16世紀~海がつなげた世界~
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大航海時代によって、日本を含む東洋と西洋、新大陸の結びつきがますます強まっていきます。この事は各々の社会を大きく動かす一方で、多大な悲劇をももたらしました。
もくじ
南北アメリカ
コロンブスの到達後、彼の上陸した地が(ヨーロッパ人にとって)未知の大陸であることが分かり、盛んに探検が行われました。特にレコンキスタ(国土回復運動)を完了させたスペイン、ポルトガルにとってアメリカ大陸は、領地拡大の延長線上と映り、やがては征服活動へと発展していきます。
間もなくヨーロッパ人(スペイン人)はメキシコのアステカ帝国、南米アンデスのインカ帝国と接触。当然両帝国ともキリスト教なんぞ知らない国だったわけですが、スペイン人の目には彼らの宗教や文化は「邪教」に見えてしまいます。しかもアメリカ大陸の先住民文明は、火薬も、馬も、鉄も持っておらず、ヨーロッパ人との力の差は歴然でした。スペイン人は「邪教を排し、カトリックで民を導く!」という崇高な、しかし先住民にとってはメーワク極まりない使命で、征服活動を正当化しました。
この結果、スペインの軍人コルテスによりアステカ帝国が、同じく軍人ピサロによりインカ帝国が征服され、多くのスペイン人が新大陸に入植していくことになります。同様にポルトガル人も南米の東側に入植。こちらが現在のブラジルへと発展していきました。
さて、メキシコやアンデス地方では銀山の開発が行われ、最初は先住民が働かされました。しかし彼ら先住民は、ヨーロッパ人が知らず知らずの内に持ち込んだユーラシア産の病気(インフルエンザなど)に免疫が無く、バタバタと倒れていくことになります。彼らに代わる労働力として次にヨーロッパ人が目を付けたのが、屈強な肉体を持つアフリカ人でした。
西・中・南アフリカ
大西洋を挟んでアメリカ大陸に最も近かったのが西アフリカです。15世紀にヨーロッパとの交易が本格化した西アフリカ沿岸の国々(ダホメー王国、ベニン王国など)は、以前よりサハラ砂漠を越えてイスラム圏に奴隷を送り出していました。しかし、ヨーロッパ人が欲した奴隷の数は、イスラム圏への奴隷数をはるかに上回るものでした。
ヨーロッパ人はこれらの王国に、銃などの強力な武器などを輸出。するとアフリカの国々は、これらの武器をもって敵対部族を攻撃、多くの成人男性を生け捕りにして、これをヨーロッパ奴隷商人に「輸出」しました。彼らは劣悪な奴隷船に乗せられ、中南米へ「輸送」されていきました。
この奴隷貿易は、短期的にはアフリカ諸国に富をもたらしましたが、当然アフリカでの働き手(成人人口)が不足し、長期的にはその地域の社会を破壊して行くことになります。
西アジア・北アフリカ
一方、エジプトを始めとする北アフリカはというと、1517年にオスマン帝国によりマムルーク朝が倒され、モロッコを除く大半がオスマン帝国の一部となります。
オスマン帝国最盛期を築いたスレイマン1世は、征服地バルカンから更に北上し、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を戦死させ、遂にはハプスブルク家の本拠地、ウィーンをも一時包囲します。この大帝国はアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる広大なものとなりました。オスマン帝国は更に地中海の覇権も掌握。1571年のレパントの海戦ではスペインに敗れたものの、その後も影響力を保ち続けました。
しかし領地を大きく東に広げることは叶いませんでした。1501年、イスラム教シーア派の教団、サファヴィー教団がイランを中心に王朝(サファヴィー朝)を建設。これと前後して崩壊したティムール帝国に代わり、イラン・イラク地方の大王朝となっていきます。また、現在でも両国でイスラム教シーア派が多いのも、サファヴィー朝によって同派が広められたことが大きいです。
