世界史に(あまり)出てこない国の歩み~チリの歴史~
今回は日本のほぼ真裏に位置する南米のチリについてです。チリといえば、南北に細長~い国土で知られています。
チリの地理
いきなりダジャレかよ、と思ったアナタ。ダジャレです(笑)
チリは南アメリカ大陸の太平洋側に位置する国で、面積は75.6万平方キロメートル。日本のほぼ2倍という広さです。
東はアンデス山脈が走り、これを隔ててアルゼンチンと接しています。北ではペルー、ボリビアと接しています。西側には太平洋が広がっていますが、海底には大陸プレートと海洋プレートの境界があり、日本と同様地震の多い国です。そして、本土から数千キロ離れたところに、モアイ像で有名なイースター島が浮かんでいます。ここもチリ領です。
しかし、その最大の特徴は、なんといっても国土の細長さ!最北部と最南部の緯度を見ると、南緯20度~55度ほど。サンゴ礁と流氷を国内で見られる日本でさえ、北緯25~45度くらい(有人島に限る)なのに・・・それゆえチリ国内では、砂漠と氷河の両方を見ることができます。
古代アンデス文明とチリ
南アメリカ大陸に人類がやってきたのは、およそ1万年前。南極と離島を除く5大陸では、最も人類の進出が遅い大陸でした。このうち、アンデス山脈の西側に住み着いた人々は、ジャガイモを中心とした農耕や、リャマ、アルパカを用いた畜産業を開始。古代アンデス文明を築いていきます。
アンデス文明の中心地は、現在の国で言えばペルーでした。地上絵で有名なナスカ文化や、鮮やかな模様の土器を多数作ったモチェ文化、チチカカ湖周辺に大神殿を築いたティワナク文化などはその代表格といえます。これらを最終的に統合したのが、かのインカ帝国でした。
ではチリはというと、現在砂漠地帯となっているチリ北部のアタカマ地方がアンデス文明圏に含まれ、高度な文化を持っていたといわれています。それより南はインカの支配も届かなかったようで、様々な社会集団が、主に農業と牧畜を生業としながら暮らしていました。マプチェ族はその中で最も大きな集団の一つで、現在のチリ国内で暮らす先住民としては最大です。
古代の南アメリカ大陸では、インカ帝国でさえ文字を持たなかったため、スペイン人がやって来る以前については遺跡や伝承に頼るほかありません。まだまだ分からない事だらけです。いずれにせよ南北に細長く、地形も気候も地域によってバラバラなチリでは、昔から多様な社会が築かれていた、これは間違いないでしょう。
スペイン人の征服
ヨーロッパ人が南アメリカ大陸にやってきたのは16世紀のこと、日本では戦国時代です。インカ帝国は1533年、スペイン人ピサロ達によって征服され、その周辺にも支配地を広げていきました。
マプチェ族らチリの先住民たちも、間もなくこの「征服者」を相手に戦わなければなりませんでした。数では勝る先住民でしたが、相手は鉄砲という反則的な武器を持っており、最終的には敗北。それでも彼らの抵抗は17世紀末まで100年以上続き、植民地化された後も何度かスペインに対し反乱を起こしています。
なお、「チリ」という名前の由来については諸説あります。彼ら先住民の言葉で「地の果て」「寒い土地」を意味する言葉が「チリ」だったという説、あるいは部族長や川の名前がその由来になったという説もあるそうです。(参考:KAWADE夢文庫『国名から世界の歴史がわかる本』博学こだわり倶楽部編)
スペイン人はメキシコからチリにかけて広大な植民地を手に入れました。南アメリカにおける支配拠点として、現ペルーの首都リマが築かれ、ここにスペイン国王の代理として副王が置かれました。
チリは形式上、このペルー副王領の一部でしたが、リマから離れていたこともあり、事実上半独立の植民地でした。後にチリの首都となるサンティアゴも1541年、マプチェ族との戦いの最中に建設されました。
植民地時代のチリ
巨大な植民地は、土地不足に悩んでいた貧しいヨーロッパ人を引き付け、南アメリカへの移住が盛んになっていきます。サンティアゴ周辺はヨーロッパの気候に近かった(地中海性気候)ため、小麦やブドウ(ワイン)の生産、輸出が行われるようになります。
しかし17世紀以降になると本国スペインの力が弱まり、イギリスやフランスも新大陸に進出。18世紀になるとスペインはすっかりこれらの国の後を追いかける存在になっていました。
これではアカン!とスペイン王室は、ブルボン改革とよばれる政策を実施。それまで国王が独占していた貿易を、一般人にも開放して、経済を活性化させていきました。チリでも農作物の輸出量が増えたほか、鉱山の開発も進められます。中でも「銅」は国を支える主要産業になっていきました。
