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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

アテネとギリシャ、古代と現代の間に何してた?

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ギリシャとアテネ
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丘の上にそびえるパルテノン神殿。誰もが一度は写真やテレビで見たことがあると思います。古代都市ポリスの代表格であり、現在はギリシャの首都であるアテネ。3000年の歴史を持つこの都市はしかし、ずっとギリシャの中心であったわけではありません。そもそも現在の「ギリシャ」という国自体、その原型が生まれたのは19世紀になってからで、いわゆる古代ギリシャとは時間的に大きな隔たりがあります。

ギリシャはなぜ近代に”復活”し、アテネはその首都になったのか。そこには、偉大な祖先を持ったギリシャ人の苦悩が見え隠れしています…

最大のポリス、アテネ

ギリシャが長い歴史を持つ国であることはよく知られています。今から3000年前にはすでにクレタ島のミノア文明や、ペロポネソス半島のミケーネ文明が栄えていました。

クレタ文明

 

やがてこれらの文明は滅び、紀元前800年頃からは地中海沿岸各地に都市が築かれました。この都市国家をポリスといいます。アテネの場合、ミケーネ文明の頃には既に王国として存在していましたが、時代と共に都市国家へと姿を変え、国王も廃止されました。

ギリシャ人はほかにも、スパルタ、テーベ、オリンピア、ビザンティオンといった都市を築きますが、人口増加による土地不足のため、やがてはイタリア半島や北アフリカにまで進出して都市を築いていきます。例えばイタリア南部の都市ナポリは、「ネオ・ポリス(新しい街)」がその語源だといわれています。

ギリシャのポリス

 

イスタンブールとアンカラ。トルコの中心都市はどっち? より流用。

 

こうしたポリスの住人は、ギリシャ語を話し、オリンピア祭典(オリンピックの原型)に参加し、同じ宗教を信仰するなど、共通のアイデンティティを持っていました。しかし政治的には、各ポリスは独立国家であり、「ギリシャ」という一つの国があったわけではありませんでした。ポリス同士の戦争も多かったといいます。

 

さて、アテネはその中でも最も有力なポリスの一つで、王政廃止後は民主主義的な政治を確立していきます。紀元前に民主主義!?とはビックリですが、これは貴族のみならず、一般人(平民身分)の人々も政治に参加した、ということで、今の日本やアメリカのそれとはだいぶ異なりました。例えば奴隷身分の人間(もちろん彼らに参政権は無し)は当たり前のように存在していたし、女性は平民であっても参政権はおろか、まともに外出する権利もなかったといいます。

 

ただし、奴隷でない平民の男性にとっては、従わなければならない君主がおらず、思想や行動の自由はかなりあったと思われます。彼らが芸術哲学科学において、後の世界に多大な影響を与えるほど高度なものを生むことができたのも、こうした自由な空気があってこそ、だったのでしょう。

三哲

アテネの栄光と没落

紀元前500年、アジアの大国アケメネス朝ペルシャ帝国が侵攻してきました。日頃、互いに争ってばかりいたギリシャのポリスは、共通の敵を前に手を結んで立ち向かいます。このペルシャ戦争でアテネ市民は大活躍し、勝利の記念に大神殿が建てられました。これがパルテノン神殿です。

パルテノン神殿

これと前後して、アテネは周囲のポリスと同盟を結びました(デロス同盟)。この頃アテネでは民主政が完成し、優れた政治家であったペリクレスの元で黄金期を迎えます。しかしデロス同盟は次第に他の同盟国がアテネに服従する関係に変わり、当然アテネ以外のポリスに不満がたまっていきました。

また、この同盟に加わらなかったスパルタは、アテネの強大化がポリス同士のバランスを崩すと危機感を持つようになります。こうして紀元前431年、ポリス同士の激しい戦争、ペロポネソス戦争が起こり、ギリシャ世界全体を疲弊させていきました。

その隙を突いたのがバルカン半島にあったマケドニア王国です。ギリシャ人からは後進国と見られていたこの王国は、フィリッポス2世のもとで軍事大国となり、紀元前337年、アテネを含むポリスをあっさりと征服してしまいます。翌年彼を継いだのが、有名なアレクサンダー大王(アレクサンドロス3世)。この若き王は、大国ペルシャ帝国を滅ぼし、ギリシャから西アジア、中央アジアに至る広大な帝国を建設。ギリシャ文化がアジアへ伝わるきっかけを作りました。

