19世紀後半~近代から現代へ~
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今回は19世紀後半。1870年~1900年までとします。めちゃくちゃ長いので、お好きな所から読んでください!
北アメリカ
アメリカ合衆国
南北戦争が終わったアメリカでは、爆発的な工業化と経済成長を経験していきます。これには広い国内が鉄道で結ばれたこと、西部開拓が進んで、大量の農作物や鉱山資源を利用できたこと、世界各地から移民が入り、労働力に事欠かなくなったこと等が背景にあります。経済の発展に引っ張られる形で、新しい技術も生み出されました。エジソンの電球やベルの電話も1870年代に発明されています。また、ロックフェラーのスタンダード石油やカーネギーの鉄鋼会社など、巨大企業も誕生しますが、その裏では拝金主義や政治腐敗、熾烈な競争、勝者・敗者の残酷な格差をも生み出すことになります。この時代は別名、金ぴか時代とも呼ばれています。
1890年頃には、フロンティアライン(開発と未開発の境界線)が太平洋まで達し、国内の開発が一段落します。するとアメリカも、海外への領土獲得に乗り出していきました。その代表例がマッキンリー大統領下で起きた1898年の米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)です。これに勝利したアメリカは、カリブ海のキューバやプエルトリコ、太平洋のフィリピンやグアムといった島々を獲得しました。同年には、これも太平洋の島国、ハワイ王国を廃止、併合します。カリブ海と太平洋というこの2つの海を通じてアメリカは、中南米やアジアへと拡大していきました。
カナダ
カナダは1867年、それまでバラバラだったイギリス系植民地を統合した、一つの植民地に生まれ変わりました。この統合をより強化すべく、東西を結ぶ鉄道が建設を開始します。近代化の一方で、カナダに住んでいた先住民は、アメリカの先住民と同様、その生活を次第に脅かされていきました。1885年、フランス人と先住民の混血、ルイ・リエルが、政府に対し大規模な反乱を起こしています。
メキシコ
メキシコでは、1872年にフアレス大統領が死去し、76年にディアスが大統領に。フアレスが近代化のために、カトリックなど昔ながらの勢力を徹底排除したのに対し、ディアスはその手を緩め、より現実的な政策を重んじていきます。この時期、メキシコでも鉄道が全国に敷かれ、国内が経済的にも統合されました。進んだ技術が導入されたこともあり、鉱工業が大きく発展し、国民の生活が豊かになった事もあり、ディアス政権は30年以上続きます。しかし長期政権の宿命として、彼は20世紀を迎える頃までに独裁者と化していました。
キューバ
未だスペインの植民地だったキューバでは、激しい独立運動が起こっていました。特に1895年、マルティに指導された第2次独立運動は、カリブ海に進出したいアメリカの格好の口実となります。先述のとおり、1898年の米西戦争でキューバはアメリカ領に。1902年悲願の独立を達成しますが、アメリカの政治的な影響力は強く残ります。
南アメリカ
19世紀初頭に独立した南アメリカ諸国は、後述するアジアやアフリカのように、直接的な植民地になることはありませんでした。しかし、経済面では近代化をリードするイギリス、後にはアメリカに従属。また、国内では貧富の差が拡大していきました。
チリ・ペルー・ボリビア
1870年代、太平洋沿岸のアタカマ砂漠で、火薬の原料である硝石が見つかると、ここをめぐって、ペルー、ボリビア、チリが相争うようになります。1879年から始まる太平洋戦争(無論、日本とアメリカが戦った戦争とは別)は、83年チリの勝利に終わりました。敗れたペルーとボリビアはアタカマ砂漠を含む沿岸部を失い、特にボリビアはこれで内陸国となってしまいました。
重要な輸出原料を手に入れたチリですが、その開発を行ったのは主にイギリス企業。当時、地元企業はまだ成長しておらず、外国資本に頼らざるを得なかったのです。こうしてチリ経済は対英従属化していきました。ペルーでもこの頃、砂糖や綿花の輸出が経済の中心でしたが、チリと同じ背景で、アメリカ企業が経済を握っていました。
コロンビア・ベネズエラ・エクアドル
コロンビアでは、コーヒーの輸出で好景気に沸いていました。1863年の憲法で州の権限が大きく拡大し、自由な空気のもと文化活動も盛んになりました。一方で、各州がコロンビアから分離する動きもあり、1880年代のヌニェス政権下では、再び中央政権、つまり大統領の権限が強化されていきます。ヌニェスが死去した1899年、経済を支えていたコーヒーの価格が暴落すると、社会は一気に不安定化し、世紀をまたいだ内戦が発生してしまいます。
ベネズエラでは1870年から独裁を敷いていたグスマン・ブランコ大統領が1888年失脚し、1892年に大統領の権限が縮小されることが決まります(護憲革命)。しかしこの国も当時はコーヒーに経済を支えられており、1899年以降はコロンビアと同じく、社会混乱を経験します。
