日本の鎖国中、オランダが出入りを許されたのはなぜ?

2022年に開業した西九州新幹線。その南の終点が長崎です。この長崎にはかつて出島という、文字通り海にせり出した島があり、そこには江戸時代、中国船とともにオランダ船が出入りしていました。
イギリスでもフランスでもなく、オランダ。ヨーロッパの中で知名度は高いものの、決して大国とはいえないこの国がなぜヨーロッパの中で唯一、鎖国中の日本と交易を許されたのか。その理由を追っていきたいと思います。
オランダ誕生前のオランダ
オランダが一つの国としてまとまり、独立を達成するのは、17世紀のことですが、それ以前から多くの人がこの地に暮らしています。紀元前にはバターフ人、フリース人といった人々が暮らしており、ローマ帝国の影響を受けつつ、独自の社会を築いていました。中世に入るとフランク王国、続く神聖ローマ帝国の支配下に入ります。以前の記事で書きましたが、この神聖ローマ帝国は、皇帝に忠誠を誓った貴族に地方の統治を委ねる、というやり方をとっており、現オランダの地にも、ホラント伯領やゼーラント伯領、ユトレヒト司教領といったワンランク下の国が生まれます。
これは有名な話ですが、ライン川の河口付近に広がるオランダの国土は、全体的に標高が低く、住める場所も限られていました。そのため古くから人口密度の高い都市が築かれます。上のホラント伯領は、現在は国際司法裁判所が置かれている都市ハーグを中心に発展ましたし、ユトレヒト司教領は、その名の通り宗教都市ユトレヒトを拠点として、司教(教会のお偉いさん)が治める国となりました。オランダは自分の国を「ネーデルラント」と呼びますが、これも「低い土地」を意味しています。以後、しばらくはオランダとその周辺地域(ベルギーなど)をまとめて「ネーデルラント」と呼ぶことにします。
また、土地が限られているという事は農地も不足しているという事であり、これまた古くから小麦をはじめとする食糧の一部は輸入に頼っていました。以前、隣の国ベルギーに関する話でも書いたことですが、ネーデルラントはドイツ、フランス、イギリスといった大国に囲まれており、これらの国との交易が盛んでした。
自国で生産された毛織物(羊の毛をつかった衣服)や泥炭(燃料のひとつ)を輸出したり、他国の品物を買い、別の国へ売る中継貿易を行ったりして得たお金を使って、自分たちの生活必需品を買っていたわけです。この中で発展したのが港町などの交易拠点。特にホラント州のアムステルダムは最大級の港町へと発展していきます。
オランダ独立!
そんなネーデルラントですが、15世紀にはフランスの元属国だったブルゴーニュ公国が進出し、ホラント、ユトレヒトといった国もこの国の支配下にはいります。更に15世紀末にブルゴーニュ公国の君主となったマリー女公が、ハプスブルク家の男性と結婚し、ネーデルラントもこの名門貴族のものとなりました。
16世紀に入ると、ヨーロッパで宗教改革が本格化します。それまでヨーロッパ(特に西ヨーロッパ)のキリスト教世界は、ローマ教皇をトップとするカトリック教会という組織に支えられてきました。しかし、この時代には、教会が不当な金儲けに走るなどの腐敗が目立つようになります。そこでカトリック教会という「組織」ではなく、あくまで「個人」の信仰を重んじようという人々が出てきました。
これがルターやカルヴァンといった人々で、彼らの考えがプロテスタントとよばれる新しい宗派を生み出します。ネーデルラントでは、「商売をして利益を上げることは正しい」とする、カルヴァン派が特に人気(カルヴァン本人は現スイスのジュネーヴで活動)で、特に北部の人々にカルヴァン派が広がっていきました。
当然ながらカトリック側は、プロテスタントが広がることに反対します。特に当時のハプスブルク家のトップ、カール5世は、ローマ教皇や「カトリック世界を護る」神聖ローマ皇帝の座にあり、ルター派やカルヴァン派を弾圧しました。それと同時にカトリックをヨーロッパ以外の世界にも広める、という動きも出てきましす。その代表格が、フランシスコ・ザビエルも所属していたイエズス会です。