なお、ペルシャ湾やインド洋は当時、イスラムの商人の「庭」でしたが、ヴァスコ・ダ・ガマ以降、ポルトガル人が「新規参入」していきます。特に1510年、マムルーク朝の軍を破って(ディウ海戦)から、ポルトガルはメキメキと頭角を現し、アラビア半島やイラン沿岸部、東アフリカに積極的に交易拠点を建設していきました。
中央アジア・南アジア
モンゴル帝国再建を目指したティムール帝国ですが、遊牧民ウズベク族の攻撃を受けて1507年に滅亡しました。以後、ウズベク族のイスラム系王朝(ブハラ・ハン国など)が中央アジアに建てられますが、ここでも権力争いは続きます。
その一人、バーブルは、権力争いに敗れて北インドに逃げます。北インドではデリー・スルタン朝が興亡を繰り返していましたが、バーブルは1527年のパーニーパットの戦いでこれを倒し、デリーから少し外れたアグラを都に新王朝を開きました。これがイスラム系のムガル帝国です。
ムガル帝国は3代目アクバルの代に安定化。アクバルはインド人の多くが信じるヒンドゥー教など非イスラムにも理解を示し、ジズヤ(非イスラム教徒に課す税金)を廃止するなどの政策を実施。こうしてインドではイスラムとヒンドゥーの共存が進むことになります。
一方、インド南部や沿岸部には、西アジアと同様にポルトガル人が進出し、重要な港を借り受けたり占領したりしました。スリランカの沿岸やモルディブもポルトガルの占領下に置かれました。
東南アジア
前世紀、マラッカ王国が受け入れたイスラム教は、16世紀初頭までに現在のインドネシアやマレーシア一帯に広まっていました。そしてこの現インドネシア東部に散らばるマルク諸島こそ、ヨーロッパ人が喉から手が出るほど欲しかった香辛料の一大産地でした。大量の香辛料を買いたかったポルトガルですが、代わりに東南アジアへ売るものが無い。ということで、彼らは武力に訴え、1511年、交易の中心だったマラッカ王国を武力で征服してしまいます。
こうして香辛料貿易独占を狙ったポルトガル人でしたが、そうは問屋が卸さない。ヨーロッパ人が牛耳り始めたマラッカを、昔ながらのイスラム商人が嫌がるようになり、新たな交易拠点を探すようになります。この後、マレー半島の南端ジョホール王国や、スマトラ島最北部のアチェ王国がマラッカに代わって発展し、ポルトガルも激しい貿易競争に巻き込まれるようになっていきます。
東南アジアにやって来たのはスペイン人も同じでした。ただしポルトガル人が主に西からやって来たのに対し、スペイン人は東からやってきました。1521年、アメリカ大陸から太平洋を横断し、東南アジアの島に降り立ったのが、マゼランです。彼は当時のスペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)にちなみ、この島々をフェリペナス諸島と命名。この英語読みが「フィリピン」です。マゼラン自身はフィリピンで地元の王ラプラプと戦って落命しますが、彼の部下が史上初の世界一周を成し遂げたのは周知の事実です。その後フィリピンは1571年正式にスペイン領となります。
対ヨーロッパ貿易はタイのアユタヤ、ベトナム南部のチャムパなど、インドシナ半島でも盛んになりました。この時期ビルマ(ミャンマー)では長い分裂期が終わり、タウングー朝によって統一されます。タウングー朝は更に一時期アユタヤを征服するなどの勢力を誇りますが、この勝利もヨーロッパから輸入した銃を用いたことで掴み取ったものでした。
世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ミャンマーの歴史~ より
東アジア
ポルトガルは中国(明王朝)にも接触しますが、さすがにこの大国を征服しようとは思わず、皇帝から中国南部の港を借り受けるにとどまりました。これがマカオです。以後マカオは数百年ポルトガル領であり続け、中国に返還されたのは、何と1999年のことでした。明からは、古くからヨーロッパに人気の陶磁器やお茶がより大量に輸出され、支払われた銀貨が中国各地にも出回るようになります。
