12世紀~軍事政権興る~

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ヨーロッパのカトリック教徒によって築かれたエルサレム王国は、いわば騎士たちの築いた軍事国家でした。12世紀は奇しくも洋の東西で軍人が活躍し、政治を握るようになります。エジプトのアイユーブ朝、高麗の武臣政権、そして日本の鎌倉幕府などです。一方で宋のように文治主義を続けた国もありました。
西アジア・エジプト
聖地エルサレムをはじめ、地中海東岸をキリスト教勢力に奪われたイスラム勢力でしたが、イスラムの中心地バグダッドはエルサレムから遠く、ここを治めるセルジューク朝はあまり有効な手を打てませんでした。代わってキリスト教国家に対し“ジハード”を仕掛けたのが、エルサレムと隣り合うシリアのザンギー朝でした。
現在のシリアでも第1,第2の都市であるダマスカスとアレッポは、当時もシリア地方の有力な都市でしたが、両者は互いに覇権を争い、時にはエルサレム王国と同盟を組むこともありました。宗教が異なるからといって、決してキリスト教系の王国とイスラム系の王国は「水と油」ではなかったのです。
しかし1127年アレッポにザンギー朝が成立すると、この王朝はジハードと称して、十字軍国家(エルサレム以外にも十字軍支配の国がいくつかありました)を征服していきます。この王朝の2代目の君主ヌール・アッディーンは、1154年ダマスカスも征服して、シリア一帯を統一。強力な王朝を造り上げます。
一方、エルサレムを挟んだ反対側のエジプトは、シーア派のファーティマ朝によって統治されていましたが、当時この王朝は弱体化しており、エルサレム王国にも圧力を加えられていました。これを見たヌール・アッディーンは、カイロに軍を派遣しますが、その中に、サラディンという人物がいました。
1169年サラディンはファーティマ朝のカリフを廃止して、アイユーブ朝を立ち上げます。ヌール・アッディーンは、エジプトを横取りされたと怒りますが、直後に病死。名君を失ったザンギー朝は、逆にアイユーブ朝によって征服されてしまいます。
エジプトとシリアを手中に収めたサラディンは、1187年、その間に位置するエルサレム王国に侵攻。エルサレム王のギー・リュジャニンを捕らえ、この聖地を再びイスラムの元に置きました。サラディンはその後、ギー・リュジャニンを無傷で解放し、ヨーロッパ人からも名君としてたたえられることになります。
エルサレムがイスラムの手に落ちたことで、第3回十字軍の派遣が決まります。この軍を率いた人物の一人が、イングランド王リチャード1世。彼はサラディンの軍に対しても何度か勝利を収めましたが、エルサレムを取り戻すには至らず。そのさなか、どさくさに紛れて征服したキプロス島に、先ほどの旧エルサレム王、ギー・リュジャニンを据えて、ヨーロッパに帰ってしまいました。以後、ギー・リュジャニンはキプロス王として天寿を全うします。
なお、中東全域に支配権を広げていたセルジューク朝は、かつてのアッバース朝と同じく地方の分離を防ぐことができず、1157年に解体。その中心だったイラク・イラン地方の政権は、この後中央アジアで強大化したホラズム王国によって、1194年に征服されてしまいます。
セルジューク朝の解体に伴い、コーカサスではグルジア(ジョージア)王国がその支配から脱却します。その後グルジア王国はヴェネツィア共和国との交易などで発展し、12世紀末、タマル女王のもとで最盛期を迎えました。
モロッコ・イベリア半島
十字軍以前からキリスト勢力とイスラム勢力が押し合いへし合いしていたのが、イベリア半島です。後のスペインとなるカスティーリャ王国は、十字軍の動きにも背中を押され、半島北東部のサラゴサを1118年奪取。ここを首都としました。カスティーリャの東隣にあったアラゴン王国は、1137年バルセロナ含むカタルーニャ地方と連合し、地中海に面することとなりました。
大西洋側では、カスティーリャ王国の臣下だったポルトカーレ伯のアフォンソが自立。1143年に国王として認められました。ポルトガル王国の成立です。こうしてイベリア半島北部には、キリスト教系の王国が3つ並び立つことになります。彼らはイスラム勢力との闘い(レコンキスタ)を続けながら、お互いもまたライバル同士となっていきます。
イベリア半島南部は、現在のモロッコを中心としたムラービト朝の支配下にありました。しかし、王朝を支えていた運動家ムラービトゥーン達の宗教熱も、成立から半世紀を過ぎればすっかり冷めてしまい、代わって新たな宗教運動がおこります。イブン・トゥーマルトの開始した禁欲的なムワッヒド運動が人々の間で広まり、イブン・トゥーマルトは自らを救世主と名乗るようになります。1147年、彼を継いだアブド・アル・ムーミンは、ムラービト朝を倒してムワッヒド朝を成立させました。
