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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

20世紀その3~経済回復のやり方~

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1930年代の世界

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20世紀の第3弾。今回は世界恐慌(1929年)から第二次世界大戦直前(1939年)までです。わずか10年の間にもいろいろな出来事がありました。

1929年起きた世界恐慌の波は、アメリカからイギリス、フランス、ドイツ、中南米、そして日本へと広がっていきます。

アメリカ合衆国

 アメリカ世界恐慌が発生した当初、当時のフーヴァー大統領(共和党)は、景気は自然回復するだろうと大きな対策を講じなかったため、状況は悪化。1932年共和党は選挙で敗れ、民主党のフランクリン・ルーズヴェルトが大統領となります。

ニューディール政策

 彼はテネシー川のダム建設など大規模な公共事業を立ち上げて労働者に仕事を与えた他、失業者の救済や価格の安定化を図る政策を打ち出していきました。これら一連の改革はニューディール政策と呼ばれています。しかし、元来アメリカの政府は、社会に過度に口を出さないことが暗黙の了解となっていたため、こうした介入に反対する人も多く、ニューディール政策は思うように進みませんでした。

日本

 第一次世界大戦後、長い不況に苦しんでいた日本は、世界恐慌で更なる打撃を受けます。政府は、外国との協調と支出削減のために軍縮を進めていきますが、これに軍が反発を呼びました。 

 ところで日本軍の一部は日露戦争以降、中国北東部の満州にとどまり、じわじわと影響力を強めていきました。1931年、日本陸軍のひとつ関東軍が満州の鉄道を爆破し、これを中国人によるものと嘘をついて満州全土を制圧。翌32年これを中華民国から分離して、満州国として強引に独立させます(満州事変)。

 1933年国際連盟が、満洲国の独立は認められないとの結論を出すと、日本は連盟を脱退しました。なお、同じ年にドイツも国際連盟を脱退し、外交的に孤立したもの同士となった日独は、1936年同盟を結ぶ事になります(日独防共協定 翌年イタリアも加わる)。

 国内では、立憲政友会の犬養 毅いぬかい つよし首相と軍の対立が深まり、1932年の五・一五事件で犬養を暗殺。これを持って日本の政党政治は一時中断されてしまいます。

五一五事件

更に一部の過激派は、政府を一新せねばという思いに駆られ、1936年、政府要人を次々殺害する二・二六事件を起こしました。この事件で元首相の高橋是清たかはしこれきよ斎藤 実さいとう まことなどが落命。その後は軍人出身者が首相を務めるケースが多くなります。軍縮は立ち消えとなり、中国との緊張も高まる中、1937年の盧溝橋事件ろこうきょうじけんを機に中国と全面戦争へと突入してしまいます。日中戦争です。

中国

 当時の中国(中華民国)を率いていたのが、中国国民党蒋介石しょうかいせきです。彼は辛亥革命の後にいったんバラバラになってしまった中国の再建を進めていきますが、その最中に中国共産党を弾圧していきます。

 最初、国民党と共産党は協力していましたが、この頃には完全に敵対関係になっていました。国民党軍の攻撃(長征ちょうせい)を逃れた共産党は、内陸部の都市延安えんあんに拠点を構えました。この頃、党のリーダーになったのが、毛沢東もうたくとうです。

 一方、中国北部に突如現れた満州国では、清のラストエンペラー、溥儀ふぎが皇帝に即位します。しかし彼は飾り物に過ぎず、実際は日本軍が満州を経営していました。しかも1932年には、満州から遠く離れた上海でも大規模な戦闘を起こし(上海事変)、中国全土を揺さぶりました。日本の脅威に対し、一般の中国人も日本軍への抵抗を始めていきます。

 強力な日本軍に対抗するには、共産党とも手を結ぶ他ない。故・張作霖ちょうさくりんの息子、張学良ちょうがくりょうの訴えもあり、蒋介石は1936年共産党弾圧をやめて、彼らと手を結びました(第2次国共合作)。日中戦争が始まるのはその翌年の事です。

