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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

11世紀~教皇・上皇の力~

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11世紀の世界

 

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11世紀の政治的な動きとしては、北ヨーロッパではヴァイキング活動が最後の輝きを放ち、西ヨーロッパでは皇帝と教皇の関係がギクシャクし始め、その結果勝利した教皇により十字軍の遠征が始まります。中東ではテュルク人が大王朝を建設、インドにイスラム教勢力が進出し、中国(宋)は周辺地域の圧迫の中、優れた文化を生み出した・・・・などが挙げられます。

日本

藤原氏による摂関政治は11世紀にピークを迎えます。藤原道長による「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という句は、「この世はまるで自分のもののようだ。満月のように完璧だと思わないか」という意味で、彼がいかに”うぬぼれていた”かが分かります。

この時宮廷に仕えていた女官にも優れた人物が多数いました。源氏物語を書いた紫式部もその一人ですが、彼女はこれと別に日記もつけており、当時の宮廷生活を知る貴重な資料となっています。

紫式部日記

一方地方では武士の活躍が目覚ましく、特に東北の反乱を鎮めた源氏と、西日本に台頭した平氏は2大勢力となりました。

 

また、庶民の間には、釈迦が亡くなって一定の年月が経ち、その慈悲が受けられなくなる「末法まっぽうの世」という思想が広まりました。実際、飢饉や反乱などの「世の乱れ」は収まらなかったことから、人々は、せめて”あの世”では平穏に暮らしたいと願うようになります。浄土信仰の出現です。

 

こうした中、道長後の藤原氏も摂関政治を維持できなくなり、天皇を退いた上皇による政治、院政に取って代わられます。道長の歌にある「望月」も、それを過ぎれば欠けていく運命にあったわけです。

中国・東アジア

によって再統一された中国でしたが、北方の王朝は宋を圧迫し続けていました。同様に、11世紀には内陸部にタングート族という人々が王朝を創りました。西夏と呼ばれています。

 

両国との対立から世紀半ばには、宋宰相の王安石おうあんせきが大胆な改革を実施します。彼は農民を支援したり、商人の不当な利益を抑え込む新しい法律を次々と制定しましたが、保守派の反対により思うような成果は出ませんでした。

 

政治的には不遇だった宋ですが、経済面では中国南部の新田開発により人口が増加。商業も盛んになり、特に景徳鎮けいとくちん陶磁器は世界各地で人気となります。また文化面でも偉人が登場します。王安石の改革に反対した政治家司馬光しばこうは、優れた歴史家としても知られています。

 

同様に遼の圧力を受けていた高麗でも官僚制度が整えられました。軍事を担当する武班、政治を担当する文班、双方を合わせて両班ヤンバンと呼ばれる貴族階層が出現します。

東南アジア

「10世紀」のページに書きましたが、ベトナムでは1009年、李朝大越国りちょうだいえつこくが成立します。国名からわかる通り、当時のベトナムは漢字文化圏でした。

インドシナ西部のエーヤワディー川流域(現ミャンマー)では、ビルマ族がしだいにまとまっていき、パガンを中心とした王朝が成立しました。初代国王アノヤーターは、モン族など他の民族に対しても、差別的な政治は行わず、むしろ彼らの重んじていた仏教を取り入れ、社会の安定に努めました。

パガン朝

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ミャンマーの歴史~ より

 

しかしインドシナ半島でもっとも勢いをつけたのはアンコール朝のカンボジアでした。中国南部が発展したことで、東南アジアとの交易も一層盛んになったのですが、メコン川チャオプラヤ川などの大河を征服していた当時のアンコール朝は特にその恩恵にあずかれました。とはいえ、東側にはライバルの占城チャムパ王国もあり、互いにしのぎを削り続けました。

マラッカ海峡では、シュリーヴィジャヤ(この頃中国の書物には「三仏斉」と書かれていた)がなおも交易の中継地として栄えていました。しかし、11世紀半ば、南インドで強大化したチョーラ朝に征服されてしまいます。彼らが独立を取り戻すのは12世紀になってからです。

