スリジャヤワルダナプラコッテの意味とは?

人名や地名などの固有名詞には、変わった名前が少なくありません。オランダの町「スケベニンゲン」や、ナイジェリアの元大統領「オバサンジョ」(でも、おじさんです笑)など日本人にとって印象に残りやすい名前は、そこかしこにあります。
また、極端に長い名前、短い名前というのも印象に残ります。三重県の「津」は世界一短い地名の一つです。一方長い方の代表格はスリランカの首都、「スリジャヤワルダナプラコッテ」でしょう。首都なので地図帳や国の一覧表にも必ず登場し、狭い欄に細か~い字で書かれていたのを覚えている方も多いのでは?今回はこの長い首都名について、スリランカの歴史と共に述べていきます。
長い名前の意味とは?
この街の名前をどこで切るかというと「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」となります。「スリ」は「聖なる」とか「光り輝く」といった修飾語。「ジャワルダナ」はスリランカの元大統領の名前で、「プラ」は「街」の意味。「コッテ」がこの街の本来の地名で、繋げると「輝ける、ジャワルダナの街、コッテ」という意味です。
この街に首都が遷ったのは1983年のことで、それまではすぐ隣のコロンボに首都が置かれていました。(これについては後述します。)しかしコッテに首都が置かれたのは実はこれが初めてではありません。実は約400年前、この地に都が置かれたことがあったのです。
シンハラ人とタミル人
スリランカの歴史は高校の世界史でもほとんど扱われず、知らない人も多いと思うので、まずは紀元前の建国時から辿ってみましょう。スリランカを構成する最大の民族はシンハラ人と呼ばれ、敬虔な上座部仏教徒(タイなどと同じく、金ぴかのお寺で有名な仏教)が多いことで知られています。
彼らの王国、シンハラ王国は、一説には紀元前5~4世紀頃に建てられたとされ、都はセイロン島北部のアヌラーダプラに置かれました。紀元前3世紀頃インドから仏教が伝来。この宗教はシンハラ王国の骨格となっていきます。これも伝承では、古代インドの名君アショーカ王の息子マヒンダ王子によって広められたとも言われています。
一方、BC2~1世紀には南インドに住むタミル人が侵入。彼らは後にヒンドゥー教を重んじたことから、仏教徒であるシンハラ人との摩擦を生じさせることになります。
シンハラ王国は、その後もアヌラーダプラを拠点に1000年以上存続しますが、10世紀に入って南インドのタミル人が創った王朝、チョーラ朝が強大化し、セイロン島にもにらみを利かせ始めます。1017年、チョーラ朝が遂にセイロン島に侵攻し、島の北部を占領。更にアヌラーダプラから南のポロンナルワへ都を遷しました。
コッテ王国と大航海時代
間もなくシンハラ王国はチョーラ朝を追い出し、ポロンナルワにて王国を再建しますが、結局、その後もタミル人勢力との戦いや内紛は続き、王都も次々と移動していきます。タミル軍の南下を防ぐべく城や砦なども各地に建てられましたが、その一つが14世紀沿岸部の一角に建設されたコッテでした。
1412年、シンハラ王、パラクラマバーフ6世の手により遂に王都がコッテに遷ります。以後のシンハラ王国は王都にちなみ、コッテ王国とも呼ばれています。パラクラマバーフ6世はタミル勢力を下して一時的にセイロン島全土を統一するなどの活躍を見せましたが、この有能な王が没すると統一は破られ、タミル人のジャフナ王国や、内陸部に住むシンハラ人の国キャンディ王国が独立しました。
更に16世紀になると大航海時代を迎えたポルトガル人が訪れるようになり、コッテの北西部に新たな港町を建設しました。これがコロンボです。やがてポルトガル人は貿易面で影響力を強め、コッテの政治にも口出しし始めました。この結果、コッテの国王はポルトガル人の操り人形と化し、1597年には王国自体が廃されてしまいました。それと同時に国の拠点もコロンボに遷り、コッテは都としての栄光を失っていきます。
イギリスの植民地として
スリランカの支配者はこの後、ポルトガルからオランダへ、更にイギリスへと変わり、19世紀には内陸部にあったキャンディ王国も滅亡して島全体がイギリス領となります。
紅茶好きのイギリスは、植民地となったスリランカで茶葉の栽培を命じ、セイロンティーなどのブランドが作られていきました。第二次世界大戦後、インドなどの独立に続いて1948年セイロン共和国として独立。1972年にスリランカへと国名を変更し、現在に至ります。
民族対立と首都の移転
しかしこの間、シンハラ人とタミル人の諍いも続いていました。特に植民地時代は、少数派のタミル人がイギリスに優遇され、経済面でも裕福な傾向にあった事から、シンハラ人は彼らに不満を持っていました。
独立後の政府はシンハラ人寄りの政策を採るようになり、憲法でシンハラ語の公用語化や仏教の地位確保などが定められました。当然タミル人は反発し、両者の争いは内戦へと発展していきました。1983年には当時の首都コロンボでも大規模な武力衝突が発生し、治安が悪化。時の大統領ジャワルダナは、一計を案じて首都の移転を決断します。
その際白羽の矢が立ったのが、旧王都のコッテでした。コロンボと比べ人口が少なく、治安も比較的良かったこの街は、新首都としてうってつけでした。大統領は移転と同時にこの都市の名前を「輝けるジャワルダナの街コッテ」という大仰なものに変えました。しっかり自分の名前を入れているあたりが、政治家らしい彼の性格をよく表しています。
こうして現在のスリジャヤワルダナプラコッテが誕生しました。とはいえ、現在でも実質的なスリランカの中心は、最大の人口を持つ旧首都コロンボで、スリジャヤワルダナプラコッテはどこか、のどかな雰囲気を残す街となっています。