20世紀その2~新たな戦争の形~
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今回は1914年から1929年の世界を見ていきます。
もくじ
第一次世界大戦
1914年のサラエボ事件で始まった第一次世界大戦は、それまでの戦争と大きく異なるものでした。
オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ1世皇帝は、セルビア王国に宣戦布告。このセルビアを、同じスラヴ系で東方正教徒の多いロシア帝国が支援しました。更にロシアは三国協商でイギリス、フランスと結んでおり、イギリス側には日英同盟を結んでいた日本もいました(連合国)。
オーストリア・ハンガリー帝国の側には三国同盟を結んでいたドイツ帝国、イタリア王国がおり、オスマン帝国もドイツ側に立って参戦(同盟国)。ただし、イタリアはオーストリアと領土問題を抱えており、同盟を解消して英仏側に立ちました。こうしてヨーロッパの大国が互いに激突する構図が出来上がります。
実際の戦闘を見ると、むやみに敵陣に突っ込んでも、新兵器マシンガンによりなぎ倒されるだけなので、地面に隠れられる塹壕を掘って機会をうかがう持久戦になりました。しかし、こんな劣悪な環境に長時間いれば、戦わずして兵士が弱ってしまう。
膠着状態を打開すべく、更に新兵器が登場しました。銃弾を跳ね返す戦車や、ライト兄弟が発明したばかりの飛行機、更に一度に大量の人間を殺傷できる毒ガスなどが使われますが、敵国もすぐに同じ兵器を用いた為、突破口を見いだせないまま時間と弾薬、兵士の命ばかりが浪費されていきました。
銃後の社会では、男性が戦場に駆り出されたために労働力が不足し、女性がその代わりを務めました。弾薬など戦争に必要な物資も主に彼女達によって生産されました。まさに全国民が戦争とかかわる、総力戦となったのです。
何とか事態を前に進めたい両陣営は、「背に腹は代えられない」と、次第に無謀な策を講じていきました。連合国はインドやベトナム、アフリカといった植民地からも兵士を集め、戦力補充をしました。また、オスマン帝国から自立したがっていたアラブ人に接近し、この国を内部から揺さぶる作戦に打って出ました。同盟国側、特にドイツは、新兵器の潜水艦(Uボート)で海上の船を攻撃しますが、次第に戦争と無関係の船も標的にしていきました。
こうした中、社会が限界に達したロシアで革命(1917年)が起き、ソヴィエト政権が発足。戦線から離脱します(後述)。ドイツは英仏側に戦力を集中させました。中立国ながら連合国を金銭面で支援していたアメリカは、ドイツのUボートがアメリカ船を攻撃したことを理由に1918年正式に参戦。圧倒的な物量を誇るこの大国により、同盟国側は追い詰められていきます。
1918年末、ドイツの兵士が反乱を起こし、これがドイツ全体をまきこむ革命に発展。皇帝ヴィルヘルム2世が退位します。この前後にオーストリア、オスマン帝国も降伏し、戦争は連合国側の勝利で終わりました。戦死者は1000万人を超える、当時としては空前の規模となった他、ロシアでは革命後の内戦が更に多くの人命を奪いました。
また、兵士の間にスペイン風邪(インフルエンザと言われている)が流行し、やがて一般の人にも感染して、戦争を上回る死者を出したことも近年ではよく知られる事実となりました。
第一次世界大戦の後・・・
第一次世界大戦の戦後処置は、1919年のパリ講和会議で話し合われることになります。これに出席したアメリカのウィルソン大統領は、紛争を解決する手段として、国際連盟を設立することを提案。また、「勝利なき平和」を掲げて、敗戦国ドイツを寛大に扱いよう求めました。
しかし会議の結果結ばれた条約(ヴェルサイユ条約)は、ドイツに海外の植民地を放棄させ、軍隊も所持禁止、更に天文学的な賠償金を課すという、厳しい内容でした。戦争でコテンパンにされたイギリスやフランスが、その復讐と言わんばかりに、このような厳しい条件をつけたことは、後に大きな災厄を生むことになります。
また国際連盟は実現したものの、肝心のアメリカ議会が今後の中立外交を守り切れないとして加盟に反対。ウィルソン外交は失敗に終わってしまいました。
この後欧米諸国や日本は、互いの軍隊を減らそうという会議を開き、軍縮を進めていきます。これは各国間の緊張を緩和すると共に、国の予算削減にも繋がりましたが、国力が低下するとして反対する人もいました。
ヨーロッパ
ロシア
第一次世界大戦で連合国側に立って戦っていたロシアですが、空前の規模で展開されるこの戦いに、人々の負担は限界に達しました。1917年、民衆は皇帝ニコライ2世を退位に追い込み、300年続いたロマノフ王朝にピリオドを打ちます(三月革命)。後にはケレンスキー率いる臨時政府が立ち上げられました。臨時政府は言論の自由や普通選挙の実施などを宣言しますが、これにより政治運動も活発化しました。そして労働者達の支援を受けた社会主義者(ボリシェヴィキ)が勢力を拡大します。亡命先から帰国したレーニンは、臨時政府を倒して史上初の社会主義政権を立ち上げました(十一月革命)。これが「ソヴィエト」です。
