世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ポルトガルの歴史~
コロナ前まではヨーロッパで注目の観光地だったポルトガル。世界史では、大航海時代の先駆者であり、日本史でも鉄砲を日本人に伝えたことで知られる国です。しかし大航海時代が終わり、日本で鎖国が始まると、世界史、日本史両方からさっぱりと見かけなくなってしまいます。
世界史で一時期「時の人」ならぬ「時の国」となったポルトガルの歩みを、前後の歴史を含めて見ていきましょう。
もくじ
ヨーロッパの端っこ
まずはポルトガルの位置から。この国はヨーロッパ南西部、イベリア半島のそのまた西側にあります。面積は9.2万平方km、人口は約1千万(北海道+四国くらいの面積および人口)です。
唯一国境を接しているのがスペイン(東と北)で、南にはジブラルタル海峡をはさんでモロッコ。そして西側には大西洋が広がっています。
ローマ人と西ゴート人
ポルトガルの位置するイベリア半島には、大昔から人類が住んでいました。隣国スペインのアルタミラ洞窟には、数万年前の洞窟壁画が残っていることで知られています。
BC2世紀にはローマ帝国に支配されます。ローマは各地に属州を置きますが、現在のポルトガル周辺には、この先住民の名を用いたルシタニア属州を設置しました。
ローマ帝国はAD(紀元後)2世紀に繁栄の時を迎え、ルシタニア人もローマ文化を受け入れ、彼らと同化していきます。また、キリスト教も徐々に広まっていきました。しかしローマ帝国は3~4世紀に混乱と内部分裂が生じ始め、4世紀末に完全に東西分裂してしまいます。この要因の一つがゲルマン民族の侵入でした。
もともとローマ帝国の支配地より外側で暮らしていたゲルマン民族は、気候の変動(寒冷化?)や、騎馬民族フン族の攻撃のために帝国内に侵入。あちこちを荒らしまわりながら移動していきます。イベリア半島にやってきたのは、スエヴィ族や西ゴート族といった面々。
スエヴィ王国は5世紀初頭に成立し、現ポルトガルとスペイン北西部を支配します。西ゴート王国も成立は5世紀頭ですが、イベリア半島の大部分を支配し、6世紀末にスエヴィ王国も吸収してしまいます。その間にゲルマン人も、ローマ化した現地人に影響され、キリスト教を受け入れました。
しかし711年、南(現モロッコ)からやってきたイスラム王朝の軍によって西ゴート王国は滅ぼされます。イスラム軍は732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで、別のゲルマン系王国、フランク王国に敗退しますが、ポルトガルとスペインを含むイベリア半島は、長くイスラム王朝の元に置かれることになります。
レコンキスタの始まり
イベリア半島の大部分を手にしたイスラム勢力は、日本では「後ウマイヤ朝」と呼ばれています。この王朝は地中海貿易で栄え、首都のコルドバは、キリストとイスラムの混ざった豊かな文化を育みました。
一方、イベリア半島の付け根、スペインとフランスの間には、ピレネー山脈が東西に走っています。西ゴート王国滅亡間もなくの718年、ピレネー山中に避難したキリスト教徒は、アストゥリアス王国を立ち上げました。そして、イスラムからの領土奪還、いわゆるレコンキスタを始めます。
9世紀、後ウマイヤ朝で内紛が発生すると、混乱に乗じてアストゥリアス王国は、港町ポルトなど、大西洋に面した地域を奪還。この地を王国に付き従った貴族ヴィラマ・ペレスに与えました。ポルトとその昔の名前「カーレ」の名前を合わせて、ポルトゥカーレ伯領と呼ばれています。ポルトガルの国名は、もちろんこの地名が元となっています。
また、イベリア半島中央部でも、ポルトゥカーレ伯領と同じく国王から統治を委ねられた貴族がいました。こちらはカスティリャ伯領と呼ばれ、後のスペイン成立に重要な地となっていきました。
ポルトガル王国の成立
アストゥリアス王国は、910年レオンに首都を改め、以後はレオン王国と呼ばれるようになります。ポルトゥカーレ伯はイスラムと綱引きを繰り返し、同じ頃、海で暴れまわっていたヴァイキングとも戦いながら、少しずつ領地を広げていきました。