 民間人を含む多くの中国人を殺害し、略奪なども重ねながら、日本軍はその年のうちに当時の首都南京を落としますが、中国政府は内陸の武漢、更に重慶へと首都を移し、徹底抗戦を続けました。広大な中国の奥まで日本軍が進むことは次第に難しくなり、日中戦争は長期化していきます。

ドイツ

 ドイツ第一次世界大戦敗北の傷がようやく癒えてきたところでした。しかし、このタイミングで恐慌の波に襲われ、失業者が街にあふれかえるように。絶望する彼らに声をかけたのが、強力な独裁政治でドイツを立て直すと演説する、アドルフ・ヒトラーでした。

 ヒトラーとその政党(ナチス)は、ヴェルサイユ条約、共産主義者、そしてユダヤ人がドイツをこんな状態にしたのだと主張し、人々の関心を引きます。民衆の人気を得た彼は1933年首相に就任。その年に国会議事堂に放火し、それを共産主義者のせいにして排除します。更に、自らに権力を集中させる全権委任法という法律を国会で強引に制定させ、彼は名実ともに独裁者となりました。先進的と評されたワイマール憲法も停止されてしまいます。

モダンタイムス?

 ヒトラー政権の元、アウトバーン(高速道路)の建設などによって人々が仕事を得た結果、ドイツはいち早く恐慌から脱出。一方で彼は強力な「人種主義」を打ち出します。つまり「優れたドイツ人」である事を誇りに思えと、徹底的にアピールし、それ以外の人種を差別しました。1935年のニュルンベルク法では、ユダヤ人は多くの権利を失います(参政権取り上げ!公務員への就職禁止!ドイツ人とユダヤ人は結婚禁止!など)。この結果、ドイツ系ユダヤ人学者のアインシュタインフロイトなどは国外へと亡命しました。なお、後に有名になるアンネ・フランク一家は、ヒトラーが政権に就いた1933年、オランダへ逃れています。

 このようにナチス・ドイツによりユダヤ人が差別の対象とされたことは有名ですが、そのほか、アフリカ人、アジア人、ジプシー(ロマ)、障がい者なども差別や偏見の対象となりました。

イタリア

 イタリアでは1922年以来、ムッソリーニがずっと首相に就いていました。彼はイタリア国民を様々な組織に加入させてコントロールする、ファシズムと呼ばれる政治を行います(これを参考にしたのがヒトラーでした)。

 恐慌脱出のために1931年に日本満州事変を起こすと、イタリアも同じように新たな地を支配しようとたくらみます。1935年イタリア軍は、かつて植民地化に失敗したアフリカのエチオピアに侵攻し、国際的な非難を浴びます。その後、ドイツがオーストリアチェコスロバキアに占領地を拡大していくと、イタリアも野心を更にたぎらせ、1939年、今度はバルカン半島のアルバニアを占領してしまいます。

スペイン・ポルトガル

 スペインでは、労働者運動や地方の権利拡大運動を弾圧していたプリモ・デ・リベラが、財政赤字を解決できなかったことなどから批判を浴びて1930年失脚しました。政府への批判は王室へも飛び火し、1931年には国王アルフォンソ13世も退位に追い込まれてしまいました。その後は左派、右派の政権が相次いで成立しますが、いずれも国内をまとめることが出来ず。1936年、両者が激突して、スペイン内戦が始まります。

この内戦にでは、両陣営のバックに大国が付きました。つまり、アサーニャ率いる左派の人民戦線にはソ連(スターリン政権)が、フランシス・フランコら右派反乱軍にはドイツ(ヒトラー政権)とイタリア(ムッソリーニ政権)が付き、各々これをサポートしたため、スペイン内戦はより泥沼化していきました。多大な犠牲の末、独伊のサポートを得たフランコが勝利を収め、1939年スペイン内戦は終結しました。

 なお、スペイン生まれの画家ピカソは、内戦で破壊された町をモチーフに、大作「ゲルニカ」を描いて抗議しました。また、アメリカ出身の小説家ヘミングウェイは、義勇兵として戦闘に参加。この経験を元に『誰がために鐘は鳴る』を書いています。

 