レーニンは革命に集中すべくドイツと講和条約を結んで(ブレスト・リトフスク条約)、第一次世界大戦から離脱しますが、ソヴィエトの立ち上げに反対する人々も相当な数に及び、今度はロシア国内を内戦の嵐が吹き荒れます。この中で旧体制の象徴だったニコライ2世一家は処刑されました。
抵抗の激しさに、さしものレーニンも革命の手を緩め、1921年から部分的に資本主義を取り入れた政策に切り替えます(ネップ)。1924年レーニンが死去すると、スターリンが政権を引き継ぎました。彼はライバルのトロツキーを強引に排除するなど、正当とは言えないやり方で政府のトップとなったため、革命を徹底的に実行することでその支持を得ようとします。
ネップは中止され、農民はコルホーズと呼ばれる組織に組み込まれ、集団化されました。1928年からは資金を工業の近代化に集中させる、第一次五カ年計画を開始しました。この一方、スターリンは政敵や疑わしき人物を徹底的に排除、殺害していくことになります。
中・東ヨーロッパ・中央アジア
第一次世界大戦の末、ロシア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ帝国はいずれも崩壊しました。これに伴い、帝国の支配下で民族主義を主張していた人々は一斉に独立を宣言していきます。
ポーランドは、18世紀末に3帝国によって分割されていました。奇しくもこの3帝国が崩壊する中、ドイツ軍側に立っていた将軍ピウスツキが、ロシア領だったワルシャワにて独立を宣言。100年以上地図から消えていたポーランドが復活を果たします。ただし、分断された3つの地域は100年の間に各々変化を遂げており、これをいかにつなぎ合わせるかが、ポーランドの大きな課題となります。
オーストリアと二重帝国を形成していたハンガリーも正式に独立します。ただし、戦後はハンガリーも敗戦国として扱われ、1920年のトリアノン条約で定められた領域は、中世王国時代のものよりはるかに狭い、マジャール人が主に居住する地域に限られていました。例えばそれまでハンガリー領だったトランシルヴァニア地方は、戦勝国のルーマニアに組み込まれています。
世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ハンガリーの歴史~ より
オーストリア下にあった、ボヘミアを中心とするチェコと、ハンガリーの一部だったスロバキアは、同じ西スラヴ系住民の地域として合併し、チェコスロバキアが誕生。
同じくオーストリア・ハンガリー帝国の下にあったスロベニアとクロアチアは、南スラヴ系の住民が多く住む地域でした。両者は民族的に近く、すでに独立国だったセルビア王国との合併を進めます(モンテネグロ王国も合併)。ここに「スロベニア・クロアチア・セルビア王国」という、なが~い名前の王国が誕生。後に改名され、ユーゴスラヴィア王国となります。
一方のオーストリアは、ウィーンを中心としたドイツ系住民居住地とアルプス山脈の一帯を残し(つまり現在のオーストリア領域)、それ以外の地域を全て失います。ハプスブルク家による帝政も崩壊。こうしてかつてヨーロッパ中央部に大帝国を築いていたオーストリアは、大国の地位から転げ落ちてしまいました。
1905年のロシア革命で、一度大きな政治的自治を得ていたフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニアは、今回の革命を機に正式にロシアの元を離脱。国際的にも独立を認められます。しかしウクライナや、コーカサス地方(アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア)では、同じように独立宣言が出されたものの、内戦の中臨時政府がソヴィエト政府に取って代わられ、結局この大国に飲み込まれてしまいました。
同じくロシアの元にあった中央アジアでも、ロシアからの自立を掲げていましたが、ソヴィエト軍はこれを押しつぶしてしまいます。16世紀から細々と続いていたブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国もこの時正式に廃止されました。1924年中央アジアは、“民族別に”カザフ、ウズベク、キルギス、タジク、トルクメンというソ連内の共和国に再編されますが、この“民族”の算定と国境線の引き方は相当無理のあるもので、スターリン政権の思惑が多分に含まれたものでした。以後中央アジアは、綿花農場や政治犯の流刑地、ロシアやウクライナの農民の入植先として引っ掻き回されることになります。
ドイツ・フランス
帝政が崩壊したことで、ドイツは共和国となり、エーベルトが大統領となります。
繰り返しになりますが、戦後のパリ講和会議にてドイツはトンデモナイ金額の賠償金を要求されます。さらに仏独の係争地アルザス・ロレーヌ地方をフランスに割譲し、アフリカやオセアニアにあった海外植民地も奪われ、軍隊も制限。負けたとはいえ、これはあんまりだとドイツ国民の恨みを買いました。
それでもドイツは力強く復興していきます。同じ1919年、新憲法(ワイマール憲法)が制定されますが、これは社会権(生存権など)が初めて認められる画期的なものでした。
