世界史に(あまり)出てこない国の歩み~モロッコの歴史~
今回はアフリカ北西部の国モロッコを見ていきたいと思います。
もくじ
モロッコの地理
モロッコの国名は、アフリカの国の中でも比較的知られている方だとは思いますが、具体的に何が有名かというと、パッとは出てこないかもしれません。
北アフリカの北西部に位置するモロッコは、大西洋、地中海、ジブラルタル海峡に面し、東西をアトラス山脈が走っています。面積は日本より少し広い44.7万k㎡、人口は2021年統計で約3600万人。民族構成としては、国民の約半数がアラブ人、もう半数がベルベル人(アマジグ人)となっています。
首都はラバトですが、昔映画のタイトルにもなった最大都市カサブランカや、昔ながらの巨大マーケットが世界遺産になっているマラケシュなどの方が有名かもしれません。小麦粉を粒状にしたクスクスを使った料理や、円錐状の形が特徴的な鍋を用いたタジンが、モロッコなど北アフリカを代表するごはんです。
古代のモロッコ
現在のモロッコにアラブ人がやって来るのは7世紀以降のことで、紀元前の昔からこの地で暮らしていたのはベルベル人でした。「ベルベル」というのは、古代ギリシャ語で「意味不明の言葉を話す人」を意味する「バルバロイ」から転じた呼び名、つまり他称で、ベルベル人自らは「アマジグ人」と呼んでいるそうです。古代ギリシャ人は地中海を挟んだ対岸の北アフリカに都市を築き、中東出身のフェニキア人らとともに地中海貿易を行っていました。その際北アフリカに住んでいた人々とも接触し、彼らを「ベルベル人」と呼んでいたわけです。
ベルベル人はBC2世紀頃、現在のモロッコからアルジェリア北部にかけて、マウレタニア王国、ヌミディア王国を建設しましたが、まもなく進出して来たローマ帝国に征服されてしまいます。王国は滅びますが、現地の人々はギリシャやローマの文化を吸収し、AD1世紀以降はキリスト教を受け入れる人も少なからずいました。
ローマ帝国の支配は次第に衰え、5世紀までには北アフリカにほとんど及ばなくなり、ベルベル人中心の社会が戻ってきます。こうした時代がしばらく続いたのち、新たに東からやって来たのがアラブ人でした。
アラブ人の征服と最初の王朝
シリア、エジプトと征服したアラブ軍は、征服活動を西へ西へと続け、ついにはモロッコに住むベルベル人も支配することとなりました。それでもアラブ人は止まらず、8世紀にはジブラルタル海峡を越えてイベリア半島(現在のスペイン・ポルトガル)までをその支配下に組み込みました。
ベルベル人達はアラブ人の持ち込んだイスラム教を次第に信仰するようになりますが、当時のカリフ(イスラム帝国のトップ)は現シリアのダマスカスや、現イラクのバグダッドなど西アジアに住んでいました。そこから数千キロ離れたモロッコは、次第にカリフの中央政府から自立しています。
8世紀の終わり、カリフに対し反乱を起こしたイドリースという人物が、計画に失敗してモロッコに逃れてきます。789年彼はイマーム(宗教指導者)を名乗り、ここにモロッコ独自の政権、イドリース朝が成立します。この後モロッコが西アジアの政権に直接支配されることはありませんでした。
スペインを支配したイスラム王朝
イドリース朝は1世紀ほど続いたのち、チュニジアに成立したファーティマ朝によって927年征服されました。この頃にはイスラム教の成立から数百年が経っており、様々な宗派が出現していました。有名なのはスンニ派とシーア派ですが、その下にも更に細かい宗派があります。ファーティマ朝の場合は、厳格なシーア派であるイスマイール派が主軸となっていました。
一方モロッコの南部に暮らしていたベルベル人の中からは、厳格なスンニ派の集団を形成する人々が出現しました。ムラービトゥーンと呼ばれた彼らは、1056年モロッコに新王朝ムラービト朝を建設します。この時新しい都とされたのがマラケシュです。
ムラービト朝は、当時小勢力に分裂していたイベリア半島南部のアンダルシア地方や、サハラ砂漠のど真ん中で栄えていたガーナ王国(今のガーナではなく、マリ近辺)を征服。ガーナ王国で採れた金が財政を潤し、また、アンダルシア地方からも新しい思想、技術がもたらされて、首都マラケシュは文化面でも大いに繁栄しました。
なお、「モロッコ」という国名も「マラケシュ」が転じたものです。