エクアドルの場合は、カカオ豆が輸出の中心でした。その積出港であるグアヤキルは、この頃、首都キトに劣らぬ大都市に発展。経済力を武器にしたグアヤキル市民たちは、1895年、首都キトの保守派政権を追い落とし、アルファーロ政権を立ち上げました(グアヤキル革命)。アルファーロのもとで、政教分離や自由・平等を重視する社会改革が行われていきます。
アルゼンチン
アルゼンチンでは、南部の広大な平原、パンパ地帯の開発が積極化します。この地では畜産業が盛んになり、冷凍船の開発と相まって、ヨーロッパへ大量に牛肉を輸出していきました。ただこの開発を主導したのも、例によってイギリス企業でした。ただし、南米の中では社会の安定していたアルゼンチンには、アメリカ合衆国と同様に大量の移民が入って来るように。国を代表する音楽タンゴも、多様な移民の持ち込んだ音楽や踊りが混ざる中で次第に形作られていくことになります。
ブラジル
ペドロ2世が統治するブラジル帝国でも、コーヒーが経済の中心でしたが、まだ奴隷制が残っており、国際社会から批判されていました。国内でも奴隷を廃止しようと主張する人々が増加してきましたが、彼らは同時に、皇帝をトップとした政治を改め、地方州の権利を拡大する要求も行なっていました。国内外の批判に抗えなくなったペドロ2世は、段階的に奴隷制を切り崩していき、1888年ついに全奴隷の解放を実現します。しかしこのことで、皇帝を支えてきた保守派の支持を失い、翌1889年、ブラジルの帝政は廃止され、共和国となります。
ヨーロッパ
イギリス
1873年ヨーロッパで大不況が発生し、「世界の工場」だったイギリスでも生産が落ち目に。このためイギリスは世界各地への投資をもって国内再建を目指し、そのためにイギリスの大英帝国化が更に進むことになります。また、この時代のイギリス政治では、ディズレーリ、グラッドストンという大物政治家が活躍しました。
保守党のディズレーリは、大英帝国の形成に大きくかかわりました。1875年のスエズ運河の株買収は、エジプトへの影響力を強め、また77年のインド帝国成立は、イギリスによる大国インドの植民地化のいわば集大成といった出来事でした。なお、時のヴィクトリア女王はこれにより、インド皇帝(女帝)を兼ねることになります。1878年にはキプロスをオスマン帝国から奪い、中東や地中海にもにらみを利かせました。
自由党のグラッドストンは首相を4回も務めた人物でしたが、帝国主義外交より平和的な外交を重んじ、また国内では改革を通じて、国民の権限を拡大していきました。1871年には労働組合を認め、84年には選挙法を改正して、成人男性のほとんどが選挙権を持つようになりました。
アイルランド
そのグラッドストンも解決できなかったのがアイルランド問題でした。イギリスに併合されていた当時のアイルランドでは、イギリス人が地主、現地住民が小作人として搾り取られるという問題(土地戦争)が生じており、これが1845年のジャガイモ飢饉(前章参照)をより深刻化する原因にもなっていました。
1879年政治家パーネルは土地同盟を結成して、小作人の権利拡大を要求、グラッドストンはこれに応えて1880年アイルランド土地法を制定し、アイルランド人の救済を一歩進めます。続いてアイルランド独自の議会設置など政治的な権利を求め、アイルランド自治法案も出されましたが、こちらには失敗しました。
ドイツ
1871年、プロイセンがフランスに勝ったのを機に、プロイセン王ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝として改めて即位しました。ドイツ帝国の成立です。引き続き政治の中心にいたのがビスマルクで、政治では国内を統合することに努め、工業では英仏を追い抜かんとする勢いを見せました。外交では、イタリア王国、オーストリア・ハンガリー帝国と同盟を結んで、英仏露、特にフランスとの対決姿勢を鮮明にします。ただしビスマルク自身は各国のバランスがとられることを望み、1878年や1884年のベルリン会議では、その利害を調整にリーダーシップを発揮しました。そんなビスマルクですが、1888年ヴィルヘルム2世が即位すると、彼と衝突を繰り返し、1890年ついに宰相から引退。以後ドイツではヴィルヘルム2世が政治の中心に立ちます。
フランス
先のとおり、1871年にドイツ帝国が成立しますが、そのセレモニーが行われたのが、なんとフランスのヴェルサイユ宮殿。これはドイツの横暴だとパリの市民は憤慨します。政治面では、退位したナポレオン3世に代わって、ティエールによる臨時政権が作られましたが、そんなのには任せておけないと、パリ市民は労働者を中心に独自の政権を作り、対決します。パリ・コミューンと呼ばれるこの政権は、僅か2か月でティエールに潰されてしまいますが、労働者が中心となって築かれた世界初の政府として後世に大きな影響を与えました。