1031年になると、コルドバの後ウマイヤ朝が崩壊し、イスラム勢力は小さく分裂。一方、レオン王国も1037年に、カスティリャ伯領と合同。レオン・カスティリャ王国となりますが、実際はカスティリャに飲み込まれた格好でした。
当時、カスティリャ王室に強い影響力を持っていたガリシア地方(スペイン北西部)の貴族は、ポルトゥカーレ伯領にも野心を持ち、1128年侵攻しました。しかし、当時のポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスは、サン・マメーデの戦いでこれを破ります。次いで1139年、オーリッケの戦いでイスラム軍に勝利し、その際アフォンソは自らを(伯ではなく)国王と宣言しました。
彼の主人だったレオン・カスティリャ国王も、1143年アフォンソに国王と名乗ることを許しました。こうしてポルトガル王国が成立。アフォンソ・エンリケス(国王アフォンソ1世 在位1143~85)の祖先がフランスのブルゴーニュ地方出身だったことから、最初の王朝はボルゴーニャ朝(ブルゴーニュの訛り)と呼ばれています。
ボルゴーニャ朝からアヴィス朝へ
王国成立後もレコンキスタは続き、1147年にはリスボンをムラービト朝(現モロッコとイベリア南部を支配していたイスラム王朝)から奪い取ります。ちょうど地中海の反対側では、十字軍の戦いが行われており、多くのキリスト教徒の騎士達がレコンキスタにも参加しました。1249年、ついに王国の領地はイベリア半島南岸にまで達します。すなわち現在のポルトガルにほぼ匹敵する地域を支配下に治め、スペインより先にレコンキスタを完了させたのでした。1255年には首都がリスボンに遷されています。
とはいえ、イスラムとは戦争ばかりしていたわけではなく、交易も盛んにおこなわれました。首都リスボンも港町であり、イタリアやイギリスの商人が盛んに出入りするようになります。経済力の向上とともに、国王の権限も強化され、14世紀には海賊を取り締まる海軍も創設されました。
しかし14世紀になると、ペストの流行やカスティリャ王国との戦いで社会が荒廃し、不満の矛先が王室に向けられました。1385年、カスティリャ王国の軍を退け、市民の支持を得たアヴィス家の貴族ジョアンが新国王(ジョアン1世 在位1385~1433)に選出され、アヴィス朝が始まります。
このアヴィス朝の元、ポルトガルは大きく飛躍することになります。
いざ、大海原へ!
アヴィス朝が成立した頃、イタリアではルネサンスが始まり、芸術のみならず、科学技術の分野でも発展がみられました。中でも羅針盤(コンパス)の改良は、今まで技術的に難しかった遠い地域への航海も可能にしました。
ペストで荒れた社会の再建や、新たな交易先を求めたポルトガルは、大西洋へ繰り出すようになります。これを積極的に支持したのが、航海王子と呼ばれる、エンリケ王子でした。王子が航海学校の設立などで船乗りたちを支援した結果、15世紀半ばまでにポルトガル船はモロッコを越え、西アフリカのギニア湾沿岸に到達。現地の王とも交易が盛んになります。1488年、航海士バルトロメウ・ディアスがアフリカ南西端の喜望峰に到達。1498年には、同じく航海士のヴァスコ・ダ・ガマがインドに上陸します。それまで地中海経由だったアジアとの交易路に対し、アフリカを経由する新しい航路が開拓されました。
しかし、インドでの交易は、大昔からアジア人の商人が用いており、そこに「新規参入」したポルトガルは、武力を用いて主導権を握ろうとしました。強力な海軍を持っていたためこの征服活動は一応成功し、ポルトガルは16世紀以降、インドのゴア、マレー半島のマラッカ、香辛料の産地マルク諸島などを支配しました。
アジア以外では、アフリカの海岸部や周囲の島々を占領。大西洋側の中継地アンゴラと、インド洋側のモザンビークは奴隷貿易の重要な拠点となりました。
そして忘れられないのが、南北アメリカ大陸。1492年にスペインの支援を受けたコロンブスが上陸し、ヨーロッパ人に存在を知られるようになった「新大陸」ですが、この所有をめぐって1494年、ポルトガル王ジョアン2世(在位1481~95)とスペイン女王イザベル1世との間でトルデシリャス条約が結ばれました。1500年に航海士カブラルが上陸した南米の東岸地域は、トルデシリャス条約に従ってポルトガル領となります。後のブラジルです。