12世紀に入ると、ムラービトゥーンの宗教熱が下がり、代わって「ムワッヒド運動」と呼ばれる宗教運動が盛んになりました。創始者イブン・トゥーマルトは、自らをマフディー(救世主)と称して信者を集め、その後継者たちは1147年にマラケシュを制圧。新たにムワッヒド朝を建設しました。
この時代、サハラ砂漠への影響力は縮小した一方で、現在のアルジェリア、チュニジア、リビアの沿岸部を抑え、12世紀末にはアフリカ北西部最大の王朝となります。技術の向上やヨーロッパとの貿易によって、農業や経済も発展。首都マラケシュやラバトにも美しいモスクや城門が建設されました。
このムラービト朝、ムワッヒド朝はいずれもイベリア半島南部のアンダルシア地方を支配下に置いていましたが、このイベリア半島では、イスラムが進出した8世紀以来、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が行われており、イスラム勢力と激しい争いを続けていました。
13世紀に入るとキリスト側の勢いに押され、1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦いでムワッヒド朝の軍は大敗を喫します。こうして次第にこの王朝も衰退し、地方政権が分離。1269年にそのひとつがムワッヒド朝を滅ぼし、マリーン朝を興しました。マリーン朝の支配域はアンダルシア地方にまでは及ばず、現在のモロッコ一帯に限られることになります。
巡礼者と航海士
前の2つの王朝が、宗教団体をもとにした王朝だったのに対し、マリーン朝はそのような強力な地盤を持っていませんでした。そこで歴代君主は、ムハンマドの末裔とされ、尊敬されていた「シャリーフ」と呼ばれる人々を積極的に保護し、またイスラムの学問を研究する場所(マドラサ)をたくさん建設して学者たちを支援することで、人々の支持を得ようしました。
14世紀、このマリーン朝からメッカ巡礼の旅に出た人物がいました。イブン・バトゥータです。彼はメッカ訪問後もインドや東南アジア、中国(明王朝)、更にアフリカにも足を延ばし、当時の様子を詳細な記録に残しました。現在彼は恐らくモロッコ出身者で最も有名な人物であり、モロッコ北部にあるタンジェ国際空港の愛称も「イブン・バトゥータ空港」となっています。
15世紀になると、対岸のイベリア半島で新たな動きが起こります。いち早くレコンキスタを完了させたポルトガルが、その先のフロンティアを求めて大海原に繰り出し、大航海時代が始まったのです。まずアフリカを目指したポルトガルにとって、目と鼻の先にあるモロッコは最初の標的となり、1415年港町のセウタを、1497年にメリリャを占領されてしまいました。この2つの都市は16世紀ポルトガルが一時スペインに組み込まれた際、スペイン領となります。
この間にモロッコでは、マリーン朝の君主が民衆の反乱で落命し、1465年に王朝は崩壊。ワッタース家が新たな支配者となりますが、この王朝も基盤が弱く、モロッコ全体を統治するには程遠い状態でした。弱い君主と、キリスト国家の占領という危機に、各地でシャリーフを頼る動きが広がっていきます。
弾圧を逃れて・・
この動きが形となったのが、16世紀初頭サード朝の成立です。サード家はムハンマドを遠い祖先とするシャリーフの一族とされ、ポルトガル相手にも勇敢に戦ったことから人々の支持を得ました。1554年ワッタース朝を倒してモロッコ全土を統一。歴代の君主はスルタン(イスラム君主的な意味)を名乗り、都は再びマラケシュに置かれました。
この頃イベリア半島では、最後のイスラム系王朝(ナスル朝グラナダ王国)がスペインによって滅ぼされます(1492年)。スペイン王やポルトガル王は、イスラム教徒の住民にキリスト教への改宗を強制し、拒んだ者は追放に処しました。こうしてアンダルシア地方から、今まで以上に多くのイスラム教徒の住民が、対岸のモロッコへと避難してきました。
※↑イラストはイスラエルとパレスティナ、エルサレムの関係は?より 時代は少しずれていますが、同じようなことが繰り返し起こっていました。
彼らはマラケシュやフェズ、テトゥワンといった都市に住み着き、現地のモロッコ人と区別して「アンダルスィー」と呼ばれました。アンダルスィーは単にモロッコへ逃れただけではなく、”かんがい”や毛織物の技術、音楽などを伝え、キリスト系の国と外交で間を取り持つなど、重要な役割を果たしました。
