6世紀~復活する大帝国~

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6世紀の世界を一言で言うのは難しいのですが、衰退の色を見せていた西アジアの帝国が復活した点、中国の分裂時代がようやく終わりを告げた点、他方ヨーロッパではまだまだ混迷が続いていた点などが挙げられます。
もくじ
東アジア
中国
中国は長年続いた南北朝時代に終わりが見えてきます。北朝の北魏は、元々北方の遊牧民である鮮卑が開いた王朝でしたが、この国を5世紀末まで統治していた孝文帝は、漢民族の文化を積極的に取り入れていました。
しかしこの結果漢民族が官僚として重んじられ、一方で多くの遊牧民は冷遇されます。こうした不満を持つ人々は523年六鎮の乱を起こし、これがきっかけで北魏は534年に分裂(西魏、東魏)。更にこの2つの王朝もそれぞれ別の一族に乗っ取られてしまい、新たに北斉、北周が成立。577年には、北周が北斉を倒して北朝を統一しますが、北魏のような安定した政権を続けるには至りませんでした。
南朝では前半が梁、後半が陳の統治するところとなります。梁の武帝は、南朝の皇帝で最も長く皇帝の地位にあった人物(502~549年)で、南朝のひとつの頂点でした。彼の皇子昭明太子は、南北朝時代の名文学を『文選』にまとめ上げるなどの業績をのこしています。
この時代、インドで衰退していた仏教が中国では隆盛。ダルマのモデルとなった達磨大師がインドから梁王朝へやってきて、禅宗を伝えました。しかし武帝の退位後は梁も力を失い、続く陳王朝も弱小国家でした。
581年北朝の北周から帝位を奪って隋を建てた楊堅(文帝)は、589年に陳を滅ぼして、西晋以来265年ぶりに中国全土を統一しました。
都を長安の一角(大興城)に置いた文帝は、中央から官僚を派遣する州県制を敷き、また貴族の力を抑えるべく、試験で官僚を採用する制度、すなわち「科挙」を導入しました。隋における科挙はまだ部分的なものでしたが、時代とともにそのウェイトは大きくなっていきます。
朝鮮
朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅の3か国が出揃い、各々が国力を高めていきます。
5世紀後半、王都漢城(現ソウル)を高句麗に奪われた百済は、新都の 熊津にて502年に即位した 武寧王の元で再建されます。武寧王は自分の王族に地方を統治させることで、国内の統合を進め、自分に権力を集中。また、高句麗との対抗上、同盟国日本との関係を緊密化しました。
523年武寧王を継いだ 聖王は、538年に 泗沘(現 扶余)に都を遷し、高句麗との戦いに備えました。すでに仏教が広まっていた百済から、日本へ仏教が伝わったのも538年頃とされます。
後に朝鮮半島最大勢力となる新羅は、503年に 斯盧から国名を変更されて誕生します。514年新羅王となった法興王は、武寧王と同様に自らに権力を集中させ、国内を強化。花郎というエリート軍人も彼の時代に生まれたと考えられています。外交面では中国の南朝(当時は梁王朝)との関係を重視しました。527年には中国経由で伝わった仏教を受け入れ、王都慶州にも多くの寺院を築きました。
540年即位した真興王は、共通の敵である高句麗と戦うため、百済の聖王と同盟。551年百済の旧都である漢城を奪還しますが、間もなく新羅側がこの街を奪い取ってしまいました。更に新羅は南部の加耶諸国にも進出し、562年までにこれを併合しました。
日本
日本ではこの頃、ヤマト政権が九州の大勢力だった磐井を倒すなどして、全国の統一を進めていました。それと同時に大陸の国から多くの渡来人を受け入れていきました。前述のとおり538年頃には、朝鮮半島でも特に友好関係にあった百済から日本に仏教が伝わります。しかし日本には古来より神道という宗教があり、仏教の受け入れには朝廷内でも意見が分かれます。
この結果、朝廷内の有力豪族、蘇我氏(親仏教)と物部氏(反仏教)の権力争いと結びつき、騒乱が起こります。この争いは蘇我氏の勝利に終わり、その当主 蘇我馬子は、敵対した 大王を暗殺するなど、強権をふるいました。593年推古天皇が即位。史上初の女性天皇(大王)です。彼女をサポートすべく摂政となったのが、厩戸皇子こと聖徳太子でした。聖徳太子は蘇我馬子と協力し、時に敵対しながら、ヤマト政権を支えていくことになります。

モンゴル・中央アジア
モンゴル高原を支配していた遊牧民柔然は、6世紀に入る頃には衰退し、別の遊牧民にとってかわられていきます。その一派は中国の文献で「突厥」あるいは「鉄勒」と記され、これが「トルコ」の語源ではないかと考えられています。突厥は555年に柔然を滅ぼし、草原を経て中央アジアまでを支配しました。最盛期の6世紀後半に突厥の範囲はモンゴル高原からイランに至る広大ものとなったため、間もなく東西に分裂しました。
