20世紀その7~冷戦の終わりと自由の声
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今回は20世紀の最後、1985~2000年を扱います。
激動の20世紀はその末まで激動でした。
ソ連や東ヨーロッパといった社会主義国は限界を迎え、東西冷戦はソ連の崩壊と共に終わりを告げます。しかし今度は民族や資源をめぐる対立が生じ、各地で内戦を引き起こしました。事実上唯一の超大国となったアメリカは「世界の警察」として、こうした国々に介入していきます。
社会主義の「敗北」により世の中は資本主義・自由主義が中心となりますが、それを一層進めた「新自由主義」を導入する国が増えていきました。これは、民間に出来ることは民間にまかせ、政府の負担を少なくするメリットがありますが、同時に激しい競争社会が生まれ、貧富の格差が拡大する負の面もありました。
また、人口の爆発的な増加や、地下資源や化学物質を大量に消費する社会が、地球環境に深刻な問題を与えるようになり、自然保護と経済活動をいかに両立させるか、という模索も始まります。
科学技術の面では、いわゆるIT革命が生じます。冷戦が終わったことで、それまで軍事目的で用いられていたパソコンの通信網を一般の人も使えるようになり、インターネットが急速に広まりました。
もくじ
東ヨーロッパ
ソ連のペレストロイカと東欧革命
東西冷戦終結の重要なきっかけとなったのが、1985年ソ連で改革派のゴルバチョフ政権が発足したことでした。彼はソ連の経済が悪化していることを認め、大胆な改革、ペレストロイカを開始しました。翌1986年、現ウクライナ北部のチェルノブイリ原発が爆発する大事故が発生。ゴルバチョフはこの事故を、ソ連の古い体制が招いた人災とし、政府の情報を積極的に公開していくグラスノスチを打ち出します。同時に、制限を受けていた言論や思想の自由も緩和され、民主化や自由化を進めていきます。
アメリカをはじめとする「西側諸国」との外交関係も改善。1987年には核兵器を搭載できるミサイル(INF)の全廃条約がアメリカとの間で結ばれます。また、1979年の侵攻以来、泥沼化していたアフガニスタンからも撤退を開始し、1989年これを完了させました。
こうした動きを見て、ソ連の属国状態だった東ヨーロッパ諸国にも変化が生じました。1989年、ハンガリー(東ヨーロッパ)とオーストリア(永世中立国)との国境が開放されます。すると大勢の東ドイツ人がハンガリー、オーストリア経由で西ドイツへ亡命していきました。もはやベルリンの壁は意味をなさなくなり、間もなく東西ベルリンの行き来が自由となります(壁も市民により解体)。
ポーランドでは、ワレサ率いる政治団体「連帯」と政府との話し合い(円卓会議)が実現。ハンガリーでは民主的な新しい憲法が制定されます。チェコスロバキアでは民主化を求めるデモ隊が首都プラハを覆いつくし、共産党のトップを辞任に追い込みました(ビロード革命)。そして民主化のリーダーだったハヴェルが大統領となります。ブルガリアでも長年政権を担っていたジフコフ書記長が辞任に追い込まれ、ルーマニアでは長期独裁を敷いていたチャウシェスクが失脚し、処刑されました。
驚くことに、これらの出来事はすべて1989年の内に起きています。東欧革命と呼ばれる一連の出来事がいかに急展開だったかがわかります。この年の暮れ、ゴルバチョフはアメリカのブッシュ大統領とマルタで会談し、冷戦の終結を宣言しました。
ソ連解体
翌1990年、ソ連では共産党による一党支配をやめ、複数の政党による政治を目指します。また大統領の座が設けられ、ゴルバチョフがその地位につきました。更に社会主義から資本主義への転換も始まります。しかし何十年も続いた社会主義を転換したことで、ソ連内の経済は大混乱。失業や倒産が相次ぎました。また自由の拡大は、ソ連そのものへの批判を許すことになりました。つまり、もうガタガタなソ連から脱退する!という声が形になっていったのです。同じ1990年、戦時中にソ連へ組み込まれたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国がソ連からの独立を宣言しました。
さしものゴルバチョフもソ連の解体までは望んではいませんでしたが、共産党内にはペレストロイカに反対する人々も多くいました。1991年ゴルバチョフは一時党内保守派のクーデターで身柄を拘束されます。このクーデターは結局失敗に終わり、長年ソ連を率いてきた共産党も解散に追い込まれました。
この年、バルト三国に続いて中央アジア(カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、キルギス)、コーカサス(アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージア)、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、そしてロシアが次々とソ連から独立を宣言。ソ連は15もの国に分かれた末、年末にゴルバチョフが大統領を辞したことでその歴史に終止符を打ちました。
他の東ヨーロッパ諸国でも、社会主義から資本主義への転換が進みますが、その中で失業や倒産が相次ぎ、経済転換は「痛みを伴うもの」となりました。チェコスロバキアでは、より経済力の弱かったスロバキアがこの転換で打撃を受けます。スロバキア人のプラハ政権への反発と、足を引っ張るスロバキアに対するチェコ人の不満から、1993年この国はチェコとスロバキアに分離しました。ルーマニアでは、チャウシェスク時代の「産めよ増やせよ」的政策で生まれた貧しい子供たちが、大量にストリートチルドレン化するなど深刻な社会問題となり、「チャウシェスクの落とし子」などと呼ばれました。
しかしそれでもソ連と一緒になるよりマシ(?)だったのか、社会主義へ後戻りする国は無く、またいずれの国も「西側諸国」との関係を深めていきます。1990年代から21世紀初頭にかけて、東ヨーロッパ諸国やバルト三国はNATOやEUに加盟していきました。
ロシアと旧ソ連諸国
ソ連から独立した国々は、事前の準備が十分にできた状態とはいい難かったこともあり、国内をまとめるべく強力な権力を持った大統領が各地に出現しました。ジョージア(グルジア)ではソ連時代の名外交官だったシュワルナゼが大統領となります。そのほか、カザフスタンのナザルバエフ、トルクメニスタンのニヤゾフ、アゼルバイジャンのアリエフ、そしてベラルーシではルカシェンコがそれぞれ長期独裁を敷きました。ウクライナでは、ロシアから距離を置く政権と、ロシアに近しい政権が交互に発足。これにはウクライナ国内にも多くのロシア系住民が住んでおり、経済的・歴史的にロシアと関係の深い人や企業も少なくないためです。
新生ロシアはエリツィン大統領の元で自由主義を進めていきます。しかし、コーカサス地方の自治国チェチェン共和国がロシアからの分離独立を主張し、ロシア軍との間で紛争も起こりました。こうした中で頭角を現したのが、ウラジミル・プーチンです。2000年、彼はエリツィンを引き継いでロシア大統領に就任します。
ユーゴスラビア・アルバニア
ソ連と別れ、独自の社会主義の道を歩んでいたアルバニアとユーゴスラビアもまた、この動乱に巻き込まれていきました。
