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10世紀~権力者への挑戦~

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10世紀の世界
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キリスト誕生から1000年が経とうとしていたこの時代。東では中国の巨大王朝だった唐が消滅し、西ではアッバース朝のカリフが「飾り物」のような存在となっていきます。これに対し既存の権力者へ果敢に挑んだのは、それまで支配下の地位にあった、「地方政権」でした。

日本

日本では、藤原氏を中心とした貴族が摂政関白となって政治を動かすようになります。彼らは自身の娘を天皇に嫁がせ、その子供を新しい天皇に据えました。すると自分は天皇の祖父になり、大きな権力を手にすることができます。

 

10世紀末に登場した藤原道長は、3代の天皇に渡り権力を握って、藤原氏は絶頂期を迎えました。一方で京の都から遠く離れた坂東(今の関東)では930年頃、平将門が「新皇」を名乗り、政権に対し反乱を起こしました。反乱自体は短期間で鎮圧されてしまうものの、彼の登場は後の武士の世を予感させる出来事でした。

平将門

中国

黄巣の乱で揺れ動いたは、907年節度使の朱全忠しゅぜんちゅうにより滅ぼされます。しかし彼の政権も不安定で、10世紀半ばまでに短命な5つの王朝が興亡しました。これとは別に、中国南部には10か国もの小国が現れては消えていきました。ゆえにこの期間は「五代十国時代」と呼ばれています。

 

中国が分裂で混乱している隙を狙って、中国北東部にいた契丹きったん族が侵入。そのトップだった耶律阿保機ヤリツ・アボキ王朝を建てました。

 

中国の再統一は、趙匡胤ちょうきょういんの開いた宋(北宋)によって進められますが、宋は軍事力を縮小した文治主義をとったこともあり、遼王朝はその間に征服地を拡大し、宋との対立を深めていきます。

 

中国南部、現在の雲南地方には、大理国という国が成立。ここでは白くて良質な石が産出され、特産品となりました。ご存知、大理石です。

朝鮮半島

唐の崩壊と機を同じくして朝鮮半島でも王朝の交代がありました。新羅はすでに弱体化しており、この国に征服された高句麗百済の末裔が、各々の祖国を復活を望んで後高句麗後百済を建設。

 

このうち、後高句麗の王建ワングァンは国名を高麗とし、935年新羅から王位を奪ってこの国を滅ぼしました。高麗は翌年に後百済も征服し、以後450年以上にわたり朝鮮半島に君臨し続けます。

東南アジア

唐から新たに独立した国もありました。現在のベトナムです。ベトナムは紀元前1世紀以来、約1000年に渡って中国の支配下にありましたが、その間インドシナ交易の中継地として重要な地となり、10世紀、ついに自立を果たしました。

 

ベトナム人は自らを「」と呼んでおり、皇帝を名乗った丁部領ディン・ボリンは、国名を「大瞿越ダイコヴェト」としました。ただしこの国名は短命で、11世紀初めには「大越ダイヴェト」と改められます。

 

カンボジアでは、アンコール朝が分裂と再統合を繰り返しながら、少しずつその支配域を広げていきました。

中東(西アジア)

バクダッドを都に置くアッバース朝。その君主は、イスラム教の最高指導者でもあるカリフという地位の人物でした。

 

しかし10世紀、アッバース朝のカリフは力を失い、連動して2つの動きが生じます。一つがカリフを「飾り物」にして裏で権力を握る王朝が出現したということ。ペルシャ系のブワイフ朝は、10世紀半ばにバクダッドへ侵攻し、カリフに代わって政治を執り行うようになりました。

中東(北アフリカ)・イベリア半島

もう一つが、カリフを名乗る人物が複数現れたことです。北アフリカに興ったファーティマ朝は、厳格なイスラム教シーア派の王朝で、スンニ派であるアッバース朝を認めず、その君主は自らカリフを名乗りました。

 

ファーティマ朝は10世紀後半に経済力のあるエジプトを征服し、この頃建設されたカイロを中心に、大王朝となっていきます。

 

 