この後、1543年には日本の種子島に上陸。一般にはこれが日本人と西洋人の本格的な出会いとされています。中国(明)とは平和裏に交渉が進み、1557年、南部のマカオを貸し与えられました。マカオが中国に返還されるのは、実に1999年のことです。
王の無謀が招いた、王国消滅
この間、アヴィス朝の王族はその権力を強化し、海外との貿易を王室独占としました。マヌエル1世(在位1495~1521)の時代、東南アジアとの香辛料貿易などにより黄金期を迎えました。王権もさらに強化され、ポルトガルは絶対王政の時代を迎えます。
↑ジェロニモス修道院(ポルトガル・ルネサンスの傑作)
しかし、16世紀後半になると早くもポルトガルの繁栄に陰りが見えてきました。隣国のカスティリャ王国では1469年、さっき少しだけ出てきたイザベル1世が、東隣アラゴン王国の王子と結婚し、連合王国となりました。このアラゴン・カスティリャ王国成立が、事実上のスペイン王国成立とされます。1519年からは、名門ハプスブルク家のカルロス1世がスペイン王に即位し、強力な王国を築いていきました。
イベリア半島の統合が進む中、ポルトガルを不運が襲います。1578年、時の王、セバスティアン1世(在位1557~78)が、モロッコでの戦いで戦死(行方不明)してしまいます。若き王の突然の死により、2年後アヴィス朝は断絶。新たにポルトガル王となったのは、スペイン王フェリペ2世でした。
こうしてポルトガル王国は、海外の占領地、植民地ごとスペイン王国に吸収されました。スペインは正に「太陽の沈まぬ国」となったのです。ところが17世紀に入ると、スペインからオランダが独立し、スペイン領やポルトガル領に果敢に挑戦していきました。
日本との貿易を例にとるとわかりやすいと思います。先のとおり、ポルトガル人との接触は1543年でしたが、オランダとの貿易開始は1600年頃。ポルトガルの方が先だったわけです。しかし対イスラム戦を続けていた背景から、ポルトガルはコッテコテのカトリック国家。貿易船に同乗したイエズス会の宣教師がキリスト教(カトリック)を広め、これが豊臣秀吉や徳川家康に嫌われてしまいます。
対する当時のオランダはプロテスタントが中心。キリスト教を広めるより商業を重視する人が多く、この点が徳川幕府にも気に入られました。結果、1639年に幕府によってポルトガル船が締め出されてしまったのに対し、オランダは貿易を続けられました。
カトリックで凝り固まったまま、時代に取り残されてしまったポルトガルは、スペインに併合されていたこともあって、占領地のマラッカやスリランカをオランダに奪われてしまいました。
復活と近代化
16世紀末にポルトガルを併合したスペインも、戦争で莫大な資金を浪費し、その勢いは下降線をたどるようになります。そして、自国産業を発展させたイギリスやフランスに追い抜かれてしまいます。
こうした中、17世紀半ばに三十年戦争が起こると、スペインは戦費のため重税を課しました。これにはポルトガル人もスペインに不満爆発。1640年にブラサンガ家の貴族が王ジョアン4世を名乗り、スペインから独立しました。しかし当然スペイン側は独立を認めず、これを潰そうとしたため、ポルトガルはイギリスと同盟して、難局を乗り越えました。
独立は達成したものの、すでにアジアの覇権はオランダなど外国勢に握られてしまったため、植民地の経営活動はブラジルが中心となっていきます。ブラジルではサトウキビが商品作物として栽培され、後には金の発掘(ゴールドラッシュ)が経済を支えました。ポルトガル本国ではブドウの栽培とワインの製造が盛んになり、この国の重要な輸出品ポートワインとなっていきます。
18世紀の前半は好況に支えられ、バロック文化が花開きました。しかし1755年、首都リスボン周辺で大地震が発生。多数の死者を出し、国家の再建が急務となります。これを機にポルトガルでも近代化が始まりますが、それを牽引したのが、ポンバル侯爵という人物。
※ポンバノミクスは筆者の造語です
彼の政治スタイルは、国王(の代理たる自分)の強いリーダシップによる上意下達的な国家運営でした。具体的には、強い力を持つ大貴族を地方へ追いやって政治から遠ざけ、経済面ではワインの特許会社を設立して、国際競争力をアップさせました。
