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15世紀~ルネサンスと大航海・近世の幕開け~

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15世紀の世界
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15世紀は、ヨーロッパでルネサンスと呼ばれる新しい思想・文化の大転換が見られた時期です。これを機にヨーロッパは、外界へと積極的に進出する、大航海時代をも迎えることになります。この大規模な変化により、時代が中世から近世へと移ったとみなされています。(あくまでヨーロッパでは、ですが・・・)

また、中央アジア、朝鮮半島、そして日本でも、目覚ましい文化の発展が見られました。やはり世界はどこかで繋がっているのかも・・・

ルネサンス

十字軍遠征やモンゴル帝国出現によるアジア人との接触で、それまでコテコテのカトリック社会だったヨーロッパに新風が巻き起こります。その中には、キリスト以前、とりわけ古代ギリシャ、ローマ時代の文化や思想がありました。

 

西ローマ滅亡(5世紀)後の混乱でヨーロッパでは失われていたこれらの文化は、実はイスラム世界を始めとするアジアの人々によって保存、研究されていました。それがヨーロッパに逆輸入された形になります。

 

人間は生まれながらにして罪を負っている」というカトリックの思想に対し、生き生きとした人間模様を神話や石像に残したギリシャ・ローマの教えは、ヨーロッパ人の芸術家を大いに刺激。15世紀はヨーロッパにおいてその「温故知新」的な芸術が一気に花開く時期に当たります。まさに、芸術は爆発だー!

イタリア

神聖ローマ帝国から自由になった北イタリアの都市は、ペストが終息に向かって再び活発化した交易により、莫大な利益を得るようになります。

 

特に毛織物工業で栄えたのが、トスカーナ地方のフィレンツェ。15世紀にこのフィレンツェで実権を握ったのが、代々銀行家を務めたメディチ家でした。

フィレンツェを始めとする各都市は、その富をもって競うように街を飾り立てんとし、多くの芸術家を保護しました。

前述のルネサンス文化が最もイタリアで、とりわけフィレンツェで華やかに花開いたのにも、このような理由があったのです。

 

しかし15世紀後半。南イタリアにあったナポリ王国の王位継承権をフランスが主張し、イタリアへ侵攻。北イタリアの諸都市もこのイタリア戦争に巻き込まれていくことになります。

イギリス・フランス

一方、英仏では百年戦争と呼ばれる対立関係が続いていました。戦況は一時、イギリスが優勢でしたが、フランス南部で即位したヴァロア家のシャルル7世が反撃を開始。彼を支えたのが、かの有名な女傑、ジャンヌ・ダルクです。彼女自身は後に敵に捕まり、若くして火あぶりの炎の中に散りましたが、シャルル7世は最終的にイギリス勢を殆ど大陸から追放し、勝利しました。

 

しかしイギリスではこの後、ランカスター家とヨーク家が王位を争うバラ戦争が、フランスでは、前述のようにイタリア戦争が起きるなど、安定にはまだまだ時間がかかりました。一方、戦争が長引いたことで、それを主導する国王の権力が高まっていきました。

 

ドイツ・チェコ

ルネサンスの影響は中央・西ヨーロッパにも及びました。単に芸術のみならず、新しい技術思想も生まれましたが、前者の代表が、「火薬・羅針盤・印刷技術」の、いわゆる三代発明でした。

これらはいずれも中国で発明されたものですが、ルネサンス期にヨーロッパに入り、より高度なものに改良されました。このうち、活版印刷技術を確立したグーテンベルグはよく知られた人物ですが、彼はドイツ(神聖ローマ帝国)の出身です。

活版印刷

後者としては、現在のチェコに出現した宗教改革者、ヤン・フスが代表選手です。当時の教会は、免罪符(これを買えば罪が許されるよ、というおふだ)を売りつけるなどして金儲けにいそしんでいました。

