18世紀後半~独立革命・産業革命・市民革命~
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前回(1760年まで)に引き続き18世紀を見ていきます。この時期、イギリス人は七つの海を制覇し、アジアやアフリカ、オセアニアといった地域に進出してその存在感を大きくしていきました。また、ユーラシア北部に広がるロシア帝国は、南下政策、つまり南へ影響力を拡大する政策を採り、西アジアや中央アジアと衝突していきます。
一方、ヨーロッパ人の中には、古い身分制社会を壊して新しい世の中を創ろうという動きが活発に。アメリカとフランスは、それが最も劇的に起こった国でした。他方、イギリスでも産業革命という大きな社会変動が起こります。
もくじ
アメリカ・カナダ
イギリス・プロイセンVSオーストリア・フランスが対決した七年戦争。これに連動し、北米大陸でも英仏の植民地が戦っていました(フレンチ・インディアン戦争)。両戦争とも1763年に終わりますが、イギリスは、北米のフランス植民地、ヌーベル・フランス(新しいフランスの意味)を奪います。後のカナダ、ケベック州を中心とした地域です。
これと前後してイギリス政府は、アメリカ大陸入植者から高い税金を取って、植民地経営に充てようとしました。しかし、これが植民地側の同意なしに行われたことから、アメリカ側は「代表なくして課税なし!」と反発。1773年には、有名なボストン茶会事件も起こります。
本国政府のやり方に対し、アメリカ植民地の人々は1775年頃から蜂起し、1776年7月4日に独立を宣言。アメリカ独立革命が起こります。イギリス政府は当然これを弾圧しようとしますが、イギリスに恨みを持つフランスが、アメリカ側を支援したこともあって独立に成功。1781年には、イギリス本国以上に民主主義を前面に打ち出した合衆国憲法が作られ、これをもとに89年、独立戦争で活躍したジョージ・ワシントンが初代大統領に就任しました。
一方、入植者の中にも独立を望まない(イギリス側に残りたい)人が数多くいました。彼らは英植民地のままだったカナダへ亡命します。元々フランス系住民の多かったこの地に大量のイギリス系住民が入ってくることになり、カナダは以後、両住民の関係に悩まされることになります。
中南米・スペイン・ポルトガル
18世紀頭に、ハプスブルク家からブルボン家に主の代わったスペイン。英仏にすっかり追い越されてしまったこの国を建て直さんと、ブルボン改革と呼ばれる政策が行われるようになります。その目的は、国王の権限を一層強化し、統治体制を効率化することでした。それを最も強力に推し進めたのが、1759年即位したカルロス3世でした。
まず、王室が独占していた中南米植民地との貿易を一般のスペイン人にも開放して、より貿易を活発化させました。そして、本国から国王直属の役人(インテンデンテ)が送り込まれ、税の強化や汚職の取り締まりを厳しくしていきます。また、広大過ぎるペルー植民地を再編して、ヌエバ・グラナダ副王領(これは18世紀前半に設置)、ラプラタ副王領を新たに設置。これが現在の南米諸国に引かれた国境線に繋がっていきます。
ヌエバ・グラナダ(現コロンビア、ベネズエラ等)はカカオ豆の一大産地として経済的に豊かでした。また、ラプラタ(現アルゼンチン、ウルグアイ等)は大西洋側に位置しており、太平洋側のペルーよりスペイン本国に近いという利点がありました。この結果、各々の貿易港だったカラカスやブエノスアイレス(現在のベネズエラ、アルゼンチンの首都)には、多くの人や情報が出入りするようになります。
ポルトガルとその植民地ブラジルでも、ポンバル伯爵による経済の強化政策が行われました。1755年、首都リスボンで大地震が起き、その再建のために特産品のワイン製造を改良したり、ブラジルのダイヤモンド鉱山を王室の直接管理下に置いたりしました。
ところで、アステカやインカをスペイン人が滅ぼしてからすでに250年以上。現地生まれのスペイン系住民(クリオーリョ)は相当な人口に達していましたが、インテンデンテなど本国から派遣されてくる政治家や官僚(ペニンスラール)より低く見られていました。これに不満を持っていたクリオーリョ達は、同じ「アメリカ大陸」の植民地が独立を達成したこと、そして貿易自由化により、ヨーロッパから進んだ思想が大量に入ってきたことに影響され、次第に「自分たちも独立するべきじゃないか?」と感じるようになっていきます。
日本・朝鮮・中国
