北京はいつから中国の首都になった?

2008年に夏季五輪が開催され、2022年の冬季五輪開催予定の北京。オリンピックを夏冬両方開催する都市は史上初の事だそうです。この北京、「北」の都(京)と言われるだけあって冬季五輪が開催できるほど冬は寒いのですが、ここが中国の首都となったのはいつ頃なのでしょう?広い中国にはもっと温暖で過ごしやすそうな場所はたくさんありそうですが・・・
中国の古都といえば・・・
4千年の歴史を誇ると言われる中国ですが、その歴史は分裂と統合を繰り返す歴史でもあります。
紀元前の春秋戦国時代には燕や楚など複数の国に分かれ、最終的に紀元前221年、秦の始皇帝によって統一されます。現在の北京に当たる街は当時、薊と呼ばれ、燕という国の都でしたが、秦に滅ぼされてからは一地方都市の地位に転落。続く漢や唐といった古代王朝の都も洛陽、長安(現在の西安)など、北京よりもっと南(黄河流域)に位置していました。
遊牧民の略奪と万里の長城
一方、中国より北には今も昔も大草原が広がり、近代までそこに居住する人々は馬や羊と草原を駆け抜ける生活を営む”遊牧民”が中心でした。遊牧民と言えばチンギス・ハーンをはじめとするモンゴル人がよく知られていますが、彼らの登場する以前にも匈奴、突厥などの遊牧民が草原地帯に住み着き、時々農耕社会の中国に侵入して、ヒトやモノを略奪して暮らしていました。
古代の中国人は彼らの侵入を恐れ、草原地帯との間に防御壁を築きます。これが増改築を繰り返され、後の万里の長城へ発展していきました。
さて、唐の滅亡後(10世紀)中国では短命な王朝が興亡を繰り返す不安定な時代(五代十国時代)を迎えます。この混乱の隙をついてまたもや北方から遊牧民が侵入。
彼らは契丹族と呼ばれ、現在の中国北部に遼という王朝を建てました。10世紀後半になって中国でも宋王朝が混乱に終止符を打ちますが、宋はこの後、常に遼の存在に悩まされることになります。
12世紀になるとやはり満州地方にいた女真族が力をつけ、金王朝を開きます。彼らは宋と協力して遼を西方に追いやりますが、今度は金と宋との間で対立が生じ、1126年には宋の皇帝が金に捕らえられる事件(靖康の変)も発生。以後宋(南宋)の領地は長江以南に限定されました。
遼、金、そして元
こうした遼や金は遊牧民でありながら、農耕民の漢族をも支配する複雑な社会を形成し、その都は双方ににらみを利かせられる場所に置かれました。そこで注目されたのが、遊牧・農耕領社会の境界上に位置し、交易の拠点でもあった街。それが現在の北京でした。
金王朝はこの街に都を遷し、「中都」と命名しました。王朝の中心として復活した北京ですが、この街が大発展するのは13世紀モンゴル帝国の時代になってからです。チンギス・ハーンから始まるモンゴル帝国は、その子孫の代に金王朝を滅ぼし、西方では中東やロシアを支配。その後5代目皇帝フビライ・ハーンは宋へ矛先を向けます。
それまでモンゴル帝国の王都は、大草原のただ中にあるカラコルムに置かれていましたが、宋を攻めるべく、金の中都に遷都。自身の王朝を元とし、中都の名も大都と改めました。(宋は1279年に滅亡。)
歴代のモンゴル君主は商人を保護し、広大な支配域を結ぶ街道も整備したため、大都にはユーラシア大陸各地から多くの富が流入し、文字通り巨”大”な”都”市へと発展していきます。後の中国皇帝の居城である紫禁城も、元の時代にその原型が築かれました。
近代中国2つの“京”
14世紀後半になって元の支配が緩むと、中国南部出身の朱元璋が反乱を起こし、1368年明王朝を興します。同年明王朝によって元(モンゴル人)は大都を追い出され、北方の草原地帯へ逃れました。
しかし明の都は当初、朱元璋の本拠地であった応天府という街に置かれ、3代永楽帝の時代に大都に遷されました。弱体化したとはいえ、北方のモンゴル人はやはり気になる存在だったのです。
「大都」が都になってからも、「応天府」は副王都的な地位を維持し、両者はいつしか「北京」、「南京」と呼ばれるようになりました。北京はその後の清の時代にも王都であり続け、辛亥革命後に建設された中華民国の時代には、一時首都の地位を南京に譲ったものの、現在に至るまで中国の首都となっています。
このように、北京が中国の首都となったのは、モンゴルら遊牧民社会と漢民族など農耕民社会の境界に位置していたことが大きな理由の一つでした。そういえば、遊牧民の侵入防止として建設された万里の長城も、その一端は北京からほど近い場所にあります。北京は交易上のみならず、政治上、戦略上でも重要な地であったのです。