ソ連や中国とケンカして孤立していたアルバニア。この国を長年率いていた指導者ホッジャが1985年死去し、アリアが後を継ぎます。1989年東欧革命が起こると、アリアも思い切った路線変更を行いました。宗教の自由や民主化、そして海外との関係改善を進め、国民の海外旅行に対する制限を大幅に緩和しました。しかしこの結果、貧しいアルバニアを捨てて他のヨーロッパ、特にイタリアに移住(亡命?)する国民が続出してしまいます。1992年アリアに代わってベリシャ政権が発足しますが、彼は経済活性化のためになんと「ねずみ講」を導入したため、アルバニア経済はかえって大混乱になります。
一方のユーゴスラビアは国家解体と内戦という、より大きな試練を経験することになりました。同じ「南スラヴ系の人々」が集まってできたユーゴスラビアですが、実際には使う文字(アルファベットかキリル文字か)も、信じる宗教の宗派(カトリックか東方正教か)も異なる人々の間に摩擦も生じていました。特に中央政府のあるセルビアの人々と、経済的に豊かなクロアチア人やスロベニア人との間には、「自分達は彼らとは違う民族だ!」という感情が次第に大きくなっていました。こうした対立をうまくコントロールしていた最高指導者ティトーはすでに死去しており、この動きを封じることが出来なくなっていきます。
東欧革命の動きに併せ共産党の一党独裁をユーゴ政府がやめると、各地に政党が出来ますが、この多くは「ユーゴスラビアからの独立」を掲げるようになります。そして1991年、ユーゴスラビアからスロベニア、クロアチア、マケドニア(現・北マケドニア)が独立を宣言。翌1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナも分離します。こうしてソ連解体とほぼ同時期にユーゴスラビアも5つの国に分裂してしまいました。
とはいえ、ソ連から独立したウクライナやカザフスタンに多くのロシア人が住んでいたように、残ったユーゴスラビア(現セルビア、モンテネグロ、コソボ)にもクロアチア人が、分離したクロアチアにもセルビア人が数多く暮らしていました。当時のユーゴスラビア大統領ミロシェビッチは、クロアチア内に住むセルビア人を救うとして、クロアチアに攻め込み、ユーゴ内戦が起こりました。
更に民族の複雑だったのがボスニア・ヘルツェゴビナ。ここにはセルビア系、クロアチア系、ムスリム(イスラム教徒の南スラヴ人)の3つの民族が暮らしており、ユーゴからの分離を望まないセルビア人と、独立を望む後2者との対立から、1992年ボスニア内戦が起こりました。内戦はエスカレートし、ついには他の民族の存在を認めない「民族浄化」という言葉まで出る始末。1995年内戦はデイトン合意により一応収束しますが、20万を超える死者と、多くの難民が生じました。現在ボスニア・ヘルツェゴビナには、セルビア系政府と、クロアチア系・ムスリム系政府という2つの政府があり、3民族から8か月交代で大統領を出すという、複雑な政治システムをとって、なんとか平和を保っています。
ユーゴスラビアの内紛はさらに続きます。中世セルビア王国発祥の地だったコソボには、現在アルバニア系の住民が多く住んでいるという、これまた複雑な民族構成になっていました。ミロシェビッチ大統領はコソボの自治権を抑えようとしたため、反発したコソボ住民との間に衝突が起こりました。1998年のコソボ紛争です。今までの内戦ですっかり悪者扱いされてしまったミロシェビッチ政権に対し、NATO軍がユーゴスラビアの首都ベオグラードを空爆するなどしてこれを懲罰。1999年の停戦合意の後、ミロシェビッチは2000年に退陣に追い込まれました。
西ヨーロッパ
ドイツ・北欧・イベリア・ベネルクス
東ヨーロッパ諸国の大きな変化は、西ヨーロッパ側にも少なからぬ影響を与えました。ドイツでは前述の通り1989年にベルリンの壁が崩壊。西ドイツのコール首相が通貨や法律の統合など重要な政策を矢継ぎ早に進めた結果、1990年には西ドイツが東ドイツを吸収する形で、東西ドイツ統合が実現しました。とはいえ東西の格差は簡単には解消されず、ドイツはその埋め合わせに苦心することになります。
1970年代に民主化を実現したスペインとポルトガルは1986年、EC(ヨーロッパ共同体)への加盟を実現させます。そのECは1992年のマーストリヒト条約でEU(ヨーロッパ連合)へと進化しました。東西統一により西ヨーロッパ最大の人口と経済力を持つことになったドイツは、以後EUの中心的存在となっていきます。ソ連と西側諸国とのバランス外交を強いられていた北欧諸国は、ソ連の脅威が和らいだことを受け、西側に接近。1995年フィンランドとスウェーデンがEUに加盟します(ノルウェーは加盟見送り)。同じく東西の間で永世中立国となっていたオーストリアも、同年EU加盟を果たしました。
そのEUは、本部をベルギーの首都ブリュッセルに置いています。EUの発足した1993年、ベルギーでは憲法が改正され、長年対立関係にあった北部フランデレン地方と、南部ワロン地方、首都ブリュッセルによる「連邦国家」であることが明記されます。つまり南北それぞれの地方に独自の政府があり、ブリュッセルがそれをまとめる体制が出来上がり、対立解消を目指したのです。しかし地方に大きな権限がもたらされたことで、ベルギーが分裂してしまう事を恐れる人もいました。とはいえ2023年現在もベルギーは一つの国であり続けていますが・・・
イギリス・アイルランド・イタリア・フランス
この頃イギリスとアイルランドは、北アイルランド紛争という共通の悩みを抱えていました。アイルランド独立後もイギリスに残った北アイルランドには、多くのプロテスタント教徒が住んでおり(イギリスはプロテスタント多数派、アイルランドはカトリック多数派)、少数派のカトリック教徒を“解放”するという思想を持った過激派組織IRAが、イギリスの統治に対しテロ攻撃を繰り返し行っていたのです。しかし冷戦後ヨーロッパで統合が進む空気の中、IRAも対話に応じるようになり、1998年北アイルランドの自治権を大きく拡大するというベルファスト合意が結ばれました。こうして北アイルランド紛争は解決に向かいます。
この和平を成し遂げたのが、1997年イギリスの首相となったブレアでした。なおこの1997年は、香港の返還が実現し、また王妃ダイアナが悲劇的な最期を迎えるなど、波乱の年でもありました。その後ブレアはスコットランドとウェールズにも独自の議会設置を許すなど、地方の権限拡大に努めました。内政では、格差や失業を生み出したサッチャー時代の新自由主義を改良し、さりとて財政赤字のキツイ福祉国家に戻ることもない、第三の道(両者の折衷案的な道)を進むことになります。この間アイルランドは安い法人税を武器に、ECやEUのもとで急速な経済成長を遂げ、「ケルトの虎」などと称されました。
逆に経済が停滞してしまったのがイタリアでした。冷戦終結の大きな流れに上手く乗れなかったのです。しかも政治面では汚職が蔓延していました。1992年ミラノでの汚職摘発が発端となり、多くの政党が長年不正を行っていたことが発覚。この年の総選挙では、昔ながらの政党が軒並み敗北し、政治家や政党が一新されました。こうした背景からイタリアは、1992~94年から第二共和政に入ったと言われています。