ティエールの元、フランスでは第3共和政が発足。近代化のためにカトリックを政治から排除(政教分離)し、それまで教会や修道院の行っていた教育に代わって公教育を広めていきます。この第3共和政は第二次世界大戦まで続きました。植民地を拡大するとともに重工業が発展し、1889年にはパリで万博が開かれます。その目玉としてお目見えしたのが、エッフェル塔でした。鉄という文明を象徴する物質で造られた、高さ300mを超える巨大建築物。当時のエッフェル塔は人類の技術力がここまで来た事を内外に示すものでした。
イタリア
1861年に成立したイタリア王国は、1870年にローマ教皇領を武力で併合しました。千年以上続いた教皇領はここに消滅します。当然ながら納得いかないのがローマ教皇ピウス9世。なおも世界的に大きな影響力を持つ彼は、バチカンの宮殿に閉じこもり、イタリア政府との交流を断ち切って抗議しました。この関係が解消されるのは20世紀になってからです。
この後のイタリアは、国ごとにバラバラだった法律や制度を統一するとともに、工業化を進めていきます。しかし工業化が進んだのは、ミラノ、トリノといった北部が中心。ナポリ、シチリアなどの南部は発展から取り残されていきました。外交面では、新興国同士の繋がりということで、先の通り、ドイツ帝国およびオーストリア・ハンガリー帝国と同盟(三国同盟)を結びました。しかしオーストリアとは領土問題を抱えており、この同盟関係は後に破綻することになります。
スペイン
スペインでは1868年、改革の徹底を主張する「進歩派」が、女王イザベル2世を退位させ、イタリア出身のアマデオ1世を即位させます。しかしその後も権力争いが絶えなかったことから、アマデオ1世も73年に退位。思いがけずスペインで国王不在の共和制が発足しますが、これもうまくいかず、翌74年に、イザベル2世の子アルフォンソ12世が即位しました。これで一応社会は安定します。
既に中南米植民地の大部分を失っていたスペインは、英仏独のような帝国主義の争いから距離を置いていました。残る植民地の多くも1898年米西戦争でアメリカに譲った事は、前述のとおりです。
北ヨーロッパ
北欧でも近代化とともに、労働問題が深刻化し、社会主義を唱える政党も出現していきます。デンマークでは1878年、スウェーデンでは1889年に社会民主党が結成されました。また、社会に進出し始めた女性の権利向上も、この時期叫ばれました。スウェーデンと連合していたノルウェーの作家イプセンもその一人です。北欧諸国はまた、イギリス、ドイツ、ロシアといった大国に囲まれたため、しかも単独ではこうした大国に対抗できないことから、お互いに連携しつつ、中立の立場を続けていきます。
ベルギー
ベルギーでは、レオポルド2世の時代でした。彼もまた帝国主義の仲間入りを望み、アフリカ大陸に植民地を得ます。それが現在のコンゴ民主共和国にあたる地域で、「コンゴ自由国」と命名されました。しかし、実際は自由とこれ程かけ離れた場所は無いほどに過酷な植民地でした。王はこの地で天然ゴムの生産をさせるのですが、そのノルマが極めて厳しく、現地住民が激しい暴力を受けたり、場合によっては命を落とすこともありました。何より他の植民地と異なったのが、コンゴ自由国が「レオポルド2世個人の所有物」だったこと。つまりベルギー政府は植民地経営になんら関わりも責任を持たず、過酷な状況が改善されることはありませんでした。
ロシア
ロシアでは、皇帝アレクサンドル2世の大規模な改革により、急速な近代化が進んでいましたが、この変化が貧富の差を生み出し、一部は社会主義を主張するようになっていきます。ナロードニキと呼ばれた彼らはまた、皇帝の独裁にも批判的でした。
1881年、過激派によりアレクサンドル2世が暗殺され、アレクサンドル3世が即位。この時代には、改革のスピードは抑えられますが、例えば1891年にはシベリア鉄道の建設が開始されています。
一方で支配地への同化政策が行われました。つまりロシア支配下にあったフィンランド、ポーランド、ウクライナ、バルト三国、コーカサスなどの住民が、母国語を禁じられ、ロシア語を強制されたり、ロシア風の文化を押し付けられたりしたのです。この政策は1894年即位したニコライ2世にも引き継がれました。
バルカン半島
バルカン半島では、オスマン帝国の支配域と、半ば自立していた国とが混在しており、また脱トルコを目指して民族主義運動が盛んになっていました。
1875年、ボスニア地方で反乱が起こると、セルビアやモンテネグロがこれを支援しますが、この裏にはボスニアを自国に組み込もうとする野望が見え隠れしていました。更にセルビアらをロシアも支援。1877年露土戦争が起こりました。
敗れたオスマン帝国は、1878年にサン・ステファノ条約とベルリン条約を結びます。この結果、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの完全独立が認められました。なお、肝心のボスニア地方は治安維持の為、オーストリア・ハンガリー帝国の軍によって占領されました。