18世紀前半に活躍した徳川吉宗は、西洋からの書物にかけた制限をゆるめ、キリスト教に関係ない学問であれば、輸入販売しても良いとしました。この結果、西洋の学問(蘭学)が発達。杉田玄白が、オランダ医学書の翻訳版『解体新書』を出版したり、平賀源内が、電気の発生装置エレキテルを修理、披露したのも、18世紀後半のことです。
政治面では、将軍に代わって老中の田沼意次が幕府の中心人物となります。彼は干しナマコなど新しい輸出品(俵に詰めたことから、俵物と呼ばれました)を造ったり、商業組合として、株仲間を結成させたりして経済を活性化させようとしました。しかしワイロなどの汚職が蔓延したことに加え、1783年には、浅間山の大噴火などによる天明の大飢饉が起こり、その混乱の中失脚してしまいました。
田沼のライバルだった松平定信が老中となり、備蓄米の導入(飢饉対策)、罪人更生施設の建設(治安対策)といった寛政の改革を行います。しかし一方で汚職追放のために引き締めを強くし過ぎたため、民衆の支持を失いました。
朝鮮では、英祖を継いだ正祖の時代でした。この王の元では、実学派(現実社会に見合った学問を重視)の官僚が活躍。中国やヨーロッパの先進的な考えや技術を受け入れつつ、社会改革を訴えました。例えば朴斉家という学者は、国を豊かにするには経済活動が肝心と考え、労働を軽視していた両班(貴族層)には商業をさせるべしと主張。また、丁若鏞は、土地の所有者は貴族ではなく、実際に耕作している農民であるべしとし、農民から小作料を搾り取って生きている両班をやはり批判しています。
実際庶民の多くは苦しい生活を強いられ、天主教(キリスト教のこと)に入信する人が続出。これに対し、新しい宗教が国内を乱すとして、1791年にはキリスト教徒の弾圧(珍山の変)も起こっています。現在でも韓国では、キリスト教徒が結構な割合を占めているのだとか。
中国(清)では、6代目皇帝乾隆帝の時代がまだ続いていました。18世紀前半から後半にかけて、清は周辺国を次々と従え、その面積は史上最大となります。この中には現在民族問題を抱えているウイグル(新疆ウイグル自治区)やチベットも含まれていました。
乾隆帝は対ヨーロッパの貿易港を広州に限定し、イギリスなどとの貿易を独占して巨万の富を築いていました。紅茶好きなイギリス人は、中国から大量のお茶や陶磁器(カップやお皿に使用)を輸入していましたが、一方で中国人がイギリス人から買うものはほとんど無い。貿易赤字に悩むイギリス人は、何か中国人に売れるものは無いかと考えます。その結果思いついたのが、アヘン(麻薬の一種)でした。
オセアニア
ヨーロッパで科学技術の進んだ18世紀後半、太平洋の探索と、島民との接触は更に進んでいました。中でも18世紀後半を代表する探検家が、イギリス人航海士ジェームズ・クックです。
クックはそれまでおぼろげにしか分からなかったオーストラリアの沿岸部を詳しく探索し、その南東部をイギリスの植民地としました。無論、先住民アボリジニーには何の断りもなく。この直後、イギリスの植民地だったアメリカが独立してしまったため、オーストラリアはアメリカに代わる、移民や流刑者の受け入れ先となっていきます。
クックはまた、3回目の航海でヨーロッパ人として初めてハワイにも上陸。当時のハワイには複数の王国が乱立した状態で、その争いに巻き込まれて、クック自身も1779年この地で殺害されてしまいました。なおハワイがアメリカ領となるのはまだ100年以上先の事です。
東南アジア
1752年成立したビルマ(ミャンマー)のコンバウン朝は、内紛で弱っていたシャム(タイ)の王都、アユタヤを1767年攻略。400年続いたアユタヤ王朝はこうして滅亡しました。しかし、タイ側の復興は素早く、地方領主のターク・シンが、トンブリーに新しい都を建設。このトンブリーは現在のバンコク郊外にあたります。
トンブリー王朝は、分裂したラオスを攻めてこれを属国化するなど強力でしたが、結局ターク・シン王1代で終わり、その家臣チャクリが1782年、ラーマ1世として即位。これが現在のタイ王国王家に通じる、チャクリ王朝です(2020年現在の王はラーマ10世)。一方のビルマは、北隣の中国(清)との争いが始まってしまい、タイ征服は失敗に終わりました。
ベトナムでは、17世紀頃から阮一族が南部の広南地方を治めていました。ベトナムには阮さんが非常に多いので、この一族を特に広南阮氏と呼びます。
広南阮氏は、北の大越国(今のベトナム北部)と争い続け、庶民を疲弊させていました。これに対し、阮文恵ら別の阮一族(こちらは西山阮氏と呼びます)が反乱を起こし、1777年に広南阮氏を滅ぼします。