 スペインの隣国ポルトガルでは、不況脱出に貢献した経済学者サラザールが1932年に首相になり、長期独裁を敷きました。

イギリス

 日本と同様第一次世界大戦の後から不況に見舞われていたイギリスも、世界恐慌で更なる打撃を受けます。当時のマクドナルド政権は、他国の影響から逃れるために自由主義経済をストップ。関税を引き上げ、自国と植民地だけで経済を回す保護貿易体制、いわゆるブロック経済を始めます。当時のイギリスは、インドやアフリカ、カナダ、オーストラリアなど巨大な植民地をいくつも持っていましたから、これでも何とか経済を回せました。しかし、この自国第一主義的なやり方は、当然アメリカなどの反発を受けました。

 一方、1930年代後半になってナチス・ドイツの動きが活発化し、イタリアが軍事行動を起こしますが、もう戦争をしたくないイギリスは、様子見の姿勢を続けました。先述のスペイン内戦では、ヒトラーの味方もスターリンの味方もしたくないという事で、不干渉の立場を貫きます。

フランス

 フランスもまた、東南アジアやアフリカなどに広大な植民地を持っており、イギリスと同じようにブロック経済で不況を乗り切ろうとします。労働問題が深刻化する中、1936年には社会主義寄りのブルム人民戦線内閣が発足。この政権の元で有給休暇制度など、労働者に優しい政策が行われました。しかし、スペイン内戦に対してはやはり自国を戦争に巻き込みたくないとのことから、不干渉を選択。スペインの人民戦線を救えなかったことから、ブルム政権も短命に終わりました。

オーストリア

 恐慌から脱却し、自信を付けたドイツは、ヴェルサイユ条約で禁じられた軍の拡大を断行し、更に、ドイツ系住民の住む地域の統合をはじめます。オーストリアチェコスロバキアはその、最初のターゲットでした。

 オーストリアはドイツ語圏の国です。19世紀のドイツ統一運動では一緒にドイツの一部になる可能性があったものの、当時は多民族国家だったゆえに、ドイツからはじかれてしまった過去がありました。しかし第一次世界大戦後は、オーストリアから非ドイツ系の地域が次々と独立し、スリムな小国になっていました。

 豊かな地域を失い、恐慌にも苦しんでいたオーストリアがドイツに併合されることには、決してデメリットばかりでは無い。政府は勿論反対しましたが、当時の首相ドルフーズが暗殺されたこともあり、1938年ドイツはオーストリアを併合。当時は多くのオーストリア国民がこれを歓迎したといいます。

チェコスロバキア

 ナチス・ドイツは次に、スラヴ系中心の国チェコスロバキアにも、領土の一部を譲れと迫ります。チェコ西部、ドイツとの国境付近であるズデーテン地方には、多くのドイツ系住民が暮らしており、ヒトラーは「ここは本来ドイツであるべき」と主張したのです。実際ズデーテンの住民は、チェコスロバキアからの分離運動を行っていました。チェコスロバキアのベネシュ大統領は当然反対しますが、彼の意見は通りませんでした。

 イギリス、フランスといったヨーロッパの大国は、第一次世界大戦のトラウマや、ソ連の動きを警戒し、ナチス・ドイツに喧嘩を売る余裕はありませんでした。1938年ミュンヘンで会談が開かれますが、先述のスペイン内戦同様、ここでも英仏はドイツとの衝突を避け、チェコスロバキアの反発を無視してズデーテンのドイツへの併合を認めてしまいます。

1939年

ところが、英仏の態度に気を大きくしたヒトラーは、ズデーテンのみならず、チェコスロバキア全土を征服。しかも、大規模な抵抗をさせないように、チェコには厳しく、スロバキアには甘い占領政策を行って、足並みを乱れさせました。まあ、こうした住民を分断させる政策は、英仏も植民地にやっていたことですが…

その他ヨーロッパ

 オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、アイルランドといった、西ヨーロッパでも比較的小さな国は、英仏独伊ソといった大国の動きに翻弄されていきます。各国の政府はその影響を少しでもかわすべく中立を徹底し、国際連盟を通じて外交を進めていきますが、あまり期待は持てず。国内では世界恐慌の影響に苦しむ人々の中から、社会主義やファシズムを望む声も出るようになり、社会は不安定化していきました。