やや遅れたブルガリアは、大公国の地位を得て、完全とは言えないまでも事実上の独立を達成。しかしサン・ステファノ条約で決められた領地が広大で、バルカン半島のパワーバランスを崩すとして、次のベルリン条約では領土を縮小されてしまいます。これに満足しなかったブルガリアは、1881年に東ルメリア地方を併合。これは隣国セルビアを脅かし、両者は1885年、戦争にまで発展しました(ブルガリアの勝利)。このようにバルカン半島では、オスマン帝国との戦いと、独立した国同士の争いが繰り返され、不安定な状態が続くことになります。
ギリシャ
既に独立していたギリシャは、オスマン帝国内に残る「ギリシャ人の住んでいる地域」を併合し、領土を少しずつ拡大していきます。また、ヨーロッパ各地でも古代ギリシャ文化への関心が高まりました。フランス人のクーベルタン男爵は、古代ギリシャで行われていた儀式を、平和の祭典にアレンジ。1896年に第1回オリンピックがアテネで開催されます。しかしこの翌年、いまだオスマン領だったクレタ島で反乱が起きると、これをチャンスと見たギリシャ軍が侵攻。オスマン軍に敗北してしまいます。
ユダヤ人
ヨーロッパで民族主義が渦巻く中、ユダヤ教徒もまた、「ユダヤ人」としての民族意識を持ち始めていました。キリスト教世界のヨーロッパにおいて、自らの宗教をかたくなに守り続けた彼らですが、迫害や偏見は変わらず。ロシアでは、社会問題が深刻化し、その不満の矛先がユダヤ人に向けられました。この結果、ポグロムと呼ばれる迫害、虐殺事件が各地で起こるようになります。1894年には、フランスでユダヤ系軍人のドレフュスが無実の罪で投獄されるドレフュス事件が発生しました。
この事件を受けて、翌1895年、社会活動家ヘルツルは、スイスで第1回シオニスト会議を開きました。ここでは、ユダヤ人が反ユダヤ主義から逃れるために、ユダヤ人の国を造るほかないという主張がなされ、後のイスラエル建国につながる、シオニズム運動が開始されます。
東アジア
日本
明治維新の始まった日本では、欧米に追いつけ追い越せの富国強兵策を実施していきます。それまでの身分制は廃止され(四民平等)、独自性の強かった藩も再編されて、中央政府から派遣された知事の治める「県」が置かれました(廃藩置県)。
近代的な軍隊も編成されますが、その役を担ったのは武士ではなく主に平民でした(徴兵制)。こうした政策に長らく支配層だった武士(士族)は、不満を募らせ、1877年には、西郷隆盛らによる西南戦争が起こります。翌年には政府の中心人物だった大久保利通も暗殺されました。
この新政府は、幕府打倒に貢献した薩摩(西郷、大久保など)、長州(伊藤博文、木戸孝允など)に牛耳られていました。この独占に対し、より多くの人々の声を政治に反映させようという運動が起こります。自由民権運動です。この運動では、選挙で選ばれた議員が話し合う議会の設置や、憲法の制定などが叫ばれました。こうした動きに対し、1889年伊藤博文らによって、大日本帝国憲法が発布されます。この時参考にされたのが、統一を成し遂げ、日本と同じ時期に近代化を本格化させた、ドイツでした。
経済面でも、繊維業などの工業が発展。鉄道も全国に敷かれました。一方で、労働問題や環境破壊といった新しい問題も生じます。後者の代表例は、栃木県の足尾鉱毒事件(1891年)があげられます。
さて、外交面では、欧米と対等の関係になるべく、日本も欧米の帝国主義を真似ていきます。詳しくは次項に回しますが、日本は江華島事件や日清戦争を経て東アジアに強い存在感を示していきます。しかし同じ頃、東アジアに領土的野心を強める大国がもう1か国出てきます。それが南下政策を続けるロシアでした。
朝鮮
朝鮮では、鎖国政策を進めた大院君(国王、高宗の父)が1873年に失脚。王妃である閔妃が実権を握ります。1875年日本艦隊が漢城(ソウル)に近い江華島にまで近づき、流血の事態になる江華島事件が発生。それまでアメリカやフランスの船を追い返してきた朝鮮は遂に屈し、翌76年に不平等な日朝修好条規が結ばれ、釜山などが開港されました。
開国により朝鮮でも近代化が本格化し、別技軍と呼ばれる近代的な軍隊も結成。これに対し、昔ながらの軍人達は冷遇されたため、1882年彼らによる反乱が起こりました(壬午軍乱)。
反乱は中国の清によって鎮圧され、政権も近代化をストップします。金玉均ら開化派(近代化を主張する人々)は、1884年クーデターを起こしたものの(甲申事変)、またもや清の軍に鎮圧されました。
こうして朝鮮をめぐる日清の対立が高まり、結果起こったのが日清戦争でした。当時、農民たちは、腐敗した政府や両班から重税を強いられ、救いを求めて、新興宗教東学に入信する者が増加していました。そのリーダー、全琫準は1894年、朝鮮南西部の全羅道で反乱を起こし、一時は農民による地方政権を確立するまでに至ります。この甲午農民戦争を口実に、日清が激突。清はこの戦争に敗北し、朝鮮に対する日本の影響力は更に高まりを見せます。
これに危機感を抱いたのが、政権を握っていた閔妃。日本のこれ以上の干渉を抑えようと、同じく東アジアに進出していたロシアに接近しますが、これを見た日本軍が1895年彼女を暗殺したため、かえって対日感情を悪化させてしまいました。
