世界地理・世界史の謎

EU本部がベルギーのブリュッセルに置かれているのは?

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前回、EU(ヨーロッパ連合)とイギリスの話を書きましたが、今回もEUについて。

日本の国会がに首都東京にあるように、EUにも会議を行う本部があります。その場所とは、実はベルギーの首都、ブリュッセルです。なぜEUの本部は、パリやベルリンではなく、ブリュッセルに置かれているのでしょうか?

ベルギー語で「こんにちは」は?

そもそも日本でベルギーといえば、何でしょう?

やっぱりワッフルチョコレート? あるいはフランダースの犬の舞台?でもなんとな~くイメージがわかない、そんな国ではないでしょうか?

そういえばベルギー語で「こんにちは」ってなんだっけ??

ベルギーの位置

     ↑位置はここです。

実のところ、そもそも「ベルギー語」というものはありません!!ベルギー人は、北部にオランダ語を話す人が、南部にフランス語を話す人が多い、多言語国家なのであります!これにはベルギーが歩んだ苦難の歴史があり、それこそが、EU本部の理由のひとつにもなっています。

大国の占領

 ベルギーは、オランダルクセンブルクとともに低地地方「ネーデルラント」と呼ばれていました。ネーデルラントは、紀元前にはケルト人、続いてローマ帝国、更にフランク王国を経て、10世紀からは神聖ローマ帝国(現ドイツの原型)の一部となります。

しかしこの帝国、君主(つまり皇帝)の力は弱く、次第に地方の自立が進んでいきます。ネーデルラントの場合、ヨーロッパ有数の大河、ライン川の河口にも近く、古くから水運を利用した商業・工業が盛んで、この経済力を武器に12世紀頃までには事実上独立を勝ち取ることができました。この代表例が「フランダースの犬」で有名なフランドル地方で、ここは中世、毛織物(羊毛業)の一大産地として有名でした。またブリュッセルやアントワープも早くから都市として発展していました。

フランドルの羊

しかし経済力のある所は他国からも狙われやすく、特に南の大国フランスは脅威でした。15世紀にネーデルラントは、このフランスから自立したブルゴーニュ公国に占領されてしまいます。続く16世紀には、ブルゴーニュ家と婚姻関係のあったスペイン・ハプスブルク家の領有する所となりました。つまり、ベルギーやオランダはスペインの飛び地のような場所になったのです。

オランダの分離

この16世紀、ヨーロッパでは宗教改革が起き、カトリックに対抗してプロテスタントが出現します。プロテスタントはドイツ北部から、北欧、そしてネーデルラントにも広がっていきます。しかしネーデルラントを治めるスペイン・ハプスブルク家はコテコテのカトリック一族。自分の領地に、カトリックを否定するやから・・・が増えることは許さず、弾圧していきます。

オランダ分離

この結果、特にプロテスタントが多かったネーデルラント北部が、スペイン・ハプスブルク家からの分離を宣言。激しい戦争を経て、独立を達成します。これが現在のオランダです。一方ネーデルラント南部ではカトリックの方が多く、スペイン・ハプスブルク家の領地に留まりました。こちらが後のベルギーとなります。

 

18世紀、スペイン・ハプスブルク家が断絶すると、ベルギーはオーストリア・ハプスブルク家(ハプスブルク一族は色んな所に領地を持っており、オーストリアはその本家)の統治下に置かれました。このようにベルギーは、長い間多くの国によって支配された苦難の歴史を持っているのです。

遂に独立!しかし・・・

18世紀のヨーロッパでは、自由や人権を追求する考え(啓蒙思想)が広まり、身分制度や絶対王政などへの反発が強まっていきました。この結果起きたのが1789年フランス革命で、ベルギーでもフランスに続け!と言わんばかりに反オーストリアの反乱が起こりました(ブラバント革命)。

ブラバント革命

しかし革命のゴタゴタが収まらない中、フランスではナポレオンが登場し、ベルギーを占領してしまいました。オーストリアの支配が終わったと思ったらまたしても大国の支配!しかもナポレオンは、南ネーデルラントで使われていた言葉(オランダ語)を禁止し、フランス語を話すよう義務づけました