 特に第一次世界大戦の後に独立、成立したヨーロッパの国々では、国内が整わないまま世界恐慌の波を受けてしまいます。そのため強力な権限を持った指導者、つまり独裁者が各地に出現しました。

 ポーランドでは建国の父ピウスツキが、バルト三国のエストニアではパッツ首相が、ラトビアではウルマニス首相が、リトアニアではスメトナ大統領が、ブルガリアではボリス3世国王が、ルーマニアではカルロ2世国王が、アルバニアではゾグ1世国王が、ユーゴスラビアではアレクサンダル1世国王が、ギリシャでは国王信任の元でメタクサス首相が、おのおの独裁を敷きました。

 

 また、イタリアのファシズムやドイツのナチズムに共感する団体も出現し、人々をあおり立てていきました。フィンランドでは1930年頃から反共産主義的な「ラプア運動」が起こり、後に暴力的な運動に発展しました。ルーマニアでもファシズムを掲げる「鉄面団」が結成され、先述の国王カルロ2世に利用されます。ハンガリーではナチスに共感する「矢十字党」が登場し、社会に少なからず影響を与えました。

 

 北欧のスウェーデン、ノルウェー、デンマークでは、社会主義寄りの政党が台頭し、公共事業の実施や、失業者、農民への支援など、積極的に福祉政策を行います。これが功を奏し、比較的早く社会の立て直しに成功しました。以後、これらの国は高福祉国家という、現在まで続くアイデンティティを獲得するのですが、その前にもう一つ大きな困難が待ち受けていました…

ソヴィエト連邦

 世界各地が世界恐慌に苦しむ中、ソヴィエト連邦(ソ連)は着々と経済成長を進めていました。社会主義国のソ連は、計画経済という独自のやり方で経済を回しており、世界恐慌の影響は小さかったのです。

 当時ソ連を率いていたのがスターリン書記長。彼は一定期間、お金を集中させて工業化を進める五ヵ年計画を実施します。これにより製鉄業などが発展し、モスクワにも地下鉄が開通するなど大きな発展を遂げました。しかし、その工業化に必要な資金を得るため、集団農場(コルホーズ)では重いノルマが課せられました。特に当時ソ連の一部だったウクライナでは、極端なノルマとその後の凶作により、1930年代前半、百万を超す餓死者が出てしまいます。

スターリン体制

 こうした犠牲の元で強大化したソ連ですが、同時にスターリンの権力も強大化。1934年以降、敵対した人々や政府を批判する人々を大量処刑、またはシベリア中央アジアに追放しました。この“大粛清”で失われた人命は、1000万に達したともいわれます。

モンゴル

 ソ連の力を大いに借りて独立を達成したモンゴルは、その政治もソ連そっくりの様子を見せます。当時モンゴル社会の有力者だった王族やチベット仏教の僧侶は、社会主義の「平等」の精神から財産や地位を奪われました。また、それまで自由に草原を駆け回っていた遊牧民たちは集団化され、政府の管理下に置かれます。1936年実権を握ったチョイバルサンは、スターリンを真似た恐怖政治を敷いた為、「小スターリン」と呼ばれるようになります。

 

 この頃、モンゴルの隣には、日本により満洲国が成立していました。モンゴルと満州の関係は、ソ連と日本の関係と直結しており、それは緊張したものでした。1939年その緊張の糸が切れ、国境付近で大規模な軍事衝突が起こりました。ノモンハン事件です。この戦いで日本は敗北し、間もなく同盟国ドイツがソ連と不可侵条約(後述)を結んだことから、日本は北への拡大をあきらめることになります。

東南アジア

 シャム王国でも、恐慌は社会に混乱をもたらしました。この混乱の中、1932年軍人のピブーンらによるクーデターが発生し、絶対的権力を持っていた国王ラーマ7世に、その権限を規制する立憲君主制を認めさせました。この後ラーマ7世は退位し、ピブーンが首相として強権を振るいます。1939年6月には国名をシャム王国から、タイ王国に変更しました。シャムは伝統的な王国の名前、タイは民族の名前で、国名を民族名に合わせた形です。背景にはタイ民族の国として国内を団結させたいという思いがあり、例えば中国系の住民などもタイ語を使うよう求められるようになります。