アレクサンダー大王

 

一方のアテネは、こうした外国、しかも強力な君主制の国に支配されたため、政治的自由を奪われ、民主主義政治も次第に消え失せてしまいます。

ローマ時代

そのマケドニア王国は、アレクサンドロスが若くして死去した後に分裂。いわゆるヘレニズム諸国が生まれます。ヘレニズム諸国は互いに勢力争いを続けますが、やがてローマ帝国に滅ぼされていきました。紀元前168年マケドニア王国もこのローマに倒され、同時にギリシャも支配下に置かれます。

アテネはローマ帝国と早くから同盟を結んでいたため、街の復興、発展は比較的スムーズでしたが、無論その関係は対等なものではなく、次第にローマ風の建物(公共浴場や闘技場)も建てられて、その姿を変えていきます。一方のローマ人もギリシャ文明のレベルの高さは認識しており、歴代の皇帝もその思想や技術を取り入れていきました。

更に1世紀以降になると、キリスト教が入ってきます。ローマの伝統宗教もそうですが、ギリシャ人の信仰する宗教は元来多神教でした。これに対しキリスト教は他の神々を認めない一神教だったため、当初ギリシャ人からの抵抗は大きかったようです。しかしキリスト教は、じっくりと確実に広まり、4世紀末にはローマ帝国の国教となりました。

ギリシャへの布教

ギリシャ語を話すビザンツ帝国の人々

そのローマ帝国が395年を最後に決定的に分裂すると、ギリシャは東ローマ帝国領になります。東ローマ帝国の社会は次第に西ローマ帝国や西ヨーロッパから離れていき、7世紀頃までに公用語もラテン語からギリシャ語へと変わりました。古代帝国の面影は薄れ、後の歴史家からはコンスタンティノープル(ビザンティオン)を都とする帝国、ビザンツ帝国と呼ばれるようになります。

この7世紀はビザンツ帝国にとって苦難の時代でした。南からはイスラム勢力が力を伸ばし、北からはスラヴ人が多数侵入してきたからです。ギリシャ人はこの時入ってきたスラヴ人と、混血を繰り返していきます。この中で、自分が古代ギリシャの末裔だと意識する人は減少していきました。ビザンツ帝国の人々も、ギリシャ語を話しながらも、あくまで自分達はローマ人だと名乗っていたといいます。

ビザンツ8c

8世紀には、ビザンツ皇帝レオン3世とによって聖像を拝むことが禁止され、次のンスタンティノス5世時代には聖像破壊まで行われました。ユダヤ教徒やイスラム教徒と同様、キリスト教徒も元来、神の像を作ったり拝んだりしてはいけなかったためです。この破壊行為も、美しい絵や石像を作り続けた古代ギリシャ文化を衰退させる要因になりました(製造製作は9世紀に復活)。

ビザンツ帝国は11世紀に一時力を取り戻したものの、西のカトリック世界とは対立関係になります。ビザンツ帝国におけるキリスト教は、ギリシャ正教、あるいは東方正教などと呼ばれています。

経済面では、地中海に進出してきたイタリアの海洋国家、特にヴェネツィアとライバル関係になっていきました。13世紀にビザンツ帝国は、ヴェネツィアを含むカトリック世界から十字軍の攻撃を受けます。アテネもこの時征服され、アテネ公国が成立しますが、その君主はギリシャ人ではなく、イタリア人(後にはスペインのカタルーニャ人)でした・・・

ラテン帝国

そして14~15世紀には、トルコ人をトップとするイスラム系の大帝国、オスマン帝国が拡大し、1453年にコンスタンティノープルを征服。ビザンツ帝国にとどめを刺しました。アテネ公国を含むギリシャも、間もなくこの帝国に征服されました。

ビザンツ帝国の滅亡後、その人々の多くは、ギリシャ語を話していたことから、ギリシャ人という扱いを受けます。

オスマン帝国で活躍したギリシャ人

トルコ人によって征服されたギリシャ人ですが、もちろんその瞬間に全員がトルコ語を話し始め、イスラム教を信仰するようになるわけではありません。むしろトルコ人は、ギリシャ人ら征服した人々の宗教や生活を維持しました。

