14世紀~旅人と黒死病~
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14世紀、モンゴル帝国によるユーラシア統一により、多くの人々が東西を行き交いました。この結果、中国や西アジアからヨーロッパへ火薬や羅針盤、印刷技術といった優れた発明品が伝わりました(これらがヨーロッパで改良されるのにはもう1世紀かかります)。
しかしこの交易は富と共に災厄をも運んできてしまいます。それが、病原菌でした。中でも14世紀に流行した黒死病(ペスト)は、西アジアとヨーロッパにて猛威を振るい、特にヨーロッパでは当時の人口の4分の1から3分の1が命を落としたとされます。このような大事件の連続を経て、ヨーロッパ社会は大きく変わっていきます。
東アジア
フビライ・ハーンの死後、元王朝では無能な皇帝が続き、これに洪水などの天災も加わって力を失っていきました。海上では、貿易船を狙った倭寇と呼ばれる海賊が出没し、商人を悩ませていました。1368年中国南部で朱元璋が北京に侵攻し、元をモンゴル高原へ押し返します。彼は新たに明王朝を開きました。
元の勢力が消失したことで、朝鮮半島の高麗も独立を回復しました。しかし朝廷内では、元との関係を保ちたい人々と、明との関係を構築したい人々が対立し、内部分裂を起こしました。こうした中、倭寇の討伐で名をはせた李成桂が1392年、高麗から王位を奪い、新しい国をつくりました。朝鮮王朝(李氏朝鮮)です。この時王都が漢城(ソウル)に定められています。
モンゴルを撃退した日本では、恩賞問題や北条氏の独裁に不満をもった武士たちが鎌倉幕府に不満を持ち始めます。京都では後醍醐天皇が即位し、こうした不満を持つ武士を率いて、1333年鎌倉幕府を滅ぼしました。
しかし後醍醐天皇は天皇中心の政治を復活させたことで、武士と対立。その将、足利尊氏は後醍醐天皇を吉野(奈良県)追放して、1338年室町幕府を開きました。以後、室町幕府寄りの朝廷と吉野の政権が対立する南北朝時代が、3代足利義満によって統一される(1392年)まで続きました。
このように東アジアにとって14世紀は、日韓中いずれも新しい政権に代わったという、波乱の1世紀でした。
東南アジア
13世紀にインドシナへ入ってきたタイ人ですが、14世紀には本格的な王国が次々と創られました。現在のタイ王国の元となったシャム王国では、先陣を切ったスコータイに代わり、アユタヤが栄えるようになりました。現在この2つの街は、いずれもタイの古都として世界遺産になっています。
この他、チェンマイなどタイ北部にラーンナー王国、現ラオス周辺にランサン王国が成立。いずれの国も仏教を重んじ、各地に寺院が建設されました。一方、カンボジアのアンコール王朝は衰退期に入り、度々アユタヤ軍の侵攻を受けました。
インドネシアでは、ジャワ東部に拠点を置くマジャパヒト王国が周辺の島々を服属させていきました。同王国はヒンドゥー教を重んじ、ジャワ語による文学も発展しました。
西アジア・中央アジア
西アジアと中央アジアは、その大部分がモンゴル帝国に征服されましたが、さすがイスラム教の力は強く、支配層のモンゴル人が逆にイスラム文化を受け入れるようになります。
イラン・イラク地方のイル・ハン国、中央アジアのチャガタイ・ハン国とロシア・ウクライナ地方のキプチャク・ハン国はいずれもモンゴル帝国の地方政権でした。14世紀になると、イル・ハン国の君主、ガザン・ハンが、財政再建のためイクター制度を導入。イクター制度とは、イスラム社会に広まった、特徴的な税制度のことです。
このようにイスラム風の政治が3か国で導入されたことに加え、モンゴル人自身も現地の人々と混血、同化し、次第にこれらの国はモンゴル本拠地から離れていきました。14世紀後半になると、3か国は更に小国に分裂、弱体化しました。一方でかつての大帝国復活を望む人物も登場します。
チンギス・ハーンの後継者を自称したティムールは、その天才的な軍事指導力でチャガタイ・ハン国、イル・ハン国を次々統合し、14世紀末までに、さながらモンゴル帝国の”西半分”を復活させたような帝国を築き上げました。これをティムール帝国と呼びます。
アフリカ
エジプトでは、なおもマムルーク朝が栄えていました。カイロを都とするこの王朝は、シリアやパレスティナ、聖地メッカなど、西アジアのそのまた西側も支配下に置き、紅海貿易で経済力を維持していたのです。このエジプトからモロッコにかけては、いずれもイスラムの王朝が勃興しました。
前世紀にイベリア半島から撤退したモロッコでは、14世紀初頭、大旅行家イブン・バトゥータがメッカ巡礼の旅に出ました。彼はメッカだけでは飽き足らず、この後アフリカ、インド、中央アジアなど世界各地を回り、その様子を記録に残しました。彼の旅行記は、当時のイスラム世界を知る貴重な手掛かりとなっています。
サハラ砂漠では、かつてのガーナ帝国に代わり、トンブクトゥを中心としたマリ帝国が栄えました。黄金を産出するこの砂漠の帝国でもイスラム教は信仰されていました。14世紀前半、マリ皇帝マンサ・ムーサは、メッカ巡礼の旅に出て、途中立ち寄ったカイロで大量の金をバラまいたために、経済が大混乱したという逸話が残っています。先のイブン・バトゥータも、マンサ・ムーサ没後ですが、マリ帝国を訪れています。
アフリカ南部では、巨石遺跡で知られるグレート・ジンバブエが栄えました。南部アフリカは砂漠や密林で北と隔絶され、長らく陸の孤島と思われていましたが、実際はインド洋を経た貿易でイスラム世界との繋がりがあったと言われています。(イスラム教が浸透することはさすがに無かったようですが)
西ヨーロッパ
十字軍遠征では、リーダーシップを発揮したフランス国王が力をつけ、一方でローマ教皇の力は失われました。1303年、フランス王フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世を幽閉したアナーニ事件は、両者の力関係を示しています。
この後フィリップ4世により教皇庁(ローマ教皇の住まい)が、ローマからフランス南部のアヴィニョンに移され、14世紀後半には、教皇を名乗る人物が同時に複数現れる(大シスマ)など、教皇にとって混乱した時代が続くことになります。
とは言え、国王は国王で貴族の声を無視できませんでした。13世紀にイングランドでマグナ・カルタが出されたように、フランスでも貴族の声を政治に反映させる三部会が開始されます。
そのフランスでは、王家カペー家が1328年ついに断絶。その親戚関係であるヴァロア家が新しい王家になります。これに「待った」をかけたのがイングランド王エドワード3世。
「11世紀」で書いたように、当時イングランドは、ブリテン島と大陸部の両方に領地を持ち、フランス王家とも深い関わりがありました。エドワード3世は、カペー家を継ぐのは自分だとして、ヴァロア家に戦争を仕掛けます。こうして1337年、英仏百年戦争が開始されました。
百年戦争といっても、百年ずっと戦争が続いたわけではありません。途中ペストの流行や、農民の反乱などで何度も休戦が繰り返されたため、決着が着かないまま両者の対立がズルズルと続いてしまったのです。国王や領主は、生き残った農民に逃げられないよう配慮し、その束縛を緩めるようになります。特にイギリスではヨーマンと呼ばれる自立した農民が出現。封建制が崩れていきました。
ドイツ(神聖ローマ帝国)では、カール4世が金印勅書を発令し、皇帝を選ぶ方法や権限が定められました。同時に領邦(地方の国)の権利も拡大し、神聖ローマ帝国の分裂が加速しました。
神聖ローマ帝国から自由になった北イタリアでは、ダンテやボッカチオといった文学者が出現。15世紀に爆発するルネサンス文化の先駆けとなりました。
東ヨーロッパ・北ヨーロッパ
モンゴル帝国による商業・交易の発展は、バルト海沿岸の国にも経済発展をもたらしました。特にドイツ人商人はこの地に積極的に進出(東方植民)。各地に商業都市を築き、都市同士の同盟も組まれました(ハンザ同盟)。
この14世紀、ポーランド王国ではカジミェシュ3世、ハンガリー王国ではラヨシュ1世といった名君が登場し、国内の統合や王権強化を進めました。しかし両国とも後継者に恵まれず、王家の血筋は常に不安定でした。外国から国王を招くこともしばしばで、地に足の着いた貴族が国を動かしていました。
ポーランドはまた、ドイツ人のバルト進出に脅威を感じ、対抗する方法を探っていました。そこで注目されたのが、ポーランドの隣国、リトアニア大公国。現在バルト三国のひとつに数えられるリトアニアは、この頃ベラルーシやウクライナなどを支配下に治め、現在の数倍の面積を誇っていました。1386年、ポーランド女王ヤドヴィガは、利害の一致した隣国リトアニアの君主ヨガイラと結婚しました。ヤゲヴォー朝ポーランド・リトアニア連合王国の成立です。