サード朝はその後も侵攻を繰り返すポルトガルや、東から拡大してきたオスマン帝国を抑えて、独立を維持。1578年に即位したアフマド・マンスールの元で最盛期を迎えます。彼は1591年にサハラ砂漠へ遠征し、大国ソンガイ帝国を征服。かつてのムラービト朝と同じようにサハラ交易(金や岩塩)を独占し、巨万の富を築きました。
今に続く王朝
しかし17世紀になると王室内で内紛が相次ぎ、サード朝も衰退。1659年に崩壊します。再び発生した権力争いの後、スルタンの地位を獲得したのが、やはり「シャリーフ」系統だったアラウィー家でした。初代スルタンのラシードは1660年代にモロッコ統一を進め、2代目スルタンのムーレイ・イスマーイールがそれを完成させます。イスマーイールは新都メクネスを築き、荘厳な宮殿を建設。50年を超える彼の時代は、アラウィー朝の黄金期でした。
しかしイスマーイールが没すると、アラウィー朝の勢いは落ちて財政も悪化。新都メクネスも放棄され、マラケシュに戻ります。18世紀半ばに君臨したムハンマド3世は、貿易港をタンジェに限定する鎖国政策を実施し、貿易を王室独占にして財政再建を図りました。
近代化・植民地化
19世紀なると、他のアジア、アフリカ同様ヨーロッパの圧力を受けるようになります。1830年お隣アルジェリアがフランスに占領された際、モロッコは同胞のアルジェリア人を支援。このためフランスとの関係が悪化し、1844年にイスリースの戦いで敗北します。また、地理的、歴史的につながりの深いスペインもモロッコへの圧を強めました。1859年には鎖国政策を放棄させられ、ヨーロッパ諸国と不平等条約を結ばされました。これは同じ時代(幕末)の日本とも共通します。
その後日本が近代化を進めたように、モロッコでも機械産業の導入などを試みますが、成果が出ないままに財政が破綻。更に王室内でもクーデターが発生するなど政治的な混乱が生じました。これを見たフランスとスペインはモロッコの植民地化を本格化。1904年に両国は密約を結んで、この国を分割しようとしました。
ここに割って入って来たのがドイツ帝国。当時ドイツはフランスをライバル視しており、1905年皇帝ヴィルヘルム2世自らがモロッコ訪問してその独立を認めます(第一次モロッコ事件)。つまりフランス、スペインによる植民地化を妨害したのです。この結果、モロッコの独立は承認されます。が、同時にフランス、スペインがモロッコの政治に口出しできることも取り決められました。
ドイツは1911年にも軍艦をモロッコ沖に派遣してフランスに圧力をかけます(第二次モロッコ事件)。しかし最終的にはドイツもフランスの主張を認め、1912年のフェズ条約でモロッコは主要部がフランス領、最北部(セウタ、メリリャ周辺)と南部(現在の西サハラ)がスペイン領となりました。この頃はスルタンも力を失っており、もはや独立を維持することはできなくなっていたのです。
独立に向けて
そのため、ヨーロッパへの抵抗運動は、一般ピーポーによって引き起こされました。1920年、スペイン領となったリーフ地方(鉱山資源が豊か)で大規模な武力闘争(リーフ戦争)が起こります。そのリーダーであるアブデル・カリムは、最新兵器を持ったスペイン相手にも奇襲攻撃で善戦、1923年リーフ地方を事実上独立させました。ちゃんと独自の政府や独自の通貨を設け、電話線を引き、西洋式の軍事訓練や近代教育を続けていたのだから、その本気度が伺えます。しかしこの「リーフ共和国」がフランス領モロッコにまで進出すると、フランス軍の猛攻撃に遭い、結局1926年にアブデル・カリムも降伏してリーフ戦争は終結しました。
そのフランス政府は1915年と1930年にベルベル勅令を発令しました。これは主に都市部に住むアラブ人と、主に山岳部に住むベルベル人とにそれぞれ別の法律を適用し、モロッコ人を「分断」するものでした。支配下の人々を分断して団結させないようにするのは、植民地政策の常套手段です。なお、フランスは植民地政府を当初フェズに置いていましたが、フェズの政情不安から間もなくこれを、当時一地方都市に過ぎなかったラバトに遷しました。現在のモロッコの首都です。
ベルベル勅令のような分割政策に反発したのが、やっぱり一般ピーポーなモロッコの知識人達でした。伝統的なイスラムの学者や西洋に留学した人々が中心になって1933年に国民行動連合という政治組織を立ち上げ、フランスの植民政策に対抗します。モロッコの政治的な「主権」はフランスではなくスルタンにあるとし、時のスルタン、ムハンマド5世を担ぎ上げました。モロッコの独立運動が本格化します。