閔妃の死後、政権は国王高宗の手に委ねられます。日清戦争後、清との朝貢関係(属国関係)が消えたこともあり、彼は1897年、朝鮮の国名を大韓帝国と改めました。
中国
中国(清)では、1875年第11代皇帝光緒帝が即位しますが、相変わらず実権は西太后が握っていました。その一方、一部の官僚は西洋の技術が進んでいることを認め、その技術を導入しようという洋務運動を展開していきます。ただしあくまで中国の政治システムは維持された(西体中用)ため、近代化は中途半端に。1895年には「格下」と思われた日本に敗北してしまいます。
清は日本への賠償金を払うのに、欧米から借金せざるを得ず、その担保として更に領地を奪われていきます。これを機により本格的な改革が必要との声が高まり、康有為ら改革派によって変法運動が起こります。光緒帝も彼らに接近する一方、西太后は保守派に接近。1898年改革派はクーデター(戊戌の政変)を起こしましたが失敗、光緒帝は西太后に軟禁されてしまいました。
社会面では、急増した外国人と地元民とのトラブルが絶えず、扶清滅洋(清を助けて西洋を滅す)を掲げる義和団が結成されました。中国版尊王攘夷といったところでしょうか。1900年、この義和団が反乱を起こし、西太后もこれを支持しますが、西欧の軍隊によって鎮圧。立場の悪くなった西太后も、渋々変法運動を受け入れました。この頃ハワイには、清王朝そのものを廃止しようと考える人物がいました。彼が20世紀初頭の中国に多大な影響を与えることになる、孫文です。
台湾
台湾もまた歴史の荒波に翻弄されて行きます。清の支配下にあった台湾は、中国における海上交易・防衛の拠点として各国から注目され、日本も1871年の牡丹社事件(台湾に漂着した宮古島島民が現地人に殺害され、日本軍が派遣された事件)を機に進出を本格化していきました。
清も台湾の行政や防衛を強化し、特に1885年から始まった劉銘伝による改革は、税制、経済、国防、鉄道など多岐にわたりました。台北が中心都市となるのもこの頃です。しかし日清戦争後の1895年に下関条約が結ばれ、台湾は日本に割譲されます。当然日本支配を受け入れない人々の抵抗は激しく、反乱とこれを抑える殺戮は20世紀に入っても続きました。
東南アジア
東南アジア諸国はその大半が欧米の植民地となっていきます。現在の国で言えば、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、ブルネイがイギリス領、ベトナム、ラオス、カンボジアがフランス領、インドネシアがオランダ領、東ティモールがポルトガル領、フィリピンがスペイン→アメリカ領となりました。
フィリピン
「アメリカ」の項で書きましたが、1898年米西戦争によって、フィリピンはスペインからアメリカへと支配者が変わりました。しかしこの事件を機に、東南アジア最初の本格的な独立革命が起こることになります。米西戦争前のフィリピンでは、スペインの近代化に合わせて、民族主義が高まっていました。留学経験のあった活動家ホセ・リサールは、スペインによる政治を批判し、新聞などを用いて、独立運動をはじめました。
リサールは1896年に処刑されてしまいますが、彼の意思を継いだ人々は政治組織カティプナンを結成。そのリーダーとなったアギナルドは、2年後始まった米西戦争でアメリカを支援します。まだこの段階では、アメリカがフィリピンの独立を助けてくれるかもしれないと期待していたからです。戦いはスペインの敗北に終わり、アギナルドは、独立と新政府樹立を宣言します。ところがアメリカはこれを認めず、翌99年米比戦争が勃発。新政府は崩れ去りました。
ミャンマー
コンバウン朝ビルマはミンドン国王の元、何とか勢力を維持していましたが、1878年に王は志半ばで死去。1885年に起こった第3次英緬戦争でイギリスに敗北し、最後の国王が退位に追い込まれて、王朝も滅びました。以後ビルマは、英領インド帝国の一部として扱われ、大勢のインド人が労働者として移住してくることになります。
マレーシア・シンガポール・ブルネイ
同じくイギリス領となったのがマレーシア。当時ジョホール王国など複数の国から成っていたマレー半島では、ブリキの材料となる錫鉱業が盛んになっていました。ここで働いていたのが、中国からの移民、後の華僑となる人々ですが、故郷から遠い地ゆえにトラブルも続出。ここに各国の政治問題も絡み、社会が不安定化していきました。
ここに介入したのがイギリスで、トラブルを仲介するとともに、これらの国を保護国化。1895年に、保護国をまとめたマレー連合州を成立させました。なお、シンガポールやマラッカはイギリスの「直轄領」という扱いで、同じイギリス領でも扱いが異なります。ボルネオ島北部もまた、イギリス人の統治するサラワク王国らが、本国の保護下に置かれます。ボルネオの語源になったとされるブルネイ王国も、1888年イギリスの保護国となりました。
インドネシア・東ティモール