その明王朝は当時成熟期にありました。儒学者王陽明が「陽明学」を確立させ、『西遊記』や『水滸伝』といった小説もこの時期完成しています。一方モンゴル高原からタタール人(モンゴル人の一派)が侵攻したり、海では海賊(倭寇)が狼藉を働いたりと、国内の治安には不安がつきまといました。16世紀後半、万暦帝の時代には、政治家張居正による改革がなされますがこれも防衛費がかさんだことが理由の一つです。彼は国内に大量に出回った銀で税金を払わせる一条鞭法を制定し、一時明の財政再建に成功しました。
朝鮮では、「士林派」と呼ばれる新貴族(新両班)が登場し、旧来の貴族と争い、あるいは士林派内部での争いを繰り広げていきました。この争い中、一方では学問の研究も発展し、李退渓や李栗谷といった儒学者が活躍しました。
一方、日本は戦国時代の真っ只中でした。室町幕府の力は既に無く、地方の有力者(戦国大名)が各々の領地を治めるようになります。有名人としては毛利元就(中国地方)、斎藤道三(美濃=岐阜南部)、武田信玄(甲斐=山梨)、上杉謙信(越後=新潟)、北条早雲(関東地方)、織田信長(尾張=愛知西部)などなど・・・各大名が自国を軍事的、経済的に強化させる政策(信長の楽市楽座など)を敷いた結果、京都から離れた地方が発展。現在まで続く城下町の多くもこの時代建設されました。
日本人とヨーロッパ人の付き合いが本格化したのもこの時期で、1540年代に鉄砲やキリスト教が伝わった事はよく知られています。1582年にはキリスト教を受け入れた武士の息子たち4人(天正遣欧使節)がローマまでの旅を行うなど、日本も次第に国際化を進めていきました。
16世紀後半には国内の統一を目指す動きが本格化。織田信長とその跡を継いだ豊臣秀吉により、天下統一は成し遂げられました。秀吉は同時に検地や度量衡(長さや大きさの単位)の統一を実施し、刀狩りにより農民反乱の芽を予め摘み取るなど、国内の統合・安定化に尽力します。
一方では東アジア征服を狙い、朝鮮への出兵を断行しました。これは降伏させた戦国大名の不満を外に向けさせる狙いがあったとも言われています。突然の攻撃に朝鮮では混乱しますが、李舜臣などの猛将の出現や、明の援軍により反撃。結局、秀吉1598年にが死去したことで日本軍は朝鮮から撤退しました。
そして16世紀最後の年である1600年、ポスト秀吉の座を巡る争いが起きました。ご存知関ヶ原の戦いで、この戦いに勝利した徳川家康が、次の時代の担い手となっていきます。
ドイツ・フランス・イギリス
さて、7つの海に進出したヨーロッパ人ですが、その「地元」はどうだったのでしょう。ルネサンスによる、新しい文化・思想の出現は、それまで絶対的存在だったカトリックを批判する人物をも生み出します。
当時、教会は免罪符を売って金儲けをするなど腐敗した状態となっており、これを嘆いた神学者ルターは1517年、カトリックを批判する「95箇条の論題」を発表。大きな波紋を呼びます。そしてカトリックの派手な行事を排除し、聖書の押しを重んじるなど、新たな宗派を生み出しました。プロテスタントの出現、いわゆる宗教改革の始まりです。
プロテスタントはルターの本拠地ドイツ(神聖ローマ帝国)北部から北欧、スイス、オランダ、フランスなどに広まり、各地でカトリックとの争いが生じました。
例えばフランスでは、ユグノー戦争と呼ばれる大規模な内戦(1562~98)へと発展し、時に大量虐殺や国王の暗殺も生じるなど、混乱が続きました。ユグノー戦争は、プロテスタント教徒の支持する王、アンリ4世が即位し、自らはカトリックに改宗することで16世紀末にやっと収まりました。両方の顔を立てた格好です。このアンリ4世から始まる王朝が、かのブルボン王朝でした。
一方、バラ戦争を終結させたイギリスでは、離婚を繰り返すヘンリ8世が、それを批判するカトリックを見限って自ら教会(イギリス国教会。プロテスタント色が強い)を創りました。しかし16世紀半ば、メアリ1世の時代にはカトリックに戻され、プロテスタントを弾圧。その次のエリザベス1世がイギリス国教会を再び重んじるなど、宗教を巡る争いは続きます。