なお、ハプスブルク家は政略結婚を繰り返し、この当時はヨーロッパのあちこちに領地を持っていました。先述の皇帝カール5世は、名目上神聖ローマ皇帝であり、スペイン国王であり、オーストリア大公(?)であり、イタリアのシチリア国王であり、ネーデルラントの君主でもありました。スペインと言えば、この頃隣国ポルトガルとともに大航海時代を引っ張っていた国。イエズス会のメンバーを船に乗せて、本当に世界各地にキリスト教を広めていきました。ラテンアメリカ(現在のメキシコやペルー)にあったアステカ帝国やインカ帝国が征服され、カトリックが広まりはじめたのも、カール5世の時代です。
そしてようやく日本の話になるのですが、16世紀当時の日本は戦国時代。ポルトガル人が種子島に上陸して鉄砲を伝えたのも、フランシスコ・ザビエルが九州を中心にカトリックを広めたのも、やはりカール5世の時代でした。いわゆるキリシタン大名は、いずれもカトリックに改宗した人びとです。
しかしカール5世はプロテスタントを抑えられないまま、1556年退位。スペインやネーデルラントの王の座は息子のフェリペ2世に受け継がれます。フェリペ2世もまた、プロテスタントの弾圧を徹底的に行いました。自分たちのキリスト教信仰が脅かされている。そう感じたネーデルラントの貴族たちは、1568年ついに反乱を起こしました。その中心人物が、当時ホラント州の総督(伯領は廃止され、州となっていた、総督はそのトップ)だったオラニエ公ウィレムです。当初はネーデルラント全体でスペイン軍に立ち向かっていました。
しかしプロテスタントが多かったのは主にネーデルラント北部で、まだカトリックの多かった南部はこの戦争から脱落(後のベルギー)。残った北部7州は1579年ユトレヒトにて同盟を締結。そして1581年にはフェリペ2世がネーデルラントの君主であることを否定しました。以後、この7州はオラニエ公ウィレムとその子孫をトップ(総督)とする、ネーデルラント連邦共和国となります。現在、オランダと呼ばれる国がここに誕生したのでした。
なおオランダの名前は、これまでに何度か登場した「ホラント」なまったものです。ホラント州にはアムステルダムやハーグがあり、7つの州の中でも中心的な役割を果たしていました。このホラントをポルトガル語では「オーランダ」と発音し、この呼び名が日本にも入ってきたというワケです。
日本とオランダ
ネーデルラント連邦共和国(以後オランダ)が生まれた翌年の1582年、日本では本能寺の変が起き、織田信長が死去。豊臣秀吉が天下統一を進めていきます。1580年代後半には、キリシタン大名が数多くいた九州を平定しますが、ここでキリスト教集団の脅威を知ったのでしょう。1587年秀吉はバテレン追放令を出して宣教師の活動を禁止しました。秀吉の死後天下人となった徳川家康も、かつて一向一揆(一向宗という仏教の宗派を信じた集団による一揆)に悩まされた過去を持ち、宗教集団が脅威になることを知っていました。1603年に開かれた江戸幕府も、キリスト教の布教を禁止しています。
オランダ人が日本にやって来きたのは正にこの時期。1600年の事です。この時徳川家康と会い、気に入られたウィリアム・アダムスこそイギリス人(イングランド人)ですが、実際にはヤン・ヨーステンなど多くのオランダ人もいました。ここで重要なのは、オランダ人が信仰していたキリスト教はカトリックではなくプロテスタントだったということ。カトリックを広めるイエズス会とは無関係ですし、それを支援するスペインやポルトガルとはそもそも敵対関係にありました(ちなみに当時ポルトガルは事実上スペインに併合されていました)。
オランダ人にとって遥々海を渡ってきたのは、あくまでアジアの物産を手に入れることが最大の目的で、キリスト教の布教は二の次三の次。これはキリスト教(カトリック)の拡大を嫌がる日本の天下人にとって好都合でした。かくしてオランダ、イギリス(ここもプロテスタントの国)との貿易が始まります。この頃オランダ人が特に欲しがったのが、当時日本で大量に採れた銀でした。江戸幕府も石見銀山(世界遺産)などを直轄地にして、国の重要な輸出品としています。
