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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

大帝国の共通点~国を支える道と駅~

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道路・ロード
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地理好きを自認する私の趣味の一つに、鉄道旅行があります。といっても多くの鉄道ファンと異なり、鉄道車両には全く詳しくありません。キハ?モハ?? E-何百系???

一方で地名や駅名は大好物です(笑)。私にとっては駅あっての鉄道といっても過言ではありません。

都道府県駅

↑私が集めた、都道府県庁所在地駅の看板(駅名標)「県庁前」とは那覇市の駅です。

 

ところで「駅」の漢字にはなぜ「馬へん」が用いられているのでしょう?この漢字は鉄道が誕生する前から存在しており、当然ながら当時は「列車の停まる建物」という意味ではありませんでした。

 

大昔の「駅」。実はその存在を調べていくと、過去地球上に存在した大帝国繁栄の秘訣を知ることができます。キーワードは、鉄道ではなく「道路」です。

 

紀元前の巨大帝国~ペルシャ帝国~

今から2500年以上前の紀元前6世紀(日本ではまだ縄文時代)。すでに西アジアでは、メソポタミア文明の国々が2千年に渡って興亡を繰り返していましたが、ここに来て西アジアの非常に広い範囲を支配する巨大帝国が出現しました。アケメネス朝ペルシャ帝国です。

 

下の地図を見ると分かるように、ペルシャ帝国は現在のイランを中心に、東はパキスタン、西はエジプトやトルコにまで及んでいます。この帝国はまた、紀元前5世紀に古代ギリシャの都市国家(ポリス)と半世紀にわたって戦いを続けた(ペルシャ戦争)ことでも知られています。

ペルシャ帝国

帝国内にはペルシャ人以外にも、古代エジプト人、ユダヤ人、バビロン(今のイラクにあった都市)を中心としたバビロニア人、砂漠に住む遊牧民などなど、様々な人や社会、言語、宗教、文化がごちゃ混ぜに存在していました。これだけの社会を2500年前にどうやって統治したのか。

 

一つは、中央から地方に役人を派遣して統治や監視に当たらせるというもの。現在の日本で言う県知事や市長のような人々で、これをサトラップと呼びました。そのサトラップ自身が裏切ったり、勝手な真似をする恐れもあったので、ときどき「監視役の監視役」が派遣されることもありました。「王の目」「王の耳」と呼ばれています(すごいネーミングだ)。

 

もう一つは支配下の締め付けを最小限にしたことです。つまり人々には税金を取るなど最小限の義務を課すにとどめ、現地の宗教や風習(ユダヤ教ファラオ信仰)はそのまま許したというワケです。

このようにペルシャ帝国の統治は結構ユル~いものだったことがわかります。しかし面積が広く、人口も多いこの国。それだけ反乱や災害、外敵の侵入といった危険も高かったわけで・・・そのリスクをどう回避したのでしょう?

王の道

その秘策こそ、道路の存在でした。反乱や敵の侵入があった場合、その対策をするためにはいち早く正確な情報が必要です。しかし、当たり前ですが紀元前の大昔にはネットもテレビも、電話も電報もありません。情報は人が伝達するしかありませんでした。

 

最盛期のダレイオス1世をはじめ、歴代のペルシャ王は、王の住まいのあった首都スサ(スーサ)と各地とを道路でつなぎました。中でもスサからサルデス(現トルコ西部)との間を結んだ幹線道路は最もよく知られています。その名も「王の道」!

王の道

王の道を早馬で駆け抜けることで、当然徒歩より数倍早く人や情報を運ぶことができます。その方法は以下の通り。

 

駅伝制1

駅伝制2

駅伝制3

駅伝制

ポイントは③の休憩所。ちゃんと馬がどれくらい連続で全力疾走できるかを計算して、何キロかおきに設置されていました。

ローマも中国もモンゴルも

ペルシャ帝国は紀元前4世紀、アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世)に滅ぼされてしまいますが、後の大帝国も道路網や、早馬によるシステムを利用して、広大な領地を統治しました。

 

例えばローマ帝国。ヨーロッパから北アフリカにかけて、地中海を囲むように巨大帝国を築いたこの国でも、盛んに道路が作られました。「全ての道はローマに通ず」という文言は有名ですが、幹線道路だけでも地球2周を超える8万キロ以上に及ぶといいます。これにより征服地(属州)から様々な物資が、都ローマに集まり、この帝国の繁栄を支えました。

 

東方の中国でも、の時代にはすでに、ペルシャと同じようなシステムが築かれていました。そして、途中に設けられた休憩所を漢字で「駅(驛)」と書きました。つまり「駅」とは本来、道路の途中に設置された中継点のことを言ったのです。先の通り、ここでは乗ってきた馬を休ませたり、新しい馬に乗り換えたりしたため、漢字に「馬」の字が使われているのもナットク。道の途中にある駅を伝って都と地方との間を連絡したこのシステムを、駅伝制といいます。

 

この駅伝制を最大限に利用したのが、史上空前の巨大帝国を築いたモンゴル帝国でしょう。特に2代目皇帝オゴデイ(オゴダイ)・ハーンは、帝都カラコルムを築くと、中国南部やイラン、イラク、更には遥かロシア、ウクライナの地にまで道路を整備しました。モンゴルでの駅伝制はジャムチと呼ばれ、やはり数十キロごとに駅が設けられていました。

ジャムチ

道路網の中には、緊急時のみ利用できる近道もあり、そこを通るためのパスまで用意されていたといいます。いくらモンゴルの騎馬隊が当時最強だったとはいえ、こうした道路網がなければ、東アジアから中東、ロシアまでの広大な場所を統治することなど不可能だったに違いありません。

 

同時にこうした道路は、軍事面だけでなく、商人の行き来にも利用され、各々の帝国を経済的に豊かにしました。時には遠く離れた場所の文化が伝わることもありました。モンゴル帝国の時代、イタリア商人マルコ・ポーロが大都(北京)までやってきたのはその典型的な例ですが、同じ頃、カルピニコルヴィノといった宣教師が、モンゴルまでキリスト教を布教しています。

駅と道路の今

さて、19世紀以降になると、陸上交通の主役は、馬から鉄道に取って代わられました。同時に「駅」の意味も変化します。更に20世紀後半になると自動車が広まり、アスファルト舗装の道路が登場。日本はもちろん、世界中に道路網が張り巡らされ、なおも拡大しています。

駅の変遷

近年の日本では、道路沿いに「道の駅」というものが出来て人気を呼んでいます。もともと道路上にあった「駅」が、紆余曲折を経てまた道路上に戻ってきたというのは、交通の歴史を考える上でも、なかなか興味深いことではないでしょうか?

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