フスは「こんなものは聖書に書かれていない!カトリックの堕落だ!」と批判し、新しい宗派(フス派)を作り上げます。

時の神聖ローマ皇帝ジグモンドは、フス派の拡大を恐れて、彼を処刑してしまいますが、これによりフス戦争と呼ばれる反乱が中部ヨーロッパで起こりました。これは、次世紀の宗教改革をほうふつとさせる出来事といえるでしょう。

トルコ・東ヨーロッパ

 前世紀からバルカン半島をせっせと征服していたオスマン帝国は、1402年、西アジアの猛将ティムールに敗北し、一時壊滅寸前になりました(アンカラの戦い)。しかしその後の再建は素早く、再びバルカン半島に侵攻。スルタンのメフメト2世は1453年、遂にコンスタンティノープルの征服を成功させます。

 

こうして東西分裂後1000年以上に渡って存続した東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はその歴史に幕を下ろしました。コンスタンティノープルは「イスタンブール」に改名され、オスマン帝国の新帝都となっていきます。

 

15世紀中に東ヨーロッパのかなりの部分を征服したオスマン帝国は、地中海の東半分をも影響下に置き、この海域での貿易を左右するまでになります。

スペイン・ポルトガル

オスマン帝国が東地中海への存在感を大きくする一方、西のイベリア半島では、長い間繰り広げられていたイスラム勢力との戦い(レコンキスタ)が終わろうとしていました。

 

当時の半島には、カスティリャ王国、アラゴン王国、ポルトガル王国というカトリックの国があり、イスラムはグラナダ王国(ナスル朝)を残すのみとなっていました。

 

一足先にレコンキスタを完了させていたポルトガルは、オスマン帝国が中東方面の輸入品(コショウなどの香辛料が代表)を牛耳っていることに不満を感じ、この帝国を経由しない新貿易ルートの開拓を目指すようになります。

 

前述のように、三代発明のひとつ、羅針盤(コンパス)もこの頃改良され、より安全な航海が可能となりました。また、イスラムは古くからダウ船を始めとする高い航海技術を持っていました。

 

大西洋に面するポルトガルではこの両方を用いて航海技術に磨きをかけ、「航海王子」と呼ばれるエンリケ王子の支援の元、人々は大海原へ旅立っていくことになります。大航海時代の始まりです。彼らの最終目的地はインドでした。

 

カスティリャとアラゴンは、レコンキスタを続けるうちに接近を始め、1479年にはカスティリャのイザベル1世とアラゴンのフェルナンド1世が結婚し、連合王国となりました。これが後にスペインと呼ばれる王国となります。

1492年、スペインは遂にグラナダを陥落させ、イスラム系の王朝を完全にイベリア半島から追い出しました。この歴史的出来事の直前、イザベル1世の元に、ひとりのイタリア人がやってきました。クリストファー・コロンブスです。

アフリカ

地図で見ると分かりますが、ポルトガルのすぐ南にはアフリカ大陸が広がっています。ポルトガル船は、アフリカの海岸沿いに少しずつ南下し、1588年、Bディアスがアフリカ西南端の喜望峰に到達しました。

 

ここより東側はインド洋で、アラブ人も古くからインド~中東~東アフリカの交易に携わっている海域でした。彼らの協力もあり、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが遂にインドに到達します。

 

この探検のさなか、ポルトガル人はアフリカ沿岸部、とりわけ西アフリカ・中部アフリカの国々(オヨ、ベニン、ダホメー、コンゴ)と接触しました。西アフリカでは、サハラ砂漠を経由した交易で、北からイスラム教が伝わっていましたが、この接触により、海(南)からはカトリックが入るようになり、宗教構造が複雑化していきました。

大航海のアフリカ

そのサハラ砂漠では、14世紀まで栄華を誇ったマリ帝国から、ソンガイ帝国が独立。トンブクトゥガオといったサハラの交易拠点を奪い、この旧来の帝国に取って代わりました。