更に阮文恵は北上し、大越国へ。ハノイにいた黎氏や鄭氏をも倒して、新たに西山朝を開きます。この結果、大越国と広南国も統一されました。
一方、広南阮氏の生き残り、阮福暎はタイへ逃れ、一族復活のチャンスを待ちました。この時頼りにした人間の中に、フランス人の宣教師がいたことが、その後のベトナム史に大きな影響を与えることになります。
インドネシア近海では、英仏蘭による貿易戦争が激化していました。ジャワ島のバタヴィアを拠点とするオランダ人は何とかこの地にとどまろうと、同じジャワ島のバンテン王国やマタラム王国の政治にも露骨に干渉。遂には武力をもってこれを支配下に置きました。また、マレー半島にあったジョホール王国も1782年、ブギス人の副王がオランダに倒され、事実上その支配下に入ることになります。
インド
東南アジアと同様に、ヨーロッパ諸国がアジア貿易で重視していたのがインドです。対インド貿易の覇権争いに勝ったのはイギリスでした。18世紀当時、ムガル帝国の力はすでになく、マラータ(インド中西部)、マイソール(インド南部)、ベンガル(後述)といった国に分かれていたインドでは、団結してイギリスに立ち向かうという意識は生まれませんでした。
この内イギリスが最も重視していたのが、経済力があったベンガル地方、つまり現在のバングラデシュからインドのコルカタ周辺です。1757年、現地の君主と対立したイギリスの東インド会社は、プラッシーの戦いでこれを破り、現地の政治経済に強い影響力を持つようになります。すなわちインド植民地化の第一歩がここに始まることになります。
1764年、またしてもベンガルとの東インド会社と間に戦いが起こり(バクサールの戦い)、これにも勝利した同社は、なんと企業でありながら、現地インド人から税金を取ることを認められました。こうして東インド会社は次第に、政府のような組織へと変貌していきます。イギリス人はこの後、マラータ王国などとも戦争を繰り返し、支配地を広げていきました。
中央アジア・イラン
中央アジアには当時、オアシス都市ブハラを中心とした国(ブハラ・ハン国)や、同じくヒヴァを中心とした国(ヒヴァ・ハン国)がありましたが、18世紀後半、タシケントなどを中心とした勢力が、弱体化したブハラから分離(コーカンド・ハン国)しています。
イラン(ペルシャ)でも18世紀の後半は不統一の状態が続きました。この状況は、1795年カージャール朝が成立し、ようやく安定を取り戻しますが、かつて繁栄を誇ったサファヴィー朝と比べるとその範囲は大きく縮小。特にサファヴィー朝から分離したアフガニスタンは、この先独自の王朝を維持していくことになります。
そしてこれらの地域に北からジワジワと迫ってきたのが、ロシアでした。
トルコ・アフリカ
かつての勢いを失いつつあったオスマン帝国もまた、北隣のロシア帝国に脅かされるようになっていきます。後述のように、ロシアは南へ南へと征服地を拡大しており、それまで「オスマン帝国の海」だった黒海にも進出。ロシアとトルコの対立は19世紀以降、更に激しさを増していきます。
中央政府の弱体化は地方の自立をうながしていきますが、オスマン帝国の支配下にあったバルカン半島、シリア、エジプトなどでも、イスタンブールのスルタンに歯向かったり、その意向を無視したりする動きが見られました。
中でもエジプトは地中海と紅海の間に位置する交通の要所で、海外進出を積極化していたイギリスは特にこの地を重視してしました。1798年、そのイギリスを困窮させようと、とあるフランスの軍人が兵を連れてエジプトにやって来ることになります。
アフリカでの奴隷貿易はピークを過ぎたものの、依然として多くのアフリカ人が売買されていました。イスラム改革を目指すフラニ聖戦も、18世紀前半に引き続き北西アフリカで激しく行われていました。
ロシア・ポーランド
18世紀後半を代表するロシア皇帝といえば、エカチェリーナ2世です。実はドイツ生まれの彼女は1762年即位後、進んだ西洋の行政制度を多数導入したほか、芸術や学問も支援。後に美術館となるエルミタージュ宮殿が建ったのもこの時代です。
エカチェリーナ2世は、ロシアの強国化のため、ただでさえ広い領土を更に拡大していきました。前述のように中央アジアや西アジアに進出したほか、1783年にはクリミア半島を支配し、黒海にも大きな存在感を示しました。極東に置いては、ラクスマンやレザノフを派遣し、当時鎖国中の日本と交渉を持とうとしました。
更に1772年代にはポーランド王国に圧力をかけて、その東半分を分割。このポーランド分割には、オーストリアとプロイセンも参加し、各々ポーランド領をぶんどっています。
最後のポーランド王、スタニワフ2世は、元々エカチェリーナによって送り込まれた彼女の家臣だった人物でしたが、ポーランドの生き残りをかけて、政治の主導権を貴族から取り戻し、アメリカ合衆国憲法にならった憲法の制定(1791年)も行っています。
しかし1793年2度目のポーランド分割が行われ、王国はさらに縮小。翌94年には、アメリカ独立革命にも参加していたポーランド軍人コシューシコが、母国のために反乱を起こしました。しかしその思いは報われず、1795年の第3回分割によって、ポーランド王国は地図から消滅してしまいました。
北・中欧
絶対王政を敷いていた国王の死により、18世紀前半から「自由の時代」を迎えていたスウェーデンですが、1771年即位したグスタフ3世は再び絶対王政を敷いて、貴族の力を抑え込みました。彼は近代的な啓蒙思想(後述)にも反対しており、旧態依然の社会を強引に維持しようとしたため、結局1792年に暗殺されました。逆にデンマークでは、このような社会を変える改革がフレデリク皇太子らによって少しずつ進められました。
ハプスブルク家率いるオーストリアでは、女帝マリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世が近代改革を行っていきます。マリア・テレジアは、自身に権力を集中させつつ、教育や外交の面で現実に見合った政策を行いました。かつての宿敵フランスと同盟を組んで、プロイセン王国に対抗しようと試みたのは、18世紀前半の記事にも書きましたが、その象徴として、彼女の娘が1770年、フランス王家に嫁ぐことになります。ご存じ、マリー・アントワネットです。
工業地帯のシュレジエン地方をプロイセン王国に奪われたことから、当時ハプスブルク家の領地だったボヘミア(現チェコ)地方が新たな工業の中心となります。こうして政治的、経済的な発展を見た当時のオーストリアでは、芸術文化も華やかでした。マリア・テレジアお気に入りの音楽家には、かのモーツァルトがいます。
1780年マリア・テレジアが死去。息子のヨーゼフ2世は、改革のスピードを更に上げました。農民への締め付けをゆるめたり(農奴解放)、国内の一体化を図るため、全土にドイツ語を広めようと(言語令)したりしました。しかしあまりに急すぎた彼の改革は、保守層の反対にあいます。特にハプスブルク家下にあったハンガリー人は、ドイツ語の押し付けに反発。かえって彼らの民族主義に火をつけることになりました。
イギリス(産業革命)
当初イギリスの東インド会社は、インドから大量に綿製品を輸入していました。逆にイギリス伝統の毛織物は、暑いインドでは売れません。そこでイギリスでも安く良質な綿織物を作って、輸入量を減らそうとします。
こうして効率的な機織り機が続々と開発されていきました。機械の登場です。機械の登場に伴って、それを動かすエネルギーの研究が行われました。この結果、ジェームズ・ワットらによって蒸気機関が生まれることになります。石炭という大きなエネルギーを用いた蒸気機関は、生産のスピード化や大量生産を可能としました。
この頃、農村では、農地を効率的に利用した大規模農業が行われるようになりました。その持ち主、つまり地主は、小作人に細々と農業を行わせるのをやめて、よりハイレベルな農業ビジネスに乗り出します。これは農業革命と呼ばれます。
農業革命や人口増による土地不足の結果、土地を追い出された多くの農民が、ロンドンなどの都市にあふれていました。すると、機織り産業の経営者は彼らを工場の労働者として雇うようになります。無理やり働かせる奴隷と比べて、自発的に働いてくれる賃金労働者なら、生産性も高くなります。こうしてイギリスの農業でも工業でも、資本主義経済が広まっていき、それに伴って人々の生活形態も変わっていきました。
この一連の流れが、産業革命で、以後、イギリスから世界に広まっていくことになります。
フランス
新大陸への進出などにより経済の発展したフランスでは、国内の流通、つまり人やモノの行き交いも活発化していきます。すると多様な立場の人々(貴族、学者、商人)の間にも交流が生まれ、それまでの身分制度を崩していきました。その中で、モンテスキューやルソーのような、民主主義や自由、科学を貴ぶ考えも広まりました。このような考えを啓蒙思想と呼びます。