フランスでは、社会主義寄りのミッテラン大統領に対し、1986年から保守派のシラク首相が就任。ミッテランの掲げた福祉政策がうまくいかなかったため、シラクの掲げた新自由主義導入を認めます。この結果フランスでも失業や倒産を犠牲とした経済成長を遂げました。1995年そのシラクが大統領に就任します。彼はこの年太平洋で核実験を強行し、国際的な非難を浴びました。翌年フランスは核実験禁止条約を結び、以後は平和外交に努めるようになります。
東アジア
日本
1985年、日本は他の先進国とともにプラザ合意を結びました。これは円高ドル安の状態を作り出すことで、「西側」のドン、アメリカの赤字を削減する目的がありました。円高により輸出の伸び悩んだ日本国内では、国内の土地への投機が盛んになります。いわゆる土地転がしで、土地の値段はどんどん上がっていきました(バブル景気)。新自由主義経済は日本でも進められ、中曽根康弘政権下の1987年には3つの国営企業が民営化。JR,JT,NTTが誕生しました。
国内がバブル景気に浮かれる中の1989年1月昭和天皇が亡くなり、時代は平成へと移ります。一つの時代が終わったことを強く感じられる年となりました。
それから間もなくしてバブルが崩壊。土地の価格が暴落し、後に「失われた30年」と呼ばれる長い不況の時代が日本を覆うことになります。1993年には自民党一党体制(55年体制)が崩れ、細川護熙連立政権が誕生。新たな時代の到来を予感させました。
1995年1月阪神淡路大震災が起こり、6千人を超える犠牲者が出ました。更に春には東京で大規模なテロ事件(地下鉄サリン事件)が発生。事件の背後にあった心の問題が取り上げられ、学校のイジメ問題などにも目が向けられるようになっていきました。同時に被災地を励ますボランティア活動などにも注目が集まり、次第に社会は「物の時代」から「心の時代」へと意識が向けられるようになっていきます。
韓国・北朝鮮
建国以来、大統領の強権政治が続いていた韓国ですが、民主化を求める人々の声を抑えきれなくなっていきます。ペレストロイカにより東西の対立が緩和されたこともあり、1987年全斗煥大統領は民主化を進める事を宣言します(6.29宣言)。翌1988年、初の民主的な選挙により盧泰愚が大統領に就任。ソ連や中国との関係を改善し、1991年韓国は北朝鮮と同時に国連加盟を果たしました。
その北朝鮮では、建国の父である金日成が1994年死去し、息子の金正日が最高指導者となります。「東側陣営」の崩壊により危機感を募らせた北朝鮮はこの頃からミサイルを発射して周辺国を挑発し、譲歩を引き出すようになっていきました。一方国内では経済が破綻し、飢餓が蔓延しているとされますが、情報統制が厳しく、詳しいことはわかっていません。
アジアNIEsの一国であり、1988年ソウルオリンピックを成功させた韓国は、その後も順調に経済成長を遂げていました。しかし1997年アジア通貨危機が発生し、一転して不況に。日本やアメリカなどと比べて国内市場の狭い韓国は、海外市場に活路を見出し、この頃から積極的に海外進出を進めるようになります。一方で、波に乗れなかった人々の貧困問題や格差の拡大といった課題も生じていきました。
翌1998年発足した金大中政権は、北朝鮮との関係改善を進めました。ミサイル発射する金正日政権に対し、むしろ財政支援を積極的におこなうことで韓国側に振り向いてもらう。これは童話「北風と太陽」になぞらえて「太陽政策」と呼ばれました。この結果2000年には金大中と金正日の南北首脳会談が実現。同年のシドニーオリンピックでは、両選手が「統一旗」を持って行進するという、南北融和のパフォーマンスがおこなわれました。
中国・台湾・モンゴル
台湾もまた、アジアNIEsの一員として順調な経済成長を遂げていましたが、政治面では依然として国民党の独裁が敷かれ、1949年に出された「戒厳令」がそれを正当化していました。社会の安定化した1980年代から民主化を求める声が高まり、1986年には結党が禁じられていたにも関わらず民主化運動家らにより民進党が組織され、国民党に対抗します。時の台湾総統蒋経国は国内外の声に応じ、1987年ついに戒厳令を解除しました。
翌1988年蒋経国が死去し、李登輝が総統に就任。彼は保守的な党員を引退させ、1989年には民進党を合法化するなど、民主化を一気に進めました。民進党は2000年の選挙で国民党を破り、そのトップ陳水扁が政権の座に就きました。
この時代の中国では鄧小平が(国家主席や首相にこそならなかったものの)事実上のリーダーとなっていました。彼の掲げた改革開放政策により、毛沢東時代の社会主義的な組織「人民公社」は解体され、資本主義経済が入ってきます。特に経済特区と呼ばれた沿岸部(深圳や厦門など)には外資(外国からの投資金)が積極的に用いられ、近代的な高層ビルが続々と建設されました。一方で沿岸部と農村部の格差拡大などの問題も生じていきます。
経済的な豊かさを得た人々は、今度は中国の民主化を主張するようになっていきました。ちょうど同じ共産圏のソ連でペレストロイカが行われていたこともあり、「中国も共産党の一党独裁を転換せよ」との声が高まっていきます。1989年6月、民主化を求める大規模なデモが北京で発生。この天安門事件に対し当時の趙紫陽首相も対話に応じ、民主化を進めようとします。しかしこれに鄧小平は反発。結局デモは戦車まで登場し、暴力的に鎮圧されました。以後、中国国内では天安門事件はタブー視され、死傷者の数も推定数百人から数千人と幅があり、詳しいことはわかっていません。同じ年に台湾が民主主義を実現したのとは対照的な結果となりました。
天安門での弾圧には国際社会からも厳しい声が向けられましたが、改革開放は続けられ、中国経済は成長し続けました。1997年鄧小平が死去し、江沢民国家主席が名実ともに中国のトップとなります。この1997年、長らくイギリス領だった香港が中国に返還されました。更に1999年にはポルトガル領のマカオも返還され、中国における「植民地」はようやく姿を消すことになります。ただ両地域は民主主義と資本主義がすでに確立されており、北京や上海とは同じように統治できません。中国政府は両地域の政治体制を維持することを約束。一国二制度と呼ばれる体制が続くことになります。
中国や北朝鮮より早く社会主義を受け入れ、長年ソ連の属国扱いだったモンゴルでも、1985年にソ連でペレストロイカが始まると、シネチレル政策が始まります。これはモンゴル版ペレストロイカといったもので、一党独裁の放棄や、官僚の交代などを進めました。1990年モンゴルは社会主義を放棄し、ソ連からも自立します。
その後、モンゴル国内にはチンギス・ハンの像があちこちに建てられるようになりました。彼の一族はロシアを侵攻、征服したことから、ソ連政府はこのモンゴル史上最大の「偉人」を称えることを制限していました。ソ連が崩壊したことで、モンゴル人も自分達の歴史を堂々と語れるようになった、というワケです。社会主義政権下で冷遇されていたチベット仏教もこの時期復権を果たしています。
東南アジア
インドシナ半島諸国
ペレストロイカは、インドシナ半島の社会主義国にも影響を与え、長く続いた内戦にも終わりが見えてきます。またフィリピンとインドネシアでは独裁政権が崩壊しました。
ソ連の改革を見たベトナムでは、1986年グエン・ヴァンリン政権の元でドイモイ(刷新)政策を開始します。国内に資本主義経済を導入して生産力を上げ、外交面では中国や西側諸国との関係を改善。国際的な孤立を解消していきました。ラオスも同様にチンタナカン・マイ(新思考)政策を開始し、経済の自由化を進めていきます。