 

 フランス領インドシナベトナムでは、ホー・チ・ミン率いるインドシナ共産党が、世界恐慌に苦しむ農民に手を差し伸べつつ、デモやストライキでフランス政府と闘いを繰り広げました。この運動をゲティン・ソヴィエトと呼びます。1936年に社会主義寄りのフランス人民戦線政府が発足すると、共産党の要求にも耳を傾けましたが、この政権が短期間で崩壊すると、後の政権ではベトナム共産党を非合法化(違法な政党の扱い)してしまいました。

 

 アメリカ領のフィリピンでは、話し合いの末、1933年に将来的な独立が決まりました。しかしこの頃、日本が満州事変を起こし、軍事大国へと突き進んでいました。日本がアジアや太平洋へ進出するのではないか。アメリカ政府はフィリピンを軍事的に強化します。その時本国からフィリピンに送り込まれたのが、マッカーサーでした。

 

 イギリス領ビルマ(ミャンマー)ではタキン党が結成され、独立を含む反植民地運動を展開していきます。この政党に参加し、頭角を現したのが、アウンサン(アウンサンスーチーの父親)でした。

 

オランダ領東インド(インドネシア)でもスカルノ率いる国民党がオランダから自分達の権利を訴えます。しかしオランダ政府はこれを弾圧したため、オランダへの反発心がエスカレート。国民党はインドネシアの独立を目指すようになります。

南アジア

 イギリスの植民地だったインドでは1930年代、ガンディーが再び非暴力非服従闘争を開始。当時イギリスが独占していた塩を、インド人自らの手で作るという、塩の行進運動を行いました。イギリスの植民地政府はこれを暴力的に取り締まりますが、かえってイギリス人への印象が悪くなります。1931年イギリス本国の政府はインドの統治に関する会議を開き、ガンディーらを招待します。しかし会議では出席したインド人同士の対立もあり、大きな成果は得られませんでした。

 

 この間、ネルー率いるインド会議派は、インドを代表する政党として人々の支持を集めましたが、このインド会議派を「これって結局ヒンドゥー教徒のための政党じゃないか!と見なした人々がいました。それが、インドでは少数派のイスラム教徒です。彼らは独自の政党、インド・ムスリム連盟を組織し、インド会議派に対抗していくようになります。

ネルーとジンナー

 インドの南、スリランカ(当時の呼び名はセイロン)でもこの頃、民族主義運動や、植民地に対する抵抗運動が本格化します。イギリス政府も彼らの要求にある程度応えて、1931年にスリランカ初の憲法を制定。この憲法は、女性参政権が認められたアジアで初めての憲法となりました。ただし、その後も民族主義運動はエスカレートし、多数派で仏教徒中心のシンハラ人が、少数派ながら金持ちの多かったタミル人(ヒンドゥー教徒中心)らを攻撃するようになっていきます。

トルコ

 オスマン帝国から生まれ変わったトルコ共和国では、ムスタファ・ケマルによる改革がなおも続いていました。彼は「国家資本主義」「世俗主義」など6本の矢と呼ばれるスローガンを打ち出し、1934年には、五ヵ年計画をスタート。これはソ連の五ヵ年計画とは少し異なり、あくまで資本主義を残しつつ、部分的に社会主義を取り入れた計画でした。1938年ケマルは死去しますが、その功績からケマル・アタテュク(トルコの父)と呼ばれるようになります。

アラビア

 聖地メッカなどを征服したサウード王国は、1932年国名を「サウジアラビア王国」としました。サウジアラビアは更にイエメン王国をも征服しようとしますが、1934年両者の間に協定が結ばれ、イエメンは独立を保ちました。

 

 この頃、アラビア半島各地で見つかるようになったのが、油田です。砂漠の広がるアラビア半島では、巡礼地メッカやいくつかの貿易港を除けば、ラクダを用いた遊牧か、ペルシャ湾岸での真珠取りくらいしか産業が無く、現地のアラブ人も慎ましい生活を送っていました。その不毛な大地が世界有数の豊かな地へと変貌していくとは誰が予想できたでしょう。その劇的な変化が始まるのがこの時代でした。