南北アメリカ

 15世紀、メキシコではアステカ帝国が強大化し、周囲の国々を従えていきました。

 

 同様に南米のアンデスではインカ帝国が台頭。険しい山脈に、インカの道と呼ばれる交通網を敷き、標高の高い地帯にも都市を築きました。かの有名なマチュピチュも15世紀前後に発展したと考えられています。

 

さて、ポルトガル人がアフリカを経由してアジア(インド)を目指したのに対し、コロンブスは、大西洋を突っ切ることでより早くアジアに到達できるのでは?と考え、実行に移しました。

この結果、1492年偶然にも未知の大陸に上陸。コロンブス自身はこの大地をインドと思い込み、先住民をインディアン、インディオと呼んでしまいました。

 

しかし間もなくその陸地がインドではない、新大陸であることが分かりました。それを主張した人物の一人が、アメリゴ・ヴェスプッチという人物で、新大陸は彼の名にちなんで、「アメリカ大陸」と呼ばれるようになります。

インド・東南アジア

 ヴァスコ・ダ・ガマが到達したころ、インドではデリーを都とするイスラム王朝(デリー・スルタン朝)が興亡を繰り返していました。支配者はイスラム教徒だった一方、インド人の圧倒的多数はヒンドゥー教徒(当時からインド人口は多かった)だったため、イスラムを押し付けるような政策はほとんど行われませんでした。

 

一方、ヨーロッパ人が「喉から手が出るほど」欲しがった香辛料の産地、東南アジアでは、中国、インド、イスラムの商人が盛んに交易を行っていました。15世紀、その中心はシャム王国(タイ)のアユタヤと、マレー半島のマラッカでした。

 

トライローカナート王のもとで、官僚の育成が進められ、アユタヤ朝は政治、経済、軍事面で強力な王国へと発展。その陰で、カンボジアのアンコールは衰退し、15世紀中にはその中心地としての地位も失われ、かの巨大寺院もまた密林に覆われるようになります。

 

また、マラッカは季節風貿易の良港として発展。イスラム商人との関係が深まったことから、15世紀半ば、時の王ムザッファル・シャーは仏教からイスラム教に改宗しました。すると、ブルネイなど周囲の国々も次々とイスラムを受け入れるようになっていきました。当時のマラッカがいかに影響力を持っていたかが分かります。

 

一方、ヒンドゥー教王朝だったマジャパヒト王国は、大国だったゆえにこの流れに乗れず、次第に孤立していくことになります。

西アジア・中央アジア

 前述のように、オスマン帝国に大勝したティムールでしたが、モンゴル帝国復活という野望を果たせぬまま、3年後の1505年に死没します。後継者のシャー・ルフ、ウルグ・ベクらは、征服した中東各地から王都サマルカンド(現中央アジアのウズベキスタン)へ、学者や芸術家を連れて来させました。

 

 サマルカンドはこの後、ペルシャ風の美しいイスラムモスクが多数建設され、天文学数学が発展するなど、中央アジアの文化に大きな影響を与えることとなります。

東アジア

中国では前世紀に興った明王朝が続いていました。一方、中国を追い出されたモンゴルは、タタールオイラートといった部族に分裂しながらも、未だ強い勢力を保っていました。明の3代皇帝永楽帝えいらくていは、モンゴルの動きを抑えるべく、万里の長城をより強固なものに立て直し、都を北京に置きました。

 

一方で彼は、明の強大さを世界に知らしめる大事業も行いました。宦官かんがんの軍人、鄭和ていわによる大艦隊の遠征です。明の船は、東南アジア、インド、中東、アフリカまでを旅し、ゆく先々でその存在感をアピールしました。

 

 鄭和が遠征を開始したのが1405年。大航海時代が始まるおよそ半世紀前に、実は東アジアから西へとこのような大航海が行われたといのは実に興味深いことです。

 