ムワッヒド朝は12世末までに、北アフリカ西部(マグリブ地方)一帯にまで支配域を広げるに至ります。イベリア半島でも1195年アラルコスの戦いでカスティーリャ王国に勝利するなど、新興勢力らしい力を見せつけます。
ただ誤解しないでほしいのは、ムワッヒド朝内にもキリスト教徒はいたし、その逆もしかりだったということ。双方の支配域がコロコロ変わるので、当たり前ではありますが…
西・北・南ヨーロッパ
先にも書いた通り、イスラム王朝と十字軍国家は決して水と油の関係ではなく、十字軍(キリスト教徒)とイスラム教徒との接触は、単に戦いのみをもたらしたわけではありませんでした。軍についていったヨーロッパ商人は、イスラムとの貿易を開始し、大きな利益を得ます。
十字軍遠征は13世紀まで何度も行われますが、当然戦争にはお金が掛かるもの。商人達は財政面で十字軍を支援する一方で、遠征を利用して商売に励み、力を付けていったのです。中でもイタリアの都市国家、ジェノヴァとヴェネツィアは海上交易で成功し、この後ヨーロッパ世界にも大きな存在感を持つことになります。
また、イスラムで研究の盛んだった科学技術や知識、あるいはヨーロッパでは中世の混乱期に失われてしまったギリシャ哲学なども、交易を通じて輸入され、医学や文学、美術などにも影響を与えました。前述のイベリア半島でも、レコンキスタの最中にイスラムの書物がキリスト教徒の手に渡り、アラビア語からラテン語に翻訳されるといった文化活動が盛んになっていきました。

なお、十字軍は西アジア以外にも送られていました。現在のフィンランドに住んでいたフィン人は、当時まだ伝統的な宗教を信じており、十字軍討伐の対象となりました。これを担ったのが、スウェーデン王国のエーリック9世で、以後フィンランド(当初は南部のみ)はスウェーデンの支配下に入ることになります。
イタリア半島の南部やシチリア島もまた、長くイスラム王朝のもとにありましたが、この頃にはキリスト教勢力にとって代わられます。それに決定的な役割を果たしたのは、何とヴァイキングの一派であるノルマン人!彼らはこの時代までに、活動範囲を北欧から地中海にまで広げていったわけです。
ノルマン人は11世紀後半からシチリアをめぐってイスラムと闘い、その拠点を奪っていきましたが、1130年、時の君主ルッジェーロ2世が王として認められ、ここにシチリア王国が成立します。
十字軍以外の話題としては、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の権力争い(叙任権闘争)が1122年のヴォルムス協定により一応の決着をみます。とはいえ、その後も権力をめぐる争いは続きました。
この対立を利用したのが、ドイツとローマの間に位置していた北イタリアの諸都市(ミラノ、フィレンツェなど)。これらの都市も商業で力を付ける一方、皇帝と教皇どちらを支援するか、という外交カードをちらつかせて自治権を得ていきます。
1167年にはミラノを中心に複数の都市がロンバルディア同盟を結成し、神聖ローマ帝国から数々の権利を得ました。こうして北イタリアでは、先のヴェネツィアなどと共に、都市国家が各地に生まれる、独特な歴史を歩むことになります。
イギリス(イングランド王国)では、1154年ヘンリ2世が即位します。彼の父はフランスのアンジュー地方を治めていたため、ヘンリ2世はその地も相続。更にアイルランドやフランス南部のアキテーヌ地方も手に入れ、広大な土地の領主となります。アンジュー家の紋章の図柄から、プランタジネット(エニシダの意味)王朝とも呼ばれます。
12世紀後半、イングランド王にリチャード1世が即位。獅子心王と呼ばれるこの人物は、先ほど紹介したとおり第3回十字軍に参加し、エルサレムの再征服はかなわなかったものの、沖合のキプロスを奪いました。
一方、フランス王国では同じ頃にフィリップ2世が即位し、イングランド王家に奪われた領地を取り戻すことに奔走していきました。
この頃にはフランスをはじめとする各地で三圃制が広まります。これは農地を3つに分け、大麦などを春から夏に育てる農地、小麦などを秋から冬に育てる農地、休耕地に分け、これをローテーションする農法です。この方法で生産力が上がり、気候も暖かくなっていったことで、この時期ヨーロッパの人口はぐんぐん伸びていきました。
東ヨーロッパ