 

 オスマン帝国から分離させられたイラクは、イギリスの委任統治領となりました。しかしこの地にもまたアラブ人、クルド人、ペルシャ人などが住み、宗教的にはイスラム教のスンニ派、シーア派などが混在し、生活スタイルも農耕から遊牧まで・・・と実に多様でした。イラク統治の難しさを知ったイギリスは、1932年にファイサル国王を迎え、イラク王国として独立を認めました。ただし、この頃イラクでも油田が発見されており、これを手放したくなかったイギリス政府は、軍隊をこの国に置いたままにしておきます。

イラク独立

 第一次世界大戦後フランスの委任統治領となったシリアレバノンでも、支配に反対する動きが強まり、フランス政府も関係を見直します。1936年、当時の仏ブルム人民戦線内閣は、シリアと同盟協定を結んで関係を改善し、レバノンに至っては1939年に独立する事が決められました。

 このレバノンですが、イスラム教徒が圧倒的多数を占めるシリアと異なり、キリスト教徒イスラム教徒が複雑に共存する多宗教な地域でした。両者の対立を和らげるべく、大統領にはキリスト教徒首相にはイスラム教徒が就くという慣習がこの時期できました。

パレスティナ(イスラエル)

 ユダヤ人の故郷とされたパレスティナ地方には、20世紀初頭から多くのユダヤ人が移住していました(シオニズム運動)。1930年代にナチス・ドイツがユダヤ人を迫害し始めるとこの動きは加速。これと共にアラブ人との衝突も激しさを増していきます。第一次世界大戦後、この地を統治していたイギリスは、パレスティナの治安を守るため、ユダヤ人の移民を制限しました。やむを得ないとはいえ、この非情な政策でヨーロッパに戻り、殺害されたユダヤ人も少なくありませんでした。

イラン・アフガン

 1925年にパフレヴィー王朝を開いて再スタートしたペルシャは、国王レザー・シャーの元、1935年国名を正式に「イラン王国」としました。それまで「イラン」は国内で、「ペルシャ」は外国で使われていた呼称でしたが、これからは、外国も「イラン」と呼んでほしいと主張したのです。(日本でいえば、外国人も「ジャパン」ではなく「ニッポン」と呼んで、という感じ)

 アフガニスタン王国では急速に近代化を進めた国王アマヌラー・ハーンが1929年退位に追い込まれた後、伝統的な社会に戻ろうという動きが進みます。1933年には、アフガニスタン最後となる国王ザーヒル・シャーが即位しますが、当時はまだ若く、叔父のハーシムが実権を握っていました。

 この頃、ロシア改めソ連の圧力が再び中東に及ぶようになり、独立や革命を経験した中東の4つの独立国(イラン、アフガニスタン、イラク、トルコ)を脅かすようになりました。そこでこの4カ国は1937年相互不可侵条約を結び、これに対抗しようとしました。

カナダ

 カナダはイギリスの経済ブロックに入り、不況を乗り切ろうとしました。アメリカの影響力が強まっていたカナダですが、ここで一旦イギリスに接近。その代わりに、1931年のウェストミンスター憲章が出され、カナダは植民地ではなく、イギリス連邦という組織の構成国として、本国と対等の関係になりました。しかしアメリカがイギリスのブロック経済を批判したため、1938年には再びアメリカと経済協定を結んでいます。

メキシコ

 1910年に始まったメキシコ革命は、多大な犠牲の末、ようやく終わりのきざしが見えてきました。革命の最中に恐慌の波を食らったメキシコ。1934年大統領となったカルデナスは、社会主義寄りの政策を採り、農地を貧しい人に再分配し、労働者の運動を部分的に許可することによって人々の支持を得ます。

 一方で、メキシコ経済を牛耳っているアメリカの企業には厳しく望む、民族主義的な政策を行います。1939年にはアメリカの石油会社を国有化。これにはアメリカ側も反発しますが、第二次世界大戦の足音が聞こえていた不穏な時期だったため、下手に動くことはありませんでした。こうしてメキシコ革命の動乱はようやく終わりを迎え、メキシコは再建の時代へと進みます。