イベリア半島(現スペインなど)には、8世紀に滅ぼされたウマイヤ家の生き残りが逃れ、後ウマイヤ朝としてアッバース朝に対抗していました。10世紀にはヨーロッパの安定化と共に、交易が活発になり、その都コルドバは大いに繁栄します。

 

その繁栄を背景に後ウマイヤ朝では、929年(アブド・アッラフマーン3世の時代)からカリフを名乗るようになりました。こうしてイスラム世界の分裂(地方の自立)はもはや歯止めの利かない状態となっていきます。

3人のカリフ

バルカン半島

東欧でもビザンツの皇帝に対し、自ら皇帝を名乗った人物が出現しました。当時バルカン半島の強国だった、ブルガリア王国です。

 

913年即位したシメオン1世は、ビザンツ帝国を圧倒する力を見せ、攻め込んだ帝都コンスタンティノープルで「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を名乗りました。しかし戦争を繰り返したブルガリアは疲弊し、シメオンの死後急速に衰退していきます。

西ヨーロッパ

西欧ではヴァイキングの活動がまだ続いていました。ヴァイキングの一派であるノルマン人。その首領ロロは、西フランク王国との取引の結果、略奪をやめる代わりに北部に領地を得て、民族の名を採ったノルマンディー公国を開きます。ノルマンディー公国は形式上、西フランク王国の配下の国という扱いでしたが、事実上独立国のようなものでした。

 

その西フランク王国は、10世紀末フランク族の王家が絶え、ユーグ・カペーに王位が受け継がれます。この頃からこの王国は、フランス王国と呼ばれるようになります。

一方の東フランク王国はマジャール人など新たな遊牧民に悩まされる中、こちらもフランク族の王が断絶。ザクセン家が王位を継ぎますが、こちらは後のドイツの原型となります。

 

ザクセン家のオットー1世は、10世紀半ばにマジャール人に勝利するなど武功を挙げ、フランク王国分裂以来あいまいになっていた「ローマ帝国」の正式な後継者、つまりローマ皇帝となります(962年)。

 

以後、彼の国は神聖ローマ帝国と呼ばれ、その領地は現在のドイツ、オーストリア、スイス、オランダ、チェコ、イタリア北部などに及びました。しかし肝心のローマ教皇の領地だったため、皇帝は度々、ローマ教皇を操ろうと口を出すようになっていきます。

東欧・北欧

また10世紀前後は、キリスト教が”異民族”にも広がった時期でもありました。先のノルマンディー公国のほか、デンマーク人、ポーランド人、ハンガリー(マジャール)人らがカトリックを受け入れ、王国を築くことを認められました。

 

一方ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどの祖先にあたるルーシは、ビザンツ帝国と関係を深めるため、東方正教を受け入れています。ルーシの中心だったのは、現ウクライナの首都であるキエフでした。その君主だったウラジミル1世は東方正教を国教化。彼らもまたキリスト世界の仲間入りを果たしました。

~主な出来事~

907 滅亡(中国)

910 ファーティマ朝成立(北アフリカ)

911 ノルマン人の君主ロロ、フランス北部にノルマンディー公国建設(西欧)

913 シメオン1皇帝を自称。第一次ブルガリア王国(帝国)最盛期に(ブルガリア)

916 中国北部に契丹族の成立(東アジア)

926 遼により渤海滅亡(東アジア)

930頃 平将門の乱(日本)

935 高麗王建新羅から王位を奪う(朝鮮半島)

937 雲南地方に大理国成立(東アジア)

945 ブワイフ朝、バクダッドに入り、カリフから統治権を得る(西アジア)

962 オットー1世戴冠 神聖ローマ帝国成立(西欧)

966 ポーランドミエシコ1世、キリスト教改宗(ポーランド)

966 丁部領大瞿越国建国(ベトナム)

972 カイロにアズハル大学設立(エジプト)

982 エイリークグリーンランドに到達(北欧)

987 カペー朝フランス王国成立(フランス)

988 キエフ公国ウラジミル1世、東方正教に改宗。(ロシア・ウクライナ)

1000 イシュトヴァーン1世即位。ハンガリー王国成立(ハンガリー)

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