ナポレオン下のベルギー

そのナポレオンは1814年に失脚し、戦後処理を話し合う会議(ウィーン会議)で、ベルギーはオランダ領となりました。すると今度はオランダ国王によりフランス語の使用が禁じられ、オランダ語を話すように仕向けられます。また、石炭の産地だったベルギーは、イギリスに次いで産業革命を経験しますが、オランダは富を生み出すこの地に重い税をかけました。この政策は大きな反発を呼び、結局両国の合同は15年しか続きませんでした。1830年、フランスで起こった七月革命の波に乗り、遂にベルギーは独立を果たします

分裂の危機

このように、フランスやオランダの支配を経て独立したベルギーでは、オランダに近いベルギー北部にはオランダ語を話す住民が、フランスに近いベルギー南部にはフランス語を話す住民が多く暮らすという、複雑な事態が生まれてしまいました。

フラマン・ワロン

しかも両住民は単に言語のみならず、社会的にも大きく異なっていました。先ほど書いたように、ベルギーは石炭の産地だったのですが、特に炭田の多かった「南部ワロン地方」では近代的な工業が発展。それに伴い、労働者の運動も激しくなっていました。他方「北部フラマン(フランデレン)地方」は伝統産業が残り、保守的な傾向がありました。つまり、ベルギーは誕生の瞬間から、言語も環境も考え方も異なる2つの勢力が常に対立する、不安定な状態を運命づけられていたのです。

大国の占領再び

ベルギーは独立以降も周囲の国、特に大国フランスを警戒していました。しかし19世紀後半になると、ベルギーの東側にもう一つ大国が出現します。ドイツ帝国です。

フランスとドイツの対立が激しくなると、困るのがその間に位置するベルギー。実際1914年に始まった第一次世界大戦、1939年に勃発した第二次世界大戦、いずれの場合もベルギーは中立を宣言しますが、ドイツ軍はフランスを攻めるために、ベルギーの中立を無視してここを占領してしまいます

その上、2度の大戦とも、ベルギーは独仏戦の最前線となり、多くの住民が戦闘に巻き込まれて落命。またこの時(特に第一次大戦の際)両軍により設置された地雷毒ガス弾は戦後も残り、現在に至るまでベルギー社会の悩みの種となっています。

ベルギー戦場

更に、国内のフランス語系住民は当然フランスを支援すべく、反ドイツ的な態度を採りました。一方、オランダ系住民は、「敵の敵は味方」の構図で、一部ドイツに協力する者も出現しました。大国の対立が、ベルギー国内の住民・社会をも引き裂く事態を招いたのです。

苦難の歴史を教訓に

2度の大戦は、いずれも国同士の利害対立(資源や領土の奪い合い)が根っこにありました。戦後これを教訓に、ヨーロッパの国同士が協力していく動きが盛んになりました。この結果1967年に発足したのが、ヨーロッパ共同体(EC)で、1993年からは発展してヨーロッパ連合(EU)となりました。

 

 ドイツとフランスが和解・協力することを望む声は、ベルギー人にはとりわけ多かったと思われます。また、国内の内部分裂は現在まで続いているものの、互いの妥協点を模索し、国の統合をなんとか維持してきたのもまた事実です。このことは多くの民族を統合したEC、EUの「理想」ともいえます。ブリュッセルにEUの本部が置かれた理由はここにありました。

下のイラストにいる外交官スパークは、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの経済的な協力体制(ベネルクス関税同盟)を実現し、その後もヨーロッパ統合・協力を訴え続けた人物で、「欧州連合の父」と呼ばれています。

また首相のエイスケンスは、大戦でボロボロになった国内の復興を進め、またオランダ語地域、フランス語地域各々の権利を大きく認めたことで、その対立関係克服に力を尽くした人物です。

国内外の統合

 

6か国で始まったECは、その後EUとなり現在、28か国にまで増加しています。近年は政治や経済の面で、各国の足並みがそろわない等の問題もありますが、それは逆に今こそベルギーの培ってきた経験が試される時期なのかもしれませんね。

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