中米・カリブ諸国

 経済基盤の弱い中米諸国では、メキシコとは逆に、アメリカの支援を得ながら恐慌脱出を図りました。アメリカのルーズベルト大統領も、過去の大統領がおこなった棍棒外交やドル外交といった高圧的な態度を改め、善隣外交を展開します。キューバの政治にアメリカが口を出すプラット条項が、1934年廃止されたのはその象徴的な出来事でした。

 

 一方で、1930年代には独裁政権が各国に誕生しました。グアテマラウビコエルサルバドルエルナンデスホンジュラスカリアスニカラグアソモサドミニカ共和国トルヒーヨなどです。ヨーロッパと同様、不況脱出のために民主主義は犠牲となりました。

 

 アメリカの影響力に対抗しようという民族主義運動も、同時に激しさを増していきました。ニカラグアでは、サンディーノがアメリカに対する抵抗運動を続けていました。彼は1934年に命を落としますが、彼の遺志を継いだサンディニスタと呼ばれる組織は、この後成立したソモサ独裁政権に立ち向かっていきます。

南アメリカ

 南アメリカ諸国でも世界恐慌を機に、アメリカ企業からの脱却や、自国民の権利を主張する動きが活発化していきます。そして伝統的に格差の激しい国が多いことから、平等を重んじる社会主義を目指す人も出現しました。こうした主張を行う政治家は、貧しい一般民衆の人気を得やすく、いわゆるポピュリズム的な政治家が出現するようになります。

 

 コロンビアガイタンエクアドルベラスコ・イバラチリアギーレペルーの政党「アプラ」ブラジルヴァルガスなどは、いずれも外国(この場合アメリカ)が経済を牛耳る現状に対し、国民の権利を訴えて人気を集めました。実際、ヴァルガスは1930年から45年までの長きにわたりブラジル大統領を務めますが、その間に工業の育成や、重要な輸出品であるコーヒーの価格安定化などの政策で民衆の支持を集め、これを盾に徐々に独裁化していきました。

 ボリビアでは、国内の不満の目を外国に向けさせるという点では共通していますが、別の方法を採りました。隣国パラグアイとの領土問題を戦争で解決しようとしたのです。このチャコ戦争(1932年)はしかし、ボリビアの敗北に終わり、当時の政権はガタガタに。逆にパラグアイは大きく領域を拡大しました。しかし不況と戦争で社会は疲弊し、しかも和平交渉がなかなか進まなかったこともあり、1936年には皮肉にも両方の国で軍事クーデターが発生。混乱は続くことになります。

オセアニア

オーストラリアニュージーランドもカナダと同様、イギリスの経済ブロック内に入ることで不況克服を目指しました。1931年のウェストミンスター憲章で、本国と対等の地位になったのも同様です。

 そのニュージーランドでは、1935年労働者のサヴェージ政権が発足。公共事業や福祉政策で、不況に苦しむ国民を救おうとしました。北欧と並ぶ、この弱者に優しい政治方針はその後も長く続くことになります。

アフリカ

 先述のとおり、イギリスやフランスは世界恐慌を、自国と植民地だけで経済を回す「ブロック経済」で乗り切ろうとしましたが、当然そのしわ寄せは植民地に及びました。賃金を下げる、農作物を安く買い叩くなど勝手な政策にアフリカ人達は怒り、1930年代にはストライキやボイコットが相次ぎます。またこれと同時にアフリカ人としての民族主義も高まりを見せました。

 ただし、ヨーロッパ系(白人)が政府を動かしている南アフリカ連邦は別で、白人と黒人の“区別“が法律で定められるなど、後のアパルトヘイトに繋がる政策が進んでいました。こうした状況にもかかわらず、先述のウェストミンスター憲章では、南アフリカもまた、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどと同じ地位を得ています。

 これも繰り返しになりますが、1935年イタリア軍がエチオピアに侵攻し、翌年首都アディスアベバを占領。エチオピア皇帝のハイレ・セラシエはイギリスに亡命しますが、国内ではレジスタンスによる必死の抵抗が続きました。

