10世紀~権力者への挑戦~

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キリスト誕生から1000年が経とうとしていたこの時代。東では中国の巨大王朝だった唐が消滅し、西ではアッバース朝のカリフが「飾り物」のような存在となっていきます。これに対し既存の権力者へ果敢に挑んだのは、それまで支配下の地位にあった「地方政権」でした。
日本
日本では、藤原氏を中心とした貴族が摂政、関白となって政治を動かすようになります。彼らは自身の娘を天皇に嫁がせ、その子供を新しい天皇に据えました。すると自分は天皇の祖父になり、大きな権力を手にすることができます。幼い天皇に代わって政治を執り行う官職を摂政です。一方関白は、成人した天皇の政治を補佐する官職ですが、実際は補佐というより、政治の中枢を担っていました。藤原氏はこれらの地位を独占します。
一方地方では、受領と呼ばれる役人が派遣され、税を取り立てていました。しかし彼らの中には、京の都から遠いのをいいことに、勝手に税を水増しして懐に入れるなど、不正を働く者も少なくありませんでした。こうした不正に対抗する手段として、領主達は自分の土地を、役人より偉い貴族に寄進(差し出し)して、守ってもらう方法がありました。こうして貴族の私有地、荘園が増えていきます。そしてこうした土地を守るために、武装した勢力も出現。これが武士のはじまりだと考えられています。
その最も有名な例が、平将門です。930年頃、坂東(今の関東)を治めていた彼は、受領と対立の上、反乱を起こします。ついには「新皇」を名乗り、教徒の政権にも牙をむきました。反乱自体は短期間で鎮圧されてしまうものの、彼の登場は後の武士の世を予感させる出来事でした。

中国
黄巣の乱で揺れ動いた唐は、907年節度使の朱全忠により滅ぼされます。しかし彼の政権も不安定で、10世紀半ばまでに短命な5つの王朝が興亡しました。これとは別に、中国南部には10か国もの小国が現れては消えていきました。ゆえにこの期間は「五代十国時代」と呼ばれています。
中国が分裂で混乱している隙を狙って、中国北東部にいた契丹が拡大。そのトップだった耶律阿保機が皇帝を名乗り、後に「遼」と呼ばれる王朝を建てました。926年には朝鮮半島北部に位置していた渤海も、契丹によって滅ぼされました。
936年、五代の一つ後晋は、国内安定の見返りとして、現在の北京周辺にあたる地域、燕雲十六州を契丹に譲りました。これは中国人から見て、万里の長城よりも「手前」に当たります。この出来事は、契丹をはじめとする遊牧民が、農耕地帯の中国に進出するきっかけとなりました。
中国の再統一は、趙匡胤の開いた宋(北宋)によって進められ、979年2代目皇帝太宗(もちろん唐の太宗・李世民とは別人)に完成します。
宋では、唐の時代に勢力を張った節度使(軍人)に代わり、科挙(官僚試験)の合格者を官僚として重んじました。ゆえに宋は文治主義の国と呼ばれていますが、それでも軍事力をは世界屈指のレベルでした。
中国南部、現在の雲南地方には、大理国という国が成立。ここでは白くて良質な石が産出され、特産品となりました。ご存知、大理石です。
朝鮮半島
唐の崩壊と機を同じくして朝鮮半島でも王朝の交代がありました。新羅はすでに弱体化しており、この国に征服された高句麗と百済の末裔が、各々の祖国を復活を望んで後高句麗、後百済を建設。このうち、後高句麗の王建は国名を高麗とし、935年新羅から王位を奪ってこの国を滅ぼしました。高麗は翌年に後百済も征服し、朝鮮半島を再統一しました。
高麗は949年第4代国王となった光宗によって安定に向かいます。新羅から高麗に至る戦乱期、捕虜となった人々が豪族によって奴婢(奴隷)にされる事態があちこちで起きていました。光宗はこれに対し奴婢按検法を出して、不当に奴婢にされた人々を解放します。更に958年には中国式の科挙を導入。962年、北宋と朝貢関係を結んでその地位を保証してもらいました。一連の政策で、高麗王室は豪族の力を抑え込むことに成功します。
以後高麗における官僚制は定着。朝鮮半島における官僚は、文班(行政担当)、武班(軍事担当)に大別され、合わせて「両班」と呼ばれるようになります。976年には彼らに土地を与える「田柴科」の制度が始まりました。
東南アジア
唐から新たに独立した国もありました。現在のベトナムです。ベトナムは紀元前1世紀以来、約1000年に渡って中国の支配下にありましたが、その間インドシナ交易の中継地として重要な地となり、10世紀、ついに自立を果たしました。
当時ベトナム人は自らを「越」と呼んでおり、皇帝を名乗った丁部領は、国名を「大瞿越」としました。ただしこの国名は短命で、11世紀初めには「大越」と改められます。