一方で、ボルネオ島中南部は、1891年の協定でオランダ領となりました。この前年には、面積世界第2位の島ニューギニア島も、植民地の境界が決まり、その西半分がオランダ、北東部がドイツ、南東部がイギリスとなります。ティモール島も1859年に西半分がオランダ、東半分がポルトガル領となります。
こうして、後のインドネシアとなる、オランダ領東インド植民地の領域が確定しました。しかし、地図上で支配域を確定させるのと、実際に支配できるかは、話が別。かつてのジャワ戦争同様、現地人の抵抗と、その弾圧との戦いは各地で見られました。スマトラ島北部では、貿易の中継地として栄えたアチェ王国がオランダの支配を拒み、アチェ戦争が起こります。1873年始まったこの戦いは、翌年にスルタン(国王)が廃止された後も続き、終結は世紀をまたいだ1912年までかかりました。
ベトナム
ベトナム(阮朝越南国)は、南部をフランスに植民地化されていましたが、フランスの野心の前に、王都ハノイのある北部も独立が危うくなっていきます。1883年ハノイがフランス軍に占領されると、ベトナムの宗主国を自認していた中国(清)が反発。1884年清仏戦争が起こりますが、フランスはこれに勝利して、ベトナム保護国化を認めさせました。すでに保護国としていたカンボジアと、ベトナム南部を合わせ、1887年フランス領インドシナ植民地が成立します。一方でこうした支配に抵抗した人々も当然多くいましたが、その中心となったのが、文紳と呼ばれる地方の有力者たちでした。
タイ・ラオス
こうした植民地化の嵐の中で独立を維持できたのが、シャム王国、現在のタイです。1868年即位したラーマ5世(チュラロンコン)はヨーロッパに留学した経験があり、その経験を生かして、税制、教育、軍隊などの近代化を次々と行いました。彼の手腕は外交面でも発揮され、英、仏、日といった帝国主義を掲げる国々とバランスを考慮して付き合いました。
ところで、当時シャム王国支配下にあったルアンパバーン王国(ラオスの一部)は、山岳民族の侵入に悩まされ、これを防ぐために、ラーマ5世よりもフランスを頼りにしていました。この背景からフランスは、ルアンパバーンを含めた、現ラオスの地を割譲するよう、シャム王国に要求。1893年には艦隊をバンコク近くにまで侵入させるパークナム事件を起こします。
ラーマ5世はフランスの要求を飲み、ラオスはフランス領へ。1899年には正式に仏領インドシナに組み込まれました。しかしこれ以上のフランス領拡大には、ビルマとマレーを持つイギリスが難色を示したため、シャム王国は英仏の緩衝地帯として生き残りました。
インド
東インド会社解散後、インドはイギリス政府によって統治されるようになり、「イギリス」の項で書きましたが、その集大成として1877年英領インド帝国が成立します。名実ともにイギリスの植民地となったことで、インド人は他のイギリス領にも労働者として進出していきました。特にシンガポールやフィジーなど比較的小さな地域では、インド系住民の人口が「少数民族」と呼べないほどの規模に膨れ上がっていきました。
他方、現地インド人の間では、武力によるイギリスへの抵抗に限界を感じるようになっていました。代わりに目指されたのが、イギリスの政治ルールに沿ったやり方で、自身の権利を取り戻すというもの。1885年インド国民会議という政党が結成され、インド人の権利を主張するようになっていきます。
中東
オスマン帝国(トルコ)
オスマン帝国では、スルタンによる改革タンジマートが進められ、1876年アジア初の憲法、ミドハト憲法が制定されました。近代国家の仲間入りを果たしたかに見えたトルコですが、スルタンの権限はまだまだ強く、同じ年に即位したアブデュルハミト2世はこの憲法を早々に停止してしまいました。これに対し、スルタンの権限を抑えようとする人々も出現。彼らは青年トルコと呼ばれる集団となっていきます。
「バルカン半島」の章に書いた通り、1877年の露土戦争でオスマン帝国はロシアに敗北して、セルビアやルーマニアの独立を許してしまいます。この時、ロシアの拡大を抑えようとしたのがドイツ。共に「ロシアと対立関係にある」ドイツとトルコは良好な関係を築き、現イラクのバグダッドとベルリンを結ぶバグダード鉄道の建設もこの時期開始されます。
一方、アラブ人の居住地でありながら、オスマン帝国支配下にあったイラクやシリアでは、この頃「アラブ民族」を意識し始めるようになり、トルコ人支配からの脱却を主張。アブデュルハミト2世はこれを抑えるとともに、トルコ人とアラブ人の団結を呼びかけました。その際に利用したのが、両者に共通する「自分たちはイスラム教徒だ!」というアイデンティティ。思想家アフガーニーらによって生み出されたこのパン・イスラム主義で両者の分断を阻止しようとしたのですが、オスマン帝国には他にもキリスト教徒やユダヤ教徒(ユダヤ人)も多く暮らしており、今度は彼らの分離運動を招くことになります。
イラン・ペルシャ湾岸の国々