コンスタンティノープル改め、イスタンブールの「聖ソフィア聖堂」は、イスラム系のモスク「アヤソフィア」に変えられましたが、東方正教の中心「大主教座」はイスタンブールにそのまま据え置かれ、そのトップたる大主教にはギリシャ人が任命されました。

一方で彼らには人頭税ジズヤを課しました。ジズヤとはイスラム王朝が、非イスラム教徒に課す税金のことです。トルコ人が征服者にイスラムを強制しなかったのも、ギリシャ人らが下手にイスラムに改宗してしまうとジズヤを取れず、税収が下がってしまうためだったとも言われています。ただし、中には改宗者もいたし、征服地ギリシャにトルコ人やイスラム教徒が多数移住することもありました。アテネにも複数のモスクが建てられました。

 

16世紀以降もオスマン帝国は拡大を続け、ヨーロッパ諸国とも戦争を繰り返します。これは宗教戦争というより領土や経済的な争いが主だったそうですが、特にビザンツ時代のライバル関係を引き継ぐ形で、ヴェネツィア共和国とはライバル関係にありました。17世紀末にオスマン帝国とヴェネツィアが戦った時、アテネは軍事要塞とされ、パルテノン神殿はなんと火薬の貯蔵庫とされました。これをヴェネツィア軍が攻撃したため、火薬に引火して神殿は大破。この衝撃は、後の時代アテネの荒廃を招くことになります。

パルテノンの危機

独立のロマン

さて、政治的対立をよそに、ギリシャ人は西ヨーロッパへどんどん進出していきました。トルコの回でも書きましたが、キリスト教徒であるギリシャ人は、イスラム教徒よりもヨーロッパ側の抵抗感がなく、交易もスムーズに行われました。

ギリシャ商人

こうして磨かれた交渉術は、やがてギリシャ人の中に通訳外交官といったエリート層を生み出し、イスタンブール政府の高官に抜擢される人も出てきました。彼らはファナリオティスと呼ばれています。こうした背景から、ギリシャ人コミュニティは、ロシア、オーストリア、フランスなど各地に築かれました。中華街や日本人町のギリシャ版といったとことでしょうか。

一方で、17世紀以降オスマン帝国は停滞、衰退の色を見せ、逆に西ヨーロッパは世界中に進出し、先進的な思想や研究を生み出していきます。18世紀に入ると、絶対王政への批判や国民国家という考えが広まっていきます。これをオスマン帝国に持ち込んだのが、上記のようにフランスやオーストリアの人々と深く関わっていたギリシャ人でした。

 

すると「ギリシャ人はトルコ人とは「違う」人々である!という民族意識が、学者など知識人の間に広まり、それを裏付ける為に、ギリシャの歴史が改めて研究されました。この結果、以下のような考えが生まれます。

「我が先祖は、いち早く民主制を受け入れ、優れた学者や芸術家を多数産みだしたのか、素晴らしい。そんな素晴らしい人々の末裔が、野蛮なトルコ人(←これはイスラム教徒への偏見)の支配下にあるのはおかしい!」

こうして1821年ギリシャ独立戦争が始まります。しかし、当初この運動を支持したのは少数派でした。ナポレオン戦争が終わって間もない英仏露などは、ヨーロッパの安定化を優先して不支持を表明しました。

オスマン帝国内でも確固たる地位を築いていた一部のファナリオティスや教会の大主教も(同じギリシャ人であるにも関わらず)国内を混乱させるとして、この運動に反対しています。

一方で、フランスの画家ドラクロワや、イギリスの詩人バイロンなどは、古代ギリシャのロマンに魅了され、独立運動を支持しました。

ギリシャ独立戦争

最終的にはロシアが同じ東方正教徒のギリシャ人を支援し始め、英仏もロシアの力がこの地に及ぶのを恐れて戦争に介入。1829年ギリシャは独立を果たします。

「正しいギリシャ」とは何だ?

