11世紀~教皇・上皇の力~

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11世紀の主な動きとして、北ヨーロッパではヴァイキング活動が最後の輝きを放ち、西ヨーロッパではローマ教皇と神聖ローマ皇帝との権力争いが激化。その中で十字軍の遠征も始まります。中東では、中央アジア出身のテュルク人が大王朝を建設、インドにイスラム教勢力が進出し、中国(宋)は周辺地域の圧迫の中、優れた文化を生み出していきます・・・
日本
藤原氏による摂関政治は11世紀にピークを迎えます。藤原道長による「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という句は、「この世はまるで自分のもののようだ。満月のように完璧だと思わないか」という意味で、彼がいかに”うぬぼれていた”かが分かります。
この時宮廷に仕えていた女官にも優れた人物が多数いました。源氏物語を書いた紫式部もその一人ですが、彼女はこれと別に日記もつけており、当時の宮廷生活を知る貴重な資料となっています。

一方、地方では武士の活躍が目覚ましく、特に東北の反乱(1051年の前九年合戦、1083年の後三年合戦)を鎮めた源氏と、西日本に台頭した平氏は2大勢力となりました。
また、庶民の間には、釈迦が亡くなって一定の年月が経ち、その慈悲が受けられなくなる「末法の世」という思想が広まりました。実際、飢饉や反乱などの「世の乱れ」は収まらなかったことから、人々は、せめて”あの世”では平穏に暮らしたいと願うようになります。浄土信仰の出現です。
こうした中、道長後の藤原氏も摂関政治を維持できなくなり、天皇を退いた上皇による政治、院政に取って代わられます。道長の歌にある「望月」も、それを過ぎれば欠けていく運命にあったわけです。
中国・東アジア
宋(北宋)によって再統一された中国でしたが、北方の遊牧民契丹の開いた遼王朝は、宋と国境をめぐって争いを続けていました。1004年宋と遼との間で「澶淵の盟」が結ばれます。宋が契丹に毎年銀と絹を与えることで、以後100年以上にわたって平和が保たれました。
同様に、1038年にはタングートと呼ばれる人々が中国内陸部に別の王朝を創りました。こちらは西夏と呼ばれています。1044年、宋は西夏の初代皇帝李元昊とも和平「慶暦の和約」を結び、銀や絹を与えました。
政治的には不遇だった宋ですが、経済面では中国南部の新田開発により人口が増加。商業も盛んになり、特に景徳鎮の陶磁器は世界各地で人気となります。
科挙が広まったことで、門閥貴族は姿を消し、 士大夫とよばれるエリート(科挙の合格者)が宋の社会を引っ張っていきます。
宋の文化も士大夫が主役でした。11世紀の文化人としては、形式にこだわらず、書き方が自由だった時代の古文を復活させようという運動を続けた 欧陽脩や 蘇軾、歴史書『資治通鑑』を著した歴史家で政治家の司馬光、儒学者の 周敦頤などが挙げられます。
平和は保たれていたとはいえ、両国に対する警戒を宋は緩める事が出来ませんでした。毎年贈る銀や絹に加え、国境警備の費用は、ただでさえ科挙官僚が多く、その給料の支払いで苦しい宋の財政を悪化させました。そこで11世紀半ば神宗の時代に登場した、 王安石は、宰相として大胆な改革を実施します。
王安石の制定した主な法は、困窮する農民に低金利で貸し付けを行い、高利貸しから守る青苗法、特産品を政府が買い上げ、不足地に転売して財政に充てる均輸法、傭兵の代わりとして、農業の忙しくない時期の農民に兵士になってもらうことで、軍事費を削減する保甲法などが挙げられます。
一連の法は、弱い立場の農民や商人を救い、地主や豪商の力を抑える性格が強いものでした。そのため、不利益を被る地主や、司馬光ら保守派の反対も強く、神宗の没後、王安石は失脚に追い込まれました。
契丹はまた、東の高麗にも侵攻し、1010年には一時その都(開京:現在の北朝鮮、開城)も攻撃しました。ピンチに陥った高麗ですが、武人姜邯賛のもとで軍を立て直し、1019年契丹に勝利しました。その後両国の間でも和平が結ばれました。