なお、突厥は独自の文字を持っていましたが、この突厥文字の元となったのが、現在のウズベキスタン、タジキスタン周辺に住んでいたソグド人の用いるソグド文字でした。ソグド人は大きな国を築くことはなかったものの、古くからシルクロード交易に積極的に関わり、多くの商品とともに文化、思想、宗教などを東西に伝えました。
西アジア
当時のイラン周辺にはまた、遊牧民エフタルも強い勢力を保っていました。エフタルはインドのグプタ朝を滅ぼし、当時中東一帯を支配していたササン朝ペルシャに対しても貢ぎ物を要求するなど、ペルシャ王にとっては悩みの種でした。そこに現れたのが新興勢力の突厥。ササン朝は558年に突厥の君主木杆可汗と手を組み、6世紀半ばにエフタルを壊滅させます。これを成し遂げたのが、ササン朝随一の名君、ホスロー1世でした。彼の時代領地も広がり、多くのペルシャ風美術も発展しています。
一方、ササン朝には西側にも宿敵がいました。東ローマ帝国です。この帝国に対しては、後述のユスティニアヌス1世と何度か激突。この時双方が傭兵として雇ったのが、イスラム教誕生前夜の遊牧民アラブ人でした。しかし560年頃に両者は講和条約を結んで、お互いの支配域を確保しました。数十年後これが破られた時、ササン朝は滅亡への第一歩を踏み出すことになります。

イエメン・エチオピア
アラビア半島南端のイエメンでは、紅海を経由した貿易により、ヒムヤル王国が栄えていました。繰り返しになりますが、6世紀にはまだイスラム教は誕生しておらず、アラブ人もキリスト教やユダヤ教、伝統的な宗教を信仰していました。この頃はヒムヤル国内に様々な宗教、様々な宗派の人が混在していたというワケです。
紅海を挟んだ対岸(アフリカ大陸)にはキリスト教系のアクスム王国(現エチオピア)が拡大を続けており、ヒムヤルの王位にも口を出すようになっていきました。6世紀初め、アクスム王国のテコ入れでキリスト教徒のヒムヤル王が誕生すると、これに反発したユダヤ教徒のズー・ヌワースが反乱を起こし、522年ヒムヤルの王位を奪います。彼は王国内のキリスト教徒を多数殺害したため、怒ったアクスム王国が525年侵攻し、ズー・ヌワースを打倒。紀元前から続いていたヒムヤル王国はこれをもって事実上崩壊しました。
ところが560年代になると、アクスムの支配を嫌う人々から依頼されたササン朝が侵攻し、アクスム勢力をアラビア半島から追い出しました。こうしてイエメンは、ササン朝の支配下に入ることになります。
東ヨーロッパ
現在のバルカン半島、ギリシャ、トルコ、イスラエル、シリア、エジプトなどを支配していた東ローマ帝国は、キリスト教の大国でした。5世紀にはゲルマン人の侵入に悩まされていましたが、6世紀初頭に皇帝アナスタシウス1世が財政改革で税金をより着実に納めさせる仕組みを作り、これによって収入が安定化します。527年に即位したユスティニアヌス1世は、この財を周囲への軍事費に充てて、帝国を強大化させました。
ユスティニアヌス1世は534年にローマ時代の法制度を再編した『ローマ法大全』を完成させて支配を強化。皇帝の力を高めた上で西方へと進軍し、イタリア半島にあった東ゴート王国や、北アフリカに栄えていたヴァンダル王国を征服します。彼のもとで栄光のローマ帝国が復活したかに見えました。しかし強引な征服活動によって財政はまた悪化し、ユスティニアヌスの死後、イタリアや北アフリカの支配が難しくなっていきました。時の移ろいによりローマ帝国はもう必要とされなくなっていたのです。
ところで古代ローマ帝国は公用語にラテン語を使っていました。しかし東ローマ帝国の都はギリシャに近いコンスタンティノープル。帝国の人々はこの頃から次第にラテン語ではなくギリシャ語を使うようになりました。かといって古代ギリシャの思想が重んじられたわけではありません。かつてプラトンが創設したギリシャ哲学の学問所アカデメイアを、ユスティニアヌス1世は即位直後の529年に閉鎖しました。理由は「キリスト教の教えに反することを教えていたから」というもの。
こうして古代ギリシャの精神もこの地から次第に消え、東ローマ帝国はギリシャともローマとも異なる国、すなわち現在「ビザンツ帝国」と呼ばれる国へと変貌を遂げていきます。
西ヨーロッパ
東ローマ帝国が勢力を拡大する一方、西ローマ帝国はすでになく、西ヨーロッパではゲルマン民族の王国が覇を争う時代を迎えていました。混乱の中、人々の心の拠り所となったのがキリスト教(ローマカトリック)でした。
カトリック教会