カンボジア内戦については、1989年ベトナム軍が撤退したことで戦火は下火となり、1991年には和平が結ばれました。1993年カンボジアに新政府が発足。シハヌークが国王に返り咲きます。ポル・ポト率いるクメール・ルージュは和平に合意しませんでしたが、1998年にポル・ポト自身が死去したことでその影響力も低下しました。
ビルマではネイ・ウィンが社会主義と独裁を続けていましたが、外交面で孤立し、苦境に立たされていました。1988年民衆の反乱により彼は失脚。社会主義も放棄されますが民主化には至らず、今度はクーデターによって軍事政権が誕生します。この政権の元、1989年に国名がミャンマーに変更されました。軍事政権も民主化運動を弾圧したため、国内外から批判されました。ミャンマー民主化運動の代表的人物となったのがアウンサン・スーチーですが、軍事政権はその活動を抑え込み、長年にわたり彼女を自宅に軟禁しました。
このような形ですが、インドシナ半島の国々は一応の安定を取り戻し、1995年から99年にかけてベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジアが続々とASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟しました。
インドシナで唯一ASEANの原加盟国であったタイでは、プレーム軍事政権の元で新自由主義政策を実施。外国からの投資により経済は上向いていきます。1988年プレームは自ら首相を辞し、平和裏に軍事政権から民主的な政党政治へと移ります。しかし政権は度々腐敗し、この先何度も軍事政権の登場と民政への移行が繰り返されました。こうした政治的な混乱を毎回収拾したのが、時のラーマ9世ブミポン国王です。政治的な実権は一応無いことになっているタイ国王ですが、彼のタイ社会に与える影響はまだまだ大きなものだったからです。
1990年代のタイは、かつての日本同様バブル景気に沸くようになります。これがはじけたのが1997年の事でした。通貨バーツの暴落に始まる経済危機は韓国やベトナムなどアジア一帯に打撃を与えることとなりました(アジア通貨危機)。以後タイではIMF(国際通貨基金)の支援を受けながら再建に努めるようになります。
フィリピン・インドネシア・マレーシア
フィリピンでは、1965年からマルコス大統領の独裁が続いていました。これを批判していたベニグニ・アキノは1983年暗殺されてしまいますが、彼の遺志を継いだ人々は、1986年ついにマルコスを失脚させました(ピープルパワー革命)。代わって大統領となったのがベニグニの妻、コラソン・アキノです。彼女の元でフィリピンの民主化は進みましたが、貧困問題や少数派イスラム教徒の問題はなかなか解決できませんでした。
少数派イスラム教徒とは、フィリピン南部ミンダナオ島などに住む人々です。ここにはかつてイスラム系の王朝スールー王国が栄えており、征服者スペインによってフィリピンにカトリックが広まった後もイスラム教を信じる人が多数いました。20世紀になって彼らは武装組織を結成し、フィリピンからの独立を目指していたのですが、マルコスによって強力に押さえつけられていました。彼が失脚したことでこうした組織が再び活動を活発化させ、ミンダナオ島の治安を脅かしていました。しかしアキノを継いだラモス大統領との間に1996年和議が結ばれました。
インドネシアでも、1965年からスハルト大統領の長期独裁が続いていました。しかし1997年のアジア通貨危機の際に、自分に近い企業ばかりを助けたため、人々の怒りが爆発。各地で抗議活動が起き、30年続いたスハルト政権は1998年終わりを告げます。インドネシア民主化に際し、やはりこの国からの分離独立を求める声が復活しました。1970年代にインドネシアへ併合された東ティモールや、スマトラ最北部のアチェなどです。
国際世論の後押しもあり、スハルトを継いだハビビ大統領は、1999年東ティモール独立をめぐる住民投票を実施。結果は独立派の圧勝となりますが、インドネシア政府は裏で妨害工作を行い、この結果東ティモール内で独立派と反独立派の内戦が起きてしまいます。この内戦が収まり、東ティモールが独立を達成するのには21世紀を待たねばなりませんでした。
周辺国の変動をよそにマレーシア、シンガポールなどはこの時期に安定した成長を進めています。1999年マレーシアの首都クアラルンプールに建設された、ペトロナス・ツインタワーは当時世界一の高さを誇りました。高層ビルの高さ競争はアメリカからアジアへとシフトしていきます。
南アジア
インド・パキスタン・スリランカ
1984年に暗殺されたインディラ・ガンディーを継いでインドの首相となったのは、息子のラジヴ・ガンディーでした。この頃スリランカでは、多数派のシンハラ人やその政府に対する少数派のタミル人のゲリラ(LTTE)が武装蜂起し、内戦となっていました。ラジヴ首相はこのスリランカに軍を派遣し、紛争を解決しようとしましたが失敗。1991年LTTEのテロにより暗殺されてしまいます。
ラジヴの死により、彼の政党「インド国民会議」は失速し、1998年ヒンドゥー・ナショナリズム(ヒンドゥー教徒の利益を優先する考え)を掲げる人民党が政権を獲得します。このためイスラム系の隣国パキスタンとの関係が緊張。この年インドとパキスタンは相次いで核実験を強行し、国外から厳しい声を受けました。
一方経済面では新たな動きがありました。「0」の概念を生み出したインドでは数学やプログラミングに強い人が多く、IT産業が大きく成長するようになります。この新産業は、伝統的なカースト制度で定められたどの職業にも該当しないため、低いカーストやそれ以下の身分とされた人々(不可触民)にも成功のチャンスをもたらすなど、インド社会そのものを変えていくことになります。
スリランカでは1988年にタミル語が公用語に加わり、それまで抑圧されていたタミル人の権利や自由も1990年代を通じて徐々に改善していきました。武装ゲリラLTTEも停戦に向けて政府との話し合いに応じるようになっていきます。
ネパール・ブータン
ネパールでは、ビレンドラ国王による独裁(パンチャーヤト制)が続いていました。国王は民主化を抑えるために中国と関係を強化していましたが、そのためネパール国内にマオイスト(毛沢東主義者)と呼ばれる共産主義者が増え、王政を批判するようになります。1990年民主化を求める大規模なデモが起こり、ビレンドラはようやくこれを受け入れました。しかしマオイストの一部は王政そのものを廃止するよう求め、時に過激な行動をとるようになっていきます。
ブータンではネパール系住民の人口がこの頃大きく増加していました。彼らはブータンにほど近いインドのアッサム地方に、お茶栽培の労働者としてやって来た人々の子孫でしたが、その一部がブータンにも住むようになります。人口100万に満たないこのチベット仏教の国において、ヒンドゥー教徒の多いネパール人の増加は、国の文化や伝統を脅かすものと映りました。そこでブータン国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクは1989年、国民に伝統衣装「ゴ」の着用を義務付ける政策などを実施し、自国文化を守ろうとしました。1990年には反政府に関わったとされたネパール系住民が多く追放され、難民化しました。このような問題もありましたが、国内では発展が進みます。1999年にはようやくテレビ放送とインターネットが開始されました。