古代ギリシャ文明へのロマンが、ギリシャ国民を創り、そして独立国家を生みました。その首都はかつて最大最強だったポリス、しかし当時は一地方都市に転落していたアテネに置かれることになります。ここにも古代の栄光を象徴する都市に首都を置くことで、ギリシャの独立に正当性がある事を示したかった、という思いが見え隠れしています。

しかしここでギリシャの歴史特有の問題が発生。まずキリスト教(ギリシャ正教)の立場です。紀元前のギリシャ世界には、当然キリスト教はありません。古代のロマンに縛られる限り、キリスト教の存在は極端な言い方をすれば「邪魔」な存在でした。しかしキリスト教は、ビザンツ帝国以来ギリシャ人の中にしっかり根付いていました。この矛盾をどうすんだ!?というのが一つ。

もう一つが言語(ギリシャ語)の問題です。2000年以上に渡り、ギリシャ語やギリシャ文字は存続していました。しかし日本語の現代文と平安文学とでは、大きな差があるように、ギリシャ語も長い時間の中で変化したり外来語を輸入したりして、古代ギリシャ語とは大きく異なっていました。「現代のギリシャ語」と「古代のギリシャ語」、どちらが「正しいギリシャ語」なのか!?

この後、ギリシャ人はこのような、正解の無い問いに悩まされ続けます。

理想と現実

事実、いかにアテネを首都に据えようと、いくらギリシャ語を整備しようと、近現代のギリシャは古代のそれとは大きく異なるものでした。

政治面では、ポリスのような都市国家ではなく、民主政でさえなく、王政が敷かれました。1896年、第1回近代オリンピックがアテネで開催されましたが、その理念はともかく、内容はかつてのオリンピアの祭典とは大きく異なるものです。人々の服装や生活スタイルも、スラヴ人やトルコ人のそれが混ざったものでした。

というかギリシャ人自身、この2000年以上の間に、ローマ人、スラヴ人、トルコ人など他の民族と混血を繰り返した人々なわけで。純粋な古代ギリシャ人の末裔など、もはやどこにも居らず、そもそもそんな事にこだわること自体ナンセンスなのですが、民族主義が重んじられた当時は、古代ギリシャ人の血を受け継いでいるか否かといった研究が大真面目に論じられていました。

さて独立以降、ギリシャは領土を巡って、オスマン帝国や隣のブルガリアなどと戦争(バルカン戦争)を繰り返します。第一次世界大戦の際は、国王コンスタンディノス1世と首相ヴェニゼロスが参戦の是非を争い、勝利したヴェニゼロスにより参戦が決定しました。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、イスタンブールを「取り戻す」ために、トルコに攻め込みました(希土戦争)。この戦争にギリシャが敗れ、トルコと協定が結ばれると、ギリシャ内のトルコ人とトルコ内のギリシャ人が、互いの国へ強制移住させられました。

希VS土

 

世界恐慌では経済的打撃を受け、その混乱はメタクサスという独裁政権を生みました。第二次世界大戦ではイタリア、ドイツ軍の占領を受けます。戦後はソ連の影響力を排すべく社会主義者を弾圧し、1960~70年代には一時軍事政権が台頭しました。

1974年にはギリシャ系住民とトルコ系住民の暮らすキプロスを領土に加えようとして、トルコと対立。この争いに失敗して軍事政権は崩壊し、民主化が達成されました。1981年にはEUの前身であるECに加盟し、2001年にはユーロの使用が開始されます。しかし2011年にはご存知のように、隠していた財政赤字がバレて、EU全体に悪影響を与えました。

う~ん、我ながらロマンの欠片もない出来事ばっかり並べてしまったな(反省)。まあ、ギリシャも他の国と同様、権力争いや不況などマイナスな出来事と無縁ではいられなかったというコトです。

それでも魅力なギリシャ

このように、決して穏やかでない歴史を経験してきたギリシャとアテネですが、それでも変わらないものは多々あります。

地中海性の穏やかな気候とそこで採れるオリーブやブドウ。エーゲ海の美しい海。これらはそこに暮らす人々が変わっても絶えずそこにあったことでしょう。また、海に突き出したその地理的な特徴は、ギリシャで暮らす人々に、海の向こうへ漕ぎ出すインセンティブを与えました。古代、中世、近世、近現代と、いずれの時代もギリシャ人は、その目を外に向けていた印象があります。世界各国が内向きにシフトする兆しのある現代、今一度ギリシャ人の歴史を見つめ直すのも良いかもしれません。

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