カージャール朝ペルシャ(イラン)では、イギリスとロシアの進出により半植民地状態になっていました。1890年イギリスが、タバコの専売権をペルシャ国王から得ると、これ以上の外国の進出を恐れた人々により、タバコ・ボイコット運動が起こりました。つまり、イギリスが利益を得るタバコの購入を自粛することで、経済的にイギリスに抵抗したのです。
イギリスはまた、ペルシャへの進出をスムーズにすべく、ペルシャ湾の治安維持にも乗り出しました。当時のペルシャ湾は、アラビア半島側の部族抗争や海賊問題が深刻化していました。これをイギリスは仲裁し、中には保護下においた地域もありました。現在のアラブ首長国連邦、カタール、バーレーン、クウェートといった国々はいずれもアラブ人の首長をトップとする国ですが、当時の首長がこの時イギリスと協定を結び、その保護下になったものがその原型です。
海洋帝国の分裂・崩壊を許したオマーンは、スエズ運河開通で交易ルートが変わったことで経済的にも打撃を受け、沿岸部のスルタン(国王)と、内陸部の有力者の対立が激しくなりました。この結果、オマーンのスルタンも1891年、イギリスの保護下に入ります。
アフガニスタン
イランと同じく英露の進出に悩まされていたのがアフガニスタン。ロシアの南下政策を恐れたイギリスは、アフガニスタンを獲られまいとして、この国を自分の支配下に置こうとしました。これが第2次アフガン戦争(1878年)で、敗北したアフガニスタンは、イギリスの狙い通りその保護国となりました。が、現地の抵抗も大きく、結局イギリスは自国に理解のあるアブドゥール・ラフマンを即位させて、軍を撤退させました。
アブドゥール・ラフマンは、各地の反乱を抑えることに成功し、近代化にも着手しますが、やはりイギリスの言動には逆らえず。1893年デュランド合意では、王国の南部を英領インド帝国に割譲。現在ここはパキスタンの一部になっていますが、この分割の結果、アフガニスタン最大民族であるパシュトゥン人も分断されてしまいました。この辺りはアフリカ分割にも重なる所があります。
エジプト・スーダン
1875年エジプト政府は、財政難からスエズ運河株をイギリスに売却。これをきっかけにイギリス人をはじめとするヨーロッパ人が、政府や王朝に首を突っ込むようになります。これに対し、政治家ウラービーは、エジプト(アラブ)人による政治を求め、議会設置を要求。1881年、ヨーロッパ人の言いなりになっている政府に対し、武装蜂起しました。しかしこの乱はイギリス軍に鎮圧され、エジプトは事実上イギリスの支配下に置かれてしまいます。
エジプト下にあったスーダンも、同時にイギリスの支配下に置かれます。過酷な支配に対して、1881年、救世主(マフディー)を自称したムハンマド・アフマドが決起。イギリス軍に戦いを挑み、英雄ゴードン将軍を倒して、ハルトゥーム(現スーダンの首都)にイスラム系の国家を樹立。このマフディー国が鎮圧されるのは1898年のことでした。
アフリカ各地
1884~5年のベルリン会議では、アフリカ大陸の分割が「地図の上」で決められ、最新兵器を武器に、現地の植民地化が一気に進行していきました。
18世紀から西アフリカで長く続いたフラニ聖戦は、フランスをはじめとするヨーロッパの近代兵器を前に敗れ、遂に終わりを告げました。そのフランスは、大西洋側にセネガル、紅海側にジブチを持ち、主にサハラ砂漠一帯を東西に結ぶ植民地を得ようと画策(横断政策)。対するイギリスは、エジプトから南アフリカまでをつなぐ植民地を計画していました(縦断政策)。この両国の企みがぶつかったのが、1898年スーダンで起こったファショダ事件です。結局この時はフランスが譲歩し、スーダンはイギリス領となりました。
伝統的にアフリカへの影響力が強かったポルトガルもまた、大西洋側のアンゴラと、インド洋側のモザンビークをつないだ植民地を得ようとしますが、これもイギリスの縦断政策が優先されました。
植民地化の過程で、アフリカ中部のコンゴ王国や、チャド湖周辺のカネム・ボルヌ帝国、ナイジェリア南部のベニン王国、ナイジェリア北部のソコト帝国、現ガーナのアシャンティ王国、現マラウイを中心としたマラビ帝国、マダガスカルのメリナ王国などが、19世紀末から20世紀初頭にかけて次々と滅亡、あるいはヨーロッパ列強の支配下に置かれました。
エチオピア
その中で独立を自力で守ったのがエチオピアです。エチオピアには当時、イタリアが食指を伸ばしていましたが、エチオピア皇帝メネリク2世は地の利を生かし、1896年のアドワの戦いにてイタリア軍を撃退。この間、英仏の情勢などを巧みに利用し、独立を維持しました。
南アフリカ
南アフリカでは、オランダ系住民(ブール人)が建国した国(オレンジ自由国、トランスヴァール共和国)と、イギリス人が奪った植民地(ケープ植民地、ナタール共和国)、更に地元アフリカ系の王国(ズールー王国など)が相争っていました。
世界史に(あまり)出てこない国の歩み~南アフリカ共和国の歴史~より
