世界地理・世界史の謎

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~南アフリカ共和国の歴史~

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2019年、日本で行われたラグビーワールドカップは、南アフリカ共和国が見事優勝を果たしました。主将のコリシ選手の人気はめっちゃ高いそうですね。今回は、何かと話題の南アフリカ共和国(略して南ア)について、その歴史を見ていきたいと思います。

ヨーロッパ人のアフリカ?

南アフリカ共和国は、当然ながらアフリカの南に位置しています。人口はおよそ5千万人。経済面では最近ナイジェリアに抜かれてしまいましたが、長らくアフリカでもっともGDPの高い国でした。現在でもアフリカ南部の国々を中心に、南アの工業製品がたくさん利用されています。また、金、ダイヤモンド、レアメタル(希少な金属)の世界的産地としても知られ、国内には多くの鉱山があります。

南アフリカ位置

 

そんな南アですが、実はアフリカ系住民(いわゆる黒人)の他に、ヨーロッパ系住民(いわゆる白人)、インド系住民や、こうした人々の混血など、様々な肌の色の人が暮らす国となっています。しかしながら、20世紀の末までこの国は、少数のヨーロッパ系住民によって支配され、圧倒的多数のアフリカ系は法律によって差別されていました。この政策について、皆さんも1度は耳にしたことがあると思います。アパルトヘイトと呼ばれる政策です。

人口構成

 

なぜアフリカの国なのに、ヨーロッパ系、アジア系の住民が多数住んでいるのか。そしてなぜ差別政策が採られたのか。見ていくことにしましょう。

※この文章では、内容をわかりやすくすべく、敢えてヨーロッパ系住民を「白人」、アフリカ系住民を「黒人」と書いています。各々の人々を侮辱したりヘイトの対象にする意図はありません。

人類のゆりかご

今や常識となりつつありますが、人類の祖先はアフリカで誕生しました。では、アフリカの「どこ」が人類発祥の地なのか。この謎にはまだ決着がついていないようです。南アフリカは、エチオピアと並んで、その最有力候補のひとつで、100万年以上前の人類(猿人)の化石が多数見つかっています。南ア北部にある「南アフリカ人類化石遺跡群」は人類の進化の過程を知ることができる場所として、世界遺産に登録されています。

 

進化と絶滅を繰り返し、数万年前に人類はホモ・サピエンスの時代を迎えますが、アフリカでもどこでも、最初は石器を用いた狩猟採集の生活でした。

独自の社会

現南アフリカ共和国を含むアフリカ南部に農業が伝わったのは紀元前500年頃と考えられています。すでにエジプトやメソポタミア、ギリシャ文明などが栄えていた時代です。

 

この時代、アフリカ南部には、コイサン系と呼ばれる人々が狩りや採集をして暮らしていました。そこに農業をたずさえてやって来たのが、バントゥー(バンツー)系の人々、いわゆる「黒人」と呼ばれた人々でした。彼らはイモやバナナの栽培方法に加え、ウシを始めとする家畜や、鉄の作り方も知っており、間もなくアフリカ南部においても大きな社会を築くことになります。

 

有名なのが現ジンバブエ(南アのお隣)周辺にあった巨大遺跡群、グレートジンバブエです。この王国は14世紀前後に栄えたといわれていますが、文字を持たなかったため、多くは謎に包まれています。現南ア国内には、グレートジンバブエほど大きな社会は出現しなかったものの、中小の王国、首長国が各地に成立しました。一方のコイサン系の人々は、農業に不向きな南西部にて、狩猟採集の生活を続けました。これら多くの国で共通したのが、彼らの最大の財産が「ウシ」だったこと。国王は富や権力の象徴として多数のウシを持っていましたし、結婚の結納品に贈られたのもウシでした。

お金とは

さて、バントゥー人の持ち込んだバナナは、紀元前に東南アジアから伝わったものだし、10世紀頃からはイスラム商人がインド洋貿易に乗り出してアフリカ人とも品々を交換していました。しかしこの地域にイスラム教やアラビア文字が伝わることはなく、長い間独自の、言い方を変えればユーラシアの文明とは一線を画した社会が長く続きました。

ヨーロッパ人との接触

15世紀になるとヨーロッパで大航海時代が始まります。ポルトガル人はアフリカ周りの航路を探し、モロッコから西アフリカ、アンゴラと徐々に南下。1488年にバルトロメウ・ディアスがついに喜望峰に到達。こうしてヨーロッパ人と南部アフリカの人々との本格的な交流が始まります。

 

ディアスの後、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達し、アフリカ(喜望峰)経由の航路が開拓されました。17世紀になるとポルトガルに代わりオランダが航海の主役となります。交易が盛んになるに従い、中継地のアフリカにも注目。1652年オランダ商人のファン・リーベックによりケープ植民地が築かれました。その中心地がケープタウンです。