契丹との戦いが落ち着いたことで、11世紀半ば以降は経済活動が活発化し、高麗人参や高麗青磁(陶磁器)などの特産品も盛んに取引されるようになります。仏教を通じた日本や宋との交流も行われました。一方で儒教・儒学も高麗に広まり、科挙(官僚試験)に用いられたこともあって、これを教える学校も建設されるようになりました。
東南アジア
ベトナムでは中国からの自立後の争いがようやく収まり、1009年 李公蘊 の即位によって李朝 が成立しました。1054年には国名を大越国とします。国名からわかる通り、当時のベトナムは漢字文化圏でした。以後、大越国は、宋との朝貢関係を結んで、その制度を受け入れつつ、宋に支配されることがないよう、神経をとがらせていました。
インドシナ西部のエーヤワディー川流域(現ミャンマー)では、ビルマ族がしだいにまとまっていき、パガンを中心とした王朝が成立しました。初代国王アノヤーターは、モン族など他の民族に対しても、差別的な政治は行わず、むしろ彼らの重んじていた仏教を取り入れ、社会の安定に努めました。

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ミャンマーの歴史~ より
しかしインドシナ半島でもっとも勢いをつけたのはアンコール朝のカンボジアでした。中国南部が発展したことで、東南アジアとの交易も一層盛んになったのですが、メコン川、チャオプラヤ川などの大河を征服していた当時のアンコール朝は特にその恩恵にあずかれました。とはいえ、東側にはライバルの占城王国もあり、互いに鎬を削り続けました。
マラッカ海峡では、シュリーヴィジャヤ(この頃中国の書物には「三仏斉」と書かれていた)がなおも交易の中継地として栄えていました。しかし、11世紀半ば、南インドで強大化したチョーラ朝に征服されてしまいます。彼らが独立を取り戻すのは12世紀になってからです。
南アジア
上記の通り、11世紀のインド南部ではチョーラ朝がヒンドゥー教をもって周囲をまとめ上げ、強大化します。インド洋に突き出たこの王朝は、11世紀半ばのラージェンドラ1世の時代にスリランカ、モルディブなども制圧。三仏斉に攻め入ったのもその延長でした。
当然ながら、インド洋を介した交易も盛んに行われます。一説には、中東からもたらされた馬が、インド南部で広く飼われるようになったのも、11世紀のことだと言われています。
他方、インド北部では、アフガニスタンに本拠地を持つイスラム系王朝ガズナ朝が侵攻します。この侵攻をきっかけに、ヒンドゥー系の王朝だったプラティハーラ朝は衰退、滅亡しました。この後、イスラム勢力はインドにも浸透するようになり、その宗教構造は一層複雑化していきます。
西アジア
11世紀初頭イスラムの中心だったバクダッドは、ペルシャ系のブワイフ朝に牛耳られていました。ここに今度は中央アジアのテュルク系セルジューク族が進出していきます。もともと馬を用いた軍人として重んじられていたテュルク人は、その力を文字通り「武器」としてバクダッドに侵攻。ブワイフ家を追い出し、新たにバクダッドの支配者となります。その君主トゥグリル・ベグは、1055年、カリフから「スルタン」の称号を受けました。日本風に言えば「将軍」といったところでしょうか。
こうしてセルジューク朝が西アジアの覇者となり、中央アジアから中東へと移住していきます。そしてこの「テュルク」が転じて「トルコ」になっていきました。1071年のマンジケルトの戦いでは、ビザンツ帝国を破り、その領地だったアナトリア地方を奪いました。現在のトルコ共和国にトルコ人が入ってくるのは、実はこの時期なのです。
この時代、イスラム世界で活躍したのはトルコ人だけではありません。セルジューク朝の宰相(首相っぽい人)として11世紀後半に活躍したんのが、ペルシャ人のニザーム・アルムルクです。彼はバグダッドをはじめ各地にマドラサ(学問所)を建設。これをニザーミーヤ学院といい、アッバース朝時代の知恵の館などとともに、イスラム文化の発展に重要な役割を果たしました。
