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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ノルウェーの歴史~

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ウルネスの木造教会
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北欧(北ヨーロッパ)の国、ノルウェー。名前は知っていても実際にどのような国か知らない人も少なくないのではないでしょうか? 手始めに国旗を見てみましょう。

北欧の国旗1

ちなみに他の旗もすべて北欧の国旗です。似通ってますね~ この左側が長くなっている十字架の国旗を、「スカンジナビア十字」と呼びます。スカンジナビアは、ノルウェーやスウェーデンを構成している半島の名前です。

このように、ノルウェーを含む北欧諸国は、歴史的にも深いつながりを持っています。

オーディレンジャー

ヴァイキングの国

 ノルウェーを含む、紀元前の北欧についてはよくわかっていないのが現状です。寒さの厳しい気候ゆえに農業生産はとぼしく、狩猟漁業も盛んにおこなわれていました。このノウハウが、彼らの航海技術や戦闘能力を高めていくことになります。また、遠く離れたローマ帝国と交易していたともいわれています。

 

ヨーロッパで“古代”が終わり、ゲルマン民族の移動が盛んになる5世紀頃になると、各地に有力者(豪族)が出現していきました。そして8世紀末になると、豪族たちをリーダーとした集団が西ヨーロッパ、つまりキリスト世界にも侵入していくことになります。いわゆるヴァイキングです。

ヴァイキング活動

9世紀~海賊の栄光・イスラムの伝道~より

 当時のノルウェー人はキリスト教徒でなかったため、教会の価値のありそうなもの(金の十字架とか)を何のためらいもなく奪っていったし、抵抗する人々は容赦なく殺傷しました。しかし、このサイトでも何度か触れていますが、ヴァイキングは、西ヨーロッパを震え上がらせた海賊であると同時に、優れた「航海者でもありました。

ノルウェーのヴァイキングたちは、大西洋に繰り出し、9世紀にアイスランドに上陸、10世紀末には、殺人罪に問われた男、通称「赤毛のエイリーク」と呼ばれる男がグリーンランドの地を踏みました。エイリークの息子レイフは更にニューファンドランド(カナダ東部の島)にわたり、北米大陸の住民とも接触していたといわれています。その後ヴァイキング活動自体が衰退し、グリーンランドの環境も厳しくなったことで、北米との交流は歴史から消えてしまいましたが、もしそのまま付き合いが続いていれば、コロンブスの500年先輩になったことになります。

 

ノルウェー王国誕生

やがてヴァイキングは、多数の集団から3つの王国へと統一されていきます。すなわち、スウェーデン王国、デンマーク王国、ノルウェー王国です。ノルウェーの場合、9世紀末に登場したハーラル美髪王(初期の北欧の王には、〇〇王というあだ名が付くことが多い)によって統合が進められました。彼は西欧との交易を重視し、その交易路の安全を確保したいという狙いがあったといいます。

ハーラル美髪王

また、キリスト教(カトリック)も徐々に広まっていきました。1015年即位したオーラヴ2世は、キリスト教を広めることで、なおも残る敵対勢力を打倒してきます。そこに立ちはだかったのが、デンマークとイングランドの王を兼ねるクヌート大王。オーラヴに反発する豪族が彼に助けを請うたことで、両者はぶつかりますが、結果はオーラヴの敗死(1028年)でした。以後、クヌートはノルウェー王も兼ね、その統治範囲は北海帝国ともいわれています。

 

1035年クヌートの没後、ノルウェーでは独自の王が復活しました。12世紀には王位をめぐる内乱が生じ、政治的に安定を欠いていた時期もありましたが、経済は発展し、13世紀に入ってホーコン4世が即位するとその内乱も収拾され、ノルウェーは「成長期」に入ります。イングランドやドイツの都市(ハンザ同盟)へ、タラなどの海産物を輸出し、逆に西ヨーロッパの文化や技術を輸入してきました。

ペストとカルマル連合

ところが14世紀に入ると、ヨーロッパ全域がペスト(黒死病)の流行に見舞われ、人口が激減します。ノルウェーは特にその打撃が大きかった国で、一説には人口の半数が失われたといわれています。彼らから税を取って来た国王も当然収入を失い、地位も低下。経済面では比較的影響の軽かったドイツ人に主導権を握られてしまいます。これに対抗しようと、時の王ホーコン6世が採ったのが、お隣デンマークと結婚を通じて連合(1363年)することでした。結婚相手はデンマーク王女だったマルグレーテで、2人の息子オーラヴ4世の即位(1380年)によりデンマーク・ノルウェー連合王国が誕生しました。

 

オーラヴ4世が1387年に若くして没すると、マルグレーテによって遠縁のエイリークが新王に選ばれます。彼はスウェーデンの王族でもあり、1397年実際にスウェーデン王にも即位。こうしてデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの連合王国カルマル連合/同盟)が成立しました。なお当時アイスランドやグリーンランドはノルウェー領、フィンランドはスウェーデン領で、これらの地域も自動的に連合王国に組み込まれたことから、北欧全体が一つの王のもとにあったことになります。