この後ドイツは国際社会への復帰を目指そうとしますが、当時のフランスはそれを許そうとしませんでした。対独強硬派のポアンカレ仏首相は、1923年賠償金支払いが滞納しているという理由で、ベルギーと共にドイツの工業地帯であるルール地方を占領。これによりドイツ産業が打撃を受け、ハイパーインフレが発生。当時の通貨マルクの札束が紙くず同然の価値しか持たなくなります。フランスの情け容赦ないやり方を許す政府に対し、独南部のミュンヘンでは反乱が起こりました。これを率いたのが、若き日のヒトラーでした。結局アメリカが仲介に入り、フランス、ベルギー軍は1924年にルールから撤退します。
このドイツを救ったとされるのが、シュトレーゼマン首相でした。彼は新しいマルク札(レンテンマルク)を発行してインフレを抑えます。その後シュトレーゼマンは外交官として活躍し、賠償金の軽減、そして国際連盟への加盟を実現。ドイツを何とか国際社会の席に座らせることが出来ました。この功績から、彼は1926年ノーベル平和賞を得ています。
この頃にはようやくフランスも態度を軟化。1928年には戦争を外交問題の解決手段に用いないという、ケロッグ・ブリアン条約が結ばれますが、この条約を唱えたブリアンは、フランスの外交官でした。
イギリス・アイルランド
アイルランド自治を延期されてしまったアイルランド人は、その後の行動は様々でした。見返りを期待してイギリスと協力する者と、ドイツと協力してイギリスを揺さぶる者という、目的は同じなのに行動は正反対という集団がそれぞれ存在し、これに加えて独立を望まない人々(当然イギリスに協力)もいました。過激な独立派はIBRという武装組織を結成し、1916年に首都ダブリンで大規模な反乱を起こしました。イースター蜂起です。
イギリス政府はこの事件の後、アイルランド人を弾圧したため、かえって彼らの独立心に火を付け、完全独立を目指す政党、シンフェイン党が支持を集めます。シンフェイン党のデ・ヴァレラは、戦後の1919年に独立宣言し、アイルランド独立戦争を開始。1922年アイルランド自由国として独立を果たします。ただし、アイルランド北部には独立を嫌がる人が多数派だったことから、イギリスにとどまりました。
イタリア
三国同盟を解消し、第一次世界大戦に連合国として参加したイタリア。ヴェルサイユ条約では、オーストリアから「未回収のイタリア」というイタリア人居住地(トリエステなど)を獲得します。しかしその全部を得たわけではなく、多くの犠牲を出した国民には不満が残りました。
しかも戦争が終わると不況が訪れ、失業者が溢れる事態に。労働者の要求も苛烈さを増します。これに対し、地主や資本家などは、運動を抑え込める集団を求めましたが、これに応えたのが、ムッソリーニの率いるファシストと呼ばれる集団。私設軍隊を持つファシストは暴力を持って混乱を収拾し、国民の支持を得ます。その後政党を作って国の政治にも参加。1922年には自らの軍をローマに進めました。時の国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、ムッソリーニを首相に任命し、ファシスト党政権が発足しました。
ムッソリーニは、イタリア国民を「結束」させるため、様々な組織を作って、彼らをその一員としました。この組織を通じて国民を統制したのです。福祉政策を充実させて人々の不満を解消させる一方、反対派は容赦なく弾圧。ファシスト党員によると思われる暗殺事件も起こりました。
1929年には、19世紀から国交断絶状態だったローマ教皇とラテラノ条約を結んで、その主権を認めました。すなわちバチカン市国という国の成立で、これによりカトリック信者の支持を得ることに成功したムッソリーニは、更に強い権力を持つようになります。
スペイン・ポルトガル
第一次世界大戦で、スペインは中立、ポルトガルはイギリス側に立って参戦しました。しかし、戦争に参加しようがしなかろうが、モノ不足やインフレが起こり、国民を苦しめました。加えてスペインでは後述の通りモロッコの反乱に悩まされ、結局銃を置くことは出来ず。現状を打破しようという動機から、スペインでは1923年に軍人のプリモ・デ・リベラが、ポルトガルでは1926年、同じく軍人のコスタがクーデターを実行。両国ともそろって軍事独裁政権となってしまいます。
北欧・ベネルクス・スイス
第一次世界大戦で北欧諸国(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー)とベネルクス諸国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、それにスイスはいずれも中立を宣言します。ドイツ、フランス、ロシア、イギリスといった大国の周辺に位置するこうした国々が、その大国同士の争いに首を突っ込んでもヤケドするだけと判断したのでしょう。
ただし、戦争の当事者は必ずしも中立国をスルーしてくれるとは限りませんでした。例えばベルギーは中立国だったにも関わらずドイツ軍に侵入され、あろうことかフランス軍との戦いの場となってしまいます。