1602年にはオランダ東インド会社という貿易会社が作られ、日本、中国、インド、東南アジアなどとの貿易を手がける重要な組織となっていきます。彼らは1619年、アジア貿易の拠点として、ジャワ島に拠点となる街バタヴィア(バターフ人の地という意味)を建設。ここは後にインドネシアの首都、ジャカルタとなります。更に大航海時代を切り開いたポルトガルの占領地(現スリランカや、マレーシアのマラッカなど)を奪い取って行きました。
なお、大西洋方面に関してもオランダ西インド会社も設立。ラテンアメリカとスペイン本国とを結ぶ船を襲うこともありました。また、この会社が手掛けた“商品”の中に、多くの黒人奴隷がいたことも見逃せない事実です(イギリスやフランスも同じことをしていましたが)。ともかくこの17世紀前半は、オランダの歴史上最も勢いのある時代でした。
さて、徳川家康没後の江戸幕府ですが、キリスト教への弾圧はどんどん厳しくなっていきます。やはり自分たち天下人よりも“高い場所にいる”神様を敬っていること、信じる者同士の絆が固く、大規模な集団と化していくこと、しかも死を恐れぬ集団であることは、脅威以外何物でもないのでしょう。3代将軍徳川家光の時代に発生した島原の乱にも多くのキリスト教徒がいたことは有名です。
家光はカトリック国家であるスペイン船の出入りを1624年に、ポルトガル船の出入りを1639年に禁止しました。いわゆる鎖国体制の完成です。なお、イギリス人はオランダ人との競争に敗れ、1623年に起きたアンボイナ事件を機に日本を含む東アジアから撤退していました。イギリスはこの後、インドへの進出(やがては植民地化)を本格化させていくことになります。
こうして日本に出入りできるヨーロッパの国はオランダだけとなります。ただ彼らもプロテスタントとはいえキリスト教徒。自由に貿易させるわけにはいきません。それに何だかんだでヨーロッパとの交易は多くの富をもたらしますし、役に立つ技術や情報を得る手段にもなります。もしこうした富や情報を他の大名に持っていかれてしまえば、これも江戸幕府にとって不都合です。そこで幕府は1641年オランダ船が入港できる場所を、長崎の出島に限定し、ここからの出入りを厳しく取り締まるようにしました。当然ここも幕府の直轄地で、幕府はオランダから得られる富や情報を独占しました。
以上まとめると、オランダがヨーロッパの国で唯一江戸幕府との貿易を許されたのは、の国がプロテスタント国家で、カトリックを広めようとするスペインやポルトガルと異なる立場だったから、というのが大きな理由です。
この後江戸幕府は、出島にやってくるオランダ人を通じて、世界の動向を知るようになります。徳川吉宗の時代には、キリスト教と無関係なヨーロッパの学問書なら一般の人でも読めるようになり、いわゆる「蘭学」が研究されるようになります。
鎖国後の日本とオランダ
一方、オランダの天下は17世紀の末までに終わりを告げ、イギリスやフランスといったより大きな国が台頭するようになります。そして18世紀以降これらの国に攻め込まれたり、フランス革命やナポレオン戦争のあおりを受けて一時的にフランスに併合されたりといった苦難も経験しました。19世紀初頭には共和国から王国となり、更にかつてたもとを分かつたネーデルラント南部と再統合を実現しました。が、15年ほどでまた分離し、南ネーデルラントは現在のベルギーとなります。
日本の鎖国体制は1854年ペリーとの間で日米和親条約が結ばれたことで、終わりを迎えます。1858年には日米修好通商条約が結ばれ、貿易も本格化します。この時、同時に日英、日露、日仏、そして日蘭修好通商条約も結ばれ、オランダ人はようやく出島以外の場所でも貿易が出来るようになりました。
その後は長崎市街地の拡大にともない、出島は埋め立てられてしまいましたが、現在は当時の建物が復元されるなど、立派な観光地の一つとなっています。
↑出島の模型。筆者も2011年に訪問しました。