永楽帝の没後、モンゴルの脅威が再び増し、1449年には、明の皇帝が、オイラート部エセン・ハンに一時捕らわれるという、事件も起こっています(土木の変)。明はこの先もこの草原の覇者に絶えず悩まされることになります。

 

朝鮮王朝は、明との関係を強化し、朱子学を軸に、歴史学や医学などの発展を見ました。中でも4代国王世宗セジョンは臣下の学者と共に、朝鮮語(韓国語)を表記する、効率的な文字の開発に成功。訓民正音くんみんせいおん、現在のハングルがこの時生まれました。

しかし両班ヤンバン(朝鮮の貴族)は「漢字を使うのがエリートの証」と思っていた節があり、ハングルは主として庶民の間にゆっくりと広まりました。世宗の没後は、学問の解釈などを巡って各党派が主導権争いを繰り広げていきます。

 

当時日本とは異なる独自の歴史を歩んでいた沖縄(琉球)は、大きく「北山」「中山」「南山」の3つに分かれていましたが、1429年、中山の尚巴志王により統一されました。統一琉球王国の誕生です。

 

日本は室町時代の真っ只中でしたが、金閣寺を建てた足利義満の没後、徐々に足利政権の地位は揺らいでいきました。6代義教は恐怖政治を行ったため暗殺され、8代義政の時代には、後継者を巡って幕府の有力者同士が争うようになります。この結果1467年応仁の乱がおき、京の都の大部分が灰と化しました。

 

将軍の政治能力には恵まれなかった室町時代でしたが、文化面では大きな発展が見られました。金閣銀閣といった建築のほか、一寸法師などの文学作品、世阿弥らによる能楽が生まれ、画家の雪舟が、水墨画を大成させたのも、この15世紀でした。

ボッティチェリと雪舟

 

~主な出来事~

1402 アンカラの戦い オスマン軍、ティムールに敗れる(西アジア)

   ヤン・フス宗教改革開始~15(ヨーロッパ)

1405 鄭和南海遠征開始~33(中国~ユーラシア)

1410 タンネンベルクの戦い リトアニアがドイツ騎士団を破る(北東ヨーロッパ)

1412 コッテ王国成立(スリランカ)

1414 コンスタンツ公会議(ヨーロッパ)

    マラッカ王国、イスラムを受け入れる(東南アジア)

1421 永楽帝、中国の都を再び北京に遷す(中国)

1429 琉球王国統一(日本・沖縄)

1431 カンボジア、アンコール朝崩壊(カンボジア)

1420 フス戦争開始~36(ヨーロッパ)

1428 黎朝成立(ベトナム)

1434 コジモ・デ・メディチフィレンツェの実権握る(メディチ家の台頭)(イタリア)

1446 世宗訓民正音(ハングルの原型)考案。(朝鮮半島)

1449 土木の変 明の正統帝が一時オイラート軍に捕らえられる(東アジア)

1453 百年戦争終結(西ヨーロッパ)

   ビザンツ帝国滅亡 オスマン帝国が帝都をイスタンブールに定める(西アジア・ヨーロッパ)

1455 バラ戦争始まる(イギリス)

1464 スンニ・アリ即位 ソンガイ王国拡大始まる(西アフリカ)

1467 応仁の乱勃発(日本)

1477 ブルゴーニュ王国解体 ネーデルラントがハプスブルク家の領地に(オランダ・ベルギー)

1479 アラゴン・カスティリャ連合王国スペイン)成立(イベリア半島)

1492 コロンブスアメリカ大陸に到達(ヨーロッパ・アメリカ)

    グラナダ陥落 スペイン、レコンキスタ完了(スペイン)

1494 フランス、ナポリ王国へ侵攻。イタリア戦争開始(西ヨーロッパ)

1498 ヴァスコ・ダ・ガマインドカリカットに到達(ヨーロッパ・アジア)

1500 カブラル、南米東部に到達(ブラジル)

15世紀前後 ニュージーランドのジャイアントモア、乱獲で絶滅(オセアニア)

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