世界地理・世界史の謎

イスタンブールとアンカラ。トルコの中心都市はどっち?

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イスタンブールvsアンカラ
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西アジアとヨーロッパにまたがる国、トルコ。両地域が揺れ動いている昨今、年々存在感が増しているようにも見えます。

このトルコの首都は、現在アンカラという街です。しかし知名度でアンカラを上回っている(と思われる)のが、北西部の都市イスタンブールです。トルコ最大の人口を誇るこの都市は、紀元前の大昔から、非常に重要な役割を持っていました。

今回はイスタンブールを中心に、トルコ(とその近辺)の壮大な歴史について語っていきたいと思います。(アンカラも少しだけ出てきます。)

トルコと七面鳥

まずは現在のトルコの基礎データから。

人口は約8000万。日本より少ないですが、中東ではエジプト、イランに次いで、ヨーロッパで言えばロシア、ドイツに次ぐ規模です。

 

国土の大部分を占める、黒海と地中海にはさまれた長方形っぽい半島はアナトリア(ギリシャ語で「日の出の地」)と呼ばれ、そのほぼ真ん中に首都アンカラがあります。2つの海はアナトリア北西部のボスポラス海峡によって繋がっていますが、この海峡の両端を挟むように広がっているのが、イスタンブールです。イスタンブールより西は、トルコの中でも「ヨーロッパに属する」と言われることがあります。

トルコの位置

イスラム人口が多いため、豚肉ではなく、牛肉や羊肉が食べられます。シシケバブはその代表的な料理。またトルコ風アイスが有名なように、アイスクリームヨーグルトなど乳製品も食べられます。この辺はさすが地中海世界という感じですな。

 

英語ではTurkey、すなわちターキーと呼びます。実はこれ、七面鳥と同じ綴り。これは七面鳥がアジアからヨーロッパに入ってきたとき、「トルコから来た鳥」と名付けられたから、らしい。同様な経緯で「トルコの石」と呼ばれたのが、宝石「ターコイズ」です。

ギリシャのポリス、ビザンティオン

さて、トルコの歴史を振り返ってみましょう。トルコはその南側に中東(シリアやエジプト)、西側にはギリシャが位置していることもあって、その歴史も紀元前の大昔からよく知られています。

アナトリア南部には紀元前1500年頃にヒッタイトとよばれる大国が栄えました。早くからを用いていたこの国はメソポタミア文明でも強国だったとされ、またその滅亡をもって、世界に製鉄技術が広まったともいわれています。

 

紀元前8世紀頃になると、古代ギリシャ人の都市国家ポリスが地中海沿岸に造られました。ポリスといえばアテネ、スパルタがよく知られていますが、ボスポラスにも同じようにビザンティオンという都市が建設されました。これがイスタンブールの”先祖”に当たります。

ギリシャのポリス

 

しかし、ヒッタイトにしろ、ビザンティオンにしろ、その住民はトルコ人ではありませんでした。

 

当時彼らの祖先はどこに居たかというと、なんとアナトリアから遠く離れた、中央アジアの草原地帯!そこで遊牧を行いながら、時々都市文明に侵入して物資を奪う生活を行っていました。後の時代ですが、中央アジアをトルキスタンと呼ぶことがあります。これも「トルコ人の地」の意味です。

ローマ皇帝の名を採って・・・

ビザンティオンを含むギリシャ人のポリスは紀元前4世紀、隣のマケドニア王国に征服されました。そのマケドニア王国はアレクサンダー大王の時、遠くアジアにまで支配域を広げますが、その死後は分裂。この後ローマ帝国が進出し、マケドニア王国も紀元前1世紀に支配されます。

ローマが地中海を囲むようにその領域を広げたことで、この海を経由して人や物がこれまで以上に行き交うようになりました。ビザンティオンは、アジアとヨーロッパの中継地点かつ、地中海と黒海の中継地点という極めて重要な都市として注目されます。

加えて3世紀になるとアジアの地にササン朝ペルシャという大国が出現し、ローマ帝国を脅かすように。帝国は、その東部に目を光らせる必要が出てきました。

王都移転

そして4世紀、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、停滞しつつあったローマに代わり、東方のビザンティオンを帝国の新たな都としました。そして、その名をコンスタンティノープルとします。自分の名前をこの新都に贈ることで、皇帝の偉業を永遠に残すことにしたのでしょう。