カルマル連合

14世紀~旅人と黒死病~より

ただし、政治の実権はマルグレーテが握っており、彼女の死後も北欧では、デンマーク優先の政治が行われていきます。カルマル連合は100年ほど続きますが、デンマーク第一主義の政治にウンザリしたスウェーデンは、1523年に分離しました。しかしノルウェーではそこまでの力を回復しておらず、引き続きデンマーク王国と連合、いや次第にその属国となっていきました。

デンマークの絶対王政

同じ16世紀、デンマークではカトリックに代わってプロテスタントが主流になっていきますが、プロテスタントは間もなくノルウェーにも否応なしに広まっていきました。またそれともにデンマーク国王の権力が高まっていき、1572年からは、国王の代理としてノルウェー総督が派遣されるようになります。1588年即位したクリスチャン4世は歴代のデンマーク王でも特に有能な人物で、国力を強めるために新しい産業を生み出しました。着目したのがノルウェーの豊かな森林。以後、ノルウェーは林業と木材輸出によって大きな富を生み出していきました。この時期、首都オスロはクリスチャンの名にあやかって、「クスチャニア」に改名されています。

ウルネスの木造教会

 ↑世界遺産ウルネスの木造教会石造りの建物が多いヨーロッパの中で、ノルウェーでは昔から木造建築も多かった。これだけ木材に恵まれていたのは、ノルウェーと日本くらいでしょうか??

 

一方でデンマーク・ノルウェーは1625年、当時ヨーロッパを揺るがしていた三十年戦争に参加しますが、敗北を重ねてしまい、北欧トップの座をスウェーデンに奪われてしまいます。18世紀初頭に起こった北方戦争(ロシアvsスウェーデン)ではロシア側に付いてスウェーデンを攻撃しましたが、勝利に見合った収穫はありませんでした。

このように、今は平和な北欧も、近世はかなりドンパチしていたわけですが、歴代の国王は戦費を得るため、自身の土地を切り売りするようになります。特に人口密度の低いノルウェーでは、農民が広い土地を得る事ができ、他のヨーロッパと比べても豊かな農民が多かった傾向にありました。林業も好調で、これを海外(主にイギリス)に輸出する関係で、海運業も発達。17~18世紀のノルウェー経済は一つのピークを迎えます。とはいえ、そこで生み出された富は、その多くがデンマークの発展に用いられていたのも事実ですが・・・

ナポレオン戦争の動乱

この状況が大きく変わるのが18世紀末に起こったフランス革命とナポレオン戦争です。再びヨーロッパが戦火に見舞われる中、デンマーク・ノルウェー王国は中立を宣言し、イギリス、フランス双方と貿易して繁栄していました。しかし戦争の当事者にとってこの行為は、おのおのの敵国を利するものとして警戒されるようになりました。1807年不信感を募らせたイギリスがデンマークを攻撃したため、怒ったデンマークはフランスと同盟します。これにより今度はイギリスから経済封鎖を食らい、フランスなどへ輸出するノルウェーの貨物船も妨害されました。

北欧の変化

19世紀前半~黄昏の皇帝・独立と帝国主義~より

また、一貫してフランスと敵対していたスウェーデンをも敵に回してしまいます。実はスウェーデン、長年自国のもとにあったフィンランドをロシアに奪われており、その代わり(八つ当たり?)としてデンマークの領地を狙いました。それこそがノルウェー。ナポレオンが失脚した1814年、スウェーデン軍は「フランスの同盟国」デンマークを攻撃し、キール条約を結びます。この内容に、「デンマークはノルウェーをスウェーデンに割譲する」ことが書かれていました。

エイツヴォル憲法

同じ頃、ノルウェー総督としてこの地を統治していたのが、デンマーク王族の一人だったクリスチャン・フレデリク王子。彼はノルウェー独自の憲法を作って国の存在を確固たるものにしようとしました。このエイツヴォル憲法は、王権の制限、三権分立、農民も参政権(ただし男子のみ)を持つなど、近代的な考えがふんだんに盛り込まれた、当時としては非常に進んだ内容となっていました。しかしキール条約をさすがに無視できず、クリスチャン・フレデリク王太子は1814年中にデンマークへ帰国。ノルウェーはスウェーデンと連合王国の関係になりました。

クリスチャンフレデリク

スウェーデンの統治下で

1814年ノルウェーは正式にスウェーデンと連合関係になります。しかし、スウェーデンに奪われたのは外交権など一部の権限に限り、ノルウェー政治はエイツヴォル憲法で定められたノルウェー議会で決めてもよく、その自由度はかなり高いものでした。産業革命の波にもうまく乗っかって、ノルウェーの産業は19世紀をとおして成長を続けます。以前より盛んだった漁業や鉱業、木材の加工に加え、繊維工業も本格化。機械、鉄道、通信網も整備され、都市には工場が並び立ちます。農村でもチーズやヨーグルト、ワインといった加工品を機械化して、発展していきました。

 