ケープ植民地

ケープ植民地はもともとコイサン族の土地でしたが、オランダ人は彼らを追い出した格好になります。そしてヨーロッパ人向けの小麦、ブドウなどが作られましたが、これにはアフリカの他の場所から連れて来られた黒人奴隷も使役されました。

イギリスとグレートトレック

18世紀末のフランス革命後、オランダはフランスに占領され、オランダ政府はイギリスに亡命。その結果オランダの海外植民地にもイギリスが進出していきました。オランダ領ケープ植民地も1795年イギリスが占領しますが、オランダ本国が解放されてもイギリス人は撤退しませんでした。

 

オランダ系の住民(ブール人と呼ばれます)は、イギリスの法律や制度になじめず、1836年には一部のブール人が新天地を求めてケープを後にしました。グレートトレックと呼ばれる、植民活動です。

 

しかし当然ながらブール人たちの行く先にはアフリカ人の王国が既にあり、衝突が繰り返されました。特に19世紀初頭にシャカ・ズールー王によって統一されたズールー王国は、王の死後も東部(現ナタール地方)で非常に強い勢力を誇りました。まあ、アフリカ人にしてみれば、ブール人こそが侵略者なのだから必死に戦うのは当たり前なのですが・・・

南ア諸国

ブール人は苦心の末、3つの国を建設。ナタール共和国オレンジ自由国トランスヴァール共和国です。このうちナタール共和国はすぐイギリスに制圧されてしまいましたが、残る2つの国はケープタウンからも離れており、イギリスも征服を断念。1850年代に独立国として認められました。

 

なお、トランスヴァール共和国の首都がプレトリア、オレンジ自由国の首都がブルームフォンテインという街です。この街は後で出てくるので覚えておいてください。

ダイヤモンドと金鉱

19世紀後半になると、南アフリカの運命を変える出来事が立て続けに起こります。1860年代にオレンジ自由国のキンバリーで大規模なダイヤモンド鉱山が発見され、さらに1880年代にはトランスヴァールでこれまた巨大な金山が見つかりました。莫大な富を生むこれらの鉱山には企業や労働者が押し寄せ、道路や鉄道も建設されました。金山の労働者によって大都市に発展したのが、現南ア最大の都市、ヨハネスブルグです。

ゴールドラッシュ

この頃のアフリカ南部では、家畜に病気がはやり、伝統的な財産たる「ウシ」がウシなわれていました。(いや、笑い事ではありません!)そのため大勢の黒人(アフリカ人)が、これら鉱山に賃金労働者として出稼ぎに行きました。当時奴隷制は廃止されていたものの、彼らは劣悪な環境下、安い賃金で、長時間、奴隷同然のように働かされました。

 

こうした流れのもと、南部アフリカが一つの大きな経済圏としてまとまっていきました。ならば、今は複数の国に分かれている南部アフリカを、一つの国にすべき!という声が上がっていきます。その声に動かされたのが、イギリスでした。当時は帝国主義の下、英仏独伊といった国が世界中の領土を奪い合っていた時代。莫大な富を生む地を、武力を用いても手に入れることは当然視されていました。

ブール(ボーア)戦争

こうしてイギリス下のケープ植民地政府は1899年、オレンジ、トランスヴァール両国に再び戦争を挑みました。ブール戦争(英語読みだとボーア戦争)の開始です。双方に膨大な犠牲を出し、国際的な非難も浴びながら、イギリス政府はこの戦争で両国を破り、1902年占領下に置きました。

ブール戦争

これと前後してアフリカ人の諸王国も次々と平定し、ケープ植民地に組み込んでいきます。先のズールー王国はイギリス軍とも戦い、1879年に降伏していましたが、20世紀初頭まで反乱が繰り返されました。一方でオレンジ自由国らと国境を巡って対立していたソト王国スワジ王国は、イギリスに接近してその保護を受け生き長らえました。これが現在、南アに周囲を囲まれた独立国、レソトエスワティニ(旧スワジランド)です。

3つの首都!?

1910年、それまでのケープ、ナタール、オレンジ、トランスヴァールの4地域が合体し、「南アフリカ連邦」が発足しました。しかし武力でブール人の国を奪ったことは、同じヨーロッパ人でありながら、イギリス系住民とオランダ系ブール人との間に深い不信感を生みました。

 

現在、南アフリカの首都はプレトリアとなっていますが、実は東京やワシントンと異なり、ここには行政府(首相や大統領の働いている場所)しかありません。国会議事堂はケープタウンに、最高裁判所はブルームフォンテインにあります。これは連邦発足当時からのもので、現在に至るまでそのままです。三権分立(行政・立法・司法)を象徴する建物が、各々ケープ、オレンジ、トランスヴァールの首都に置かれることになったのは、ひとえにブール人の不満を少しでもかわそうとする、イギリス系政府の苦肉の策だったのです。