千年の都

この頃すでに内部分裂を起こしていたローマ帝国は、395年完全に東西分裂しますが、この時、西帝国の都をローマ、東帝国の都をコンスタンティノープルとしました。西ローマ帝国は5世紀に滅びますが、東ローマ帝国は実に15世紀まで生き長らえました。東ローマ帝国の別名ビザンツ帝国は、帝都の旧名ビザンティオンに由来しています。

 

以後、西のカトリック世界や南のイスラム世界に対抗しながら、この帝国は独自のキリスト教宗派(東方正教)を国の軸として、ギリシャ世界やバルカン半島、ロシアにも直接的・間接的に影響を与えていきました。

 

分裂から滅亡までの1千年あまりの間、東ローマ帝国の社会もまた変化していきます。分裂前、ローマ帝国の公用語がラテン語であったのに対し、コンスタンティノープルがギリシャに近かったことから、東ローマ帝国では次第にギリシャ語が公用語になっていきました。

イスラム教とトルコ人

アラビア半島でイスラム教が誕生したのが7世紀のことです。イスラム教徒の集団はメッカを出て、豊かな穀倉地帯であるエジプトやシリアを東ローマ帝国から奪い、西アジアに大帝国を築きました。

 

イスラムの教えはやがて中央アジアにも広まり、現地の遊牧民、すなわちトルコ人(テュルク人)にも広がっていきます。そして馬を自由に使いこなす彼らは、傭兵や奴隷兵として西アジアに活躍の場を見出していきました。

適材適所

9世紀~海賊の栄光・イスラムの伝道~より

(上のイラストでは「テュルク人」となっていますが、ここではトルコ人と同じと考えてOK)

 

そして11世紀にはトルコ人による王朝も成立。セルジューク朝です。そのトップはスルタンという地位に就き、西アジア一帯に進出。トルコ人の移住も進みます。その一つがアナトリアでした。1071年には、マンジケルト(現在のトルコ東部)という場所で、東ローマ帝国軍を打ち破り、この帝国領を侵食。この世紀の末に始まる十字軍遠征の要因の一つが、このマジケルトの戦いだったと言われています。

 

やがてアナトリアには、セルジューク家の分家が王朝を構えました。(東)ローマ帝国に居を構えたセルジューク家ということで、ルーム・セルジューク朝と呼ばれています。(「ルーム」とはローマが訛った言葉。「部屋」ではないっす!)

 

この頃の東ローマ帝国は、カトリックの十字軍遠征に期待しながらも、そのカトリック系の国とは対立していました。特に地中海で影響力を持ち始めていたヴェネツィア共和国は、海の覇権を巡る強力なライバルとなっていきます。

第4回十字軍

1204年、ヴェネツィアに率いられた十字軍は、本来の目的地エルサレムではなく、ライバル国の都、コンスタンティノープルに侵攻し、これを占領してしまいました。ラテン帝国と呼ばれています。東ローマ側はアナトリア側に亡命して命をつなぎ、1261年にコンスタンティノープルを奪還しますが、この混乱によりすっかり帝国の力は落ち込んでしまいました。

オスマン帝国の登場

一方のルーム・セルジューク朝は、本家のセルジューク朝が12世紀に滅んでも、アナトリアで栄えていました。しかし13世紀にモンゴル帝国の攻撃を受けると、さすがにこの王朝も衰退。アナトリアには地方政権が乱立する、日本の戦国時代のような状況になってしまいます。(だから弱体化した東ローマ帝国も生き長らえたのですが・・・)

 

その中で頭角を現したのが、オスマン1世という人物。彼が1299年に開いたのがオスマン朝(後のオスマン帝国)です。彼とその子孫はアナトリア一帯のトルコ人をまとめあげ、更に東ローマ帝国から領土を次々と奪っていきました。

 

それだけでは飽き足らず、バルカン半島にも進出。1389年コソボの戦いでは、スルタン・バヤズィット1世の軍がセルビア王国(当時バルカン半島で最も有力だった国の一つ)軍を破るなど活躍を見せます。

トルコ行進

しかしバヤズィットは1402年、モンゴル帝国再興の野望を持った中央アジアの英雄、ティムールに大敗し囚われの身に。一時オスマン朝は危機に陥りました。これをアンカラの戦いといいます。当時アンカラはアナトリアの一地方都市に過ぎず、よもや後年トルコの首都になるとは夢にも思われなかったことでしょう。