同じ様にバルト海の覇権を競っていたのが北欧のデンマーク、スウェーデン、ノルウェーでした。この3か国はいずれも王族同士の結婚で互いに血縁関係にありましたが、14世紀にはペストによる人口減(=税収減)や王侯貴族の権力争いによって常に不安定な状況にありました。
14世紀末、デンマークの事実上の君主であった女王マルグレーテが主導して、3国の王家いずれにも血縁関係のあったエーリク7世を王位に就けることに成功。北欧はデンマーク王家により1つの連合国家となりました(カルマル連合)。この連合は16世紀まで続きます。
バルカン半島では、前世紀にビザンツ帝国が一時崩壊したため、ワラキア公国(現ルーマニア)など、旧来支配下にあった国が自立を始めました。セルビア王国はステファン・ドゥシャンの元で統一され、社会のルールを明文化した『ドゥシャン法典』が定められました。
しかし14世紀後半には、南から再び大国が進出していきます。アナトリア高原に成立したオスマン帝国です。13世紀末、オスマン1世が開いたこの国は、ビザンツ帝国から領地を奪い、バルカン半島にも上陸。1389年コソヴォの戦いでオスマン軍はバルカン諸国の軍を打ち負かし、この後、ジワジワと支配域を広げていきました。
南北アメリカ
南米のアンデス山脈では、多様な文化が生まれていましたが、それらを統合した国が登場します。かのインカ帝国です。インカ道という交通路を険しい山中に張り巡らせ、現在のコロンビアからエクアドル、ペルー、ボリビア、チリにかけての広い範囲を統治しました。また、「キープ」と呼ばれる、紐と結び目を用いた道具を使って記録を遺し、文字を持たなかったインカの高度な文明を支えました。
同じ頃中米(現メキシコ)ではアステカ帝国が成立・繁栄しました。アステカの都チノチティトランは、テスココ湖の上に造られ、当時としては鉄壁の防御を誇りました。一方のマヤ文明は衰退傾向にありました。
~主な出来事~
1303 アナーニ事件。仏王フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世を幽閉(フランス)
1309 教皇庁がアヴィニョンに移る~77(西ヨーロッパ)
1315 モルガルデンの戦い、スイスの自立始まる(スイス)
1320頃 ダンテ、『神曲』発表(イタリア)
1325 イブン・バトゥータ、聖地巡礼の旅に出発(中東)
1325頃 メキシコにアステカ帝国成立(中米)
1328 カペー朝断絶。ヴァロア朝成立(フランス)
1330 ワラキア公国成立(ルーマニア)
1333 鎌倉幕府滅亡。後醍醐天皇、建武の新政開始(日本)
1333 ナスル朝の王都グラナダにアルハンブラ宮殿建設(イベリア半島)
1336 インド南部にヴィジャナヤガル王国成立(インド)
1337 英仏百年戦争始まる(イギリス・フランス)
1338 足利尊氏、室町幕府を開く(日本)
1349 ステファン・ドゥシャン、セルビア法典を編集(バルカン半島・セルビア)
14世紀半ば 倭寇の活動活発化(東アジア)
14世紀半ば 黒死病(ペスト)で人口激減(ヨーロッパ・西アジア)
14世紀半ば アンデス山脈にインカ帝国成立(南米)
1350頃 ボッカチオ、『デカメロン』発表(イタリア)
1351 アユタヤ朝成立(東南アジア・タイ)
1351 紅巾の乱~66(中国)
1353 ランサン王国成立(東南アジア・ラオス)
1356 神聖ローマ皇帝カール4世、金印勅書公布(西ヨーロッパ)
1363 ブルゴーニュ公国成立(ベネルクス・フランス)
1368 朱元璋、明を建国。元を北方へ追放(中国)
1370 ティムール即位。ティムール帝国成立(中央アジア)
1378 教会大分裂(大シスマ)~1417(ヨーロッパ)
1381 ワット・タイラーの乱(イギリス)
1386 ポーランドのヤドヴィガ女王・リトアニアのヨガイラ大公と結婚(東ヨーロッパ)
1389 コソヴォの戦い。オスマン帝国、バルカン支配本格化(東欧・バルカン半島)
1392 足利義満、南北朝を統合(日本)
1392 李成桂 李氏朝鮮王朝建国(朝鮮半島)
1397 カルマル連合成立(北欧)
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