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7世紀~イスラムの誕生と唐の繁栄~The Birth of Islam and the Prosperity of the Tang Dynasty

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7世紀の世界

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 7世紀は大きな変革の時代でした。中国ではが成立し、東アジア世界にも大きな影響を与えました。日本でも大化の改新が始まり、天皇中心の本格的な国が築かれました。しかし何といっても最大の変化は、西アジアでイスラム教が誕生したことでしょう。

西アジア

 西アジアではビザンツ帝国が西側を、ササン朝ペルシャ帝国が東側に勢力を張り、互いに覇権を争って戦争を繰り返していました。その結果7世紀初頭には両国とも疲弊し、西アジアで権力の空白が生じていました。あら日は半島の宗教都市メッカで生まれ育った商人ムハンマドが”神の啓示”を受けてイスラム教を開いたとされるのは、ちょうどこの頃(610年頃)のことと言われています。

 この後メッカで迫害を受けたムハンマドとその信徒たちは、メッカより北にあるメディナへ逃れてイスラムの共同体(ウンマ)を立ち上げました。これをヒジュラ(聖遷)といい、ヒジュラのあった西暦622年は、イスラム暦の元年となっています。メディナで名声を得たムハンマドは、630年メッカの制圧に成功。カーバ神殿にあった石像を破壊して、イスラムの聖地としました。

 砂漠で遊牧生活を送っていたアラブ人はこの業績を耳にし、ムハンマドと主従関係を結びます。しかしムハンマドが632年死去すると、契約は切れたとウンマから離脱する者が続出。ムハンマドを継いだカリフ(イスラムのトップ)たちは、アラビア半島より豊かな地への征服活動によって、これを防ごうとしました。

 この時代から見ても3000年以上文明を築いてきたメソポタミア(イラク)やシリア、エジプトなどは、砂漠だらけのアラビアより魅力的な土地で、630年代ラクダに乗ったアラブ戦士たちはこぞってこれらの地に侵入。東側では642年のニハーヴァンドの戦いで、弱体化していたササン朝に勝利。メソポタミア地方を征服します。首都を失い、ガタガタになったササン朝は、651年滅亡しました。西側ではビザンツ帝国の支配下にあったシリア、パレスティナ、エジプトなどを7世紀半ばに奪い、やっぱり大勢のアラブ人がここへ移住していきます。

 

 同じ頃、ムハンマドの教えが聖典としてまとめられました。これがコーランです。コーランはアラビア語で書かれていたこともあって、イスラムとともにアラビア語もまた、イラクやエジプトへと広まっていきました。

 7世紀後半になると、今度はイスラム共同体の内部でも権力や政策をめぐる争いが激化。その最大のものは、4代目カリフとなったアリーと、シリアに拠点を置いていたウマイヤ家のムアーウィアの対立でした(第一次内乱)。660年ムアーウィヤはダマスカス(ダマスクス 現シリア共和国の首都)でカリフを名乗り、ウマイヤ朝を開きます。

 その後の戦いで不利となったアリーは翌661年暗殺されますが、ここでイスラム教徒はウマイヤ朝のカリフを支持する人々と、アリーとその後継者を正統なカリフとする人々に分裂しました。この出来事が現在も続く、スンニ派シーア派の二大宗派に繋がっていきます。

東アジア

 7世紀初頭、中国はずい王朝の時代でした。日本では蘇我氏と手を結んだ聖徳太子しょうとくたいしが、小野妹子おののいもこを隋に派遣し、当時の皇帝、煬帝ようだい謁見えっけん。この時に渡した文章が、「日出ひ いずる国の天子日没ひ ぼっする国の天子へ挨拶申し上げます。」(訳:日が昇るように成長中な、東の国の「皇帝」(=中国の皇帝と同じ立場)が、最近落ち目な西の国の皇帝へ挨拶しますよ。)というものだったため、煬帝が怒ったというエピソードは有名です。

 しかし実際のところ煬帝は、長江黄河を結ぶ大運河を建設した際に民衆に重い負担を課し、朝鮮半島の高句麗こうくりへの攻撃に失敗するなどして支持を失っていました。そして618年、酷使された農民が反乱を起こして隋は滅亡。李淵りえん李世民りせいみん親子によりとうが開かれました。2代目李世民太宗たいそうは、優れたブレーンを持ち、後の中国王朝にも通じる官僚制度を整えた名君と評されており、その治世は貞観じょうがんとして知られています。唐はこの先300年近く続くことになります。

 話を日本に戻すと、聖徳太子は国内でも活躍。位の上下をわかりやすくした冠位十二階かんいじゅうにかいの制」や、平和な社会を目指す心構えをまとめた「十七条の憲法」はとくに有名です。仏教を重んじた彼は晩年に法隆寺を建立しますが、これは現存する世界最古の木造建築として有名です。

 聖徳太子は622年に没し、彼のパトロン推古すいこ天皇も628年に崩御します。すると、蘇我氏が再び強大化し、天皇家の危機を感じた皇族の中大兄皇子なかのおおえのおうじは、部下の 中臣鎌足なかとみのかまたりらとともに、645年クーデターで彼らを滅ぼしました。以後、天皇家を中心とした国づくりが始まりますが、これを大化たいかの改新と呼びます。

 その国家建設には唐の制度が大きく取り入れられ、それを学ぶための使節、つまり遣唐使が盛んに送られました。地方の有力者(豪族)は天皇の配下とされ、土地をすべて没収された後、役人として朝廷から給料をもらう立場となります(班田収授法はんでんしゅうじゅのほう)。また、一連の改革で中大兄皇子(即位後は 天智 てんじ天皇)を支えた 中臣鎌足は、晩年に「藤原」という姓をたまわり、藤原氏繁栄のいしずえとなりました。

 この頃朝鮮半島は三国時代にピリオドが打たれます。隋の攻撃を防いだ高句麗は、続く唐の出現にも対応を迫られました。この結果642年淵蓋蘇文ヨン・ゲソンムンがクーデターで事実上の統治者となり、独裁を敷きました。一方の新羅しらぎは唐との関係を強化し、花郎ファラン出身の軍人金庾信キム・ユシンら名将の活躍もあって660年ついに百済くだらを打倒しました。

 同盟国の日本に亡命した百済勢力は再起を図り、日本軍と共に新羅・唐軍と戦いましたが、663年白村江はくすきのえの戦いで敗北し、百済復活の夢は潰えました。新羅は文武ムンム治世の668年、残る高句麗(淵蓋蘇文はすでに死去)も滅ぼし、史上初めて朝鮮半島を統一します

 同じ668年、日本では天智天皇が死去し、その弟と息子の間で権力争いが生じました。672年壬申じんしんの乱で勝利して即位したのが、弟の天武てんむ天皇でした。「日本」という国名や「天皇」という地位の名前が実際に使われるようになるのは、彼の時代からと考えられています。

 こうして新たな段階に入った日本と新羅ですが、どちらの国にとっても巨大な唐の存在は無視できないものでした。日本は白村江の戦いでのトラウマから、大陸に近い九州北部の防衛を固める必要に迫られました。これが防人さきもりで、8世紀以降本格化されますが、兵士として駆り出される農民にとっては重い負担となりました。

 新羅では、統一したばかりの朝鮮半島を唐が支配しようとしたため、やっぱり争いに。新羅は唐の軍をなんとか撤退させますが、これ以上の関係悪化を防ぐために、唐の属国として貢物などを送るようになりました。これを冊封体制さくほうたいせいと呼びます。

 唐はほかにも東南アジアや中央アジアの国とも同様の関係を結び、東アジアの親分的存在となりました。そして都の長安から遠く離れたこれらの地において監視役や、貿易拠点の役割を果たしたのが「都護府」とごふと呼ばれる機関でした。例えば中国より南ににらみを利かせた安南都護府は、現在のベトナムに置かれています。

 唐という巨大王朝が出現したことで、シルクロードを経由した交易も更に盛んになります。この往来を担ったソグド人は、唐でも「胡人」として活躍。高級官僚になった者もいました。この時代にはゾロアスター教なども西から中国に伝わっています。

東南アジア・インド・チベット

 インドではバラバラな状態が続いていましたが、7世紀にはハルシャによるヴァルダナ朝が強大化し、北インドを統一しました。中国の仏僧玄奘げんじょうもこの王の歓迎を受けています。玄奘がインドまで修行に行った記録が、後に『西遊記』の元となりました。7世紀後半には同じく中国の仏僧義浄ぎじょうがインドを訪れ、この地で修行していますが、彼が訪れた時にはすでにハルシャ王は没しており、ヴァルダナ朝も崩壊していました。

 なお、玄奘や義浄がやって来た頃のインドでは、仏教はすでに衰退傾向にあり、ヒンドゥー教が代わって社会に根を下ろしていました。インドで仏教を信じていたのは、主にクシャトリヤ(貴族)層が中心で、それに対しヒンドゥー教は人口では多数派の庶民の間で人気があったからです。特に南インド(当時はチャールキヤ朝パッラヴァ朝などが繁栄)では、ヒンドゥーの神様にトコトンすがることで救いを求める「バクティ運動」が盛んになっていきました。この動きは時間をかけて北インドにも広まっていきます。