西アジア
アフガニスタン
アフガニスタンでは、1979年に始まったソ連の侵攻に対し、これに反対する勢力ムジャヒディンをアメリカが支援したため、戦況は長期化、泥沼化していきました。ゴルバチョフ政権が1989年ようやくソ連兵を撤退させ、アフガニスタンの社会政権が倒れると、今度はムジャヒディン内部の権力抗争が始まり、内戦となります。当然国民はウンザリし、この頃現れた新しい集団に望みを託すようになりました。この集団こそイスラムの教えを厳格に守ろうとする学生集団、タリバンでした。当初タリバンは、内戦で増加した犯罪者を取り締まるなどして支持を拡大。1994年には首都カブールを制圧し、ムジャヒディンの諸勢力を北部へ追放しました。
イスラム原理主義をかかげるタリバンはしかし、コーランの教えに忠実になり過ぎるあまり、人々の自由を抑圧。特に女性の権利は大きく縮小してしまいます。また「イスラム教徒の客人は精一杯もてなす」という教えから、国際指名手配されていたサウジアラビア人のオサマ・ビンラディンをかくまい、しかも彼から金銭的な支援を得たため、欧米社会から非難されるようになります。
イラン
イラン革命後、国際的に孤立していたイランは、1980年から始まったイラクとの戦争でも劣勢の状況でした。1988年事実上イランの敗北でイラン・イラク戦争は終わります。翌1989年イラン革命の中心人物だったホメイニが死去し、ハメネイ師がイランのトップとなります。イランではイスラムの最高指導者がトップに立ち、大統領は事実上その下の立場。ゆえに歴代の大統領も、ホメイニやハメネイの意見を無視できないのです。1997年改革派のハタミ大統領が就任し、革命時代に制限された自由を再び拡大させ、欧米との関係も改善しようとしますが、ハメネイら保守派の反対も根強く、思い切った改革はできませんでした。
この間、イスラム教を軸としたこの体制を嫌がったイラン人が海外に逃れました。その多くは海外の文化に触れた富裕層だったため、戦争と相まってイラン社会は低迷。そのため出稼ぎ労働者として海を渡るイラン人も増加、当時日本にも多くのイラン人が見られました。
イラク・クウェート
イラクのサダム・フセイン大統領は、イラン・イラク戦争でアメリカなどの支持を得ており、戦争を優位に進めていました。しかしイラン人との戦いの裏で、イラク国内にいた少数派クルド人を、国を脅かす存在として多数虐殺。その際化学兵器が使われたこともあり、フセインは一転して残忍な独裁者と見なされるようになります。
戦後イラクは荒廃した国内の再建を進めますが、頼みとしている石油の価格がOPEC(石油輸出国機構)などの取り決めで当時低く抑えられ、財政難から抜け出せませんでした。石油価格の値上げに特に反対しているのが隣の産油国クウェートだとしたイラクは、1990年この国を占領。湾岸戦争が始まります。フセインは更にアラブ世界の主導権を握ろうとして、「アラブ共通の敵」とされたイスラエルにミサイルを発射。聖地メッカのあるサウジアラビアにも侵攻しようとします。しかし1991年アメリカを中心とする多国籍軍がイラクを爆撃し、軍をクウェートから撤退させました。以後イラクは経済制裁を課されますが、フセインの独裁は続くことになります。
イスラエル・レバノン・シリア
宗教構造の複雑なイスラエルとレバノン。ユダヤ系の人が中心であるイスラエルでは、占領下のアラブ人居住地(ヨルダン川西岸地区、ガザ地区)の住民(パレスティナ人)に圧力を加えていました。1987年、イスラエル軍にアラブ系の住民が殺害されたのを機に、1987年から同地の住民がユダヤ系の兵士や車に石をぶつけて抵抗の意を示すインティファーダを開始。この民衆行動は国際社会をも揺るがし、パレスティナ人の自治を求める声が高まっていきました。対イスラエル戦を繰り広げていたパレスティナ解放機構(PLO)もこのから武力闘争を止め、その議長アラファトもイスラエル政府との対話に応じるようになります。
レバノンでは、国内のキリスト教徒とイスラム教徒による内戦が続いていましたが、こうした情勢の変化はレバノン内戦にも影響を与え、シリアのアサド大統領の主導で和平交渉が開始されます。そして1990年ターイフ合意が結ばれ、レバノン内戦は終結。以後、国内のキリスト教徒系住民とイスラム系住民が“対等”の関係に近づくなど双方の歩み寄りが見られました。宗教構造は尚も複雑だし、内戦の傷は大きいモノでしたが、元実業家で1992年首相となったハリリらのリーダーシップにより、少しずつ復興が進むことになります。
ただ、イスラエルとの国境に近い南レバノンでは依然イスラエル軍が残っていました。2000年にこれを撤退させたのが、イスラム教シーア派の強力な武装組織ヒズボラです。その為レバノンではヒズボラの支持が拡大し、イスラエルとの緊張状態は解消されませんでした。
そのイスラエルですが、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長の間で1993年に歴史的な合意が実現します。このオスロ合意により、ヨルダン川西岸地区とガザ地区にパレスティナ自治区が成立し、長年の対立に終止符が打たれたかに見えました。しかし1995年、ユダヤ系の過激派によりラビン首相が暗殺され、反オスロ合意的なネタニヤフ政権が発足すると、イスラエル政府はパレスティナ自治区にまたも圧力をかけ始めます。結局和平は進んだものの、両者の問題は21世紀になっても完全には解決されていません。
シリアでは2000年にアサド大統領が死去し、息子のバッシャール・アサドがこれを継ぎました。バッシャールは2023年現在もシリアの大統領を続けています。
トルコ
トルコはヨーロッパと西アジアにまたがる地の利を生かし、双方への影響力を徐々に強めていきました。1990年の湾岸戦争ではアメリカ側に立ちましたが、その際イラクから迫害を恐れたクルド人難民がトルコ東部のクルド人居住地に押し寄せ、新たな民族問題を抱えることになりました。
アラビア半島の国々
アラブ系の国で唯一社会主義国だった南イエメンは、冷戦が終わりに近づくにつれソ連などの支援が先細りになり、立場が苦しくなっていきました。そして北イエメンのサレハ大統領との話し合いの結果、1990年に北が南を吸収する形でイエメン統合が実現します。しかし国内にはスンニ派、シーア派、その下の細かい宗派が入り乱れており、石油資源にも乏しかったことから、政治、経済は不安定状態が続きました。
他方、石油の豊富なサウジアラビアやオマーンの政治経済は安定していました。しかし資源が豊富なゆえに国王の権力は揺るがないものとなり、民主化は進まない状態です。とはいえ石油だけに経済を依存することは危険なため、この時期から中東諸国でも金融業や観光業の開発(産業の多角化)にも本腰を入れ始めました。その最も成功した都市のひとつがアラブ首長国連邦を構成するドバイです。以後ドバイは国際都市としてその知名度を上げていきます。アラブ諸国でも比較的リベラルなカタールでは、1996年にテレビ局アルジャジーラを開設。アルジャジーラは中立的な報道を心掛けており、激しい中東の情勢を伝える“信頼できるメディア”の有力候補となります。
北アフリカ