実際、11世紀はイスラム文化を大いに発展させる天才的人物が、数多く出現した時代でもありました。11世紀初頭のイブン・シーナーは医学や哲学の分野で、同末期のウマル・ハイヤームは天文学や文学の分野で大きな業績を遺しました。
北アフリカ・イベリア半島
イベリア半島で繁栄を誇っていた後ウマイヤ朝も、11世紀には権力争いによって乱れ、1031年に崩壊します。レコンキスタを進めていたキリスト教系の王国は、これを絶好のチャンスと兵を進めますが、それを率いたのが、後のスペインの原型となるカスティリャ王国とアラゴン王国でした。
洋菓子カステラの語源ともなったカスティリャ王国は、アルフォンソ6世のもとで半島中央部の要所、トレドを奪還し、イベリア半島でも最大の王国に発展していきます。一方のイスラム側は、対岸の北アフリカ(現在のモロッコ)に救援を求めました。
現在のモロッコやモーリタニアにあたる地には、先住民ベルベル人が多く暮らしていました。そして当時は彼らの間にもイスラムは定着していき、その中から厳格イスラムを信仰する、ムラビトゥーンと呼ばれる集団が現れます。この集団は1056年にムラービト朝を興し、モロッコに一帯を征服。現在も人気の観光地となっているマラケシュに都を築きます。

1061年即位したユースフ・イブン・ターシュフィーンは、南下するカスティリャ王国を抑え込み、イスラム圏だったイベリア半島南部(アンダルシア地方)を征服。ジブラルタル海峡を挟んだ広い領地、海域を手中にしました。またこのムラービト朝は同時期に南(アフリカ大陸側)にも進出しており、1076年にはニジェール川の川沿いにて繁栄していたガーナ王国にも侵攻しています。
東ヨーロッパ・コーカサス
スラヴ人やマジャール人など、どちらかというと「新参者」だった民族も、11世紀にはヨーロッパの仲間入りをはたします。ハンガリーやポーランドが王国として固まっていきました。
バルカン半島では、ビザンツ帝国が皇帝バシレイオス2世の元で勢いを取り戻し、1018年にはブルガリア王国を再征服しました。東方正教の国であるこの帝国はしかし、同じキリスト教でありながらカトリック世界と対立。1054年には、東方正教のトップであるビザンツ皇帝と、カトリックのトップであるローマ教皇がお互いを破門しあい、両宗派の統合は望めなくなります。
コーカサス地方には当時、アルメニア王国、イベリア王国(スペインのイベリア半島とは別の国)、アブハジア王国、タオ・クラジュディ王国などが離合集散を繰り返していました。イベリア王とアブハジア女王を両親に持つバグラト3世は、更にタオ・クラジュディ国王の養子となり、1008年これらを統合しました。ジョージア(グルジア)王国です。一方、アルメニア王国は内紛で衰退し、1045年ビザンツに併合されました。
11世紀半ばになると、セルジューク朝はコーカサスやアナトリア地方にも進出。前述のとおりビザンツ帝国は、1071年のマンジケルトの戦いを機に、アナトリア地方の支配権を失っていきます。結局ビザンツ皇帝はこの後、ローマ教皇に助けを請うことになりました。ジョージア王国も11世紀半ばから末にかけて、一時セルジューク朝の属国のような立場に置かれました。
北・西ヨーロッパ
ヴァイキング活動に精を出していた、デンマーク人は11世紀前半、ブリテン島(イギリス)に進出。中でもクヌート大王は、デンマーク、ノルウェー、イングランドの王として君臨し、1035年死没までの一代限りでしたが、北海とそれを囲む地域を支配しました(北海帝国)。
イギリスには11世紀後半にも侵入者が。これが、10世紀フランス北部に建国されたノルマンディー公国です。その君主ウィレムは、1066年にロンドンに入城し、イングランド王ウィリアム1世を名乗りました。こうしてノルマン人の王朝は、イングランドとフランス北部にまたがる大国となり、数百年後に起こる英仏百年戦争の遠因となります。

ドイツ(神聖ローマ帝国)は、11世紀初頭、ボヘミア王国(現在のチェコ)を組み込むなどして強大化していました。ローマ教皇はこの神聖ローマ帝国に半ば保護される形で存続していました。
