13世紀~モンゴルの蒼き狼~
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13世紀の出来事といえば、なんといってもモンゴル帝国の盛衰でしょう。空前の大帝国を築いたモンゴルは、この1世紀に大きく栄え、14世紀になると衰退していきます。
モンゴル・中央アジア
現在のモンゴルにあたる草原地帯では、古くから匈奴、突厥といった遊牧民の国が出現していました。しかし9世紀からこうした草原の民は小集団に分かれており、遼王朝や金王朝に脅かされる状態が続いていたようです。これをカリスマ的な才能で統一したのが、チンギス・ハーンでした。
1206年、大ハーン(皇帝)となった彼は短期間のうちに各集団をまとめあげ、強力な遊牧民国家を建設。これに「強い者」を意味する「モンゴル」という名を与えました。そのうえで、西への遠征を開始。見渡す限りの大平原を駆け抜ける彼らにとって、国境や領土といった考えはそもそもなく、チンギス・ハーンが没するまで果てしなく遠征は続きました。
ユーラシア内陸部には森の少ない乾燥地帯「草原の道」が東西に続いており、シルクロードの一部でもありました。モンゴル帝国は、この道を利用する商人の協力もあって敵対勢力を次々征服していきます。1221年には中央アジアの大国ホラズム王国が滅ぼされました。
1227年チンギス・ハーンは没しますが、2代目オゴダイ(オゴデイ)・ハーンの時代には、中国西部の西夏(1227)や中国北部の金王朝(1234)が滅ぼされました。
国土を数倍に広げた帝国では、王都カラコルムと征服地の間に路線を張り巡らせ、モノや情報を素早く得られる制度(現代風にいえばインフラ)を整えていきます。
この過程で、中央アジアには、モンゴル一族による地方政権、チャガタイ・ハン国が成立しました。
ロシア・東ヨーロッパ
ホラズム王国を征服したモンゴル帝国は、西アジアとロシアにも侵攻。当時ロシア人の国は複数に分かれていましたが、その中心は現ウクライナの首都、キエフにありました(ロシア人とウクライナ人の祖先は同じルーシという人々です)。
1240年、バトゥ(チンギス・ハーンの孫)率いるモンゴル帝国はキエフに到着し、これを徹底的に破壊。以後ロシア人は300年に渡り、モンゴルの支配下に置かれます(これを、タタールのくびきと呼びます)。
翌41年モンゴルは東ヨーロッパのポーランドとハンガリーにも攻撃を加え、大打撃を与えましたが、この年オゴダイが死去したため、バトゥはモンゴルへ戻るべく撤退。両国は支配を免れました。
3代目皇帝にはグユク・ハーンが即位しましたが、バトゥはこの新皇帝と対立。結局モンゴルには戻らず、ロシアの地に地方政権を築きました。この国はキプチャク・ハン国あるいはジョチ・ウルス国と呼ばれています。
中東
3代目のグユク・ハーンは2年で死去し、1248年、4代目モンケ・ハーンが即位します。この頃中東へはフレグ(彼もチンギス・ハーンの孫)が侵攻。当時バグダッドにはアッバース朝家のカリフがまだ残っていましたが、かつての庇護者セルジューク朝も既に無く、その力はモンゴル軍を抑えるにはあまりに微弱でした。
1258年、フレグはバグダッドのカリフを殺害し、アッバース朝は名実ともに滅亡します。フレグはバトゥと同じように、現在のイラン・イラクを中心とした地域に地方政権イル・ハン国を建設します。
同じ頃エジプトでは、かつて十字軍を跳ね除けたアイユーブ朝が、配下のマムルーク(奴隷軍人)によってスルタンの座を奪われてしまいます。新生マムルーク朝の成立(1250年)です。モンゴル軍はこのマムルーク朝とも激突しますが、この時も皇帝モンケ・ハーンが死去した直後で、主力の兵は引き上げていました。