エジプトでは1981年にサダトが暗殺された後、ムバラクが大統領に就任します。冷戦終結とグローバル化の空気を感じたムバラク政権は、欧米社会とも結びつきを強め、一方でサダトを暗殺したような急進的なアラブ民族主義的は抑え込まれました。
チュニジアやアルジェリア、モロッコでも同様に開放政策に転じ、海外からの投資を受け入れます。結果、いずれの国でも経済成長を実現しましたが、一方で富める者と貧困者の格差が拡大していきます。成長から取り残され、意気消沈した人々が心の拠り所としたのがイスラム教の教えでした。
アルジェリアではイスラム教に依った人々が政党FISを結成し、1992年の選挙でまさかの勝利を収めます。驚いた政府はFISを弾圧し、FIS側はかえって過激化。テロに走るなどの混乱が生じました。隣国の状況を見たチュニジアのベン・アリ大統領は、自国内にもこうした急進的な勢力が存在することを感じ取り、ムバラクと同様、彼らを抑え込む中で独裁化していきます。イスラムの過激派はエジプトにも現れ、1994年には観光地ルクソールでテロ事件が起きました。
なお、カダフィ政権の続いたリビアではこうした開放政策は導入されず、豊富なオイルマネーに乗っかる形で長期独裁と国際的な孤立が続くことになります。
中南アフリカ
20世紀末までアフリカにも多くの社会主義国がありました。エチオピア、コンゴ共和国、ベナン、タンザニア、モザンビークなどです。これらの国々はしかし、東欧革命やソ連の解体を見て社会主義を放棄。資本主義経済へと転換していきます。また、多くの国が独立後、事実上の一党独裁を敷いていました。アフリカの国のほとんどが国内に複数の民族を抱えており、彼らをまとめるべく「強力な政府」が必要だったからです。これに対し、アフリカ諸国を経済的に支援していた欧米の国は、この頃から次第に民主化を進めるよう圧力をかけていきます。
支援を貰い続けるためにこれに応じたアフリカ諸国は、まず一党独裁をやめ、複数の政党で政治を回すことを始めます。しかし結党の自由を認めた結果、〇〇族を代表する政党、××族を代表する政党と、民族ごとの政党がつくられるようになり、民族対立の原因となってしまいました。この事がエスカレートし、あちこちで内戦が起こりました。また、人口が急増し、食糧確保のために農地を拡大した結果、熱帯雨林の減少や砂漠化といった自然環境に関する問題も生じるようになります。この時期のアフリカ諸国は、正に試練の時代でした。以下、この時代の主な国について述べます。
エチオピア
エチオピアでは、メンギスツが社会主義的な独裁国家を築いていました。しかし1989年以降、ソ連や東欧の支援が得られなくなり、代わって彼に圧迫されていた人々が武力闘争を開始。当時エチオピアには主要民族のアムハラ人の他、少数民族とされたエリトリア人、オロモ人、ティグレ人の各反政府組織があり、これらが団結してエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が結成されます。
1991年ついにメンギスツは失脚しEPRDFによる新政権が発足。エチオピアはこれまでの少数民族を圧迫する政治をやめて各民族の権利を大きく引き上げ、「望むならエチオピアから独立してもOK」という連邦国家となりました。この結果、1993年にエリトリアがエチオピアから分離独立しました。
この独立そのものは平和的なものでしたが、エリトリアが海岸部を全部持って行ってしまい、エチオピアは内陸国に。港の使用権やら国境線やらをめぐって1998年から両国の間で戦闘が始まってしまいます。また、エリトリアも国内をまとめる中、結局は独裁政権を生み出してしまいました。そのレベルは現在でも北朝鮮並みといわれています。
リベリア
アフリカでも数少ない、ヨーロッパの植民地化を免れた国がリベリアです。ここはアメリカで奴隷とされていた人々が解放され、祖先の故郷アフリカに戻って建国した、という特殊な歴史を持った国です。ところが同じアフリカ系(黒人)とはいえ、アメリカに生まれアメリカ文化の中で育った人々と、元々アフリカで生まれ育った住民との違いは大きく、100年以上にわたり前者が後者を支配する、つまり「黒人が黒人を支配する」体制が続いていました。
1986年このやり方に耐えかねた先住民出身者のドウは、解放奴隷の子孫が牛耳る政府をクーデターでひっくり返し、アメリカ出身者の子孫たちを排除していきました。しかし混乱の中ドウ自身も暗殺。1989年からは内戦となってしまいました。このリベリア内戦は2003年まで続き、多大な犠牲を出すことになります。
ルワンダ
東アフリカのルワンダは、多数派のフツ族と少数派のツチ族が住む、アフリカでも比較的小さな国です。元々両者はせいぜい農民か狩猟民かくらいの違いしかなく、平和に共存している時代がずっと続いていました。しかしベルギーによる植民地時代、植民地政府はツチ族を優遇し、フツ族と連携させないようにしていました。結果、独立後も両者は反目するようになり、フツ族のハビャリマナ大統領は就任以来フツ族優位の政治を行います。これに対し、ツチ族を中心にルワンダ愛国戦線(FPR)が結成され、1990年からルワンダ内戦が起きました。
1994年ハビャリマナ大統領が事故死すると、FPRの攻撃が始まるというラジオに扇動され、フツ族の住民が“隣人”だったツチ族を大量に虐殺。その死者はわずか100日間で80万人を超えたとされ、世界に衝撃を与えました。その後RPFが政権を握り、カガメ大統領の元でジェノサイドの原因究明と国内の再建が進みました。しかし罪を犯した多くのフツ族住民が隣国のザイールやタンザニアへ逃れ、混乱が広がりました。
ソマリア
数字の「7」の形をした東アフリカのソマリア。この国は軍人バーレ大統領が独裁を敷き、隣国エチオピアと国境を巡って長年戦争を続けていました。これに対し、反政府組織統一ソマリア会議(USC)が1980年代から反政府攻勢を強め、1991年バーレ政権を崩壊させます。しかし今度はこのUSCが内部分裂を起こし、ソマリア内戦へと発展。国内は事実上無政府状態となってしまいます。経済もうまく機能しなくなったことで、国民の一部はインド洋に出て商業船や観光船を襲うように。こうして「ソマリア沖の海賊」が生まれることになります。
ザイール・コンゴ民主共和国
アフリカのど真ん中にある大国ザイールは、モブツ大統領が欧米と良好な関係を築きながら独裁を続けていました。しかし冷戦終結の変動により財政が悪化。1997年モブツは失脚し、カビラ政権が発足しました。国名もかつての「コンゴ」に変更されます(隣にコンゴ共和国という別の国があるため、コンゴ民主共和国と呼ばれる事が一般的)。とはいえ国内の多民族をまとめるのは一筋縄ではいかず、カビラもまた独裁者へと変貌(ちっとも民主共和国じゃない!)。これに対抗する反政府勢力との内戦・・・というもはや「お決まりのパターン」が生じ、コンゴ民主共和国は、「アフリカの火薬庫」などと呼ばれるようになりました。
この他、シエラレオネ、アンゴラ、スーダンといった国々でも、政治的党争や資源を巡る争い、民族や宗教が絡む対立などをきっかけに内戦が起き、その多くは世紀をまたいで続くことになります。
南アフリカ
南アフリカで行われ、長年非難の的となっていた人種差別政策アパルトヘイトですが、1980年代にはそれを続ける意味は薄らいでいました。1989年大統領となったデクラークは、1991年までに一連の人種差別的な法律を次々と廃止し、獄中にあったマンデラも釈放されます。1994年、黒人も参加した初の選挙によりマンデラが南アフリカ初の黒人大統領に就任。それはアパルトヘイトの終焉を象徴する出来事でした。