南アジア

上記の通り、11世紀のインド南部ではチョーラ朝がヒンドゥー教をもって周囲をまとめ上げ、強大化します。インド洋に突き出たこの王朝は、11世紀半ばのラージェンドラ1世の時代にスリランカ、モルディブなども制圧。三仏斉に攻め入ったのもその延長でした。

 

他方、インド北部では、イスラム教の侵入を守っていたプラティハーラ朝が遂に滅亡。アフガニスタンに本拠地を持つイスラム系ガズナ朝が侵攻します。こうしてインドにもイスラム教が入ることになり、その宗教構造は一層複雑化していきました。

西アジア

11世紀初頭イスラムの中心だったバクダッドは、ペルシャ系のブワイフ朝に牛耳られていました。ここに今度は中央アジアのテュルク系セルジューク族が進出していきます。もともと馬を用いた軍人として重んじられていたテュルク人は、その力を文字通り「武器」としてバクダッドに侵攻。ブワイフ家を追い出し、新たにバクダッドの支配者となります。その君主トゥグリル・ベグは、1055年、カリフから「スルタン」の称号を受けました。日本風に言えば「将軍」といったところでしょうか。

 

こうしてセルジューク朝が西アジアの覇者となり、中央アジアから中東へと移住していきます。そしてこの「テュルク」が転じて「トルコ」になっていきました。1071年のマンジケルトの戦いでは、ビザンツ帝国を破り、その領地だったアナトリア地方を奪いました。現在のトルコ共和国にトルコ人が入ってくるのは、実はこの時期なのです。

 

また、11世紀はイスラム文化を大いに発展させる天才的人物が、数多く出現した時代でもありました。11世紀初頭のイブン・スィーナーは医学の面で、同末期のウマル・ハイヤームは天文学の面で大きな業績を遺しましたが、彼らは哲学や科学、文学などにも精通した、万能の天才でした。

北アフリカ・イベリア半島

イベリア半島で繁栄を誇っていた後ウマイヤ朝も、11世紀には権力争いによって乱れ、1031年に崩壊します。レコンキスタ(国土回復運動)を進めていたキリスト教系の王国は、これを絶好のチャンスと兵を進めますが、それを率いたのが、後のスペインの原型となるカスティリャ王国アラゴン王国でした。

洋菓子カステラの語源ともなったカスティリャ王国は、アルフォンソ6世の元で半島中央部の要所、トレドを奪還し、イベリア半島でも最大の王国に発展していきます。一方のイスラム側は、北アフリカのモロッコに救援を求めました。

当時モロッコを収めていたムラービト朝の君主ユースフは、南下するカスティリャ王国を抑え込み、イスラム圏だったイベリア半島南部(アンダルシア地方)を征服。ジブラルタル海峡を挟んだ広い領地、海域を手中にしました。またこのムラービト朝は同時期南にも進出しており、1076年にはニジェール川の川沿いにて繁栄していたガーナ帝国を征服しています。

東ヨーロッパ

スラヴ人やマジャール人など、どちらかというと「新参者」だった民族も、11世紀にはヨーロッパの仲間入りをはたします。ハンガリーポーランドが王国として固まりました。

ハンガリー王国成立

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ハンガリーの歴史~より

 

バルカン半島では、ビザンツ帝国が皇帝バシレイオス2世の元で勢いを取り戻し、1010年代にはブルガリア王国を再征服します。東方正教の国であるこの帝国はしかし、同じキリスト教でありながらカトリック世界と対立。1054年には、東方正教のトップであるビザンツ皇帝と、カトリックのトップであるローマ教皇お互いを破門しあい、両宗派の統合は望めなくなります。

11世紀後半には、上記の通りテュルク人(トルコ人)の侵攻を受け、ビザンツ帝国はアナトリア地方を失ってしまいます。ビザンツ皇帝はこの後、ローマ教皇に助けを請うようになりました。

北・西ヨーロッパ

ヴァイキング活動に精を出していた、デンマーク人は11世紀前半、ブリテン島(イギリス)に進出。中でもクヌート大王は、デンマーク、ノルウェー、イングランドの王として君臨し、1035年死没までの一代限りでしたが、北海とそれを囲む地域を支配しました(北海帝国)。