小国ルクセンブルクもまたドイツ占領されてしまいました。デンマークやノルウェー周辺の海域もまた作戦上重要な場所で、機雷の設置などの要求を突き付けられました。
戦後、これらの国々は国際連盟を積極的に活用し、周辺国のトラブル解決に努めました。もう他国の争いのせいであんな目に遭うのは、金輪際ゴメンだ!という切実な思いがあったのでしょう。国際連盟の本部は、永世中立国スイスのジュネーヴに置かれました。また、戦争や革命の混乱で、難民が大量に発生しました。彼らを救おうと奔走したノルウェー人の探検家ナンセンは、1922年ノーベル平和賞を受賞しています。
なお、ロシア革命の影響は北欧にも浸透し、1920年代のスウェーデンやデンマークでは、社会主義色の強い政党が政権を担うようになります。
ギリシャ・トルコ
オスマン帝国は第一次世界大戦でドイツ側に立ちます。国内を一致団結させたい政府(青年トルコが多数)は、トルコ人以外の民族を圧迫しました。この結果1915年には、政府と対立していたコーカサス地方のアルメニア人が、宿敵ロシアと通じているなどと言われて大量虐殺される(100万人とも)事件が発生しました。アルメニアは19世紀にロシアとオスマン帝国に分断されていましたが、生き残ったアルメニア人の多くがロシア領アルメニアに逃げ込み、トルコ側のアルメニア社会は崩壊してしまいます。
しかしアラブ人の反乱などもあり、結局オスマン帝国は敗北。講和条約では現在のトルコ共和国におおむね匹敵するエリアを残し、領土を大きく削られました。
一方、大戦で連合国側についたギリシャは、領土拡大を狙ってオスマン領に侵攻します(希土戦争)。もはやスルタンに国を任せてはおけないとトルコ側で立ち上がったのが、ムスタファ・ケマルでした。ケマルはギリシャ軍を追い出した後、1922年にイスタンブールのスルタンを廃止し、1923年トルコ共和国を建国。ここに500年続いたオスマン帝国は終焉を迎えます(トルコ革命)。
ギリシャのヴェニゼロス首相は、ケマル政権のトルコと講和した後、双方の住民交換を行いました。つまり、トルコ在住のギリシャ系住民と、ギリシャ在住のトルコ系住民を強制的に移動させるというもの。民族への過度な意識がここでも多くの混乱を起こしました。
アジア
イラク・シリア・アラビア
第一次世界大戦中、オスマン帝国と敵対関係にあった連合軍は、この国を内部から動揺させて戦況を優位にしようと画策。それには当時帝国内で盛んになっていた、アラブ人の民族主義を利用しました。
イギリスは、メッカの統治者フサインに接触し、協力を呼びかけました。その見返りにはアラブ人の国を作り、オスマン帝国から独立させることを約束します。このフサイン・マクマホン協定で、アラブ人はオスマン軍に対し反乱を起こしていきました。
しかしこの約束が守られることはありませんでした。実のところイギリス政府は、ヨーロッパのユダヤ人に金銭的な支援を求めており、その見返りにユダヤ人の国家を彼らの故郷に作ることを約束していました(バルフォア宣言)。その故郷とは、パレスティナ地方、つまりアラブ人が独立したがっている中東のど真ん中で、先ほどのフサイン・マクマホン協定と矛盾するものでした。
しかも英仏露は、密かにこのパレスティナやシリアを戦後分割する秘密協定(サイクス・ピコ条約)を結んでおり、ハナから上のような協定を守るつもりはなかったのです。(サイクス・ピコ条約はロシア崩壊後、ソ連政府によって暴露されました)
戦後、敗北したオスマン帝国は、シリア、パレスティナ、イラク、ヒジャーズ(メッカなど)を失います。しかし英仏はサイクス・ピコ条約のもと、シリア、パレスティナ、イラクを分割。シリア主要部とレバノンはフランス領、シリアの南側(現ヨルダン)、イラク、パレスティナはイギリス領となりました。
アラブ独立をあきらめないフサインは、メッカを中心としたヒジャーズ王国を建てました。この結果、アラビア半島の最南部にオスマンの力が及ばなくなり、こちらもイエメン王国として独立します。
一方ヒジャーズ王国と対決したのが、リヤドを中心としたサウード王国。20世紀初頭に成立したサウード王国は、激戦の末1925年にヒジャーズ王国を倒し、これを併合しました。アラビア半島は、イギリスの保護下になっていたオマーンなどの沿岸地域と、サウード王国と協定を結んで生き残ったイエメンが残されたのみで、残る地域はすべてサウード王国領となりました。後にサウジアラビア王国となる範囲がこうして出来上がります。
イラン アフガニスタン
イラン(カージャール朝ペルシャ)とアフガニスタンは、いずれも英露のグレートゲームに巻き込まれ、これに対する抵抗運動も激しさを増していました。
ロシア革命による内戦で一時的にロシア(ソ連)の影響力が後退すると、アフガニスタンではイギリス軍を武力で追い出し(第3次アフガン戦争)、独立を回復しました。
ペルシャでもロシアの勢いが後退したことで、イギリスによる保護国化が1919年に宣言されましたが、これにペルシャ人達は反発。事態を収拾できないカージャール王室を見限った軍人、レザー・ハーンが1921年クーデターを起こします。彼は1925年即位し、パフレヴィー王朝を開始しました。以後、レザー・ハーンは、強力な権力を手にし、近代化という名の西洋化を推し進めていきます。
