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神聖ローマ帝国とは何だったのか!?(その1)

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世界史を勉強した方なら、神聖ローマ帝国の名を一度は目にしたことがあると思います。この中二病ゼンカイな名前の帝国は、中世から19世紀初頭まで長きにわたり、現在のドイツを中心に存在し続けました。

神聖ローマ帝国

しかしこの帝国、何度も世界史には出て来るのに、フランスやイギリスと比べてイマイチ掴みどころが無いというか・・・そもそもローマを支配したことは一度もないのに、こんな名前がつけられたのか。

摩訶不思議な神聖ローマ帝国、その歴史をざっと見ていきましょう。

ローマ帝国の後継者?

神聖ローマ帝国と切っても切れない関係にあるのが、キリスト教のカトリックです。

1世紀に誕生したこの宗教は、4世紀にローマ帝国の「国教」となって以降、世界的な宗教へと発展していきます。ただ一口にキリスト教といっても、神に対する考え方などの違いによって、すでに多くの宗派に分かれていました。その中から「正統」とされたのがローマ・カトリックで、そのトップであるローマ教会の大司教が、後にローマ教皇と呼ばれることになります。

フランシスコ教皇

ローマ教皇を保護する責任を持っていたのがローマ皇帝だったわけだったわですが、5世紀にその皇帝(西ローマ皇帝)が退位し、帝国も滅亡してしまいます。ローマを含むイタリアはこの後、様々な国に支配されますが、必ずしもカトリックを重んじる国ではなく、教皇との関係はビミョーなものでした。

 

どこかに教皇を守ってくれる強力な国はないか?そこで白羽の矢が立ったのが、西ヨーロッパのゲルマン系国家、フランク王国でした。この国は早くからカトリックを受け入れており、8世紀にはイスラムを破るなど「実績」も十分にありました。フランク王側も、ローマ教皇の権威を利用したいという思惑があり、両者の利害は一致。

カール戴冠ローマの中に「別の国」があるのはなぜ?より

西暦800年には、時フランク王のカール大帝が「あんたはローマ皇帝の後継者だよ、カトリック世界を護ってくれ」と教皇レオ3世から王冠を授かります。

こうして形を変えてローマ帝国が復活(ローマとその周辺は教皇の統治=教皇領として存続)したかに見えました。

ドイツの皇帝

ところが、843年、カールの孫3人の孫によってフランク王国(帝国)は分割されました。これは「財産を平等に分ける」というゲルマン民族の伝統でした。西フランク王国東フランク王国中部フランク王国のうち、皇帝の地位はしばらく中部フランク王国に引き継がれますが、この国の王はやたら短命で安定せず、870年にはイタリア以外の地域を他の2カ国に奪われてしまいます。

 

フランクの分割

9世紀~海賊の栄光・イスラムの伝道~より

 

この結果、現在のドイツを中心とする東フランク王国が優勢となりますが、911年にフランク王家が断絶。王位は家臣のコンラートが継ぎました。(王家がフランク族でなくなったため、ドイツ王国と呼ばれたりします。)

 

このドイツ王に936年即位したのが、オットー1世でした。オットーは東ヨーロッパの非キリスト勢力を征服して改宗させたり、遊牧民マジャール人の侵入を撃退したりと、カトリック保護者としての業績を積んでいきました。そして内戦状態だった中部フランク(イタリア)王国を平定し、その国王の地位も手に入れます。当時のローマ教皇はこの人物こそ、皇帝にふさわしいと判断し、962年戴冠式を執り行いました。

つまりオットー1世は、ドイツ王兼イタリア王兼ローマ皇帝という、モノスゴイ地位を認められたのです。以後、ドイツ王が代々「ローマ皇帝」の地位に就いたことから、彼らの国を神聖ローマ帝国と呼びます。ちなみに西フランク王国は、後にフランス王国となります。

 

※なお、11世紀には同じく中部フランクから独立していたブルグンド王国も併合し、ドイツ・イタリア・ブルグンド王兼皇帝となります。

封建制度と諸侯

オットー1世が皇帝となった当時、神聖ローマ帝国(以後、帝国)の範囲は現在の国で言うと、ドイツ、北イタリア、スイス、オーストリア、オランダ、ベルギー、チェコなどを含む非常に広い国でした。名目上これらは皇帝の土地だったのですが、まともな役人もいなければ、車も電話もない時代、しかも高い山(アルプス山脈とか)や深い森(シュバルツバルトとか)、大きな川(ライン川とか)があって、移動するのも大変な範囲を一人で治めるなんて土台無理な話。

 

そこで、ドイツ王(皇帝)は、自分に忠誠を誓ってくれた家臣(貴族)に土地を与え、統治を委ねました。その代わり、戦の時には主君と共に戦うことを義務付けます。日本でいう「御恩と奉公」に似たこの関係を封建制度と言います。貴族は皇帝から地方の土地を与えられ、彼らはそこからの税金で生活することになります。

