア帝国、中世のセルビア王国など)の論理をもって領土の併合を正当化していたきらいがあります。これを大ギリシャ主義、大ブルガリア主義、大セルビア主義などと呼びます。こうした主張の衝突が幾度となく争いを招いたため、バルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになりました。

サラエボ事件

さてセルビアでは、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合に抗議する過激派組織が水面下で活動していました。1914年、ボスニアの中心都市サラエボにオーストリア皇太子夫妻がやって来ると、過激派は2人を襲撃し、命を奪いました(サラエボ事件)。後継者を殺されたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はセルビアに宣戦布告しますが、セルビアの背後には、同じスラヴ系でバルカンに強い影響力を持っていたロシアが付いていました。一方オーストリアはドイツ帝国と同盟しており、両者の対立は、ロシアvsドイツ、更にはロシアと三国協商を結んでいた英仏とドイツとの戦いへとエスカレートしました。すなわち、第一次世界大戦が始まることになるのです。

主な出来事

1901 オーストラリア連邦成立

1901 ヴィクトリア女王崩御(イギリス)

1902 日英同盟

1902 キューバ独立

1903 バッジェ大統領就任(ウルグアイ)

1904 日露戦争開始~05

1905 血の日曜日事件 第一次ロシア革命

1905 ベンガル分割令(南アジア・イギリス)

1905 マジマジの乱(タンザニア)~07

1905 イラン立憲革命

1907 ブータン王国成立

1908 青年トルコ革命

1909 安重根伊藤博文を暗殺

1910 南アフリカ連邦成立

1910 日本、大韓帝国を併合

1910 メキシコ革命開始

1911 辛亥革命開始(中国)

1912 宣統帝(溥儀)退位 滅亡(中国)

1912 タイタニック号、大西洋で沈没(イギリス~アメリカ)

1912 明治天皇崩御 大正天皇即位

1912 第1次バルカン戦争(オスマン帝国・ギリシャ・セルビア・ブルガリア)

1913 第2次バルカン戦争(ギリシャ・ブルガリア・セルビア)

1914 サラエボ事件 第一次世界大戦開始

1914 パナマ運河開通


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