カンボジアでは、アンコール朝が分裂と再統合を繰り返しながら、少しずつその支配域を広げていきました。
インドネシアのジャワ島では、サンジャヤ王家のマタラム王国がこの島を統一します。火山の噴火などもあり、928年に王都が島の東部、クディリに遷ったことから、以後はクディリ朝と呼ばれています。クディリ朝は北宋と朝貢関係を結ぶ一方、インドで生まれた叙事詩『マハーバーラタ』がジャワ風にアレンジされるなど、中国とインド双方と関係を築きていきます。
スマトラ島とマレー半島に挟まれたマラッカ海峡一帯には、多くの港町が形成されていきました。この港町(港市国家)の連合体は、中国の書物に「三仏斉」の名で記されています。この国かつて同じ場所に存在したシュリーヴィジャヤが復活したものとされて来ましたが、現在では異論も多く、はっきりしたことは分かっていません。
中東・イベリア半島
バグダッドを都に置くアッバース朝。その君主は、イスラム教の最高指導者でもあるカリフという地位の人物でした。
しかし10世紀、アッバース朝のカリフは力を失い、連動して2つの動きが生じます。一つがカリフを「飾り物」にして裏で権力を握る王朝が出現したということ。ペルシャ系のブワイフ朝は、10世紀半ばにバグダッドへ侵攻し、カリフに代わって政治を執り行うようになりました。ちなみにアッバース家はイスラムのスンニ派なのに対し、ブワイフ家はシーア派で、徐々にこの違いが内紛を引き起こす事にもなりました。
もう一つが、カリフを名乗る人物が複数現れたことです。北アフリカに興ったファーティマ朝は、ブワイフ家よりも厳格なイスラム教シーア派、イスマーイール派の開いた王朝で、その君主はスンニ派であるアッバース家の支配に対抗するように、自らカリフを名乗りました。そのひとりムイッズは、10世紀後半に実り豊かなエジプトを征服し、同時期建設されたカイロを中心に、大王朝となっていきます。
イベリア半島(現スペインなど)には、8世紀に滅ぼされたウマイヤ家の生き残りが逃れ、後ウマイヤ朝としてアッバース朝に対抗していました。10世紀にはヨーロッパの安定化と共に、交易が活発になり、その都コルドバは大いに繁栄します。
その繁栄を背景に、時の君主アブド・アッラフマーン3世もまた自らカリフを名乗るようになりました。こうしてイスラム世界に3人のカリフが並び立ち、その分裂(地方の自立)はもはや歯止めの利かない状態となっていきます。

中央アジア
イスラムは、当時中央アジアに暮らしていたテュルク(トルコ)系の人々にも浸透し、テュルク系のイスラム王朝が生まれます。カラハン朝はその最初の王朝とされ、999年にはイラン系のサーマーン朝を打倒し、中央アジアの覇者となります。
バルカン半島
東欧でもビザンツの皇帝に対し、自ら皇帝を名乗った人物が出現しました。当時バルカン半島の強国だった、ブルガリア王国です。
9世紀末ブルガリア王に即位したシメオン1世は、ビザンツ帝国を圧倒する力を見せ、バルカン半島南部の大部分をこの帝国から奪い取ります。更に913年攻め込んだビザンツの帝都コンスタンティノープルで「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を名乗りました。
ビザンツとブルガリアは、政治的には戦いを繰り返していた一方で、経済的な結びつきは強まりました。多くのものや情報が行き交う中、ブルガリアでも文化的な発展がみられ、文学のスラヴ語訳が多数作られていきます。しかし戦争を繰り返した代償は大きく、927年のシメオンの死後、ブルガリアは急速に衰退していきます。
そのビザンツ帝国は、9世紀後半に即位した皇帝の出身地から、マケドニア朝と呼ばれる時代を迎えていました。歴代の皇帝は、アッバース朝やブルガリアの拡大が止まった10世紀前半頃から、国内の立て直しを進めます。その中で法律文や地理書、歴史書が作られ、更には古代ギリシャ人の文学や思想にも光が当たりました(マケドニア・ルネサンス)。軍事面でも反撃が始まり、10世紀後半にはシリアやキプロスなどをイスラムから奪還しました。
西ヨーロッパ
西ヨーロッパではヴァイキングの活動がまだ続いていました。ヴァイキングの一派であるノルマン人、その首領だったロロは、西フランク王国との取引の結果、略奪をやめる代わりに北部に領地を得て、民族の名を採ったノルマンディー公国を開きます。ノルマンディー公国は形式上、西フランク王国の配下の国という扱いでしたが、事実上独立国のようなものでした。
その西フランク王国は、10世紀末フランク族の王家が絶え、ユーグ・カペーに王位が受け継がれます。一般にはこのカペー朝の頃から、フランス王国と呼ばれるようになります。