一方、ヨーロッパから様々なモノや情報が入るようになり、当時フランスなどに生まれていた新しい思想が入っていきます。この頃には、新大陸生まれ、新大陸育ちのヨーロッパ系住民(簡単にいえば白人)も相当数いたのですが、それまで知らなかった、身分や宗教に縛られない自由な生き方がある事を知り、スペインによる植民地政策に疑問を持つ人々も出てきました。
1776年には、同じアメリカ大陸で、合衆国が独立を宣言し、イギリス支配から脱しました。1789年には自由を求めるフランスの民衆が革命を起こし、1804年には、そのフランスに支配されていた黒人奴隷たちが、カリブ海で独立国ハイチを立ち上げました。南アメリカのヨーロッパ系住民達の間にも本国からの独立を望む声が次第に高まっていきます。
チリの独立
1806年そのチャンスがやってきました。スペイン本国がナポレオンに征服されたのです。自由を求める知識人(自由主義者)を中心にラテンアメリカ各地で独立宣言が出されました。チリでも1810年、総督が追放され、独自の政府が設置されました。
しかし、副王をトップとするペルーの軍隊は、こうした動きを次々と鎮圧。チリでも独立を望む人と望まない人が対立する中、1814年ペルー軍に占領されてしまいます。独立派のリーダーだったオヒギンスは、アルゼンチンに亡命。ここは独立を達成した数少ない国のひとつでした。
ただ、このままではアルゼンチンもペルー軍に押しつぶされるかもしれない。やはりすべてのスペイン植民地を解放せねば。この思いから立ち上がったのが、アルゼンチンの将軍サン・マルティンでした。サン・マルティンはオヒギンスと共にチリに侵入。1817年チャカブコの戦いでペルー軍相手に決定的な勝利をおさめ、1818年今度こそチリは独立を達成します。サン・マルティンはその後、リマから副王を追放し、ペルーの独立をも成し遂げました。
南へ北へ、伸びる領土
独立後、初代大統領にはオヒギンスが就任。新しい国づくりが始まりますが、何を始めるにも最初は大変。今まで独立に向かって団結していた人々が、「目的は果たしたけど、じゃあ、どんな国にする?」かを巡って、もめだしてしまいます。
ようするに、スペイン植民地時代うまくやっていた人は、その政治制度などをそのままにして欲しいと思うし、逆にツラい思いをしていた人は、制度を変えたいと思うワケで。この保守派と自由主義者の対立は、中南米諸国の多くの国で生じましたが、チリでは比較的早くこれを解決。オヒギンス退任後、実力者となったポルターレスら保守派が19世紀半ばまで政権を担当し、その後1860年代から自由主義政権へとシフトしていくことになります。
また、国境を巡る隣国との対立も深刻化していきます。植民地時代はみんなスペイン領だったので、所属のアイマイな土地が多少あっても大きな問題にはなりませんでした。が、もう今は別々の国。しかも独立ホヤホヤで、政府も上記の通り固まっていない状態。国境線は何度も書き換えられ、国自体が分裂したり統合することも多々ありました。
1836年、チリの隣国であるペルーとボリビアが連合し、一つの国になったことがありました。ポルターレスは大国の出現を恐れて反発。この後チリは軍隊を派遣して、1840年解体に追い込んでいます。
この2か国とは1870年代にも戦争をしています。舞台はさっきちょこっと出てきたアタカマ地方です。ここは砂漠地帯なので別に国境がアイマイでも良かったのですが、19世紀半ば、この不毛と思われた大地に「硝石」が埋まっていることが判明!硝石とは火薬の原料となる貴重な資源。
この資源をめぐって、アタカマ砂漠はオレのモンだ、いや我が国のモンだ!という醜い争いが。この結果チリは1873年、ペルー・ボリビアの2か国相手に戦争を開始。その名も太平洋戦争といいます。戦争はチリの勝利で終わり、アタカマ砂漠を領土に組み込みました。
一方、東隣アルゼンチンとの国境線は、おおむねアンデス山脈上に引かれましたが、最南部のパタゴニア地方を巡る対立がありました。ここはもう南極にも近い寒冷地なのですが、両国とも相手に取られまいと競うように開発を進めていきました。こうしてチリは、南北に領土を広げ、今のように細長~い国となっていきます。
経済のゆくえ
銅や硝石の輸出により、チリの経済成長は順調でした。街並みは整備され、鉄道も敷かれ、産業も大規模なものになっていきます。しかしこのような鉄道建設や鉱業の近代化を進めたのは、外国企業、特にイギリスやアメリカの会社でした。
つまり、日本は自動車を大量に造っているけれど、よく見たらフォルクスワーゲンやフォード社の工場ばっかりだった、みたいなもの!