アフガニスタン独立を実現した国王アマヌラー・ハーンもまた西洋化にも力を入れ、1924年にはアフガン初の憲法を制定。西洋型教育の導入や、チャドル(女性が頭に身に着ける布)の着用義務廃止などの改革を行います。しかしこれが、伝統文化を破壊するものと批判され、1929年に退位に追い込まれました。
日本・朝鮮半島・台湾
第一次世界大戦には、日本も日英同盟を理由に連合国側で参戦。ドイツが領地としていた中国の青島などを占領します。これと共に、辛亥革命の直後で社会的に不安定だった中華民国の政府に対し、山東省の領地や鉄道の権利などを日本に渡すという、21カ条の要求を突きつけました。
また、戦場となっているヨーロッパで武器や弾薬が不足。日本ではこれらを生産、大量販売したため、軍需産業は大儲け!いわゆる成金が出現しましたが、この分野と無関係な多くの人々は貧しいままでした。
戦時中にロシア革命が起こると、社会主義が日本に入ってくることを恐れた日本政府は、シベリアへ兵を送りました。このシベリア出兵で、兵士に送る大量の食糧が必要になり、国内ではコメの値上がりが深刻化(中には値上がりを待って売り惜しみする米問屋もいたとか)。
ただでさえ苦しい生活を行っていた庶民はこの事態に怒り爆発!1918年富山で始まった反乱が全国に広がります。この米騒動の結果、当時の寺内正毅首相は失脚。いわゆる藩閥(薩長など)出身でない初の首相、原敬政権が発足しました。1919年、原は男子選挙権の拡大を実現しますが、まだこれは不十分なものでした。
敵国ドイツやオーストリアが皇帝による独裁だったこと、またウィルソン米大統領が、民族自決(各民族は自分で政治を決めるべし)の考えを主張したことから、日本やその統治下の地域でも民主主義や民族運動の声が上がりました。
1919年、日本支配下の朝鮮半島で、独立を主張する三一独立運動が、柳寛順ら活動家によって起こりました。日本側はこれを武力で弾圧し、多くの死傷者を出して鎮圧しますが、その後の朝鮮人への規制を緩和し、出版などの自由をある程度は認めました。
台湾でも知識人、林献堂らにより日本人との差別撤廃や教育の充実が叫ばれました。同時に台湾民族主義運動も行われ、1922年には台湾文化協会を設立。自身の文化を見直すようになります。
また国内でも、吉野作造の民本主義(政府は民のことを第一に考えるべし!)思想に支えられ、様々な社会運動を行います。平塚らいてふらによる女性解放運動や、全国水平社による部落差別撤廃運動、堺利彦らによる社会主義運動はその主なものでした。一連の動きを大正デモクラシーと呼びます。
戦争が終わると、軍需がストップして不況が訪れます。追い打ちをかけるように1923年関東大震災が起こり、東京を中心に10万を超える死者が出ました。デモクラシーの動きもさすがに震災で一時ストップしますが、復興と共に運動も再開。この結果、加藤高明政権のもとで1925年男子普通選挙(25歳以上のすべての男子に選挙権)が実現。しかし社会主義者など、「危険分子」とされた人々を排除するための治安維持法も同時に制定されました。
そんな折、大正天皇が崩御。1926年末、年号が昭和となります。しかし不況はますます激しくなり、企業や銀行の倒産が続出(昭和恐慌)。大蔵大臣の高橋是清はなんとかこれを収束させますが、この直後、更なる不況の波が日本や世界を襲うことになります。
中国
辛亥革命の混乱が収まらない中、北京で政権を握っていた袁世凱は、日本の出した21カ条の要求を飲まざるを得ませんでした。袁世凱のやり方に反対する中国各地の有力者が「軍閥」として離れ、中国は事実上分裂状態になります。更に第一次世界大戦中、日本はドイツ領だった山東半島を占領します。
このような日本の帝国主義政策に対し、抗議する人々も続出。1919年起こった五四運動はその典型でした。この頃には中国人にも西洋科学や思想を身に着けたエリート層が登場し、一般人も古い風習を改めるような活動を行っていきます。『阿Q正伝』で当時の中国社会を批判した魯迅は、その代表格でした。また、ロシア革命の成功から社会主義を重んじる人々も増加し、1921年には中国共産党が結成されました。
一方、中国南部を統治するにとどまっていた、孫文の率いる国民党は、この共産党と手を組んで、中国の再統一を進めようとします(国共合作)。その最中1925年孫文が死去すると、その跡を蔣介石が継ぎました。
この頃、中国北部では日本に協力していた張作霖が最大勢力となっていました。これに対し国民党軍は軍を北に進め、1928年北京を奪って何とか中国統一を実現。逃げた張作霖は、日本軍に裏切られて爆殺されてしまいました。
モンゴル
清の時代から民族主義を育てていたモンゴルは、辛亥革命をチャンスと見て独立を宣言します。この動きを支援していたのが、モンゴルと国境を接するもう一つの国、ロシアでした。ロシアも中国との関係悪化を懸念してモンゴルの独立こそ認めませんでしたが、モンゴル独自の君主(ボグド・ハーン)をトップとする独自の政権を建てることは了承し、1915年に中華民国の政府にもこれを認めさせました。しかし1917年そのロシアが革命で崩壊。後ろ盾を失ったモンゴル自治政府は、1919年中国の圧力によりいったん解体されてしまいます。