ただ、教会組織も大きくなるにつれて権力争いや腐敗がひどくなっていきます。こうした争いから距離を置き、人々のために「祈り、働き」ながら慎ましい生活をする人々も出てきました。これが修道士であり、彼らの暮らした場所が修道院でした。イタリアにモンテ・カシノ修道院を建てた聖ベネディクトゥスは、6世紀の代表的な修道士です。
そのイタリアは、6世紀初頭の段階では大部分が東ゴート王国の統治下にありましたが、前述のように、その半ばには東ローマ帝国に征服されました。この時東ローマの政治制度に影響されたのか、ローマ教会は次第にトップの権威が強い組織へと発展していきました。その組織化を完成させたとされるのが6世紀末に登場したグレゴリウス1世で、それゆえ最初の「ローマ教皇(法王)」という言われ方もします。グレゴリウス1世は、カトリックを持って西ヨーロッパの安定化をはかろうと、ゲルマン民族への布教を積極的に行いました。キリスト教が広まる一方で、古代ギリシャやローマの学問、思想、技術などは失われていきました。
フランス・ドイツ
さて、そのゲルマン民族が建てた国ですが、現在のフランスからドイツにかけての広い範囲を統治したのが、フランク王国です。その国王クローヴィスは6世紀初頭にいち早くローマカトリックを受け入れました。現在の南フランスには、別系統のゲルマン系ブルグンド人が住んでいましたが、534年フランク王国に征服されました。こうして見かけ上、大国となっていったフランク王国でしたが、面積が広いがゆえに何度も分裂と再統合を繰り返すなど、まだまだ不安定な国でした。
イギリス
イギリス(グレートブリテン島)には主にアングロ人、サクソン人が移住し、先住のブリトン人を吸収しながら各地に王国を築いていきます。その中でもノーサンブリア王国、マーシア王国、ウェセックス王国など7つの王国が強大だったことから、後年これらはまとめて「ヘプターキー(ヘプタ:7の意)」と呼ばれました。
イタリア
東ローマ帝国に征服されたイタリア半島は、ユスティニアヌス1世の死後間もなくその支配が緩んでいきます。そしてその北部にはゲルマン系のランゴバルド人が侵攻し、自身の王国を築きました。こうしてイタリア半島は南北に分断されることになります。
イベリア半島
スペイン・ポルトガルにあたるイベリア半島は、西ゴート人、スエヴィ人が覇を争っていました。568年西ゴート王となったレオヴィギルドは、585年にスエヴィ王国を倒してイベリア半島の大半を統一することに成功します。彼は先住のローマ人(ラテン系)と自分たち西ゴート人(ゲルマン系)の融和にも努めましたが、まだ法律などは別々の状態でした。

スラヴ人
ところで、こうしたゲルマン民族の王国は、数世紀前から始まった民族大移動の末に築かれたものでした。この大移動に拍車をかけたのが、5世紀に東からやってきた遊牧民国家フン族だったことは前章で触れました。同様に6世紀にも東からアヴァールと呼ばれる別の遊牧民がやって来ます。アヴァールはヨーロッパの中央部にまで進出しましたが、この時にも別の民族移動を引き起こします。
その最大のものが、スラヴ系の人々でした。スラヴ人が元々どこに住んでいたのかには諸説ありますが、このアヴァールに従うように移動し、東ヨーロッパ各地に根を下ろしました。彼らは後の時代にポーランド、チェコ、セルビア、クロアチアといった国を築くことになります。
~主な出来事~
511 クローヴィス死去。フランク王国息子らにより4分割(西ヨーロッパ)
525 アクスム王国、イエメンのヒムヤル王国を征服(アラビア半島)
529頃 ヴェネディクトス、モンテ・カシノ修道院建設(イタリア・西ヨーロッパ)
534 ローマ法大全完成(ビザンツ帝国)
534 北魏、東西に分裂(中国)
538頃 百済から日本に仏教伝来(東アジア)
550頃 グプタ朝滅亡(インド)
550頃 デカン高原にチャウルキヤ朝成立(インド)
555 モンゴル高原の柔然滅亡 突厥台頭(東アジア)
555 ユスティニアヌス1世、イタリア半島の東ゴート王国を滅ぼす(ビザンツ帝国)
562 新羅、大加耶併合(朝鮮半島)
562 マヤの都市カラクムル、ティカルを攻撃 ティカル一時衰退(中米・マヤ文明)
567 ホスロー1世、エフタルを滅ぼす(西アジア)
568 北イタリアにランゴバルド王国成立(イタリア)
575 ササン朝侵攻、ヒムヤル王国名実ともに滅亡(アラビア半島)
587 蘇我馬子、物部氏を滅ぼす(日本)
589 隋の楊堅、陳王朝を併合し、南北朝統一(中国)
590 グレゴリウス1世、ローマ教皇に即位。(ヨーロッパ)
593 推古天皇即位、聖徳太子摂政就任(日本)
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