2世紀~ローマの平和と紙と仏像~

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洋の東西で栄光を誇ったローマと漢。両者は2世紀になっても繁栄を続けていましたが、2世紀も末になる頃には不安定な時代を迎えることになります。
ヨーロッパ
1世紀の末、皇帝に即位したネルヴァ帝から始まるローマ五賢帝時代は、この帝国に最盛期をもたらしました。パクス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる時代です。ネルヴァを継いだトラヤヌスは、ダキア地方(現ルーマニア)やアルメニアを征服し、帝国の最大版図を実現。
3代目ハドリアヌスはその広大な帝国をくまなく視察し、皇帝の権威を知らしめるとともに、古代ギリシャの文化、思想をローマに導入しました。4代目アントニヌス・ピウスは温厚な人物で、対外戦争を行わずに長期の平和を維持。
5代目マルクス・アウレリウス・アントニヌスは哲学者でもあり、『自省録』など優れた哲学書を残しました。しかしその後は優秀とはいえない皇帝が続き、また、属州の地位にあった地方が経済的に発展してきたことから、中心地ローマの絶対的な地位が揺らぐことになっていきます。
他方、ローマ帝国の圧力に不満を感じていたのがイスラエルのユダヤ人。しかし132年に反乱を起こした結果、エルサレムを出入り禁止にされてしまいました。この後ユダヤ人は新たな理想郷を目指し、世界各地に拡散していきます。いわゆるディアスポラと呼ばれる動きです。
東アジア
後漢では2世紀初頭、政治家蔡倫によって画期的な発明品が世に生み出されました。実用的な「紙」の出現です。以後、紙は東アジアを中心に広まり、8世紀には西アジアにも伝わって羊皮紙やパピルスに取って代わっていきました。
この頃の中国では宦官(去勢された官僚。蔡倫も宦官だった)が皇帝に代わって政治を執り行うようになり、従来の外戚との対立が激化。
160年頃には党錮の禁と呼ばれる宦官弾圧事件も起きています。農民社会も相次ぐ天災で荒廃し、不安を抱えた人々が新興宗教にすがるようになります。この一つが黄巾の乱という大規模な農民反乱を起こし、後漢社会を混乱させていくことになります。
東西交易とインド
パクス・ロマーナの中、東西交易は益々盛んになっていきました。166年には、マルクス・アウレリウスの使者と思しき人物が漢の都洛陽にまでやって来たという記録が残されており、両者を結ぶ交易路=シルクロードが整備されていたことが分かります。
インドのクシャーナ朝はシルクロードの経由地であり、2世紀前半、カニシカ王の時代に最盛期を迎えました。カニシカは仏教を手厚く保護したため、この宗教はインドの広範囲に伝わりました。特にインド北西部のガンダーラ地方では、古代ギリシャから伝わった石像美術が仏教と出会ったことで仏像を始めとする仏教美術が花開きました。
東南アジア
交易路には、インドから中央アジアを経由する、いわゆるシルクロードとは別に、インド洋~東南アジアを経由する「海のシルクロード」というものもありました。この為、熱帯雨林に覆われた東南アジアにも港町が形成され、やがては国へと発展していくことになります。カンボジアの扶南はその代表的な国でした。
~~主な出来事~~
2世紀初頭 インドシナ半島南部に扶南成立(インドシナ)
105 蔡倫、製紙法開発(中国)
117 ローマ帝国の領域最大となる(ローマ)
128? クシャーナ朝でカニシカ即位(インド・中央アジア)
135 ローマ軍、ユダヤ人の反乱鎮圧、エルサレムから締め出す。ユダヤ人のディアスポラ本格化(ローマ・西アジア)
156 遊牧民鮮卑、檀石槐の元で統一(東アジア)
166 党錮の禁(中国)
184 黄巾の乱(中国)
192? インドシナ東部にチャムパ王国成立(東南アジア)
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