東フランク王国でも10世紀初頭にフランク族の王が断絶。ザクセン家が王位を継ぎますが、こちらは後のドイツの原型となります。
ザクセン家のオットー1世は、951年中部フランク(イタリア)の王位も手に入れ、更に955年には、当時ヨーロッパで猛威を振るっていた遊牧民マジャール人をレヒフェルトの戦いで破りました。962年オットーは、イタリアに再度進出し、フランク王国分裂以来あいまいになっていた「ローマ帝国」の正式な後継者、つまりローマ皇帝となります。
以後、彼の国は神聖ローマ帝国と呼ばれ、その領地は現在のドイツ、オーストリア、スイス、オランダ、チェコ、イタリア北部などに及びました。しかし肝心のローマは教皇の領地だったため、皇帝は度々、ローマ教皇を操ろうと口を出すようになっていきます。
東欧・北欧
「西ヨーロッパ」で触れたとおり、当時ヨーロッパには遊牧民のマジャール人が大きな勢力となっていました。現在のチェコ、スロバキアに当たる地域には、西スラヴ系のモラヴィア王国が成立していましたが、906年マジャール人の首領アールパードが侵攻し、この国は崩壊し、東部(現スロバキアなど)はマジャール人の支配下となります。
西スラヴ系のプシェミスル家は現チェコ西部にて王国を再建。ボヘミア王国(当初は公国)と呼ばれます。しかしそのままでは心許ないため、ボヘミアはオットー1世の保護下に入り、962年神聖ローマ帝国ができると、その構成国となりました。
マジャール人は955年レヒフェルトの戦いに敗れ、神聖ローマ帝国との関係を改善。その中で馬を降り、キリスト教を受け入れていきました。1000年イシュトヴァーン1世は正式にキリスト教の国王として認められ、ここにハンガリー王国が成立しました。

10世紀はこのマジャール人(ハンガリー人)のように、キリスト教が”異民族”にも広がった時期でもありました。西スラヴ系のポラニエ族ミェシコは966年それぞれカトリックに改宗。この国はポーランドの原型となります。
これはヴァイキング達も同様でした。先述のノルマンディー公国のほか、デンマークではハーラル青歯王という人物が10世紀後半に洗礼を受けます。彼はデンマークを初めて統合した事でも知られており、その業績がデジタル機器「bluetooth」の語源となりました。
ノルウェーでも10世紀半ばにホーコン善王がカトリックを受け入れます。そして当時ノルウェー領となっていたアイスランドにも、入植者を通じてカトリックが広まりました。なお、10世紀末に罪を犯し赤毛のエイリークという人物は、ノルウェーを追われた先で新天地を発見。彼はこれを「グリーンランド」と名付け、アイスランドと同様に入植を促しますが、実際にはアイスランドよりもグリーンは少なく、アイスの多い土地でした…
一方9世紀末にノヴゴロド、キエフなどに国を築き始めた、東スラヴ系のルーシは、ビザンツ帝国と経済的に結びつきが強かったこともあり、同じキリスト教でも東方正教を受け入れています。978年即位したキエフ・ルーシの大公ウラジミル1世は、10世紀末に東方正教を国教化。彼らもまたキリスト世界の仲間入りを果たしました。
~主な出来事~
906 マジャール人アールパード、モラヴィア王国滅ぼす(東欧)
907 唐滅亡(中国)
909 ファーティマ朝成立(北アフリカ)
911 ノルマン人の君主ロロ、フランス北部にノルマンディー公国建設(西欧)
913 シメオン1世皇帝を自称。第一次ブルガリア王国最盛期に(バルカン半島)
916 中国北部に契丹族の遼成立(東アジア)
925 クロアチア王国成立(バルカン半島)
926 契丹により渤海滅亡(東アジア)
929 アブド・アッラフマーン3世、カリフ名乗る(イベリア半島)
930頃 平将門の乱(日本)
935 高麗の王建、新羅から王位を奪う(朝鮮半島)
936 契丹、燕雲十六州得る(東アジア)
937 雲南地方に大理国成立(東アジア)
945 ブワイフ朝、バグダッドに入り、カリフから統治権を得る(西アジア)
955 レヒフェルトの戦い(西欧)
960 趙匡胤、宋建国(中国)
962 オットー1世戴冠 神聖ローマ帝国成立(西欧)
966 ポーランドのミェシコ1世、キリスト教改宗(東欧)
966 丁部領、大瞿越国建国(ベトナム)
972 カイロにアズハル大学設立(エジプト)
982 赤毛のエイリーク、グリーンランドに到達(北欧)
987 カペー朝フランス王国成立(フランス)
989 キエフ公国のウラジミル1世、東方正教に改宗。(ロシア・ウクライナ)
999 カラハン朝、サーマーン朝を滅ぼす(中央アジア)
1000 イシュトヴァーン1世即位。ハンガリー王国成立(東欧)
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