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オーストラリアの首都はなぜシドニーじゃなくてキャンベラ?

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オーストラリアといえば

 カンガルーコアラの故郷として、日本にも馴染みのある国、オーストラリア。動物を除いたこの国のシンボルと言えば、一つは砂漠の真ん中にそびえる大岩、エアーズロック(ウルル)。もう一つは、シドニーにある特徴的な建造物、オペラハウスでしょうか。

 

 このオペラハウスを持つ都市シドニーは、人口400万人を超えるオーストラリア最大の都市で、おそらく知名度もこの国トップクラスの都市でしょう。しかし意外にもオーストラリアの首都は、シドニーではなくキャンベラという都市です。

 

 過去の記事ではアメリカ、ブラジル、スリランカ、トルコなど、首都よりもっと大きな都市が他にある、という国をいくつか見てきましたが、いずれもそこには歴史的な背景がありました。今回はオーストラリアのケースを見ていきましょう。

最初は流刑地

 オーストラリアの歴史は1770年、イギリス人航海士のクックがここを探検、調査したことから本格的に始まります。こう書くと「おい!オーストラリアには何万年も前から先住民のアボリジニが住んでたじゃないか、彼らを無視するんじゃない!」とお叱りを受けるかも。それは全く正しいことのなんですが、今回は近代国家としてのオーストラリアが話題の中心なので、いきなり近代史から入っていこうと思います。

 クックにより、この「未知の大陸」についてある程度の事がわかると、イギリスはオーストラリアに植民地を建設することを思い立ちます。というのもこの1770年代、当時イギリス最大の植民地の一つだったアメリカが独立を宣言してしまい、イギリス本国は新しい植民地を欲していたのでした。イギリスがアメリカ独立を認めて間もなくの1788年、アーサー・フィリップ提督ていとくを乗せた船がオーストラリアの東海岸に上陸。ニューサウスウェールズ植民地として、移住を開始します。その中心都市となったのがシドニーでした。

 

 オーストラリアに来た初期の入植者はその多くがイギリスで罪を犯した犯罪者で、ニューサウスウェールズ植民地は、いわば巨大な「流刑地」として扱われました。しかし、時代と共に一般人の入植者も増加していきます。オーストラリアの土地はイギリスより遥かに広大で、気候も沿岸部なら悪くない。地主に土地を追い出され、劣悪な工場での労働者に甘んじていた人々は、チャンスを求めて、イギリスの真裏に位置するこの大陸に移住していったのでした。

移民の顔ぶれ

 

植民地の合体

 19世紀前半にはオーストラリア大陸全体がイギリスの植民地となります。これにはフランスなど他の国もアジアや太平洋に進出し、植民地獲得競争が激化していった背景がありました。結局「フランスに奪われるくらいなら、とりあえず取っとけ」みたいな理由で、西オーストラリア植民地、南オーストラリア植民地を建設。アボリジニにとってはタマったものではありませんが、産業革命で強大化した「大英帝国」の声が押し通されることになります。

 

 1851年、ニューサウスウェールズの南部で金鉱山が発見され、これを機にオーストラリアでゴールドラッシュが起こりました。すると南部の人口が一気に増加しただけでなく、中国人などイギリス以外からの移民も激増していきます。この結果、1851年中に南部がニューサウスウェールズ植民地から分離。当時のイギリス女王の名を採ったヴィクトリア植民地が成立しました。その中心都市は現在オーストラリア第2の都市となっているメルボルンです。

豪ルドラッシュ

 このような紆余曲折うよきょくせつの後、19世紀末までにオーストラリアには、ニューサウスウェールズ、ヴィクトリア、タスマニア、クイーンズランド、西オーストラリア、南オーストラリアという6つの植民地が形成されます。それぞれの植民地には独自の政府が置かれ、お互いに別の国のような関係でした。

 

 一方で、各植民地の抱える問題はどれも似通っていました。この頃、中国や日本、インドなどアジアからの移民が増加していました。彼らは低賃金でもテキパキ働くため、高い賃金を欲しがるヨーロッパ系の住民から不満の声が上がるようになります。また、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、そして日本などの大国が太平洋の覇権をめぐって争うようになり、イギリス本国ばかりに防衛を任せきれなくなっていきます。

 

 そこでニューサウスウェールズのヘンリー・パークス首相は「オーストラリア大陸の植民地同士、一致団結して問題に取り組もうじゃないか!」という声を上げます。こうして6つの植民地は合体して「連邦」になるべく、動き始めました。とはいえ、各植民地の間には経済に対する考え方が違っていたり、そもそも独立志向が強かったりと、連邦化をはばむ問題はたくさんありました。こうしたモメゴトに何とか見切りをつけ、1901年オーストラリア連邦が成立します。

オーストラリア連邦

まとめ役はどこにする?

 この結果、各植民地は「州」となりますが、前述のように複数の独立国が合体するようなものですから、大抵の事はその州が独自に決定して良いことになっています。一方で、外交などオーストラリア全体に関わる大きなことに関しては「連邦政府」が決めることになりました。この辺りはアメリカ合衆国の各州にある州政府と、ワシントンDCにある連邦政府との関係によく似ています。

 

 そして、この連邦政府の所在地、つまりオーストラリアの首都をどこに置くかが問題となりました。特に「ウチに首都を置け!」「いや、ウチに置け!」と言って譲らなかったのが、前述の2大都市、シドニーメルボルンでした。

 

 結局、両者痛み分けということで、1927年首都はキャンベラに置かれます。この都市はシドニーとメルボルンのちょうど中間に位置しており、その位置からして両都市の妥協の産物であることがわかります。後にキャンベラは他の州に属さない、独立した行政区となります。これもアメリカのワシントンDCと同じような立ち位置です。

 

 なお、1901年のオーストラリア連邦成立に合わせ、アジア系移民に大幅な制限が課せられることになりました。白豪主義はくごうしゅぎと呼ばれます。オーストラリアがこの体制をやめて、今のような多文化主義になるのは1970年代になってからでした。

白豪主義

20世紀その1~日露戦争とアジアの革命~ より

ライバル都市にはさまれつつ…

 現在のオーストラリアの人口は約2,500万人(参照:二宮書店データブックオブザワールド 2021年 以下同)ですが、このうちの何と約6割がわずか5つの大都市に集中しています。サウスウェールズ州のシドニー(450万)を筆頭に、ヴィクトリア州のメルボルン(430万)、クイーンズランド州のブリズベーン(220万)、西オーストラリア州のパース(190万)、南オーストラリア州のアデレード(130万)です。この5都市はすべて州都で、沿岸部にあります。内陸が砂漠なこともありますが、オーストラリアの特徴として、こうした州都に人口が極端にかたよっているという特徴があります。

オーストラリアの行政区

 

 なお、シドニーとメルボルンのライバル関係は20世紀以降も続いており、メルボルンが1956年に南半球最初のオリンピックを開催すると、2000年にはシドニーで20世紀最後のオリンピックを開催。今のところオーストラリアで開かれたオリンピックはこの2回だけです。

 

 一方の首都キャンベラは、人口40万人ほど。上の5大都市より一回り以上小規模な街です。やはり工業や商業など人の集まりやすい経済活動は他の都市に任せ、自身は連邦をまとめる「行政都市」としての役割に特化する。そんな縁の下の力持ち的な町がキャンベラの特徴と言えます。

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