啓蒙思想の高まりによって批判の対象となったのが、絶対王政を敷くフランス王家でした。経済発展の裏で重税は人々を苦しめ、贅沢三昧の特権身分(王や貴族)に不満を抱きます。789年その怒りが形となって火を噴きました。パリの民衆による、バスティーユ牢獄襲撃事件です。この事件をきっかけにフランス革命が始まりました。激動の革命期をここで詳しく書くことはできませんが、このフランス革命は国内外に多大な影響を与えました。しかしそれはまた、理想と現実の差をこれでもかと思い知らされるものでもありました。
同じ1789年、自由や平等を謳ったフランス人権宣言が出され、理想的な社会の実現が目指されますが、改革の度合い(穏健か急進か)や方向性の違いで、革命政府の間でも意見が分かれていきます。結果、ジロンド派やジャコバン派といったグループが形成され、互いに対立していきました。
1793年、革命の徹底を主張するジャコバン派により、旧体制のシンボルだった国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットが処刑されました。しかしこれと前後して、同じく革命を推し進めようと主張していたジロンド派の人々も大勢処刑されていました。このジャコバン派も1795年には反対派によって潰され、そのトップだったロベスピエールもまた処刑の憂き目にあっています。
フランス革命が、自由や平等といった理想の社会を目指す運動であったことは間違いありませんが、その過程で多くの血が流され、社会の混乱を招きました。これにはイギリスのピューリタン革命や、日本の明治維新にも通じる所があります。
その他ヨーロッパ
フランス革命は、国外にも大きな衝撃を与えました。他の国でも絶対王政や身分制、特権階級の人々に不満を持つ人々がおり、「フランスに続け」とばかりに行動を起こすようになっていきます。
オランダでは1795年、事実上の君主であった総督を追放し、フランス革命政府にならった新政府を樹立。国名をバターフ共和国に改めました。スイスでも門閥貴族に対する市民の反発が政権をひっくり返し、1798年ヘルヴェティア共和国を建設するに至りました。ハプスブルク家下の南ネーデルラント(現ベルギー)でも、そこからの解放を求める運動が起きています(ブラーバント革命)。北イタリアでは、1797年フランス軍の侵攻を受けたことで革命政権が発足しました。チザルピーナ共和国といいます。
これに対し、国王の権力が強い大国では、革命の波が自国に及ぶのを恐れ(放っとけばルイ16世の二の舞!)、フランスの革命政府と戦争を展開していきました。イギリス、プロイセン、オーストリア、スペインらによる対仏大同盟が最初に結ばれたのは、ルイ16世処刑と同じ1793年のことです。カントやゲーテといった、当時活躍していたドイツ人の啓蒙思想家も、当初はフランス革命を支持していましたが、革命政府の迷走が明らかになると、その動きに難色を示すようになっていきます。
周辺国をすべて敵に回すという未曽有の危機の中、フランス人は団結していきます。これが後に「フランス国民」という意識の誕生に繋がっていきました。また、この危機から脱却するために人々が「強い指導者」の登場を期待するようになります。これに応えたのが、かのナポレオン・ボナパルトでした。
主な出来事
1763 七年戦争終結。カナダがフランス領からイギリス領に(ヨーロッパ・北アメリカ)
1960年代後 ワット、蒸気機関を改良(イギリス)
1767 コンバウン朝ビルマ、アユタヤ朝シャム王国を滅ぼす(東南アジア)
1769 グルカ朝ネパールを統一(ネパール)
1770 英、ニューサウスウェールズ植民地建設(オーストラリア)
1773 ボストン茶会事件(アメリカ)
1774 杉田玄白ら、『解体新書』発行(日本)
1775 マラータ戦争~82(インド・イギリス)
1776 アメリカ独立宣言(アメリカ)
ラプラタ副王領成立(アルゼンチン)
1781 ヨークタウンの戦い(アメリカ)
1782 ラーマ1世即位。チャクリ朝成立(タイ)
1783 浅間山の噴火(日本)
エカチェリーナ2世、クリミア・ハン国を併合(ロシア)
1789 バスティーユ牢獄襲撃事件・フランス革命勃発。人権宣言(フランス)
1791 珍山の変(朝鮮半島)
1792 ラクスマン、北海道に来航し通商要求(日本・ロシア)
1793 ルイ16世およびマリー・アントワネット処刑(フランス)
1795 第3回ポーランド分割。ポーランド王国消滅(ポーランド 他)
1798 ヘルヴェティア革命(スイス)
ナポレオン、イギリスに対抗すべく、エジプトに侵攻(フランス・エジプト)
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