1260年アインジャールートの戦いでは、バイバルス率いるマムルーク朝が勝利。中東におけるモンゴルの勢いはここで止まりました。以後マムルーク朝及びその王都カイロは、バグダッドに代わるイスラム世界の中心となっていきます。
中国・朝鮮・日本
この頃日本は鎌倉時代の真っ只中でしたが、源頼朝没後まもなく源氏は政争で断絶してしまいます。京都で院政を行っていた後鳥羽上皇は、幕府をつぶすチャンスと鎌倉を攻撃しました。1221年の承久の乱です。
しかし北条政子ら幕府側はこの乱に勝利し、以後は北条氏の元、安定した時代が続きました。法然、親鸞、道元、日蓮といった僧侶が仏教の新しい宗派を創り上げたのもこの頃です。しかしモンゴルの影は日本にも確実に忍び寄ってきていました。
金を滅ぼしたモンゴルは、南宋や高麗にも侵攻。高麗にて武臣政治を率いる崔氏は抵抗したものの、1259年にはモンゴルに服属しました。5代目皇帝フビライ・ハーンは、中国を攻めるとともに中国の文化・風習を吸収。国名も中国風に「元」とし、後には科挙も導入しました。
1279年南宋もついに滅亡。最後まで抵抗した中国人は「南人」として身分の最下層に置かれてしまいます。これと前後してモンゴル軍も日本を攻めます(文永・弘安の役)が、モンゴル人が海戦には不慣れだったことと、兵士が帝国支配下の、士気の上がらない者だったことが幸いし、日本はモンゴル軍の撃退に成功しました。
東南アジア
元のフビライは宋を征服する過程で、大理国を征服(1253年)。続いてミャンマー(ビルマ)にも侵攻します。この結果王都パガンは崩壊します(1277年)が、ビルマ人の抵抗により征服は免れました。
更にモンゴルの侵攻が影響し、それまで中国内陸部に暮らしていた人々の一部がインドシナ半島へ南下していきました。現在東南アジアを代表する民族の一つ、タイ人はこの時移住した集団でした。13世紀半ば、タイ人はチャオプラヤ川流域のスコータイに王朝を開き、先住民の信仰していた仏教を取り込んでいきました。
ベトナムでは李朝に取って代わった陳朝がモンゴルの攻撃を受けますが、陳興道ら軍人の活躍により、何とか撤退に追い込むことに成功しました。
現インドネシアのジャワ島では、シンガサリ王国のクルタナガラ王が元への服属要求を断固拒否。このため、フビライも1292年遠征を行いますが、元軍が到着する前にクルタナガラは内紛で暗殺されてしまいます。息子のクルタラージャサは、到着した元軍を逆に利用して反徒と戦わせ、両者を弱体化させた上で、1293年、新国家マジャパヒト王国を建てました。
こうしてモンゴルによる東南アジアの征服は、ことごとく失敗に終わりました。
インド
インドはモンゴル帝国よりイスラムの侵入に悩まされていました。北インドに侵攻したゴール朝は1206年、国王が殺害されて滅亡。その奴隷(マムルーク)だったアイバクが、デリーに都を定めて新王朝(奴隷王朝)を建設。デリーがインドの中心都市となる第一歩が築かれました。
西ヨーロッパ
12世紀末、サラディンにエルサレムを奪還されたキリスト教徒は、なおも十字軍を送り続けました。13世紀初頭に活躍したローマ教皇インノケンティウス3世は、神聖ローマ皇帝の”人事”に介入したり、各国の王に破門をチラつかせて意のままに操るなど歴代の教皇でも最も強い力を持った人物でした。
イングランドではこの教皇に破門された事もある国王ジョン1世が、貴族と対立の上、彼らの権利を認める「マグナ・カルタ」を定めました。
一方のフランスでは、フィリップ2世が政略結婚や様々な駆け引きを行って王領地の拡大に成功。続くルイ9世は第7回、8回十字軍遠征で活躍し、王の権威を高めました。