とはいえ、まだ中国は不安定な状態。モンゴル人は、今度はソ連に助けを求めます。ソ連政府も、社会主義をアジアに広める足掛かりにこれを利用できると判断し、1921年ボグド・ハーン政権の復活を支援。1924年にボグド・ハーンが死去すると、本格的に社会主義政権を発足させました。モンゴル人民共和国の成立です。とはいえ、これはソ連とモンゴルが一方的に作った政権にすぎず、中国としては、モンゴルは自国の一部!という立場でした。
インド
第一次世界大戦では、イギリス領のインドやビルマ(ミャンマー)、フランス領のベトナム等からも兵士が動員され、遠い異国の地で最期を迎えた人も少なくありませんでした。彼らが戦争に協力した理由の一つに、英仏からの「見返り」を期待したからです。
インドでは1919年、新しいインド統治法が制定され、確かにインド人の権利は拡大しました。しかし同時に、インド人を逮捕令状無しで拘束できるローラット法も制定され、インド人逮捕が“容易”になりました。更に同年アムリットサル事件が発生。これはローラット法に抗議したインド人が多数虐殺されるという悲劇で、これを見たインド人エリート層も、もはや対英協力だけでは不十分と感じるようになります。
ここに登場したのが、南アフリカで弁護士として活躍していたガンディーでした。彼は有名な非暴力非服従運動を開始します。つまり武力に頼らない形でイギリスに抗議するというものです。例えばイギリス製品を買わずに、伝統工業で作った物を使うことを推奨。イギリスの利益を下げると共に、産業革命で打撃を受けたインドの繊維産業を復活させ、更にそれまで少数のエリートが中心だった独立運動に一般大衆を参加させることを可能としました。しかしその大衆の一人が暴力事件を起こした為、1922年ガンディーは運動を一時中断してしまいます。
なお、イギリスの保護国(インドとは異なる立場)として第一次世界大戦に参加したネパールは、兵士たちが大いに活躍したことと、ロシアの脅威が革命で一時的和らいだことにより、1923年完全独立が認められています。
東南アジア
インドと同様に東南アジアでも、イギリスやフランスに対する抵抗運動が激しくなり、また、ロシア革命に影響されて社会主義を主張する集団も登場しました。
ベトナムでは、ドンズー運動を起こしていたファン・ボイ・チャウが1925年逮捕されますが、同年グエン・アイコック(後のホー・チ・ミン)により、ベトナム青年革命会が結成されました。彼は労働争議を政治運動と結びつけ、多くの労働者層を動員してフランス支配を揺るがしていきます。
当時オランダ領だったインドネシアでもブディ・ウトモに続く政治組織が誕生。1927年にはスカルノによって、インドネシア国民党が結成されました。
この他イギリス領ビルマでは1923年にGCBA(ビルマ諸協力総評議会)が、アメリカ領フィリピンでも1929年社会党が結成され、各々政治の権利を取り戻していきます。
独立国のシャム王国(タイ)でも1920年には不平等条約の改正に成功しました。一方で国内に住む中国系住民(華僑)を排除する動きも激しくなっていきました。これもまた、民族主義の主張が表面に出てきた事例でした。
アフリカ
中南アフリカ
第一次世界大戦では、ヨーロッパの植民地となっていたアフリカの人々も、兵士として参加しました。連合国の勝利に貢献したと感じた英仏植民地のアフリカ人も多く、また戦争でボロボロになったヨーロッパを見た彼らの中には、ヨーロッパ人も決して万能ではないことを知ります。
一方、アメリカ大陸の黒人もこの頃から自分達の権利を主張しはじめます。奴隷制はすでに廃止にはなっていたものの、アメリカでは依然として黒人差別がまかり通っていました。これに対抗する運動をネグリチュード運動と呼びます。
ネグリチュード運動は、現地アフリカ人にも影響を与えます。そして今は植民地となっている自分たちの土地や人々のアイデンティティを重んじる、パン・アフリカ主義という考えが生まれました。そして植民地政策に立ち向かい、やがては独立運動へと発展することになります。
北アフリカ
同じアフリカ大陸でも、アラブ人の多い北アフリカではまた様子が異なっていました。
モロッコは当時フランスとスペインによって分割支配されていました。現地住民が一致団結して植民地支配に抵抗することを恐れた政府は、彼らを分断させる策を採ります。モロッコでは、アフリカに古くから住んでいたベルベル人と、7世紀以降にやってきたアラブ人が共存していましたが、フランス政府は両者に別々の法を制定し、これを分断しようとします。
しかしモロッコ人はこの政策に反発し、かえって団結。抵抗の反乱が起こりました。アブデル・クリムの元、1920年に始まったリーフ戦争は、スペイン領で起こった最大の反乱で、一時スペイン領モロッコは半独立の状態にまで達します。しかし反徒がフランス領モロッコにも侵入したため、結局はフランス軍に抑えられ、失敗に終わりました。