イギリスには11世紀後半にも侵入者が。これが、10世紀フランス北部に建国されたノルマンディー公国です。その君主ウィレムは、1066年にロンドンに入城し、イングランド王ウィリアム1世を名乗りました。こうしてノルマン人の王朝は、イングランドとフランス北部にまたがる大国となり、数百年後に起こる英仏百年戦争の遠因となります。

ノルマン・コンクェスト

ドイツ(神聖ローマ帝国)は、11世紀初頭、ボヘミア王国(現在のチェコ)を組み込むなどして強大化していました。ローマ教皇はこの神聖ローマ帝国に半ば保護される形で存続していました。

しかし11世紀後半就任したグレゴリウス7世は、堕落したカトリックを改革する形で、帝国からの自立を目指します。これを嫌がったのが次期神聖ローマ皇帝だったハインリヒ4世でしたが、グレゴリウスに破門されてしまいます。こうなると部下の信頼もガタ落ちしてしまうと困ったハインリヒは、教皇の別荘があったカノッサにおもむき、破門の許しを請いました。カノッサの屈辱と呼ばれる事件です。

十字軍遠征

ローマ教皇の権威は大きく高まり、カトリック世界(=ヨーロッパ)の王を従えるようになります。1095年教皇ウルバヌス2世は、各国の君主に命じ、ここに第1回十字軍遠征が開始されます。

彼らの目的は、異教徒であるイスラム教徒に占領された聖地エルサレムを取り戻すというものでしたが、その裏には、人口が増えたヨーロッパにおいて、新たな土地が必要になったという、切実な背景があったともいわれています。

1099年、十字軍はエルサレムを占領し、遠征軍のひとり、ボードゥアン1世がキリスト教国家、エルサレム王国を建てました。一方エルサレムに住んでいたイスラム教徒ユダヤ教徒は殺害されました。

このため、現在中東を困惑させているイスラム過激派のテロリストも、アメリカの攻撃などを「現代の十字軍だ!」といって非難しています

~主な出来事~

1004 澶淵せんえんの盟 北宋が講和(東アジア)

1008 グルジア(ジョージア)王国統一(コーカサス地方)

11世紀初頭 紫式部、源氏物語を書き始める(日本)

1009 ベトナムに、李朝大越国成立(ベトナム)

1014 アイルランドブライアン・ボルー、島の統一目前に戦死(アイルランド)

1016 デンマーククヌートイングランド王兼ねる~35(北欧・イギリス)

1017 南インドのチョーラ朝、スリランカに侵攻(南アジア)

1018 イスラム系のガズナ朝、ヒンドゥー系のプラティハーラ朝を滅ぼす(インド)

1018 バシレイオス2世ブルガリア王国を滅ぼす

1020頃 中央アジアの学者イブン・スィーナー、医学書『医学典範』を完成させる。

1031 後ウマイヤ朝崩壊(イベリア半島)

1037 レオン・カスティリャ王国成立(イベリア半島)

1038 セルジューク朝成立(中央アジア・西アジア)

1038 李元昊西夏を興す(東アジア)

1044 ビルマ人の王朝、パガン朝成立(ミャンマー)

1051 前九年合戦~62(日本)

1054 ローマ・カトリックと東方正教 互いに破門し合って分断(ヨーロッパ)

1066 ノルマンディー公ウィレム(ウィリアム1世)、イングランド支配。(イギリス・フランス)

1069 王安石の改革開始~76(中国)

1071 マンジケルトの戦い セルジューク朝ビザンツ帝国を破り、アナトリア高原進出(西アジア)

1076 カノッサの屈辱(ヨーロッパ)

1076 モロッコのムラービト朝ガーナ帝国を征服(北アフリカ)

1083 後三年合戦~87(日本)

1085 レオン・カスティリャ王国が半島中央部のトレド征服。(イベリア半島)

1086 白河上皇、院政開始(日本)

1095 クレルモン公会議。第1回十字軍遠征開始(ヨーロッパ)

1099 十字軍によりエルサレム王国成立(西アジア)


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