なお、貴族と一口にいってもその位の高さによって国王、大公、公、伯などと呼び名が異なり、彼らの治める土地も、それぞれ王国、大公国、公国、伯領など使い分けされていました。ただ必ずしも王国が公国より強くて大きな国!というわけでもなかったようですが・・・

封建制度

貴族と同様、地方教会の司教に統治を委ねることもありました。一般人(農民)と比べ教養があった彼らは皇帝からの任命を受け、今でいう市長や県知事のように周囲の町や村を治めたのです。ただカトリックの司教や修道士は結婚が禁じられている=子供を持てないので、貴族と違ってその地を代々治めることができません

だから司教が死去、退任すると、新しい人物をその都度選ぶ必要があるのですが、逆に言えば皇帝お気に入りの人物を毎回任命できるわけで、貴族の治める地域よりも皇帝の影響力を強く及ぼすことができました。このような政策を帝国教会制と言います。

 

このように皇帝と封建制でつながった貴族や司教を総じて諸侯しょこうと呼びます。そして次期皇帝たるドイツ王は、有力な諸侯の選挙によって選ばれることになっていました(あくまで形式上ですが)

皇帝と教皇の綱引き

先ほど書いたように神聖ローマ皇帝は、カトリックのトップたるローマ教皇を護る存在でした。そのため当初皇帝は、教皇に対しても強い影響力を持っていました。「守ってやるから、言うこと聞けよ!」という、何かパワハラ彼氏みたいな感じですな。

 

だから、教皇の内部対立に皇帝が口出しすることもしばしばで、ハインリヒ3世(在位1028~56年)などは実際、教皇を何度も交代させていました。これでは誰がカトリック世界のトップなのか?教皇は次第に皇帝の存在から離れようとします。

 

ハインリヒ3世の没した11世紀半ば頃、教会のルールを正そうという教会改革が行われるようになりますが、その中に「司教などの聖職者の任命は聖職者だけで決める。世俗君主(=皇帝)は口を出すな!」というものがありました。これを徹底的に行おうとしたのが、1073年教皇となったグレゴリウス7世です。彼は教会の司教に対しても、その任命権は自分にあるとして、先の「帝国教会制」と対決します。これを叙任権闘争じょにんけんとうそうと言います。

 

当時神聖ローマ帝国を治めていたのが、ドイツ王ハインリヒ4世在位1056~1105年 この当時はまだ皇帝ではありませんでした)。カトリック世界のトップの座を巡る綱引きが、両者の間で繰り広げられます。

この時はグレゴリウス7世の方が一枚上手でした。彼はハインリヒ4世に破門を突きつけます。つまり、「アンタはカトリック世界の人間として失格じゃ!」と言われてしまったのでした。それだけならまあ精神的ダメージで済むのでしょうが、このままでは彼も皇帝にはなれないし、実際問題これをきっかけにハインリヒ4世に従っていた諸侯も背中を向け始めます(実のところ彼は自分の権限を強化しようとして諸侯に嫌われていたらしい)。

 

孤立したハインリヒ4世は1077年、グレゴリウス7世の滞在地カノッサに行き、城の門前に裸足で祈りをささげ、許しを請いました。有名なカノッサの屈辱です。

カノッサの屈辱

彼の破門を解いたグレゴリウス7世ですが、その後急速な改革が仇となってこの教皇もまた世間の支持を失い、力を取り戻したハインリヒ4世によって廃位されました。

ライバルを廃したことでハインリヒ4世は無事に皇帝にもなれた(1084年)のですが、1088年には更に強硬な教皇ウルバヌス2世が登場。十字軍遠征を考え出したこの教皇も、皇帝や各地の国王にエルサレム侵攻を命じて、自身の力をアピールしていきます。

 

結局、叙任権闘争はハインリヒ4世が生きているうちには決着せず、彼の息子ハインリヒ5世(在位1099~1125年)の時にヴォルムスの協定が結ばれました。1122年のことです。この協定で、帝国内の司教を任命する権利はローマ教皇にあり、土地や教会財産など世俗的な問題については、神聖ローマ皇帝に委ねるという妥協が成立したのでした。

ドイツとイタリアの皇帝

ヴォルムスの協定により、帝国教会制は事実上破綻はたんします。こうなると、皇帝は世俗の諸侯を支配して権力強化を図るように方針転換せざるを得ません。バルバロッサ(赤ひげ)の異名を持つ皇帝、フリードリヒ1世(在位1155~1190年)はこれを実行に移した人物でした。

 

彼の時代(12世紀後半)はヨーロッパの気候が温暖化し、人口が増加。ドイツ人もその居住地を東へ拡大していくのですが、この過程で、ザクセン(ドレスデン中心の地域)やブランデンブルク(ベルリン中心の地域)の公が領地、そして国力を拡大していきました。

 

しかしバルバロッサ皇帝は、強大化し自らに反抗し始めたザクセン公の土地を容赦なく没収し、これを他の公に与えました(1180年)。アメとムチを巧みに使い分けて、諸侯を従えようとしたのです。