3つの首都

そして、彼らはこうささやきました。「イギリス系だろうとオランダ系だろうと、白人なのは一緒じゃないか? 俺たちは君らを同じ人種だと思うよ。黒人と同じようには扱わないよ。」

差別政策の本格化

こうして白人政府による人種主義政策(この場合は黒人差別政策)が本格化していきます。まず1913年に「原住民土地法」という法律が制定され、白人の土地と黒人の土地が決められ、黒人の持っていた豊かな土地を「合法的に」奪いました。都市の住民に対しても、1923年の「都市地域法」で黒人の居住区が設けられ、彼らはそこにしか住んではならないとされました。当然この居住区は白人居住区と比べて、ヒドイ環境だったことは言うまでもありません。

土地法

同様の政策はアジア人にも向けられました。農業の盛んなナタール州では、地元の黒人がヨハネスブルグやキンバリーへ働きに出てしまい、代わりにイギリス領だったインド出身の労働者が多数働いていました。しかしこのインド人も白人とは別の「人種」として扱われました。この地に弁護士として来ていた若き日のガンディーは、この差別政策を目の当たりにし、後にインド独立運動を志すようになったといいます。

 

しかし、このような政策が本格化するのは、第二次世界大戦後のことです。1925年に、英語と共にアフリカーンス語(オランダ系ブール人の使っていた言語)が南アの公用語となるなど、両者の和解の努力は続いていましたが、イギリス系とオランダ系住民は、なおも対立していました。例えば第一次世界大戦の時も、第二次世界大戦の時も、これに参戦するか否かで両者の意見が割れ、大揉めになったといいます。

 

そこで1948年に政権を採った国民党(NP)は、一層の人種主義政策を採って、白人同士の融和を図ろうとしました。南アフリカは、「白人のための国」の度合いをますます強めていきます。NPによって定められた主な法律や政策には以下の通り。

 

・人口登録法・・・(全南ア国民を、白人、黒人、インド人、カラード(混血)に無理やり分類した法律)

・人種間通婚禁止法・・・(白人と黒人など、異なる人種間の結婚は違法)

・パス法・・・(都市の黒人は住所や職業を書いた身分証明書を携帯しなければならない)

・バントゥー教育法・・・(黒人用の教育法。教育レベルは白人と比べ低く、実社会にも役に立たないものが多かった。)

・ホームランド政策・・・(各黒人系住民の「故郷」を強引に決め、「ホームランド」という国として南アから独立させた政策。黒人を「外国人」扱いにし、都市スラムから排除すると共に、南アの福祉政策などから外したもの)

ホームランド

・また、当時のアメリカでもあったことですが、白人専用・黒人専用のバスやレストラン、トイレなども設けられ、黒人が白人専用のバスに乗ると罰せられました。

 

こうした政策をひとまとめにして「アパルトヘイト(人種隔離政策)」と呼びます。

黒人の抵抗運動

黒人やカラード側は、こうした政策に当然ながら反発しました。とはいえ当然彼らには参政権も与えられていませんでしたから、デモストライキなど、「行動」で抗議することが中心となっていきます。

 

自らの権利を守るため、政府と交渉する政治団体も生まれますが、その代表格が「アフリカ民族会議」(ANC)です。ANCの結成は戦前にさかのぼり、長い歴史をもつ団体でした。そして戦後は、黒人側の政治団体の中心的な組織として、アパルトヘイトととの長い闘いを続けることになります。そのメンバーの一人が、ネルソン・マンデラでした。

 

 

1952年頃からANCは、非暴力の範囲でアパルトヘイトの法律にわざと違反することで抗議。この「馬鹿げた法律」に対し、「逮捕や投獄を恐れない」精神を世界中にアピールしていきます。

 

 

ただし黒人側も決して一枚岩ではありませんでした。ANCの理念が、「黒人や白人に関係なく南アはすべての民族のための国」だったのに対し、「南アはもともとアフリカ人のもの、だから黒人が統治すべき」と主張する人もいました。こちらは後にANCから分離して、汎アフリカ主義会議(PAC)という団体を作ります。

 

 

白人政府はこれらの運動を容赦なく弾圧していきました。1960年、PACのデモがある街の警察署を取り囲んだ際は、警官が無差別発砲する「シャープビル虐殺事件」が発生し、国内外に衝撃を与えました。さしものANCやPACも、一部のメンバーが、反乱や暗殺といった暴力に訴えはじめ、それを口実に両組織は非合法化。マンデラも逮捕され、終身刑を言い渡されました。

南アの孤立化

1960年代のアメリカでは、キング牧師ローザ・パークスなどが政府に対し、やはり非暴力抵抗運動を行い、1964年に公民権法の制定を実現しました。

 

 