彼の改革により、一時ポルトガルは持ち直しますが、18世紀末、新たな激震が起き、再び混迷の時代へと逆戻りしてしまいます。
ナポレオン侵攻とブラジルの独立
1789年起こったフランス革命と、それに続くナポレオン戦争は、ポルトガルにも大きな影響を与えました。革命が自国に及ぶのを恐れたポルトガル王室は、イギリスとの同盟を一層強化。これに対し、イギリスを敵視するナポレオンは、1807年イベリア半島に侵攻し、ポルトガル・スペインの両国を占領してしまいます。ポルトガル王室は間一髪、ブラジルへと逃れました。残った市民もスペイン人とともにナポレオン軍を撃退せんと対仏蜂起を繰り返し、イギリスもこれを支援。1810年頃にはフランス軍を撤退に追い込みました。
(ブラジルのリオデジャネイロは首都じゃないのになぜ有名?より)
しかし、イギリス軍はフランス軍撤退後もポルトガルに残り、対ブラジル貿易にも参入して来たため、こうした外国勢力からの解放を訴える民族主義がポルトガル人の間にも芽生えていきました。また、フランス革命の時に爆発した「自由を望む」声も高まりを見せ、なおも絶対王政が続くポルトガル社会を揺るがしていきます。
1820年、民族主義者と自由主義者が「革命」を宣言し、新しい政府を立ち上げました。新政府はポルトガル初の憲法を作り、国王ジョアン6世にこれを認めさせるとともに、イギリス軍も撤退させました。ポルトガル立憲革命と呼ばれる事件です。この結果、絶対王政下で制限されていた出版や信仰の自由なども認められました。
しかしこの憲法はブラジルに適用されず、現地の人の反発を招きます。すでに本国を上回る人口や経済力を持っていたブラジルは、1823年に独立を宣言。ポルトガルにこれを止める術はありませんでした。
帝国主義の中で
ポルトガルは19世紀を通じて、近代化を進めていきます。鉄道が引かれ、農村でも生産物の商品作物化が進みますが、一方で旧体制の象徴であるカトリックは、修道院の閉鎖や、土地・財産の没収などで力を失いました。またこうした急激な変化を嫌がった人々による反乱(1846年マリア・ダフォンテの乱など)も発生しています。ポルトガルの国民的音楽であるファドも、こうした社会変化の中、生み出された文化です。
政治面でも改革をじっくり進める穏健派、とことん突き進もうという急進派、絶対王政を復活させようという反動派などが争いますが、19世紀半ばには諸勢力が二大政党制に整理されて、ようやく安定しました。
こうして近代国家へ変貌を遂げたポルトガルでしたが、ヨーロッパの「列強」に名を連ねるには至りませんでした。19世紀後半から、イギリス、フランス、ロシアといった大国が世界分割に乗り出し、アジア、アフリカなどに今まで以上に大規模な植民地を築いていきます。アジアやブラジルを失ったポルトガルですが、まだアフリカにはアンゴラやモザンビークなどの支配地を持っていました。19世紀末、列強によるアフリカでの植民地競争が激しくなる中、ポルトガルはこの両地域の「間の地域」も領有し、大西洋からインド洋にかけての巨大植民地を築こうと画策。
しかしこれは、エジプトから南アフリカまで植民地を築こうという、イギリス(大英帝国)の壮大な野望の前に崩れ去り、「間の地域」はイギリス領となりました。まあいずれにしても、現地のアフリカ人の意思は全く無視されていたんですが・・・
イギリスに対する弱腰や、近代化に伴う社会のひずみは、またもや王室への怒りとなって現れました。そして1908年、国王カルロス1世とその皇太子ルイス・フェリペが市民によって暗殺される事件が発生。これを機に王政廃止の反乱が頻発し、後継の国王も2年後に亡命。こうして1910年、ポルトガル王国は終焉し、ポルトガル共和国が誕生しました。
サラザールの新体制
共和国誕生の4年後、第一次世界大戦が始まります。この時ポルトガルはイギリスとの同盟から連合国側で参戦します。しかし、できたばかりの共和制はまだ安定せず、しかも戦争は予想以上に長期化。戦場になることはなかったものの、国民の生活は悪化していきました。戦争は1918年、連合国の勝利で終わりますが、戦勝国ポルトガルの得たものは少なく、重い負担ばかりが尾を引きました。