 ヒマラヤ山脈のチベットでは、吐蕃とばんという国がソンツェン・ガンポ王の元で大きくなります。彼は唐の皇帝太宗や、ネパールの君主アンシュ・ヴァルマーとの婚姻関係でつながり、中国やインドの文化を吸収していきました。

 

 そのアンシュ・ヴァルマーが治めたネパールリッチャヴィ朝も、インドとチベットの中継地として栄え、仏教文化、ヒンドゥー教が開花しました。リッチャヴィ朝の最盛期です。

 海のシルクロードを経て発展してきた東南アジアにおいては、多数の港町(港市国家)が出現していました。特にマラッカ海峡では、海峡の両岸にあった都市がまとまり、より大きな国になっていきます。このシュリーヴィジャヤは、現在のマレー半島とスマトラ島にまたがる国で、海を挟みながらも一つの世界を造り上げていきました。前述の義浄も、行きと帰りにシュリーヴィジャヤの都パレンバンを訪れています。

 インドシナ半島では、それまで中国とインドとの中継貿易を担っていた扶南ふなんが衰退。代わってこの地にはクメール人の王国、すなわちカンボジア王国が台頭してきます。なお、この国は当時の中国(唐)の文書に真臘しんろうという名前で出てきます。

ヨーロッパ

 中部~東ヨーロッパでは、ゲルマン民族の争いに輪をかけるように遊牧民アヴァールの侵入が続き、ヨーロッパ内陸部に大帝国を築きます。彼らにくっつくような形でスラヴ人が入ってきます。現在のポーランドやチェコ、セルビアなどで多数派となっている人々です。7世紀末に入ってきた遊牧民ブルガール族も、スラヴ文化を受け入れ、後にバルカン半島の強国となるブルガリア王国を築きました。

 アヴァールはまた、一時的にビザンツ帝国の都コンスタンティノープルをも包囲しましたが、皇帝ヘラクレイオスによって撃退されました。ヘラクレイオスは、北ではアヴァールと戦い、南ではササン朝と戦っていました。630年代苦心の末ササン朝からシリア地方を取り戻した彼はしかし、すぐに新興勢力イスラムの攻撃を受け、取り戻したばかりのこの地を手放すことになります。

 西ヨーロッパでは、メロヴィング朝フランク王が最大の国でしたが、フランク人の間には複数の息子がいれば財産を均等に相続させるという風習があり、その結果分裂と統合を繰り返していました。イタリア北部ではゲルマン系ランゴバルト王国が拡大し、ローマ教皇やビザンツ帝国を脅かしました。

 イベリア半島はゲルマン系西ゴート王国のもとにありました。しかしこの地に住む多くの住民は、ローマ時代から続くラテン系の人々。支配層のゲルマン人と現地住民のラテン人との間には別々の法律が使われるなど長い間溝がありました。これに対し654年、時のレケスウィント王が出した西ゴート法典は、両住民に同じ法律を適用するもので、これは両者の差が薄れていた時代背景を反映したものでした。しかし西ゴート王国の命運は間もなく尽きることとなります。イスラム勢力は7世紀末このイベリア半島のすぐ近くにまで来ていたからです。

~主な出来事~

604 聖徳太子、十七条の憲法を制定(日本)

607 小野妹子、隋の皇帝煬帝のもとへ派遣(日本/中国)

610頃 ムハンマド、イスラム教開く(西アジア)

612 ヴァルダナ朝のハルシャ、北インド統一(インド)

618 隋滅亡 唐成立(中国)

622 ムハンマド、メッカで迫害激しくなり、メディナへ亡命(ヒジュラ)(西アジア)

626 唐で太宗(李世民)即位。貞観の治始まる(中国)

629 玄奘、インドへ向けて長安を出発(アジア) 

629 吐蕃でソンツェン・ガンポ即位(チベット)

630 ムハンマド、メッカ制圧。アラビア半島の諸部族を従える(西アジア)

632 ムハンマド没(西アジア)

642 イスラム、ニハーヴァンドの戦いでササン朝を破る(西アジア) 

642 淵蓋蘇文が高句麗の実権を握る(朝鮮半島) 

645 大化の改新始まる(日本)

651 ササン朝滅亡(西アジア)

660 新羅が百済を滅ぼす(朝鮮半島)

661 ムアーウィアによりウマイヤ朝成立(中東)

663 白村江の戦い 新羅・唐連合軍、日本・百済軍を破る(東アジア)

672 壬申の乱 天武天皇が即位(日本)

676 新羅の文武王、朝鮮半島統一(朝鮮半島)

681 アスパルフ、第一次ブルガリア王国建国(東ヨーロッパ)


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