あの人も医者?この人も実は医者?~2足、3足のワラジを履いた人々~
あれは高校1年の冬。私は大学へ向けての進路を選択する必要に迫られました。
つまり、「文系」の道か「理系」の道かを選ばなきゃならなかったのですが、当時、特別やりたいことが決まっていなかった自分は、受けたい科目で先を決めようとしました。自分の好きだった分野は、ご想像の通り「地理」「世界史」がワンツーでしたが、そのほかに「化学」「数学」にも強い興味を持っていました(中学時代は化学部でした)。一方苦手だったのは「古文」と「物理」でした。
さあ、この場合、自分は文系と理系、どちらに進むべきか? 結局「社会科の授業を2つ受けられる」という至極単純な理由で文系を選びましたが、そのため高校卒業後は試験管やフラスコを手にする機会がなくなってしまいました。元化学部としてちょっと寂しかった記憶があります。(まあ文系を選んだことに後悔はありませんが…)
自分の例を出すまでもなく、人を「文系人間」・「理系人間」などと単純に分けることはできません。文系の道に進んだからと言って、理系分野への興味を閉ざしてしまうのは(その逆も)もったいないことですし、実際に様々な分野で活躍を見せた人物も、世の中にはたくさんいます。
今回はほんの一例ですが、こうした「2足、3足のわらじを履いた」、つまり「多くの分野で活躍した」偉人たちを見ていきたいと思います。
もくじ
手塚治虫
この人はよく知られているかもしれませんが、医師免許を持った漫画家です。名作『ブラックジャック』は、医学知識を持った彼だからこそ描けたものと言えます。なお、手塚自身は決してモグリの医者ではありません。
森鴎外
『舞姫』などで知られる明治の文豪、森鴎外も医師の顔を持っていました。留学先のドイツでは細菌学者のコッホとも交流しています。帰国後はドイツをはじめとするヨーロッパの文学を翻訳。一方、日清戦争や日露戦争では軍医として兵士の命を救いました。まさに文系理系両方の分野で活躍した人物と言えます。
斎藤茂吉
明治から昭和を生きた斎藤茂吉は精神科医であり、大病院を経営しつつも、一歩で歌集『赤光』などを残し、むしろ歌人、文学者として知られている人物です。息子の斎藤茂太さん、北杜夫さんも、医師・作家として著名な人物です。
本居宣長
本居宣長は『古事記』の研究を長年続け、仏教や儒教が入る前の日本文化を追求した江戸時代の国学者ですが、普段は医師としての顔を持っていました。やがて患者や論客が殺到するようになって研究が進まず、思い切って階段を取り外し、2階に引きこもったという逸話が残っています。
チェ・ゲバラ
このキューバ革命の英雄も、ふるさとアルゼンチンで医師免許を取得した人物です。ゲリラとしてキューバの山の中に潜伏中、ゲバラはそこに暮らす無医村の農民に医者として接し、革命の支援を受けること成功しています。キューバ革命後はカストロ首相によって農地改革の担当者および外交官という重役に任じられ、政治家としても力量を発揮しました。
王維
中国、唐の時代を生きた詩人で、その才能は同時代の李白、杜甫にも劣らぬと言われています。そんな王維は画家としても知られ、特に山水画を極めました。詩と絵画の分野で大いに才能を発揮したことから、後の時代「詩中に画あり、画中に詩あり」と評されています。
ベンジャミン・フランクリン
アメリカの政治家で、独立宣言文の作成にもかかわった重要人物でした。それゆえ、ワシントンやジェファーソンらとともに「アメリカ建国の父」のひとりとも。一方で、嵐の日に凧を揚げ、雷が電気であることを発見し、避雷針を開発した業績でも知られています。
イブン・シーナー
10~11世紀、現在のイランを生きた学者で、彼の書いた『医学典範』は当時最先端の医学書としてヨーロッパでも長く用いられました。ゆえに彼は医学者として扱われる事が多いですが、一方でアリストテレス哲学や熱化学、物理学に関する研究にも携わっていました。
ウマル・ハイヤーム
セルジューク朝時代(11~12世紀)のイランで生まれた彼は、四行詩『ルバイヤート』を残したことで知られています。しかし、彼の本業は詩人ではなく科学者。特に天文学者としては当時第一級の人で、その研究を元に作ったジャラリー暦は当時もっとも正確な暦だったとされています。
ナイティンゲール
クリミア戦争(19世紀に起きたロシアと英仏の戦い)で敵味方の区別なく多くの負傷者を救ったナイティンゲールは、現代まで続く看護師の制度を作った人物です。そんな白衣の天使は、統計学者の顔を持っていました。クリミア戦争でも戦死者や負傷者のデータを分析し、イギリス政府を説得。戦場における病院の環境改善などに貢献しました。
ゲーテ
名文学『ファウスト』『若きウェルテルの悩み』などを残したドイツの文豪ゲーテ。推定IQ200を超える天才と言われています。この他、ドイツの都市ワイマールの大臣を務め、火の車だった財政を再建。更に色彩を科学的に研究したり、植物を観察してその変化を論じたりする科学者の面も垣間見られます。