更に戦後の不況が追い打ちをかけました。同じような状況だったイタリアでは、1922年、ムッソリーニが独裁体制を敷きますが、ポルトガルでもこのような「強い指導者」が、「打開策を打ち出せない民主主義」より「マシ」と思われるようになります。
1926年、コスタ将軍率いる軍部がクーデターを起こし、民主主義政権に代わり軍事政権が発足します。この政権下で財政を担ったのが、大学教授のサラザールでした。彼は失業率の改善などで成果を出して支持を集め、1931年首相の座に就任。33年に「新体制(エスタード・ノヴォ)」と称する政治を開始します。これは自らに権限を集中し、言論統制や労働運動の弾圧を行う、独裁色の強いものでした。なお1938年にはスペインでもフランコ独裁政権が発足しています。
サラザールは、同じ独裁を敷き、反社会主義的なムッソリーニ、ヒトラー寄りの姿勢を見せていましたが、1939年に第二次世界大戦が起こると、スペインとともに中立を宣言します。戦争の結果、ムッソリーニ政権とヒトラー政権は崩壊しますが、中立国ポルトガルでは、サラザール独裁政権が残ってしまいました。
続く冷戦期、サラザールは反ソ連の姿勢を明確にし、1949年にはNATOにも加盟しました。西側諸国もこの「反共」を歓迎したため、結局この独裁政治は、戦後20年以上も続くことになります。長期政権下、国民の不満は高まっていきますが、サラザールはこれを民族主義によって「外」に向けさせました。民衆の音楽だったファドや、カトリックの行事ファティマ巡礼をポルトガルの優れた文化として宣伝したのです。例えばファドの歌手アマリア・ロドリゲスはこの中で頭角を現し、国民的歌姫となっています。
民主化とともに
戦後、アジアやアフリカでは独立ラッシュが起こります。中南アフリカについて見れば、ガーナが1957年にいち早く独立、1960年にはナイジェリアやマダガスカルなどの17もの国が一斉に植民地から脱しました。
一方、アンゴラなどポルトガルの植民地に対しては、サラザールが頑なにその独立を認めませんでした。1960年代、これらの地域でも激しい独立闘争が起こり、政権を揺さぶっていきます。
1969年、遂にサラザールはついに政界を引退しますが、後継のカエターノも独裁を継続。独裁と植民地戦争がこれ以上続くのを嫌がった人々は、1974年、無血クーデターで彼を退任させました。カーネーション革命と呼ばれています。新政権下では民主化とともに、抑圧されていた社会主義政党が中心となり、農地改革や企業の国有化政策が行われました。
一方、植民地に対しては、アフリカにあった5か国(アンゴラ、モザンビーク、サントメプリンシペ、カーボベルデ、ギニアビサウ)の独立を1975年承認し、アジアに残っていた植民地、東ティモールからも撤退します。しかしながら、まともな引継ぎ作業も行わないまま、植民地を仕切っていた要人(当然ポルトガル人)が慌ただしく去ってしまったため、いずれの地域でも内戦やクーデターなど大きな混乱が生じてしまうことになります。
さて、民主化を実現したポルトガルですが、西ヨーロッパの中ではまだまだ発展途上国で、社会主義的な政策は財政赤字を増大させていました。そこで1986年、ポルトガルは、同じく民主化を進めていたスペインとともにEC(ヨーロッパ共同体)に加盟し、その安い労働力を武器に経済成長を成し遂げていきます。冷戦終結とともに社会主義的な政策も転換されました。
冷戦終結後の1992年、ECはEUへと“進化”し、ポルトガルもその一員となります。1999年にはユーロの使用も開始。輝かしい未来を手にする・・・ハズでした。
2008年のリーマンショックや2011年のギリシャ危機により、EUの経済は大きな打撃を受けてしまいます。ドイツなどと比べて経済力の弱いポルトガルは、特にその影響が強かったといいます。一方、2010年代のヨーロッパは、移民・難民問題が深刻化し、その中でテロ事件がフランスやドイツでも起こるように。幸いポルトガルはこのようなテロの標的にはならず、治安の良さを武器に観光業を進めていきました。それだけに、今回の新型コロナによる観光業低迷は、ポルトガルにとって新たな課題となることでしょう。