しかし法律は廃止されても、それによって生じた過去を「無かったこと」にはできません。マンデラは「真実和解委員会」を立ちあげ、アパルトヘイトによって起きた悲劇や、白人系住民の罪を明らかにし、これに「報復」するのではなく、いかに「赦し」「和解していく」のかを追求していくことになります。また、南アフリカの統治下に置かれていたナミビアは1990年に独立を達成。当然ながらこちらの国でもアパルトヘイトは廃止されました。
南アフリカの歴史より
オセアニア
1980年代後半、オーストラリア、ニュージーランドも不況にあえいでいました。その原因が高福祉政策にあると踏んだ両政府(オーストラリアのホーク政権、ニュージーランドのロンギ政権)はイギリスのサッチャー政権と同様、新自由主義を導入します。この結果、政府はスマートになり、支出も減少。他の国と同様、失業や倒産を経験しつつも経済回復を成し遂げました。
一方、日本やアメリカ、中国や東南アジアなど、太平洋に面した国々の間で連携する動きも生じます。1989年にはホーク首相の声がきっかけで、アジア太平洋経済協力会議(APEC)が設立されました。オーストラリアはまた、距離的に近い東南アジアの紛争解決にも尽力。カンボジアの和平や東ティモールの独立運動に対し、仲裁を買って出ました。
環境の面では、太平洋が繰り返し核実験の舞台となったことから、反核運動が盛んとなります。1995年のフランスによる核実験に対し、ニュージーランドを始めとするオセアニアの各国政府は強く抗議しました。
パプアニューギニアでは、東のブーゲンヴィル島が独立闘争を開始しました。この島は良質な銅の産地で、パプアの経済にも大きなウェイトを占めていましたが、本島から距離があり、元々独立心の高い場所でした。そのため自分達の富がニューギニア島のために使われているという思いが次第に高まり、1988年暴動にまでエスカレートしてしまったのです。1万を超える犠牲の後、パプア政府とブーゲンヴィルとの和解が実現したのは、2001年のことです。
フィジーでは、イギリス統治時代にやって来たインド系住民とその子孫が年々人口を増やし、1989年ついには選挙でインド系の政党が勝利する事態に。これに慌てた先住民(メラネシア系住民)はクーデターで政権を奪い取り、以後インド系住民の政治的影響力に神経を尖らせるようになります。
ソロモン諸島では、首都ホニアラのあるガダルカナル島に、近隣のマライタ島から多くの島民が移り住んでいました。1998年頃から両住民の摩擦は次第に激しくなり、2000年には混乱の中で首相が監禁、辞任に追い込まれてしまいます。
このように、ヨーロッパやアフリカのような規模ではないにしろ、オセアニアでも民族問題による紛争が起きていたのでした。
この20世紀末に独立国となった国もあります。アメリカの統治下にあったミクロネシア地方の島々は、米軍基地の問題など難しい交渉を経て、1986年にマーシャル諸島が、1990年にミクロネシア連邦が、そして1994年にパラオがそれぞれアメリカと自由連合の関係となり、独立国として認められました。
南アメリカ
1980年代半ば、南アメリカの一部の国では軍が政権を握っており、国民の反対を抑えつつ、支出を抑える(つまり、国民の為のお金を渋る)ことで財政赤字を解消しようとしていました。しかし1982年に中南米全体を襲った経済危機は軍事政権を揺るがし、結果、民政(軍人や独裁者でない人が政治を動かすこと)への転換が進みます。ボリビアやアルゼンチンでは1982年、ウルグアイでは1984年、ブラジルでは1985年に民政移管が実現しました。また、パラグアイのストロエスネル政権は1989年、チリのピノチェト政権は1990年に終わりを告げ、独裁者は続々と姿を消していきます。
新しい政府は、不況脱出と財政赤字解消のために、公企業の民営化などの新自由主義政策を開始。1990年に日系人として初めて大統領となったペルーのフジモリは、その代表格です。この他、コロンビア、エクアドル、チリ、アルゼンチン、ブラジルなども新自由主義を取り入れ、財政赤字の縮小や高い経済成長を成し遂げました。1995年には、南アメリカの国々の間で自由貿易を進める組織MERCOSUR(メルコスル)が発足しています。
しかしこの政策により富豪となった者が出現した一方で、貧富の格差が今まで以上に拡大し、貧困者による窃盗や殺人が問題となりました。1996年末ペルーでは、経済成長から取り残された人々がテロリストとなり、首都リマにあった日本大使公邸の官僚を数か月間人質に獲る事件も起きています。
1998年ベネズエラの大統領となったチャベスは、こうした貧困者問題を受け、学校や無料診療所の建設、失業者への職業訓練といった高福祉政策を開始します。また、今までのアメリカとの緊密な関係をやめ、代わって周辺国との関係を強化。こうして、21世紀になるとアメリカと距離を置く政権が、中南米に次々と登場することになります。
その他、社会について様々な声が上がったのもこの時代の特徴です。代表的なものとしては、南アメリカに昔から住む先住民族が、今まで軽んじられていた自分達の権利や文化について主張し始めました。エクアドルやボリビアでは、アンデス山脈やアマゾンで伝統的な生活を営む人々(ケチュア人、アイマラ人など)が政治団体を結成し、大統領選挙を左右するまでになっていきます。
また、開発の陰で失われていった自然環境に対する声も高まりました。環境問題は南アメリカに限らず、グローバルな問題として扱われるようになります。1992年地球サミットがリオデジャネイロで開催されたのも、ブラジルのアマゾンに対する自然破壊とは無関係ではなかったと言えるでしょう。
北アメリカ・中央アメリカ
メキシコ
石油に経済を頼り過ぎたメキシコは、1982年にデフォルト(債務不履行)に陥る経済危機を経験。ラテンアメリカ経済全体に悪影響を与えました。1985年には追い打ちをかけるようにマグニチュード8.0の大地震が起き、9000人近い犠牲者が出ます。1988年発足したサリナス政権は、それまでの福祉政策を縮小し、経済自由化に転換。1994年には後述のようにNAFTA(北アメリカ自由貿易協定)に加盟し、アメリカのほかカナダとの結びつきも強化していきます。
このことはしかし、地方の貧しい人々を切り捨てる政策と映り、同94年、貧困者の声を代弁したゲリラ「サパティスタ民族解放軍」の反乱を招きました。サリナスはこの年大統領を辞任します。彼も属していたPRI(制度革命党)は1929年からずっと与党の座にありましたが、経済危機の頃から次第に支持を失い、2000年ついにPAN(国民行動党)に政権を譲りました。
カナダ
カナダではこの頃分裂の危機が生じていました。カナダ人の最多数派は英語を話すイギリス系住民ですが、ケベックやモントリオールといった地域ではフランス系住民が多く住み、両者は長年にわたり対立と共存を繰り返してしました。しかしこの時期フランス系住民の民族主義(ケベック・ナショナリズム)が高まり、1995年にはケベック州の分離独立を問う住民投票が行われました。結果は独立賛成が49%と、ギリギリのところで独立は阻止されましたが、分離を望む声は今も消えてはいません。