チリで生み出される利益のかなりの部分が本国へ吸い取られ、チリ人はごく少数の裕福な上層部と、貧しい労働者ばかりといった問題が生じていました。
チリ経済にはもう一つ弱点が。当時は輸出品が少数の原材料にかたよっている状態、いわゆるモノカルチャー経済で、これは経済や財政を不安定化する要因でした。1914年ヨーロッパで始まった第一次世界大戦では、火薬の原料である硝石の輸出が伸びましたが、戦争の途中で人工硝石が開発されると、その価格は低下。
更に戦争が終わって火薬が使われなくなると、価格は更に暴落!こうしてチリの財政は危うくなり、そのシワ寄せは最下層の労働者に及ぶように。こうした経済体制や社会体制は、チリを含む中南米諸国共通の課題でした。
1929年アメリカで大恐慌が起こると、この国と深く結びついていたチリも大打撃!いわゆる世界恐慌です。労働者の怒りは1932年爆発し、クーデターで社会主義政権が発足するまでになります。しかしこの政権も状況改善できないまま短命に終わりました。
チリの景気が回復するのは1940年代になってから。というのも、それまで欧米から輸入していた工業製品が第二次世界大戦のために入ってこなくなり、もうチリ国内で作るしかなくなっていたのです。このため皮肉にもチリは工業化による成長を実現。単なる材料輸出国ではなくなっていきます。
冷戦時代と独裁政治
第二次世界大戦後、世界は冷戦の渦に巻き込まれていきます。チリを含む中南米は、半強制的にアメリカ陣営に組み込まれ、その中で社会主義や共産党は押さえつけられていきました。
しかし貧富の格差の激しいこれらの国では、経済の平等を掲げる社会主義に魅力を感じる人も少なくありませんでした。特に1959年、キューバ革命でカストロ社会主義政権が発足すると、貧困層を中心に格差の縮小を求める声が高まっていきました。
なお、この翌年(1960年)には、チリ沖でM9.5という観測史上世界最大の地震(チリ地震)が起き、チリ本土のみならず、ハワイやニュージーランド、地球の真裏にある日本にも津波が押し寄せました。この真逆の事態となったのが2011年の東日本大震災で、やはり日本沖で発生した津波が太平洋を越え、チリ海岸にも押し寄せています。太平洋の国は運命共同体なのです!
話を戻しますと、1964年フレイ大統領の元で「自由の中の改革」が行われます。この政策には農地改革、つまり大地主の土地を取り上げ、細かくして貧しい人に配分する政策の実施も含まれていました。やはり大地主が富を独占している状態をなんとかしようとしたわけです。しかし経済力を持っている地主の反対は抑えきれず、農地改革は不徹底に終わりました。
そこで1970年、大統領になったのが、社会主義を掲げるアジェンデでした。チリは選挙によって社会主義国となった初めての国となります。彼は不発に終わったフレイの農地改革を徹底的に行い、チリの大土地所有制を解体。更に年金、養育費、医療費などを手厚くする福祉政策を重視。貧困をなくそうとします。しかしこの事は当然、政府の出費を増大させることになりました。
赤字に悩む中、社会主義を嫌がるアメリカとも対立し、アジェンデ政権は追い詰められていきます。そして1973年、アメリカCIAの支援を受けたチリ軍がクーデターを起こし、アジェンデを自殺に追い込みました。
その後、ピノチェト将軍による、チリ史上初の軍事政権が発足。ピノチェトは福祉政策を転換し、経済のグローバル化を進める新自由主義に舵を取りました。この結果赤字は解消され、「チリの奇跡」と呼ばれる経済成長を実現。一方で失業者は増加し、またもや貧富の格差は拡大してしまいます。しかもピノチェトは議会を停止し、言論弾圧を行うなど、強力な独裁政治を続けていきました。
落盤事故の救出
チリと同様、ブラジルやアルゼンチン、ペルーといった他の南アメリカ諸国でも当時軍事政権が続いていました。しかし1980年代には彼らの限界が見えてきて、民政移管(軍人から一般人に政権を返すこと)が行われていきます。その最後を飾ったのがチリで、それは1990年の事でした。以後チリでは民主的に選ばれた大統領が続いており、一方のピノチェトは大統領引退後の1998年、人権侵害の罪で逮捕されています。
民主主義政権の元、少しずつ状況が改善されてはいるものの、チリの貧困率は依然として高く、労働環境も過酷なところが少なくないようです。2010年にはチリの銅山で大規模な落盤により作業員が閉じ込められる事故が発生。作業員は幸運にも全員が救出され、世界的にも注目されましたが、逆に言えば、落盤などの危険と常に隣り合わせで働く人々がまだまだチリにも多いということです。
また、近年(2019~20年)は、世界経済の低迷に巻き込まれ、チリ財政はまた赤字に。そのため政府は公共料金の値上げを強いられ、これが貧しい人の生活を圧迫した結果、大規模な反政府デモが起きました。チリの人々が、その国土のように細く長く生きる術を見つけられるのか。その模索は続いているようです。