第二次世界大戦への道

 最後に視点をヨーロッパに戻します。

ヴェルサイユ条約違反を繰り返すドイツに対し、英仏は思い切った行動をとらない。そう確信したヒトラーにとって、最大の脅威は社会主義国家の大国ソ連でした。ユダヤ人を徹底的に否定したヒトラーは、ユダヤ人経済学者のマルクスが考え挙げた社会主義共産主義をも徹底的に否定。そんなドイツを、ソ連はソ連で恐れていました。2つの国はお互いを認めず、また互いに相手の軍事力を恐れる関係にありました。

 ところがそんな両国の間に1939年、独ソ不可侵条約が結ばれます。これは表向きには、「独ソは戦わない」、「ドイツが別の国に攻められたら、ソ連はその国に味方しない、ソ連の場合も同じ」というものですが、その裏には、ドイツとソ連が各々「ここまで」侵攻してもよい、という「取り分」が決められていました。を自分の利害のためなら、憎き敵とも手を結ぶ!ヒトラーとスターリンという独裁者同士、通じるところがあったのでしょう。ちなみに日本も、1941年に日ソ不可侵条約を結んでいます。

 おぞましいことに、その時の「ここまで」の線、言い換えれば両国の「取り分の境界線」は、ポーランドのど真ん中にありました。もちろん独ソ不可侵条約は、ポーランドに何の断りもなく結ばれたものです。

独ソ不可侵条約

 2つの独裁国家に挟まれていたポーランドでは、実力者ピウスツキが強権を持って独ソの圧力に抵抗していました。そして彼が1935年に死去すると、イギリスと同盟を結んで危機を乗り越えようとしました。しかしそれもむなしく、独ソ不可侵条約締結の直後の1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、あっという間にポーランドは占領されてしまいました。この結果、さすがに堪忍袋の緒が切れたイギリスはドイツに宣戦布告。フランスもこれに続きました。こうして二次世界大戦の火ぶたが切られます。

主な出来事

1929.10 暗黒の木曜日 世界恐慌始まる

1930.1 ロンドン軍縮会議

1930 ガンディー、塩の行進運動実行(インド)

1930.11 ヴァルガス大統領就任~45(ブラジル)

1931 満州事変(日本・中国)

1931.9 ウェストミンスター憲章(イギリス)

1932.1 満洲国建国宣言(日本・中国)

1932.5 五・一五事件(日本)

1932.9 チャコ戦争~35(パラグアイ・ボリビア)

1932 イラク王国独立

1932 サウジアラビア王国成立

1933.1 ヒトラー首相就任(ドイツ)

1933.3 ヒトラー、全権委任法制定で独裁へ(ドイツ)

1933.3 フランクリン・ルーズヴェルト大統領就任 ニューディール政策開始(アメリカ)

1934 スターリン、政敵を大粛清(ソ連)

1935.3 ペルシャ、国名をイランへ変更

1935.10 イタリア、エチオピア侵攻~41

1936.2 二・二六事件(日本)

1936.11 日独防共協定

1937.1 ソモサ・ガルシア、ニカラグア大統領就任

1937.5 スペイン内戦開始 

1937.7 日中戦争開始

1937.11 日独伊防共協定

1938.3 カルデナス大統領、石油国有化(メキシコ)

1939.3 ハンガリーで矢十字党結成

1939.4 イタリア、アルバニアを併合

1939.5 ノモンハン事件(日本・ソ連・中国・モンゴル)

1936.6 ピブーン首相、シャム王国からタイ王国に変更(タイ)

1939.8 独ソ不可侵条約

1939.9 ドイツ軍ポーランド侵攻 第二次世界大戦開始


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Comment

  1. より:

    ちょうどこの辺りの時代まで個人勉強が追いついてきたところです。
    更新嬉しいです!

    • SHIBA より:

      閲覧ありがとうございます。昨今の情勢下、ちょうど戦争に関する記事を出すのは心苦しいのですが、前向きなコメントを戴きまして、こちらも励みになります。

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