スペイン・ポルトガル・イタリア
さて、前にも書きましたが、新大陸を支配したスペイン、ポルトガルはいずれもカトリック国家でした。カトリック勢は、プロテスタントに対抗する形として海外への布教を目指す団体を創設。これがイエズス会で、創設者の一人があのフランシスコ・ザビエルでした。イエズス会は中南米、フィリピンといった征服地や日本、中国など、世界各地にカトリックを広めるようになります。
イタリアでは、シチリア王国の王位をめぐるスペイン・ハプスブルク家とフランス・ヴァロア家の争い(イタリア戦争)が続いていました。北イタリアの諸都市もこの争いに巻き込まれますが、芸術家の活躍はなおも健在でした。16世紀初頭には、レオナルド・ダ・ヴィンチが『モナ・リザ』を描き、ミケランジェロが『ダヴィデ像』を完成させています。
しかしイタリア戦争がスペイン・ハプスブルク家の勝利に終わると、イタリア諸国は直接的、間接的に影響を受けます。1569年、ルネサンスの中心だったフィレンツェ共和国は、君主制のトスカーナ大公国へと生まれ変わりますが、スペインの影響もあり、徐々に自由な思想や製作が抑圧されていきました。
このスペインは中南米からの銀により巨万の富を得て、一躍ヨーロッパ最強の国に躍り出ました。当時の王、ハプスブルク家のカルロス1世は神聖ローマ皇帝も兼ね(皇帝としてはカール5世)、まさにカトリック世界の代表選手のような存在でした。それだけに彼のお膝元ドイツでプロテスタントが広まることや、東方からイスラム系のオスマン帝国が進出してくることには我慢がならず、常にヨーロッパのどこかで戦いを繰り広げました。
しかし結局ドイツでは1555年、アウグスブルクの宗教和議でルター派が認められることになり、失望したカール5世は翌年生前退位してしまいます。スペイン王を継いだのが息子フェリペ2世です。ちょうど彼の時代、ポルトガル王セヴァスチャン1世がモロッコで戦死する事件が起き、一時期スペインに併合されることとなります。こうしてスペインはポルトガルの植民地や占領地をも獲得し、「太陽の沈まぬ国」となります。
しかしその足元は揺らいでいまいた。フェリペ2世は父以上にプロテスタントを徹底弾圧しましたが、これに反発したのが、当時ハプスブルク家の領地だったオランダ。上記のようにプロテスタント教徒が多かったオランダでは反スペインの運動が高じて、遂には独立へと進んでいきました。
これをバックから支援したのが、同じプロテスタント国家だったイギリス。時の君主はエリザベス1世です。イギリスとスペインは1588年激突しますが、無敵艦隊(アルマダ)と呼ばれたスペインの軍艦をイギリスが撃破。こうしてプロテスタントの勢いは更に強くなっていきます。
エリザベス率いるイギリス栄光の時代は、優れた文化人も生みました。その代表格が『ハムレット』『ロミオとジュリエット』で知られる劇作家シェイクスピアです。
北欧・東欧
北欧では、デンマークを中心とするカルマル連合がまだ続いていましたが、政治経済面で不利となった地方、とりわけスウェーデンの不満を招きました。この動きを抑えるべく、デンマークは1520年スウェーデン貴族を虐殺する事件を起こしました(ストックホルムの血浴事件)が、これがかえって両者の亀裂を決定的なものにします。1523年、スウェーデン貴族の生き残りグスタフ・ヴァーザによりスウェーデン王国が復活。カルマル連合は解消されることになります。
東ヨーロッパは前述のように、バルカン半島からハンガリーまでがオスマン帝国の支配下に置かれました。バルカン半島では主にキリスト教の東方正教が広まっていましたが、その多くが独立を失っていたのです。例外はロシアでした。15世紀に正教のお膝元ビザンツ帝国が滅びた後、その中心はモスクワへと移りました。
