世界地理・世界史の謎

南北戦争はなぜ起きた?

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ストウ
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1861年から65年まで続いた、アメリカ最大の内戦、南北戦争。名作『風と共に去りぬ』はこの時代が舞台となっています(筆者は未鑑賞ですが…)

社会の分断が深刻化していると言われて久しいアメリカですが、この南北戦争はそれこそ、アメリカ合衆国が2つの国に分かれるかもしれない大事件でした。南北戦争はなぜ起こり、そしてその結果世界にどのような影響を与えたのか。見ていきたいと思います。

19世紀のアメリカ

1776年に独立を宣言し、1789年に合衆国憲法がつくられ、国として本格始動したアメリカ合衆国。ヨーロッパがフランス革命やナポレオン戦争で揺れる中、アメリカは領土を西へ西へと広げ、また、経済面でも着実に成長していきました。

その社会は、簡単に書くと以下の通り

工場は主に北部に建設。当時は産業革命でトップを走るイギリスがライバル。そのままだとイギリス製品の方が質も良く値段も安いので、輸入品>国内品 な状態。 これじゃあ自国工業が成長しないので、関税で輸入品を高くして、国内製品を買ってもらうようにする(保護貿易)

工業には材料が必要。当時は繊維工業が中心で特に綿花がキーアイテムだった。アメリカは広いので、巨大な農場を造って綿花を大量に栽培させるが、綿花は元々熱帯の植物。だからあったかい南部に巨大農場がつくられた。そしてその作業に用いられたのが黒人奴隷だった!

こんなもんだから、北部と南部では気候も経済も、社会に対する考えもだいぶ違っていきました。

保護貿易

北部はアメリカ工業を発展させたいから、安いイギリス製品が入らないように関税を上げたい。しかしそうすれば、イギリスも関税を吊り上げるから、そこへ綿花を輸出している南部にとっては困る

関税障壁

自由州と奴隷州

両者の対立は、1820年のミズーリ協定で、一応の妥協を見ます。アメリカ合衆国は多くの「州」で成り立っていますが、このうち、反奴隷制の「自由州」と、奴隷制を続けたい「奴隷州」の数を常に同数にして、どちらか一方が不利になることを避けようとしたのでした。

南北分断アメリカ

ところが、19世紀半ばになると西部開拓によって新しい州が続々と生まれ、この妥協案に無理が生じてきます。そして1854年カンザス・ネブラスカ法が制定されました。この法では、地元住民が、奴隷州か自由州かを選んでいいことになります。こうして両者の州が同数になる保障がなくなり、南北の対立が激化していきます。

南部の独立

1852年、一冊の小説が発表されました。ストウ『アンクルトムの小屋』で、この本はアメリカに残る奴隷制を痛烈に批判したものでした。この頃から北部を中心に奴隷解放を訴える声が更に強まっていきます。しかし、長いこと南部の経済を担っていた奴隷制を簡単に廃止できないものまた事実でした。

ストウ

こうした中、北部に支持基盤を持つ共和党から新しい大統領が誕生します。彼の名はエイブラハム・リンカーン。1861年のことでした。

彼が大統領になれば当然、北部優先の政治が行われるだろう、そう判断した南部の州は「アメリカ連合」という別の国を作って、北部(アメリカ合衆国)からの独立を宣言。リンカーンとは別にジェファーソン・デイヴィスという人物が、アメリカ連合の大統領に就任しました。

※ここで「奴隷州」ではなく「南部」と書いた理由は、「奴隷州」の全てが「アメリカ連合」に参加したわけではないから。ケンタッキー州やミズーリ州など「アメリカ合衆国」に残った「奴隷州」もありました。

このままでは、就任早々リンカーンの面目丸つぶれ。当然彼は、そんな独立宣言を許しませんでした。こうして南北戦争がはじまります。

奴隷解放宣言・ゲディスバーグ演説

両国の戦いは1年、2年と長引き、戦死者は増加。直接戦争に参加していない市民達も、モノ不足やインフレに悩むようになっていきました。事態打開を目指してリンカーンも様々な策を講じていましたが、その一つが1863年の「奴隷解放宣言」でした。

南部社会を支えている黒人奴隷を北部は解放する、と宣言することで「北部は黒人の味方だぞ」というアピールができます。そうすれば、南部の奴隷が北部の味方になり、南部を社会的に切り崩すことが出来る。リンカーンはそう考えたのでした。

リンカーン

19世紀半ば~民族と植民地~より

また、当時は国際社会も奴隷制に批判的であり、この宣言は「正義は北部にあり」という内外へのアピールにもなりました。身も蓋もないことを言えば、奴隷解放宣言は南北戦争を有利にするための戦略としての意味合いが強く、リンカーンは別に南部の奴隷を解放するために南北戦争を戦ったわけではなかったのです。(もちろん、だからといって彼の業績が否定されるわけではありませんが)

 

同じ1863年の末、ペンシルヴェニア州のゲディスバーグで、大規模な戦闘が行われ、北部の勝利に終わります。リンカーンはこの地で、「人民の人民による人民のための政治」で名高い演説を行いました。これは元々、ゲディスバーグでの戦死者にたむけられた演説だったのですが、後にアメリカ民主主義を象徴する言葉として評価され、現在まで語り継がれています。

その後の黒人たち・・・

こうして南北戦争では、北部が優位になり、1865年南部アメリカ連合の敗北で幕を閉じます。死者は双方合わせて60万人を超える、アメリカ最大の内戦となりました。しかもリンカーンは同じ65年、南部側の人間によって暗殺されてしまいます。

続くジョンソン大統領により、黒人奴隷達は約束通り解放されます。この結果、南部での綿花栽培は衰退に向かい、北部の工業がアメリカ経済の中心となっていきました。

一方の黒人たちの多くは、解放されても財産を持てたわけではなく、社会的地位の低いままにおかれます。そこで、福祉政策や参政権を与えるなど、黒人への救済措置も実施されていきますが、1870年代になって不況がアメリカを襲うと、こうした政策も打ち切りに。

結局黒人の奴隷としての立場は解消されましたが、アメリカが白人優先の社会であることには変わりなく、彼らへの差別は残りました。この後、黒人たちは参政権を失ったり、白人よりグレードの低い学校や乗り物を強いられたりと、苦しい時代を生きることになります。

20世紀には、こうした差別に対し、ローザ・パークスキング牧師らが声を上げ、公民権法の制定にこぎつけます。これにより法的な差別も一応は解消されました。

最後に残ったのが、人々による「心的な差別」でしょう。黒人が犯罪者予備軍のように見られたり、暴力を奮ったり命を奪ってもよい存在のように扱われるといったことは現在まで続いています。2020年起きたジョージ・フロイド事件は、その後大規模なデモ活動を全米で引き起こしましたが、こうした事件はその氷山の一角に過ぎません。

反差別運動

アメリカに限らず日本でも、外国出身者や、性的マイノリティ、障碍者といった「法的には平等」な人々に「心的な差別」感情を持っている人は少なくなりません。こうした出来事を「他山の石」ならぬ「他国の意思」として見つめ直すのも、意義あることではないでしょうか?

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