ルソー
18世紀のヨーロッパを代表する思想家。『社会契約論』を書いて絶対王政を批判し、「自然の状態」では人は「平等」であると説きました。また『エミール』という本で、理想的な子どもの育て方を論じた教育者としての顔もあります。ここでも人の「自然な状態」を重んじています。更に彼は音楽家としての側面もあり、実際「村の占師」というオペラを作曲しています。
平賀源内
江戸時代の学者である平賀源内は、実に多くの顔を持っています。まず、西洋の学問(蘭学)を研究する中で、寒暖計(温度計)や火浣布(アスベストを用いた燃えない布)を独自に開発・改良し、エレキテルを修理した技術者・発明家としての肩書が最も有名です。更に西洋画にも挑戦し、「西洋婦人図」という作品を残します。しかし彼の本職は本草学(今でいう薬学)の学者であり、動植物や鉱物の研究にも熱心に取り組みました。劇作家としても知られ、浄瑠璃(人形劇)の台本を手掛け成功しています。「土用の丑の日にウナギを食べよう」というフレーズも彼によるもので、今でいうコピーライターの仕事にも携わりました。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
最後にこの人を挙げないわけにはいかないでしょう。画家として「モナ・リザ」「最後の晩餐」などを描いたことはあまりにも有名ですが、彼もまた医学者であり、科学者、建築家でもありました。人体の解剖図や、原始的なヘリコプターのスケッチなどがそれを示しています。リアリティのある絵画は、生物の骨格、体の構造をよく知っていたダ・ヴィンチだからこそ描けたとも言えます。これに関連して、技師や設計士としても活躍。新しい武器の考案(実現はしませんでした)や、舞台装置の設計、構築もこなし、その舞台では自ら美声を披露した、音楽家としての面もあります。万能の天才という肩書は伊達ではない!
時代とともにかわる「分野」
このように複数の分野で活躍した歴史上の人物は多々存在しますが、ここで一点注意したいことがあります。というのは、科学や医学、哲学や芸術といった分野は、現在の目線では「それぞれ異なる分野」とされますが、こうした区別は近現代になってそれぞれの分野が発展した結果、細分化され生じたものだという事。それぞれの分野は必ずしも独立したものではなく、お互い関連しあっているわけだし、時代をさかのぼっていけば「医学も哲学も錬金術も根は同じ」であり、当時の人は医学と哲学と科学の違いを特に意識することなく研究していたのかもしれません。
「万学の祖」と言われた古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、哲学のほか、生物学、数学、天文学、美術、政治学といった様々な面で業績を残しましたが、逆に言えば当時これらの学問は一緒くたにされていた、と考えることが出来ます。それが時代とともにそれぞれ発展してゆき、枝分かれしていったわけです。だから今回取り上げた、現代人の目からは「2足以上のわらじ」をはいたように見える人々も、必ずしもその時代では別に複数の職を掛け持ちしていたわけでは無いのかもしれません。(その点でも文系・理系という区別が絶対的なものでは無いと言えます。)
ただ、彼らが様々な物事に関心を持ち、業績を残したことには違いなく、偉人の偉人たる所以が損なわれるわけでもありません。
印象に残ったCM
話は変わりますが、何年か前に放送されたスポーツ飲料のCMに印象深いものがありました。サッカーの本田圭佑選手がプールに飛び込み、水泳の北島康介選手がゴルフクラブを振るい、ゴルフの石川遼選手がサッカーボールを追いかけるというもの。
これを見て「あ、そっか。プロのスポーツ選手だからって他のスポーツをしても別にいいんだよね」という、考えれば当たり前のことを改めて思い出しました。サッカーで名を馳せた人物を、私たちは知らず知らずのうちに「サッカー選手」とカテゴライズしてしまう傾向がありますが、彼らだって一人の人間。その人が他のスポーツをしても、絵を描いても、歌を歌っても、科学の研究をしてもいいわけですよね。
人気音楽グループSEKAI NO OWARIの曲『Habit』にもあるように、人は他人を分類しがち。しかし「この人は科学者」「あの人は歌手」あるいは「自分は野球選手」「自分は公務員」などと決める必要は、必ずしもないのではないでしょうか。一つの道を究めることも無論素晴らしいことだと思います。しかし、それと同じように、多くの分野に携わり、自分の可能性について広い視野を持つこともまた、素晴らしいことだと思います。
ということで、私も久々に試験管とリトマス紙を手にしてみました。化学に精通した地歴マニア、悪くないでしょ?