 

ティムールが3年後に死去したこともあって、オスマン朝は素早く再建し、侵略も再開。メフメト2世統治下の1453年には、ついに東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、この千年帝国を滅ぼしました。

コンスタンティノープル陥落

オスマン帝国の都・イスタンブール

アナトリアからバルカン半島にかけて広い領地を支配するようになったオスマン朝(以後、帝国と呼ぶことにします)は、旧東ローマの都コンスタンティノープルを新たな都に定めました。

 

この大国は16世紀半ば、スレイマン1世の時代まで拡大を続け、最終的にはエジプトからアルジェリアにかけての北アフリカ、シリアやパレスティナなど中東の一部も支配。また陸地のみならず、地中海の東半分をも抑えました。東ローマと同様、ヴェネツィアとも激しく競合しました。

 

そして帝都「コンスタンティノープル」の名はいつしか、「イスタンブール」と呼ばれるようになります。ギリシャ語で「街へ」という意味らしいですが、これをトルコ人が用いていたというのは興味深いことです。

イスタンブールの繁栄

一方、東ローマ帝国が滅んでも、中のキリスト教徒までオスマン帝国に滅ぼされたわけではなく、彼らは帝国の支配を受けつつ、商業などで活躍しました。東ローマ帝国がギリシャ語を主に使っていたことから、その住民の多くはギリシャ人として扱われました。

 

ギリシャ人の多くは東方正教徒で、カトリックではないにしろキリスト教徒。ゆえに西ヨーロッパとの交易はトルコ人やアラブ人よりも積極的に行っていた傾向がありました。このため、ヨーロッパの近代的な思想(自由主義や民族主義)も早く受け入れるようになります。こうした背景もあってギリシャは、1830年、バルカン半島の中ではいち早く、オスマン帝国からの独立を達成しました。

近代化と第一次世界大戦

この19世紀頃には、かつてオスマン帝国を支えていた統治体制が緩み、スルタンや中央政府の力も地方に及ばなくなっていきました。しかもロシアを始めとするヨーロッパには戦争で敗北を重ね、19世紀を通じてバルカン半島の国々は次々と独立。一方の北アフリカはヨーロッパ諸国の植民地となり、オスマン帝国はその領土を縮小していきました。

 

こりゃいかん!と、イスタンブールの政府も西洋の軍隊を導入したり、鉄道を建設したり、憲法を制定したりと近代的な改革を行うようになりますが、いずれも保守的な反対派を抑えることはできず、不十分な結果に。

 

1908年、ヨーロッパの思想を勉強した、「青年トルコ」と呼ばれる人々が反乱を起こして、当時独裁を行っていたスルタンのアブドゥルハミト2世に憲法を認めさせる、青年トルコ革命が起こります。結局は市民による「下からの改革」が実を結んだ形となりました。

 

ところが、この直後の1914年、空前の災厄が世界を覆います。第一次世界大戦です。オスマン帝国はこの戦争で、鉄道建設などで仲良くなったドイツ帝国と手を結びましたが、この結果、英仏露を敵に回し、1918年敗北を喫しました。

トルコの父と希土戦争

第一次世界大戦の敗北は、オスマン帝国への最後の一撃となります。1919年、敗戦の混乱に乗じてギリシャ軍がアナトリアに侵攻しました

 

実はギリシャ独立後も、トルコとの国境が何度も修正され、ギリシャは領土を拡大し続けていたのですが、今回もその延長といえる事態でした。なにせイスタンブールを始め、オスマン帝国内にはまだまだ多くのギリシャ人が暮らしていたので、「ギリシャ人居住地はギリシャ領であるべし!」という主張がなされたのです。

 

しかし、もちろんそこにはトルコ人も多く暮らしていたので、「トルコ人居住地はトルコ領であるべし!」という主張と衝突。こうして希土戦争が起こります(希=ギリシャ、土=トルコ)

 

この戦争で侵入したギリシャ軍を押し戻したのが、ムスタファ・ケマルという人物でした。1922年にギリシャ軍を最終的に撃退し、アナトリア地方の防衛に成功した彼は、トルコ人の英雄となります。そしてこのケマルが本拠を置いた地が、アンカラでした。

希土戦争

1922年のトルコ革命

希土戦争のさなか、イスタンブールのスルタンは、第一次世界大戦の戦後処理として、セーヴル条約を結びますが、ケマルは失うものが多すