インドネシアの首都がジャカルタから移転するのはなぜ?
ご存知の方もいるかと思いますが、最近(2022年)インドネシアの首都がジャカルタから移転することが決まった、というニュースが流れました。日本でも東京から首都を移転する構想がありますが、インドネシアの今回の決定には、どんな背景があるのか。探ってみようと思います。
世界最大の島国
インドネシアは東南アジアにおいて面積、人口ともに最大の国です。その国土は大小1万を超える島々からなり、インドネシア全体が約190万km2と、日本やイギリスの数倍の広さを持つことから、「世界最大の島国」とも称されています。人口は2億7千万と、中国、インド、アメリカに次ぐ世界第4位。大国化するポテンシャルを十分に持った国として注目されています。
この地域に島が多いのは、環太平洋造山帯とアルプスヒマラヤ造山帯がぶつかる、非常に造山運動(地殻変動みたいな運動)が盛んな地域なため。それゆえ日本と同様、火山や地震の多い地域でもあります。例を挙げれば、2004年末にスマトラ島沖で起きたマグニチュード9.2の巨大地震と、それに伴い発生したインド洋大津波は、世界に衝撃を与えました。
ジャワ島の歴史
さて、この巨大島国インドネシアですが、驚く事にその人口の約半数(1億人以上)がジャワ島に集中しています。ジャワ島の面積は13万km2。インドネシアを構成するニューギニア島、ボルネオ(カリマンタン)島、スマトラ島といった島は言うに及ばず、日本の本州よりも更に狭い島です。
ジャワ島の人口がこんなに多いのには、島の地形が関係しています。ジャワ島は火山の密度が高く、周囲の島と比べて土壌が肥えていて農業に適した環境にありました。その為古くから農耕社会が営まれ、王国のような高度な社会を早くから生み出していました。現首都のジャカルタもジャワ島の西部に位置しています。
文化面では、特にインドから文字や仏教、ヒンドゥー教が伝わります。ジャワ島中央部に位置するボロブドゥールは、9世紀頃建てられた、東南アジア最大規模の仏教遺跡です。
↑ボロブドゥール遺跡
ジャワ島ではその後もいくつかの王朝が興亡し、中でも13世紀末に興ったマジャパヒト王国は、ジャワ周辺の島々を従える大国となります。このマジャパヒト王国はヒンドゥー教を重んじる国でした。一方、14~15世紀になると、東南アジアの海域にイスラム教徒が増えていきます。この頃インド洋を用いた海上交易が盛んになり、ムスリム商人(イスラム教徒の商人)やスーフィ(修行僧っぽい人々)も、これまで以上にやってくるようになりました。
この教えに魅了された東南アジア各地(スマトラやマレーシア)の王族達は、ムスリム商人と同じ宗教なら交易にも何かと有利!と次第にイスラム教を受け入れていき、実際その勢力を拡大。ジャワ島西部ではイスラム系のバンテン王国が強大化していきます。対するヒンドゥー系の王朝マジャパヒト王国は、この流れについて行けずに衰退していきました。ただしヒンドゥー文化はバリ島を中心に残り、現在に至っています。
オランダの植民活動
17世紀初頭、とあるヨーロッパ人がバンテン王国の地にやって来ました。オランダ商人です。大航海時代に遅れて参加したオランダは、先駆者のスペイン人やポルトガル人を猛追して世界に進出。東南アジアでは、スペイン人が現フィリピンのマニラ、ポルトガル人が現マレーシアのマラッカを拠点としたのに対し、オランダ人はジャワ島の一角にあった港町をバンテン王国から借り受け、拠点としました。これがジャカルタで、当時はオランダ人からバタヴィアと呼ばれていました。
↑ 17世紀~宗教問題とオランダの海~ より
オランダ人は日本での行動と同様、ジャワにおけるキリスト教の布教には熱を入れず、経済的利益をひたすら追求していきました。その結果、次第にジャワ産の農作物を売り出すようになり、そのために色々な手段を持って土地を奪っていきました。更にイギリスやフランスも東南アジア貿易に参入し、「ライバル国に奪われるくらいなら」と、土地の奪い合いは過熱していきます。19世紀の終わりになってオランダとイギリスとの間にようやく協定が結ばれ、ジャワ島、スマトラ島、ボルネオ島南部、ニューギニア島西部などはオランダ領に、マレー半島、ボルネオ島北部などはイギリス領となりました。この不自然に引かれた境界線が、現在のインドネシアとマレーシア、パプアニュ―ギニアの国境となります。
↑ 19世紀後半~近代から現代へ~ より(イラスト内の「後述のアフリカ」は、そっちの記事にしかありませんのであしからず。)