十字軍の要請は、元々ビザンツ帝国のおこなったものではありましたが、イスラム教徒との闘いに対しては、西ヨーロッパと温度差がありました。イスラムが誕生して400年余り。ビザンツ帝国はこの勢力に悩まされながらも、共存関係を築いており、逆に彼らを虐殺するような十字軍には、次第に不信感をいだくようになります。
そんなビザンツ帝国ですが、11~12世紀には地方の貴族が言うことを聞かず、頻繁に反乱を起こしていました。時の皇帝アレクシオス1世は、古くからの貴族に与えていた権利(官位・年金)などを縮小させ、自分に近しい新貴族に土地の保有や徴税権(税を取る権利)を与える改革を実行します。この改革で皇帝の負担は軽くなり、貴族の反乱も減りましたが、一方で、政治体制は伝統的なテマ制から、プロノイア制と呼ばれる封建制へと変化し、皇帝の権力は次第に地方に及ばなくなっていきます。
アレクシオス1世没後の12世紀後半には、プロノイア制がさらに進み、ビザンツ帝国から自立する国が出てきました。
バルカン半島では、セルビア王国とブルガリア王国が自立します。セルビア王国はすでに11世紀にはビザンツ帝国の支配から離れていましたが、国内の統一ができずにいました。これを成し遂げたのが、1171年ネマニッチ朝を開いたステファン・ネマーニャです。彼は経済的に重要なアドリア海を統治下におくことで国内を安定させ、晩年は聖職者となって、キリスト教(東方正教)の拡大に努めました。11世紀に一度ビザンツ帝国によって倒されたブルガリア王国も1187年に再度独立。第二次ブルガリア王国と呼ばれています。
コーカサス地方から東欧・西アジア各地に散らばっていたアルメニア人も、12世紀末に新たな王国を建てました。この国は、現在のトルコ南部、キリキア地方にあったため、キリキア・アルメニア王国と呼ばれます。コーカサスから遠く離れたこの国ですが、すぐ近くに成立していた、同じキリスト教系の十字軍国家と良好な関係を築きました。
日本
京では白河上皇によって開始された院政(現役の天皇に代わり上皇が政治を担うこと)が続いていました。歴代の上皇はまた、当時力を付けていきた武士を取り立てますが、中でも2大巨頭だったのがの源氏・平氏でした。1156年鳥羽上皇の跡継ぎを巡る保元の乱、58年にはその勝者同士が争う平治の乱が起きますが、両戦争に勝ったのが平清盛でした。
清盛は新たに院政を始めた後白河上皇と共に政治を動かしていきます。清盛は中国の南宋との貿易を開始し、その水運ルートである瀬戸内海を整備。厳島神社が現在のようになったのもこの事がきっかけでした。しかし、やがて2人の間にも溝が生まれ、後白河上皇は伊豆に流された源頼朝を頼るようになります。
これに応えた頼朝は1180年に蜂起。平清盛も翌年病死し、平氏は総崩れに。皮肉にも彼らの整備した瀬戸内海沿いに追い詰められ、1185年壇ノ浦の戦いで滅亡しました。この間、源頼朝は、京から遠く離れた鎌倉の地で武士による政治体制を確立。史上初の武家政権、鎌倉幕府を誕生させます。

中国・東アジア
中国北部では契丹族の遼王朝が大勢力になっていましたが、12世紀なると、中国国東部(満州)から女真族と呼ばれる新勢力が登場します。女真族の長、完顔阿骨打が1115年に建てたのが金王朝で、遼王朝は間もなくこの金王朝によって倒され、中央アジアへと逃れていきました。この中央に成立した王朝は、西遼(カラキタイ)とよばれています。
金はまた北宋とも対立し、1126年、北宋の皇帝である欽宗と前皇帝の徽宗を捕らえてしまいます(靖康の変)。こうして宋の一族は更に南へと拠点を移さねばなりませんでした。これが南宋です。

以後、中国では12世紀を通じて北の金、南の宋という関係が続きました。幸い中国南部は今も昔も世界的な米どころであるため、南宋社会は安定しました。平清盛が始めた日宋貿易の相手国も、この南宋です。
朝鮮半島
当時朝鮮半島にあった高麗では、官僚は両班と呼ばれていました。これは更に文官(文班)と武官(武班)に分かれていましたが、軍を率いる武官は、政治を動かす文官より下に見られていました。
しかし前述の金王朝は高麗をも脅かし、社会は動揺。それに乗じた権力争い(1126年・李資謙の乱)や、民衆の反乱(1135年・妙清の乱)も起こります。
度重なる反乱を鎮圧しても、優遇されるのは文班ばかりという状況に、武班たちは不満を持ち、1170年、ついにクーデターを起こしました(庚寅の乱)。この結果多くの有力な文班が殺害、追放され、国王も交代。武臣政権といわれる新しい政治体制が形成されていきます。
1196年、崔忠献の時代からは、彼の一族(崔氏)が代々武臣政治のトップに就くことになります。
東南アジア
インドシナ半島の王朝では、近代まで明確な「国境」というものがありませんでした。国の範囲は国王の能力に比例し、その影響力は、都から離れるに従って徐々に小さくなっていきました。逆に言えば、広範囲を支配域入れた国王は、それだけ有能な人物だった証拠といえます。このような国を、「マンダラ国家」と呼ぶことがあります。
カンボジアのアンコール王朝では、人々を惹きつけるために神の力を借りるようになります。そして12世紀には大規模なヒンドゥー寺院が建設されました。かの有名なアンコールワットです。

この寺院を築いたスールヤヴァルマン2世の時代、アンコール朝の覇権は現在のタイからベトナム南部にまで広がっていました。彼はインドシナにおける「時の人」であり、アンコールワットはそれを象徴する、いわば「記念碑」でもありました。
スールヤヴァルマン2世の没後は地方が独立し、アンコール朝の支配域は縮小。しかし12世紀末に登場したジャヤヴァルマン7世は、道路や病院の建設などインフラ整備にも努め、人々の支持を得ました。アンコール朝の範囲はこのジャヤヴァルマン7世の時代最大に達します。
このほか12世紀の東南アジアでは、無数の寺院(パゴタ)を建てたミャンマー(パガン朝)の王チャンシッター、新田開発を積極的に行ったベトナム(大越国)の李英宗など、民衆を味方につけるべく涙ぐましい努力を重ねた名君がいました。
南アジア
インドの北部には、現在のアフガニスタンを拠点としていたイスラム王朝、ガズナ朝が、11世紀からたびたび侵入していました。12世紀半ばになると、ガズナ朝から自立したゴール朝が拡大。最終的にガズナ朝を倒しますが、この王朝もまた、北インドへの侵入を続けます。こうした動きの中、次第にインド(南アジア)にもイスラム教が浸透していくことになりました。
南インドでは、前世紀にインド洋の島々にまで進出していたチョーラ朝が、次第に衰退をはじめます。スリランカのパラクラマバーフ1世は、これを機に島全体を統一しています。
その南に位置するモルディブも、チョーラ朝の圧迫から解放されました。時の国王マハバーラナは、1153年それまで信仰していた仏教を捨て、イスラム教を受け入れます。これはインド洋で交易をおこなっていた商人の多くがイスラム教徒で、改宗により交易を有利にすることが目的だったとされます。以後、モルディブの君主は20世紀まで「スルタン」を名乗るようになります。
~主な出来事~
1115 完顔阿骨打金王朝を建てる(東アジア)
1120頃 アンコールワット建立(カンボジア)
1122 ヴォルムスの和約。叙任権闘争決着(ヨーロッパ)
1125 金王朝の侵攻により遼王朝滅亡(東アジア)
1126 靖康の変 金王朝の攻撃でより宋の徽宗ら捕らえられる。高宗、南宋を開く(中国)
1130 シチリア王国成立(イタリア)
1137 エチオピアのザグウェ朝、アクスム王国を倒す(東アフリカ)
1142 紹興の和議 南宋が金へ朝貢することに(中国)
1143 ポルトガル王国成立
1147 ムワッヒド朝成立。ムラービト朝滅亡(モロッコ~イベリア半島)
1148 ゴール朝成立。(アフガニスタン~インド)
1153 モルディブ王マハバーラナ、イスラムに改宗
1154 イングランドでプランタジネット朝開始(イギリス)
1156 保元の乱 後白河天皇が崇徳上皇に勝利(日本)
1156 オーストリア公国成立(中欧・オーストリア)
1157 セルジューク朝分裂(西アジア)
1159 平治の乱。平清盛が源氏を撃破し、権力を握る(日本)
1167 ミラノなどイタリア諸都市、ロンバルディア同盟成立(イタリア)
1168 エジプトにアイユーブ朝成立(エジプト)
1170年頃 哲学者イブン・ルシュド、ムワッヒド朝に仕える(モロッコ~イベリア半島)
1170 高麗で武臣が権力掌握(朝鮮半島)
1171 ステファン・ネマーニャ、ネマニッチ朝を開く(バルカン半島)
1181 ジャヤヴァルマン7世即位。アンコール朝最盛期(カンボジア)
1185 壇ノ浦の戦い。平氏滅亡(日本)
1187 サラディン、エルサレムを十字軍から奪還(西アジア)
1191 第3回十字軍遠征
1192 源頼朝が征夷大将軍となる(日本)
1194 ホラズム、セルジューク朝を征服(西アジア~中央アジア)
1196 崔氏の武臣政権発足(朝鮮半島)
1197 レヴォン1世、キリキア・アルメニア王と正式に認められる(西アジア)
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