この政策は、ドイツではある程度成功したのですが、イタリアでは失敗に終わります。時間は前後しますが、バルバロッサは北イタリアに発展した都市をも支配下に置こうとしました。これにミラノをはじめとする有力都市は反対。1167年にロンバルディア同盟を結んで皇帝に強く抵抗し、皇帝も結局その権利を認めました。

バルバロッサはこの後十字軍に参加しますが、途中でまさかの溺死。ハインリヒ6世(在位1191~1197年)が即位します。この人は別な戦略でイタリアへの支配力を強化しようとしました。彼は政略結婚で、帝国の範囲外にあったシチリア王国の王位を手に入れます。シチリアと言えばイタリアの南部に当たりますが、要するにローマやミラノから見れば、北(ドイツ)と南(シチリア)がどっちも皇帝の統治下になってしまったというオソロシイ状況に。

皇帝兼シチリア王

ハインリヒ6世の息子フリードリヒ2世は、1198年シチリア王に、1215年ドイツ王に、20年には皇帝に即位し、教皇を脅かしていきます。

時の教皇グレゴリウス9世は、十字軍になかなか行こうとしないという理由で皇帝を破門し、力を削ごうとしました。しかしフリードリヒ2世は優秀な人物で、1187年以降エジプトに奪われていたエルサレムを「交渉で」奪い返す(1229年)という業績を上げ、かえってその名声は高まってしまいました。

 

フリードリヒ2世が失敗したのはドイツ統治でした。彼自身はシチリアで過ごし、遠く離れたドイツについては、息子に統治を任せていたのですが、この息子がどうにも無能!ドイツ諸侯の反感を買う政治を行った上、最後は父にまで敵対して廃位されてしまいます。結局フリードリヒ2世はドイツ諸侯に大幅な自治権を与え、これをなだめる他ありませんでした。

 

ドイツとイタリアの両方を支配するという歴代皇帝の野望を実現できぬまま、フリードリヒ2世も1250年死没。まもなく彼の王家(シュタウフェン家)が断絶し、シチリアは皇帝一族の支配から切り離されました。以後、皇帝の力はイタリアに及ばなくなっていきます。

ゆらぐ皇帝の地位

先にも書きましたが、911年のコンラート1世以降、皇帝候補となるドイツ王を選ぶには、帝国諸侯による選挙という形を採っていました。とはいえ、現在の選挙のようにキッチリしたルールはなく、多数派の意見を無視して「オレ様がドイツ王だ!」と名乗る人間が2人以上出てくることもままありました。

それでも10~13世紀までは、なんとなくドイツ王に選ばれる王族は決まっていて、ザクセン家(オットー1世など)→ザリエル家(ハインリヒ4世など)→シュタウフェン家(フリードリヒ2世など)の有力な一族が代々冠を手にする傾向にありました。

ところが13世紀半ばになると、こうした有力一族がいなくなってしまいます。この頃の諸侯たちは、バルバロッサのような強力な王(皇帝)を出すと、自分たちの権利が奪われるかもしれないと考え(加えて諸侯同士の利害対立もあり)、ドイツに関心の薄そうな外国の王が次期ドイツ王に、しかも複数人推薦されたりしました。大空位時代と呼ばれる、まともな王や皇帝が選出されない非常事態が20年近く続きます。

 

その後ルドルフ1世(在位1273~1291年)が選出され、空位状態は何とか解消。彼こそ、後に皇帝の位を独占するハプスブルク家出身のドイツ王第1号でしたが、当時同家はまだ弱小貴族に過ぎず、ルドルフ自身も反対者との決着に時間がかかり、皇帝にはなり損ねています。

ルドルフ没後も暫くは、様々な家の出の人物がドイツ王・皇帝に選ばれることになり、相変わらず複数のドイツ王が同時に並び立つこともしばしばで、その権力はどんどん失われていきました。

そこで1346年即位したカール4世(在位1346~1378年)は、1356年の金印勅書きんいんちょくしょで、ドイツ王の選出に明確なルールを決めました。すなわち、神聖ローマ帝国内の有力な諸侯7人が多数決でドイツ王を決めるというもの。

金印勅書

と同時にこの7人(七選帝侯)に関しては、領地内での政治的な権利(裁判権や関税を決める権限)が認められ、彼らの治める領地は事実上独立国のようになっていきました。これを領邦りょうほうと呼びます。以後、神聖ローマ帝国は、こうした領邦の寄せ集めのような状態へと変わっていきました。

つづく・・・

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Comment

  1. より:

    先日、神聖ローマ帝国の記事をリクエストさせていただいた者です。
    分かりやすく充実の内容でありがたいです。
    いろいろとややこしい神聖ローマ帝国、これで少しずつ理解を進めていけそうです。

    どうもありがとうございました。
    続きも楽しみにしております!

    • SHIBA より:

      こちらこそ、さっそくご覧いただき、ありがとうございます。後半についても只今作成中なので、もう少しお待ち戴けたらと思います。

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