しかし、アフリカ分割が盛んになっていたこの頃、ブール系の国でダイヤモンド鉱山、金鉱山が発見されます。これらの採掘がはじまると、ケープ植民地の首相であったセシル・ローズや、本国イギリスで帝国主義論が過熱。1899年、両国の間で戦争となります(南アフリカ戦争/ブール戦争)。この戦争は1902年イギリスの勝利に終わりますが、世界的な批判を免れませんでした。
オセアニア
この頃、オセアニアの小さな島々もまた、アフリカ同様に欧米の帝国主義にさらされ、次々と植民地になっていきました。
すなわち、イギリス(豪、NZのほか、ニューギニア島南東部、ソロモン諸島、トンガなど)、ドイツ(マーシャル諸島、ナウル、サモア西部など)、アメリカ(グアム、サモア東部、ハワイなど)、フランス(ニューカレドニア、タヒチなど)が、島民の意思と無関係に、太平洋を切り刻み始めたのです。後には日本もここに参入しようとします。
こうした諸外国の進出に、危機感を覚えたのが、シドニーを中心としたニューサウスウェールズ植民地や、メルボルンを中心としたヴィクトリア植民地といった、オーストラリアの各植民地でした。互いに競合していた彼らは、ここから連携の道を歩み始め、1901年大陸全体をまたぐ、オーストラリア連邦が築かれることになります。
また、オーストラリアには、距離的に近く、安い賃金でも働くアジア系の労働者(日本人、中国人)が移住して来ました。しかし1890年代には不況が到来し、労働運動が過熱。この運動が労働党を生む要因となります。また、賃上げを要求する人々は、上の理由からアジア系移民への怒りを募らせていきました。
ニュージーランドでは、マオリ人の降伏により土地戦争が1880年頃収まり、また、オーストラリア同様、アジア系移民も増えていました。まだまだヨーロッパ系中心の社会とは言え、差別や格差を改善する動きも活発にみられました。中でも1893年、女性参政権が世界で初めて認められたことは、注目に値します。
主な出来事
1871 ドイツ帝国成立、ヴィルヘルム1世即位 ビルマルク宰相、文化闘争開始(ドイツ)
1871 パリ・コミューン成立も、ティエール臨時政権により崩壊(フランス)
1873 大院君失脚、閔妃政権発足(朝鮮)
1875 英首相ディズレーリ、スエズ運河の株購入(イギリス・エジプト)
1875 江華島事件 (朝鮮・日本)
1876 日朝修好条規 朝鮮開国(朝鮮・日本)
1876 ベル、電話機を開発(アメリカ)
1876 ミドハト憲法発布(トルコ)
1877 露土戦争~78(ロシア・東欧・トルコ)
1877 西南戦争(日本)
1877 イギリス領インド帝国成立(インド・イギリス)
1878 サン・ステファノ条約、バルカン諸国がオスマン帝国から独立(東欧・トルコ)
1878 第2次アフガン戦争~80(イギリス・アフガニスタン)
1879 南米で太平洋戦争(ペルー・ボリビアvsチリ)
1879 エジソン、白熱電球開発(アメリカ)
1881 ウラービー革命(エジプト)
1881 スーダンでマフディー運動開始(イギリス・スーダン)
1881 アレクサンドル2世暗殺(ロシア)
1883 コッホ、コレラ菌発見(ドイツ)
1884 ベルリン会議~85 アフリカ分割される(ヨーロッパ・アフリカ)
1884 清仏戦争(中国・フランス・ベトナム)
1884 甲申事変(東アジア)
1884 フエ条約 ベトナムがフランスの保護国となる(ベトナム・フランス)
1885 ベルギー王レオポルド2世、コンゴ自由国を獲得(ベルギー・コンゴ)
1885 第3次英緬戦争~86 コンバウン朝滅亡(ミャンマー・イギリス)
1887 フランス領インドシナ成立(フランス・東南アジア)
1888 ヴィルヘルム2世即位(ドイツ)
1888年前後 ゴッホ『ひまわり』『夜のカフェテラス』作成(オランダ・フランス)
1889 大日本帝国憲法発布(日本)
1889 エッフェル塔完成(フランス)
1889 ブラジル帝国崩壊。共和国へ(ブラジル)
1891 タバコ・ボイコット運動(イラン)
1893 ハワイのリリウオカラニ女王退位
1893 世界初の女性参政権認められる(ニュージーランド)
1894 甲午農民戦争 日清戦争~95(東アジア)
1894 ドレフュス事件(フランス)
1895 下関条約 日本、台湾獲得 三国干渉で遼東半島返還(東アジア)
1895 閔妃暗殺(朝鮮・日本)
1896 アドワの戦い メネリク2世、イタリア軍を破る(エチオピア・イタリア)
1896 第1回近代オリンピック、アテネで開催(ギリシャ 他世界各国)
1896 メリナ王国滅亡、マダガスカルがフランス領に(マダガスカル・フランス)
1896 英領マレー連合州成立(マレーシア・イギリス)
1898 米西戦争(アメリカ・スペイン・フィリピン・キューバ他)
1898 アギナルド、フィリピンの独立を宣言(フィリピン)
1898 米、ハワイ王国併合(アメリカ・ハワイ)
1898 ファショダ事件(イギリス・フランス・アフリカ諸国)
1899 南アフリカ戦争開始(南アフリカ・イギリス)
1900 義和団事件(中国)
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