ロシアの君主はビザンツ皇帝を引き継ぐ者として、やはり皇帝の意味である「ツァーリ」を自称。16世紀半ばに登場したイヴァン4世は、良くも悪くも皇帝にふさわしい大きな業績を遺します。彼は東方へ軍を差し向け、多くの遊牧国家を征服。更にはシベリアへと領地を広げていきました。ロシアが世界最大の面積を誇る国になるきっかけがこの時の征服活動だったのです。
イヴァン4世は西にも軍を向けました。モスクワは内陸の都市なので、海上交易を狙ってバルト海に進出しようとしたのです。しかしここに当時大国だったヤゲヴォー朝ポーランドと独立して間もないスウェーデンが立ちはだかりました。こうして1558年からバルト海の覇権を巡るリヴォニア戦争が起こります。
長引く戦争でロシアは苦戦を強いられ、国内も重い負担に悩まされますが、あくまで戦争を続けるイヴァン4世は次第に独裁色を強め、恐怖政治を展開。彼は後に「雷帝」とあだ名されるようになります。結局彼の死と共にロシアは敗北し、恐怖政治の後遺症もあって混乱が続きました。
主な出来事
1501 イスマイール1世、サファヴィー朝開く(イラン)
1505 ポルトガル、セイロンに上陸(ポルトガル・スリランカ)
1506 コンゴ王国国王、カトリックに改宗しアルフォンソ1世を名乗る(中部アフリカ)
1507 ウズベク族シャイバニー・ハーン、ティムール帝国を滅ぼす(中央アジア)
1509 デウ海戦でマムルーク朝敗北 ポルトガルがインド洋に進出(ポルトガル・中東・インド)
1510 ポルトガル。インドのゴア占領
1511 ポルトガル、マラッカ王国を占領(ポルトガル・マレーシア)
1517 オスマン帝国セリム1世、マムルーク朝を滅ぼす(中東)
1517 ルター、95箇条の論題発表。宗教改革始まる(ヨーロッパ)
1521 コルテス、アステカ帝国を滅ぼす(スペイン・中米)
1523 スウェーデン、カルマル連合から離脱(北欧)
1526 パーニーパットの戦い バーブル、ムガル帝国を建設(インド)
1526 モハーチの戦い ハンガリーがオスマン帝国に敗北(ヨーロッパ・中東)
1529 オスマン帝国の第一次ウィーン包囲(ヨーロッパ・中東)
1533 ピサロ、インカ帝国を滅ぼす(スペイン・南米)
1534 ヘンリ8世、イギリス国教会開設(イギリス)
1538 プレヴェザの海戦 オスマン帝国がヴェネツィア・スペインに勝利(ヨーロッパ・中東)
1543 ポルトガル、種子島に上陸(日本・ポルトガル)
1543 コペルニクス、地動説を発表(ポーランド)
1545 トリエント公会議(ヨーロッパ)
1545 ポトシ銀山開発開始(南米・スペイン)
1549 ザビエル、鹿児島上陸(日本)
1555 アウグスブルグの宗教和議(ドイツ)
1556 グアム、スペイン領に(オセアニア)
1557 ポルトガル、マカオを領有(ポルトガル・中国)
1558 リヴォニア戦争(北欧・ロシア)~82 ロシアイヴァン4世敗北
1559 エリザベス1世、統一法施行(イギリス)
1562 ユグノー戦争開始~98(フランス)
1564 ムガル帝国のアクバル帝、ジズヤ廃止し、非イスラム教徒懐柔(インド)
1569 タウングー朝のバインナウン、アユタヤを一時征服~84(ミャンマー・タイ)
1569 トスカーナ大公国成立(イタリア)
1569 ルブリン連合(ポーランド・リトアニア)
1571 レパントの海戦、スペインがオスマン帝国破る(ヨーロッパ・中東)
1573 織田信長、室町幕府を滅ぼす(日本)
1579 ユトレヒト同盟結成(オランダ)
1582 天正遣欧少年使節、ローマへ向け出発
1582 本能寺の変(日本)
1588 アルマダ海戦(スペイン・イギリス)
1590 豊臣秀吉、北条氏を滅ぼす。全国統一達成(日本)
1592 文禄・慶長の役~98 (壬辰・丁酉の倭乱)(日本・朝鮮)
1597 サファヴィー朝のアッバース1世、イスファハーンに遷都(イラン)
1600 関ヶ原の戦い(日本)
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