しかし11世紀後半就任したグレゴリウス7世は、堕落したカトリックを改革する形で、帝国からの自立を目指します。これを嫌がったのが次期神聖ローマ皇帝だったハインリヒ4世でしたが、グレゴリウスに破門されてしまいます。こうなると部下の信頼もガタ落ちしてしまうと困ったハインリヒは、教皇の別荘があったカノッサにおもむき、破門の許しを請いました。カノッサの屈辱と呼ばれる事件です。
この頃のヨーロッパ社会では、修道院の活動が活発化し、その中で学問や文化も発展がみられました。ヨーロッパ最古ともいわれる大学、ボローニャ大学がイタリアに設立されたのも11世紀のことです。ここでは、神学、医学、数学、論理学といった様々な学問が研究、教育されました。美術の面ではロマネスク様式が発展。半円のアーチが柱のてっぺんに据えられているのが特徴で、ピサ大聖堂などがその代表格です(ピサの斜塔は先の時代)
十字軍遠征
ローマ教皇の権威は大きく高まり、カトリック世界(=ヨーロッパ)の王を従えるようになります。1095年教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議で、各国の君主に聖地エルサレムの奪還を呼びかけ、ここに第1回十字軍遠征が開始されます。
彼らの目的は、”異教徒”であるイスラム教徒に征服されたエルサレムを取り戻すというものでしたが、その裏には、人口が増えたヨーロッパにおいて、新たな土地が必要になったという、切実な背景があったともいわれています。
1099年、十字軍はエルサレムを占領し、遠征軍のひとり、ボードゥアン1世がキリスト教国家、エルサレム王国を建てました。一方エルサレムに住んでいたイスラム教徒やユダヤ教徒は、その多くが殺害されました。
このため、現在中東を困惑させているイスラム過激派のテロリストも、アメリカの攻撃などを「現代の十字軍だ!」といって非難することがあります。
~主な出来事~
1004 澶淵の盟遼と北宋が講和(東アジア)
1008 ジョージア(グルジア)王国統一(コーカサス地方)
11世紀初頭 紫式部、源氏物語を書き始める(日本)
1009 ベトナムに、李朝成立(ベトナム)
1014 アイルランド王ブライアン・ボルー、島の統一目前に戦死(アイルランド)
1016 デンマーク王クヌート、イングランド王兼ねる~35(北欧・イギリス)
1017 南インドのチョーラ朝、スリランカに侵攻(南アジア)
1018 バシレイオス2世、ブルガリア王国を滅ぼす
1019 イスラム系のガズナ朝、ヒンドゥー系のプラティハーラ朝を滅ぼす(インド)
1020頃 中央アジアの学者イブン・シーナー、医学書『医学典範』を完成させる。
1031 後ウマイヤ朝崩壊(イベリア半島)
1037 レオン・カスティリャ王国成立(イベリア半島)
1038 セルジューク朝成立(中央アジア・西アジア)
1038 李元昊、西夏を興す(東アジア)
1044 ビルマ人の王朝、パガン朝成立(ミャンマー)
1051 前九年合戦~62(日本)
1054 ローマ・カトリックと東方正教 互いに破門し合って分断(ヨーロッパ)
1055 セルジューク朝のトゥグルグ・ベク、スルタンの称号得る(西アジア)
1066 ノルマンディー公ウィレム(ウィリアム1世)、イングランド支配(イギリス・フランス)
1069 王安石の改革開始~76(中国)
1071 マンジケルトの戦い セルジューク朝がビザンツ帝国を破り、アナトリア高原進出(西アジア)
1076 ムラービト朝、ガーナ帝国を征服(北アフリカ)
1077 カノッサの屈辱(ヨーロッパ)
1083 後三年合戦~87(日本)
1085 レオン・カスティリャ王国が半島中央部のトレド征服(イベリア半島)
1086 白河上皇、院政開始(日本)
1095 クレルモン公会議。第1回十字軍遠征開始(ヨーロッパ)
1099 十字軍によりエルサレム王国成立(西アジア)
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