一応の独立回復に成功したのはエジプトです。第一次大戦中イギリスは、スエズ運河を奪われないようにするため、エジプトを正式に保護国化しました。戦後、民族主義の元で結成されたワフド党が活躍。イギリスは1922年にエジプト独立を承認しました。とはいえ、スエズ運河はもちろん、国内各地にイギリス軍が残っており、政府も国王もまだまだイギリスの顔色をうかがう状態。この状態が解消されるのには、1950年代を待たねばなりませんでした。
なお、1922年は、考古学者ハワード・カーターによりツタンカーメンの墓が発見された年でもあります。
オセアニア
第一次世界大戦の結果、オセアニアにあったドイツ領はすべて他国の統治下におかれました。このうち、ミクロネシアに属するパラオやマーシャル諸島は国際連盟によって日本の委任統治領となります。日本はパラオに南洋庁という政府機関を作り、魚の加工や、熱帯気候を利用した作物を作り始めました。島民には日本語教育も行われました。この結果現在のパラオ語には、日本語由来の言葉が多く残っているのだとか。
また、未だイギリス領という扱いだったオーストラリアとニュージーランドは、第一次世界大戦で大きな犠牲を出しました。その為パリ講和会議では、イギリス本国とは異なる独自の代表を派遣し、徐々にですが独立国としての存在感を強めていきます。
アメリカ大陸
メキシコ
メキシコ革命はその立役者であるマデロ大統領が暗殺された後も続きます。彼の遺志を継いだカランサ大統領は、農民への土地再分配、工場労働時間の上限などを定めた、当時としては非常に民主的な1917年憲法を発布します。革命家のサパタやビリャは更に踏み込んだ社会改革を求めましたが、この結果政府と対立し、内戦へと発展。この最中にカランサ、サパタ、ビリャいずれもが反対派により命を落としてしまいます。メキシコ革命が最終的に落ち着きを見せるのは1930年代を待たねばなりませんでした。
中米・カリブ諸国
メキシコと南米大陸に挟まれた中米やカリブ海は小国が多く、アメリカの暴力的な支配(棍棒外交)に晒されていました。第一次世界大戦中は特にドイツがこの地を占領しないよう、アメリカの直接的な支配下に入った国もありました。ハイチ、ニカラグア、ドミニカ共和国などです。
この他、キューバやパナマなどもアメリカ政府の言いなりで、パナマ運河は1914年に開通しましたが、これを経営していたのはアメリカ人でした。このようなアメリカの行動に対する運動も行われます。ニカラグアでは、サンディーノ率いる民族主義者が、1927年アメリカに対し反乱を開始しました。
南米諸国
アメリカ企業や少数の金持ちに経済を握られていた南米諸国では、この時期から知識人などの中間層が出現し、貧しい労働者達も結束して行動を起こすようになりました。加えてメキシコ革命やロシア革命の報が伝わると、こうした運動が一層高まって行きます。また、この時期には一部の国で普通選挙が導入され、収入に関係なく参政権を持てるようになります。すると政治家たちも、数に勝る一般民衆を味方に付けるような政治活動を余儀なくされました。
アルゼンチンでは、1916年に初の普通選挙による大統領選でイリゴージェン大統領が誕生。年金法、労働法など、民衆の望む政策を実施していきました。
ペルーでも、民衆の声に応えて大統領となったレギーア政権が、1919年に誕生します。彼は民衆の声に応えようとしますが、経済力を持った地主層の抵抗も強く、改革は不十分でした。これに対し、格差解消や外国企業の国有化を訴える政治組織アプラが1924年誕生。後のペルー政治に大きな影響を与えることになります。
チリでも労働者の声に抗しきれず1924年に労働法が制定されますが、一方で大規模な変革を行えるように、大統領の権限も強化されることになりました。
エクアドルでは、グアヤキル革命の後、新興の富裕層と結びついた自由党政権が続いていました。しかし1920年代に輸出品のカカオが低迷し、この富裕層と自由党政権を揺るがすことになります。そして1925年7月に労働者の訴えに同調した軍部が自由党政権を崩壊させました(七月革命)。
ベネズエラでは1914年に大規模な油田が見つかります。当時のゴメス大統領はアメリカのスタンダード石油会社などに開発を委ねますが、石油産業はその後、ベネズエラ最大の産業へと成長していきます。労働者運動はベネズエラでも起こりましたが、他国と異なり石油という強力な武器を持った政府を揺るがすには至りませんでした。
ブラジルは南米で第一次世界大戦に参加した数少ない国の一つでしたが、戦争を通じて民族主義が高まりを見せ、この頃から人々は「ブラジル国民」を強く意識するようになります。ただし、ブラジルでは当時未だ普通選挙制は導入されておらず、依然としてカフェコンレイテの状態が続いていきます。
アメリカ合衆国
戦争でボロボロになったヨーロッパに対し、戦場にならなかったアメリカは、戦時中や戦後復興の需要によって空前の好景気に沸きました。フォード自動車やスタンダード石油などの大企業が、多くの移民労働者をひきつけ、アメリカは一層の多民族国家となっていきます。
莫大な富は多くの一般人にも流れ込み、いわゆる大衆消費社会が到来。彼らの好みに合わせた物やサービス、娯楽も出現します。ハリウッド映画やジャズ、野球はその代表格でしょう。ベーブ・ルースが活躍したのもこの時期です。