中米・カリブ諸国
中米ではグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグアで内戦が続き、多くの難民がメキシコやアメリカに逃れて来ていました。難民問題の深刻化した1980年代後半、東西の歩み寄りが進んだこともあり、国際社会も解決へと乗り出します。
ニカラグアでは1979年の革命で社会主義寄りの政権ができた後、アメリカの支援する反政府組織コントラとの内戦が続いていましたが、1990年ビオレタ・チャモロが大統領となったことで収束に向かいます。彼女はニカラグア革命前に独裁政権によって殺害されたジャーナリスト、ペドロ・チャモロの妻で、革命政権もこれを受け入れたことでようやく内戦が終結しました。チャモロはその後1997年まで大統領を務め、国内の再建に尽力しました。
エルサルバドル内戦も1992年に反政府ゲリラの武装解除に成功。グアテマラでも1996年に和平が実現し、中米に平和が戻ってきました。
こうした内戦の終結には、国連などの活動の他、軍隊を廃止したことで知られているコスタリカも大きな役割を果たしていました。1986~90年にコスタリカの大統領だったアリアスは、ニカラグアを始めとする周辺国の紛争を解決するために東奔西走し、1987年ノーベル平和賞を得ています。
また南アメリカと同様、独裁政権から民主主義への転換を実現した国も出てきました。パナマではノリエガ独裁政権が麻薬組織と繋がっていることが明らかとなり、1990年アメリカの軍の侵攻によって崩壊。1994年までに民主化を実現します。その後アメリカとの協定により1999年パナマ運河がパナマに返還されました。
ドミニカ共和国でも長期独裁政権を敷いていたバラゲールが1996年に引退し、強権体制に終止符が打たれました。2代にわたるデュバリエ政権が1986年に崩壊したハイチでは、その後もクーデターが相次いでいましたが、元司祭のアリスティッドが1994年アメリカの支援で政権を取り、国内の再建を進めていきます。
カストロ政権下のキューバは、ソ連崩壊後も社会主義体制を続けます。とはいえ中南米に左派ゲリラを送っていた時代は終わり、周辺国との国交回復を次々と実現していきました。
アメリカ合衆国
1980年代のアメリカは、その大部分がレーガン政権下にありました。ソ連との対抗で大胆な軍備拡張をおこない、一方で公共事業の削減などで支出を切り詰める政策(レーガノミクス)を進めましたが、財政赤字は解消されず。また、当時は日本や西ドイツが経済大国化し、アメリカ側の貿易額は、これもまた赤字でした。この「双子の赤字」を解消するべく、日本やヨーロッパとの間で、意図的にドル安を起こすプラザ合意が1985年結ばれます。しかしその後も日米の貿易摩擦は続きました。
ソ連でゴルバチョフが就任しペレストロイカが始まると、レーガンもソ連との関係改善を図ります。レーガンを継いでブッシュ大統領が就任した1989年には東欧革命が起き、この年の末、前述の通り冷戦終結を宣言するマルタ会談が開かれました。事実上冷戦の勝者となったアメリカは以後「世界の警察」を自称し、世界各地で起きた紛争に首を突っ込むようになります。前述の通り1990年に起きた湾岸戦争でブッシュはクウェートに侵攻したイラクを攻撃し、軍を撤退に追い込みました。
国内では新自由主義を軸とした経済回復がはかられます。パソコンやインターネットの世界的な普及によりIT産業が大きく成長し、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツといったIT業界の巨人が注目されるようになっていきました。一方で自動車などの伝統的な工業はすたれ、失業者や貧困者の数も大きく増加。工場が人件費の安い中国や東南アジアへ移転することも普通となり、産業の空洞化が新たな課題となりました。
民主党のクリントン大統領が誕生した1993年、ヨーロッパでEUが発足します。これを受け、アメリカでもより大規模な経済圏の構築が図られました。この結果1994年にNAFTA(北米自由貿易協定)が発足。参加したのはアメリカ、カナダ、メキシコでした。
クリントン政権下でも「世界の警察」の立場は変わらず。1993年パレスティナ自治政府の樹立に立ち合い、1999年のコソボ紛争ではユーゴスラビアを空爆しました。こうした圧倒的な軍事力を持つアメリカの一強時代が今後も続く。そう思っていた人は少なくなかったかもしれません。しかし、その予想は21世紀最初の年、もろくも崩れ去る事になります。
主な出来事
1985.3 ブラジル民政移管
ゴルバチョフ政権発足(ソ連)
1985.6 Windows発売
1985.9 プラザ合意
1986.1 スペイン、ポルトガルEC加盟
1986.2 マルコス政権崩壊 アキノ政権発足(フィリピン)
1986.4 チェルノブイリ原発事故(ソ連)
インティファーダ開始(イスラエル)
1986.10 マーシャル諸島独立
1986.12 ドイモイ政策開始(ベトナム)
1987.12 米ソ、中距離核戦力全廃条約調印
1988.1 李登輝政権発足(台湾)
1988.9 ビルマ軍事クーデター
1988.12 ブーゲンヴィル内戦~2001(パプアニューギニア)
1989.1 昭和天皇崩御 平成始まる(日本)
1989.6 天安門事件(中国)
ビルマ、ミャンマーに国名変更
1989.11 ベルリンの壁崩壊(ドイツ)
1989.12 マルタ会談 冷戦終結宣言
リベリア内戦開始~2003
東欧革命
1990.3 バルト三国独立宣言
ナミビア独立
1990.8 イラクのサダム・フセイン、クウェート占領
1990.7 東西ドイツ統合
1990.12 ミクロネシア連邦独立
1991.1 湾岸戦争開始
1991.6 南アフリカのアパルトヘイト政策廃止
1991.6 ユーゴ内戦開始
1991.9 韓国と北朝鮮が国連加盟
1991.12 ゴルバチョフ辞任 ソ連解体
1992.2 マーストリヒト条約締結
1992.4 ボスニア内戦開始
1992.6 リオデジャネイロで地球サミット開催
1993.1 チェコとスロバキア分離
1993.5 エリトリア独立
1993.8 55年体制に幕(日本)
1993.8 オスロ合意(イスラエル・パレスティナ)
1993.9 シハヌーク復帰。カンボジア内戦終結
1993.11 EU発足
1994.5 マンデラ大統領就任(南アフリカ)
1994.10 パラオ独立
1995.1 阪神淡路大震災(日本)
WTO発足
1995.3 地下鉄サリン事件(日本)
1995.5 シラク大統領、ムルロア環礁で核実験(フランス・オセアニア)
1996.12 ペルー日本大使公邸人質事件~97
1997.5 ザイールのモブツ政権崩壊、コンゴ民主共和国に国名変更
1997.7 アジア通貨危機
香港イギリスから中国へ返還
1997.11 映画『タイタニック』公開
1998.2 コソボ紛争
1998.5 インドネシア、スハルト辞任
1998.4 北アイルランド紛争終結
1999.12 パナマ運河、アメリカからパナマに返還
マカオ、ポルトガルから中国へ返還
2000.5 プーチン大統領就任(ロシア)
陳水扁政権発足、国民党政権を降りる(台湾)
2000.6 南北首脳会談(韓国・北朝鮮)
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