南ヨーロッパ・ビザンツ帝国
ローマ教皇インノケンティウス3世が起こした第4回十字軍遠征は、地中海交易のスペシャリストとなっていたヴェネツィア共和国の協力のもと行われました。しかし遠征は資金不足のためエルサレムはおろか、地中海を出ることもできず、その途中で略奪を働くような有様でした。
これにビザンツ帝国の継承問題がからみ、1204年、十字軍はコンスタンティノープルを攻撃、占領します。ビザンツ帝国はこの結果一旦崩壊し、ラテン帝国が成立しました。ビザンツ帝国は1261年に復活し、なお200年程続きますが、もはやかつての栄光を取り戻すことはありませんでした。
イベリア半島では、カスティリャ王国とアラゴン王国が引き続きレコンキスタを進めていました。一方イスラム勢は、ムワッヒド朝の弱体化、撤退により、南部のグラナダ周辺を残すのみとなりました。
十字軍遠征はその後も続けられますが、13世紀末までにすべての十字軍国家がマムルーク朝によって征服され、結局失敗に終わります。しかしキリスト世界とイスラム世界との交流は更に活発になりました。
加えてモンゴル帝国がユーラシアの大部分を一つにしたことで、中央アジア、インド、中国との交易・交流も従来以上に積極的に行われるようにありました。先のヴェネツィアから中国(元)まで旅した商人、マルコ・ポーロは、東西交易の活発化を象徴する人物と言えます。
~主な出来事~
1204 第4回十字軍。コンスタンティノープルにラテン帝国成立。(東ヨーロッパ)
1206 チンギス・ハーン即位。モンゴル帝国成立(モンゴル)
1206 アイバク、デリーにイスラム王朝(奴隷王朝)建国(インド)
1215 ジョン、貴族の権利拡大を認めるマグナ・カルタを制定(イギリス)
1221 承久の乱。北条政子ら鎌倉幕府が後鳥羽上皇に勝利(日本)
1221 モンゴル、ホラズム王国を滅ぼす(中央アジア)
1232 ナスル朝グラナダ王国成立(イベリア半島)
1235頃 マリ帝国成立(アフリカ・サハラ地方)
1227 モンゴル、西夏を滅ぼす(東アジア)
1234 モンゴル、金王朝を滅ぼす(東アジア)
1240 モンゴル、キエフを滅ぼす(ロシア・ウクライナ)
1241 ワールシュタットの戦い。モンゴル、ポーランド軍を破る(東ヨーロッパ)
1250 アイユーブ朝滅亡、マムルーク朝成立(エジプト)
1252 高麗版大蔵経完成(朝鮮半島)
1256 神聖ローマ帝国、大空位時代に入る~73(ドイツ)
1258 モンゴル、アッバース朝を滅ぼす(中東)
1259 武臣政治終焉。高麗、モンゴルに服属(朝鮮半島)
1259 ラテン帝国滅亡。ビザンツ帝国再興(東ヨーロッパ)
1260 アインジャールートの戦い マムルーク朝のバイバルス、モンゴル軍に勝利(中東)
1265 シモン・ド・モンフォール議会(イギリス)
1271 フビライ・ハーン、帝国の国号を「元」に変更(中国)
13世紀後半 ヴェネツィア商人マルコ・ポーロ、元訪れ、フビライに仕える(モンゴル)
1274 文永の役(日本)
1277 モンゴル、パガン朝を滅ぼす(ミャンマー)
1279 モンゴル、南宋を滅ぼす(中国)
1281 弘安の役(日本)
1282 シチリア晩祷事件。アラゴン国王ペドロ3世、シチリア国王を兼ねる(スペイン・イタリア)
1291 マムルーク朝、十字軍最後の拠点アッコンを陥落させる。十字軍終焉(西アジア)
1293 ジャワ島のクルタラージャサ、モンゴル帝国撃退、マジャパヒト王国成立(インドネシア)
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