一方で、膨大な移民労働者の存在は、アメリカ社会にとって脅威でもありました。彼らの引き締めと、社会風紀を整えるため1919年禁酒法が制定されます。酒類が、仕事サボりやDVを引き起こしていたと考えられていたからです。更に1924年には移民法が制定され、東欧やイタリアからの移民は制限、日本や中国などアジア系移民は全面禁止となりました。
アメリカで大量に生み出されたお金は、やがて土地や株の購入にもあてがわれます。これらは時間と共にどんどん値を上げて、買った時と売った時の差額で儲けることが出来ると皆信じていたからです。しかしそれは幻想でした。
1929年10月24日(木)、それまで上がり続けていたニューヨーク株式市場の株価が、突如大暴落(暗黒の木曜日)。人々は一転して借金まみれになり、企業も次々と潰れていきました。この大不況の波はまもなくカナダや中南米、更にはヨーロッパ、日本をも覆う世界恐慌となります。この混乱から、軍国主義者、独裁者などが各国に出現し、世界を再び戦争へと導くことになります。
主な出来事
1915.1 日本政府、中国に二十一カ条の要求突きつける
1915 トルコ人によるアルメニア人大虐殺起こる
1915.10 フサイン・マクマホン協定
1915.11 芥川龍之介、『羅生門』発表
1916.4 イースター蜂起(アイルランド)
1916.5 サイクス・ピコ条約
1916.7 ソンムの戦い
1917.2 メキシコ新憲法(1917年憲法)発布
1917.3 ロシア三月革命 ロマノフ朝崩壊、ケレンスキー政権発足
1917.4 アメリカ、連合国側で参戦
1917.11 ロシア十一月革命 レーニンの社会主義政権発足
1917.12 フィンランド独立宣言
1917.11 バルフォア宣言
1918.2~11 エストニア、リトアニア、ラトビア独立宣言
1918.3 ブレスト・リトフスク条約、ロシアが戦争から離脱
1918.8 日本軍のシベリア出兵→米騒動起こる(日本)
1918.10 チェコスロバキア独立宣言
1918.11 ドイツ革命 ヴィルヘルム2世退位
1918.11 ポーランド独立宣言
1919.3 三一独立運動(朝鮮・日本)
1919.3 インドでローラット法成立
1919.4 アムリットサル事件(インド)
1919.5 五四運動(中国)
1919.5 第3次アフガン戦争 アフガニスタン独立回復
1919.5 希土戦争開始(ギリシャ・トルコ)
1919.6 ヴェルサイユ条約結ばれる
1919.8 ワイマール憲法成立(ドイツ)
1920.1 国際連盟発足
1920.5 ガンディー、非暴力非服従運動開始(インド)
1920 リーフ戦争~26(モロッコ)
1920.6 トリアノン条約(ハンガリー)
1920.8 セーヴル条約(オスマン帝国)
1921.7 中国共産党結成
1921.11 アインシュタイン、ノーベル物理学賞受賞
1921 バンティング、インスリン発見(カナダ)
1922.2 ワシントン軍縮会議
1922.2 エジプト独立回復も、対英従属は続く
1922.4 ソヴィエト連邦正式に発足
1922.7 エクアドル七月革命
1922.10 ファシスト党のローマ進軍。ムッソリーニ政権発足(イタリア)
1922.11 ケマルらによるトルコ革命。オスマン帝国終焉(トルコ)
1922.11 ハワード・カーター、ツタンカーメンの墓を発見(エジプト)
1922.12 アイルランド自由国成立
1923.1 フランス、ベルギー軍、ドイツのルール地方占領
1923.3 シュトレーゼマン政権、レンテンマルク発行(ドイツ)
1923.8 ローザンヌ条約(トルコ)
1923.9 関東大震災(日本)
1923.11 ミュンヘン一揆(ドイツ)
1923.9 プリモ・デ・リベラ独裁政権開始(スペイン)
1924.1 マクドナルド労働党内閣成立(イギリス)
1924.7 移民法制定(アメリカ)
1924.11 モンゴル人民共和国成立
1924.11 トマス・マン『魔の山』発表
1924.12 アプラ結成(ペルー)
1925.春 治安維持法、男子普通選挙法制定(日本)
1925.12 ロカルノ条約(ドイツ)
1925.12 レザー・ハーン、パフレヴィー朝興す(ペルシャ)
1926.7 蒋介石、北伐開始(中国)
1926.9 ドイツ、国際連盟加盟
1926.12 昭和天皇即位(日本)
1927 リンドバーグ、大西洋横断に成功(アメリカ~フランス)
1927 スカルノ、インドネシア国民党結成
1927 背徳法成立(南アフリカ)
1928.4 張作霖爆殺事件(日本・中国)
1928.5 野口英世、西アフリカで黄熱病研究中、病死
1928.8 ケロッグ・ブリアン協定
1928.10 スターリン、第一次五カ年計画開始(ソ連)
1929.2 ラテラノ条約 伊政府、バチカン市国を承認
1929.10 暗黒の木曜日 世界恐慌始まる
1929 ヘミングウェイ、『武器よさらば』発表
1929 インドシナ共産党結成(ベトナム)
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