このためノルウェーでは他の国と比較しても農民の地位は高くなり、絶対王政時代から政治を牛耳っていた官僚身分に対し挑戦していきます。1884年にはいわゆる議院内閣制がスタートしますが、これはヨーロッパでもかなり早いものでした。近代化の一方で、工場では長時間重労働に苦しむ人々が増加。時間短縮や給料の上昇などを叫ぶ労働運動が起こります(これは近代化した他の国でも見られましたが)。また、女性の解放運動も盛んにおこなわれますが、こうした運動を通じて社会改革を訴えたひとりが、作家で哲学者でもあったイプセンでした。

 

このほか文化面では、19世紀末から20世紀初頭にかけて、音楽家のグリーグや画家のムンク、文豪のイプセンらが活躍しました。また生物学者ナンセンが北極を探検し、気候や地形の面で様々な調査結果を残したのも同じ頃です。

20世紀に入るとノルウェーは外交問題でスウェーデン政府と対立し、1905年には連合を解消して新しい国王を迎え入れ、独立を宣言しました。スウェーデン側はもちろん反発しましたが、ちょうど隣国ロシアで革命が起こっていたため、事を荒立てるようなことは避けたのでしょう。大きな武力衝突もなく、ノルウェーは独立を達成します。

ノルウェー人の活躍と苦難

喜ばしいことは続くもので、1911年には探検家アムンゼンが人類史上初の南極点到達を実現しました。女性が参政権を得たのは1913年のことで、これはイギリスやアメリカよりも早いものでした。

ところが、この翌年になるとノルウェーは困難な時代を迎えます。1914年、第一次世界大戦の開始です。ノルウェーは他の北欧諸国とともに中立を宣言しますが、イギリスとの貿易は続けていました。そのためドイツ軍にはノルウェー~イギリス間を走る輸送船を攻撃され、実際に命を落とした人も少なくありませんでした。戦争が長期化するとともに次第に物も不足し、1916年からは食糧が配給制になりました。

 

中立であっても戦争と無関係ではいられないことを痛感したノルウェーは、戦後設立された国際連盟を通じ、平和外交に努めました。前述の探検家ナンセンは、国際連盟で「難民高等弁務官」を務め、人権問題やウクライナ飢饉(1921年)の支援に積極的に活動しました。この業績は1922年、ノーベル平和賞受賞という栄誉を彼に与えました。

一方、ノルウェー国内は戦後不況に悩まされ、1929年の世界恐慌では更なる打撃を受けます。労働問題はより深刻化したため、彼らの声を拾った労働党が勢力を伸ばすようになり、1935年からは与党となって、年金、失業手当などの社会福祉政策を打ち出していきました。

第二次世界大戦のノルウェー

1939年またしても世界大戦が勃発。この二次世界大戦でもノルウェーは中立を宣言します。しかし今回イギリスは、ノルウェーにも戦争協力を要求しました。イギリスはドイツの海上輸送を封鎖しようとしますが、ノルウェー沖合は中立地帯で、ドイツ船の抜け道となってしまうため、それが難しかったのです。だからここにもイギリスの軍艦を運行させてよ、と申し出てきたのです。

 

これに気が付いたドイツ側は、先手を打ち、1940年ノルウェーに軍事侵攻します。そして電撃戦により早々と首都オスロを占領してしまいました。政府のトップにはナチスに共感するクヴィスリングが就き、ドイツに協力。しかし多くの市民はこれを拒み、ストライキなどの抵抗活動を繰り広げていきました。戦況もやがて連合国側に傾き、1945年ドイツ軍はノルウェーから撤退しました。

復興と環境と

 戦後ノルウェーは、労働党政権のもと、一丸となって復興を進めていきます。幸い工業の急成長やアメリカの支援もあって、経済は大きく成長。財政に余裕ができたことから、国民に対し、子育て支援や年金などの福祉政策を実施していきました。

 

ただ、日本の高度経済成長が永遠に続かなかったように、ノルウェーの成長も1960年代に入ると頭打ちに。この頃から消費税が導入されるなど、北欧諸国の特徴である「高い税金と手厚い福祉」の形態をとるようになりました。経済面では伝統的な林業や水産業のほか、観光業や水力発電によるアルミニウム生産も発展。更に1970年代には北海で油田が発見され、石油という新たな輸出品が加わりました。

 

外交面では、ドイツ軍に攻め込まれた反省から、1949年NATOに加盟し、国防を強化しました。同時に中東問題の解決や、インドの経済支援など平和外交に努めていますし、国民も反核運動ベトナム反戦運動を積極的に行っています。なお、EUへの加盟は1970年代、90年代の2度の国民投票でいずれも否決されており、2021年現在もノルウェーはEU非加盟国となっています。

環境問題

20世紀も末近くになると、産業の発展とともに酸性雨、大気汚染、漁獲高の減少といった環境破壊が指摘されるようになりました。自然豊かなノルウェーにとって、これは観光資源の減少にもなる深刻な事態です。経済と観光、福祉と財政をどう両立させていくのか。これはノルウェーにも日本、世界にとっても頭の痛い問題ですが、この先どのような行動を起こしていくのか、人々の手腕が試されています。

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