国際的にも人種差別への目が厳しくなり、南アフリカは孤立していきます。1961年、イギリス連邦から離脱するとともに、国名を「南アフリカ連邦」から「南アフリカ共和国」に変更します。これにはイギリス本国から離れることで、その抗議を回避する目的もありました。また、アメリカの支持を得ようと反共産主義(反ソビエト)の姿勢を打ち出します。少し後の話ですが、1975年アフリカで始まったアンゴラ内戦やモザンビーク内戦では、いずれもアメリカ寄りの勢力を支援しました。

 

 

しかし1960~70年代といえば、植民地だったアフリカの国々が相次いで独立を始める時期。南アの周辺でも、レソトボツワナスワジランドなど黒人系の国々が独立国となりますが、これらの政府は一貫して南アのアパルトヘイトを非難しました。なお、「ホームランド」を独立国として認めた国は南アを除き、1か国もありませんでした。

南ア孤立化

 

国内では、ANCの非合法化で黒人の抗議活動は一時下火になっていましたが、1968年世界中で巻き起こった学生運動が、再びこの運動に火を着けました。アメリカや日本での学生運動は、政府やベトナム戦争への抗議が主でしたが、南アでは反アパルトヘイトが中心でした。

 

1970年代になると南アは経済制裁を課せられ、また人口多数派である黒人の人材育成を、長い間怠った影響もあって、経済が停滞していきました。こうした不満がつのった結果、1976年には教育制度の改変に抗議したデモが全国的な反乱に発展しました(ソウェト蜂起)。

大転換

国際世論や経済制裁は更に厳しさを増していきました。1980年代には、白人だけで構成された南アのラグビーチームが参加拒否の処分を食らっています。国内の経済も悪化し、それにともなって犯罪も増加していきました。一方、アパルトヘイトの元凶となった、イギリス系とオランダ系の対立は、両者の融合が進んだ当時、もはや問題ではなくなっていました。また、国内の白人の中にも、アパルトヘイトに疑問を呈す人々が増えていきました。

 

 

こうした中、1989年大統領(1984年に大統領制が導入され、代わりに首相のポストが無くなった)に就任したのが、デクラークでした。1989年といえば、冷戦終結、ベルリンの壁崩壊といった大変動の年。南アでもこの年からアパルトヘイトの見直しが始まります。

 

1990年、ANCが再び合法化され、マンデラは27年ぶりに釈放されました。翌1991年にはパス法や原住民土地法といったアパルトヘイトに関連する法律も廃止されました。人の移動も自由になり、不便なホームランドも解体され、多くの黒人が再び都市へ戻っていきました。

 

これを受けて諸外国も経済制裁を解除。南アは国際社会の復帰を果たしました。そして黒人の声も反映した新しい憲法が1993年制定され、その上で選挙が行われました。黒人が全土で参加する南ア初の選挙。この結果、ANCが圧倒的勝利をおさめ、1994年マンデラが、南ア初の黒人大統領に就任しました。

マンデラ政権と新国旗

これに先立つ1993年には、マンデラとデクラークがノーベル平和賞を同時受賞しています。

共存と見えない壁

マンデラ大統領(任1994~99)の政策に置いて最大の特徴は、白人による差別で受けた被害を「ゆるす」というものでした。

 

アパルトヘイトによって多くの黒人たちが、土地、財産、名誉、教育の機会、そして命までもを奪われました。しかし、だからといって白人を追放したり、その財産を無理やり奪い返すことはせず、両者の話し合いと和解をもって解決することを最優先としました。マンデラ政権下で設立された「真実和解委員会」はその象徴です。

 

この後南アは、豊かな資源や、アフリカの中では発展している工業を武器に経済成長を続けていきます。2010年にはアフリカ初のサッカーワールドカップも開催されました。

ブブゼラ

 

しかし南ア社会には、アパルトヘイト後も人種間に見えない壁が立ちはだかっているといいます。法的な差別は消えても、依然として豊かな土地や大企業は多くが白人の手にあり、経済的な格差はそう簡単には埋まりません。

 

もちろん、政治的、経済的に成功した、黒人やカラードのエリート層も誕生していますが、その数はまだまだ少なく、しかも「黒人同士の格差」という新たな分断も生むことにもなりました。ケープタウンやヨハネスブルグなどの大都市では、こうした格差と貧困が強盗や殺人といった犯罪を呼び、その治安は世界的にも最悪のレベルといいます。

 

こうした中、今回のラグビーワールドカップにおいて、南ア選手団(もちろん、様々な人種の混合チーム)が優勝を果たしたことは、この国に明るいニュースとして映ったことでしょう。様々な人々が人種に関係なく、優勝という共通の目的の為に手を取り合った姿は、社会の分断を乗り越える一つの道を指し示したものといえるでしょう。

受け継がれる意志

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