第二次世界大戦とその後
1937年国民行動連合はフランスによって「非合法化」され、表立った運動は出来なくなります。しかし第二次世界大戦中の1940年、そのフランスがナチス・ドイツに占領されてしまうと、「フランス、ダメダメじゃん」ということで独立運動が再燃。アメリカ、イギリスにもモロッコの主権を訴えるようになりました。1943年には新しい政治組織「独立党」も結成されます。
なお、この頃ドイツ軍を逃れてフランスからやって来た人々の愛憎劇を描いたのが、映画「カサブランカ」です。カサブランカはフランス統治中に港町として急速に発展し、現在もモロッコで最大の都市となっています。
このような中、さしものフランスも、戦後は植民地に対する態度をゆるめざるをえませんでした。フランス政府は妥協策として、モロッコを「フランス連合」というゆるい連合内の自治国にする、という案を出します。要はフランス人とモロッコ人の共同統治にしようというものです。しかし完全独立を望むモロッコ側はこれを拒否。この頃、独立運動のシンボルとなっていたムハンマド5世も、この交渉決裂により一時国外へ追放されました。
ところが、同じフランス領だったベトナムが1954年にフランス軍に勝利して独立を獲得。これに刺激されたアルジェリアでも独立戦争が始まります。モロッコでも連日デモ行進やストライキが展開され、山岳部ではフランス人襲撃事件なども発生。ついにフランスはムハンマド5世を呼び戻し、交渉の後、1956年モロッコは独立を達成しました。
同じく北部モロッコも1956年スペインから独立し、モロッコに編入されます。ただし、大航海時代からスペイン領(占領したのはポルトガルだけれど)だったセウタ、メリリャの両都市はそのままスペインにとどまりました。また南側(西サハラ)もこの段階ではまだスペイン領でした。
独立後の苦労
悲願の独立を達成したモロッコですが、今度は周辺国との関係や、自立した経済の運営に苦心することになります。1960年に隣国モーリタニアが、62年にアルジェリアがそれぞれフランスから独立しますが、これらの国との国境をめぐって争うことは避けられませんでした。
1975年スペインが西サハラを放棄すると、この地域を巡ってモロッコとモーリタニアがおのおの領有権を主張。加えて西サハラの住民は独立を望み、三つ巴の争いとなりました。1961年にムハンマド5世を継いでいたハサン2世は、「緑の行進」と呼ばれる軍事侵攻を行って西サハラを占領してしまいます。
モーリタニアはその後この地域から身を引きますが、西サハラの住人は「サハラ・アラブ民主共和国」として独立を主張するように。1984年にアフリカ統一機構(OAU)がサハラ・アラブの政府を認めると、モロッコ側はこれに抗議して1985年OAUを脱退してしまいました。モロッコがOAU改めAU(アフリカ連合)に復帰するのは実に2017年のことですが、西サハラ地域は現在もモロッコの実効支配下にあります。
21世紀のモロッコ
21世紀中東で起きた動乱にもモロッコは無縁ではいられませんでした。2011年のアラブの春では、チュニジア、エジプト、リビアなどの長期独裁政権が崩壊しました。この波はモロッコにも押し寄せ、反政府デモが頻発。それまで憲法で「神聖な存在」と絶対視されていた国王の権限が、憲法改正で少し縮小されました。ただ、現在でも国王自身を批判することはタブー視されているとのことです。
↑ムワッヒド朝時代に建設された、マラケシュのクトゥービア・モスク
さて、奇しくもこの記事を書いている最中の2023年9月8日、モロッコを大地震が襲いました。この記事に何度も登場した古都マラケシュは、震源に近かったこともあり大きな被害を出したとのことです。現在マラケシュは首都ではなくなったものの、世界遺産のモスクや、名物の大バザールなどで多くの外国客を魅了する観光都市としてモロッコを支えていました。それだけにこの地震の被害がモロッコ観光に及ぼす影響も深刻と思われます。とはいえ、人命の救助と被災者の復興支援が最も重要なのは言うまでもありません。筆者のほか、国外の人が出来ることは限られるかもしれませんが、まずはモロッコを知って、関心を持つことが、モロッコを救う第一歩だと思います。