オランダ人は、この島々を「東インド植民地」としてまとめ、その政治的中心地もオランダ人の拠点であったバタヴィア、つまりジャワ島に置きます。そしてヨーロッパでは生産できない熱帯の作物を強制的に栽培させ、多くの富を本国に流していきました。しかし20世紀になると、こうした植民地政策に抵抗する人々が出現します。インドネシア民族主義者と呼ばれる人々です。
団結の秘訣
この民族主義者にとって一番の課題は、「オランダに対し、いかに団結して立ち向かうか」というものでした。これまでジャワ島の歴史を中心に述べてきましたが、これとは別にスマトラ島やニューギニア島の人々も独自の歴史を歩み、独自の言語や文化を持っていました。つまり、オランダ(とイギリス)の都合で強引に一つの植民地とされてしまっただけで、それまで各々独立していた島々の間には、連帯意識など、ほとんどなかったわけです。こうした人々をどうやって一致団結させるか。
そこで用いられたのが、イスラム教と言語です。イスラム教は20世紀までに東インド植民地の間に広く浸透しており、政治的にはバラバラな島民たちにある程度の共通意識を持たせる役割を果たすことができました。
また、海上交易が続いていた東南アジアの島々において、商人同士のコミュニケーションに用いられる「共通言語」というものがありました。これが改良されて、新たな共通語が生まれます。ちょうど同じ頃、「東インド植民地」に代わって、この地域を「インドネシア」と呼ぶようになっていたことから、この共通語は「インドネシア語」と呼ばれるようになります。このインドネシア語を用いることで、本来ジャワ語しか話せないジャワ人と、アチェ語しか話せないスマトラ島民が会話できるようになり、「自分達は同じ国の人間、仲間だ!」という意識を芽生えさせることができる、と考えたのです。
このような運動を軸に、インドネシア民族主義者達は、20世紀初頭から次々と政治組織を作りますが、その中で後の歴史に大きな影響を与えたのが、1927年結成されたインドネシア国民党でした。その党首スカルノは、インドネシア語を武器に、植民地下の人々をまとめ、最終的にはオランダからの独立を目指すことになります。
第二次世界大戦中、東南アジア全体を影響下に入れようとした日本軍がインドネシアに侵攻すると、同じくオランダを追い出したいと思ったスカルノもこれに協力。1945年に最初の独立宣言を出します。しかしその直後日本は敗退し、オランダの支配が復活すると、国民党は遂に独立戦争を起こしました。
人も富もジャカルタに集中!
激しい独立戦争の末、1949年インドネシアは遂に独立を果たします。それと共に首都バタヴィアは、元の名前ジャカルタとなりました。以後、初代大統領となったスカルノや、1965年に彼を打倒したスハルト大統領の元、インドネシアは新しい国造りを進めていきます。
しかし、両者とも首都ジャカルタにて強権を振るったため、どうしてもジャカルタやジャワ島優先の政策が実施されるようになりました。他の島からは、「インドネシア国民の統合をうたっているのに、結局ジャワ第一主義かよ!」と不満が生じていきます。特に大きな不満を持っていたのが、旧ポルトガル領で1975年強引にインドネシアに組み込まれてしまった東ティモールと、スマトラ島最北部で、オランダの植民地化に最後まで抵抗したアチェでした。
東ティモールは1998年にスハルト独裁政権の崩壊した後、2002年にインドネシアから独立。これを見たアチェでも独立を求める武力衝突やテロが起こりましたが、2004年末のスマトラ島沖地震で大きな被害に遭い、その復興を当時のユドヨノ大統領が支援したことで、現在は関係を改善しつつあります。
このようにジャカルタやジャワ島への一極集中は、独立志向の強い地方との格差や不平を生み、長期的にはインドネシア解体を招く恐れがありました。加えて都市人口の急増は、東京などと同様に、騒音、渋滞、大気汚染といった都市問題を引き起こしています。また、冒頭にも触れた通りインドネシアは地震大国、火山大国であり、もしジャカルタに大規模な災害が起これば、インドネシア全体が大きな影響を受けるとも限りません。このような事情から、首都の移転が計画されて、遂に実行に移される運びとなりました。(更にうがった見方をすれば、ジョコ現大統領の支持率が良くないので、本人としては何か大きな成果を残したい、という個人的な事情もあったりするのかもしれませんが…)
新首都の所在地がボルネオ島南部となったのは恐らく、「地理的にインドネシアの中心に近い」、「ボルネオ島は開発が進んでおらず、人口も少ないため、計画的な都市をゼロから作れる」などのメリットがあったからだと思われます。しかし緑豊かなこの島に都市を築くことで環境破壊が進むのでは?という別の懸念もあり、必ずしも“いいことづくめ”とはいかないようです。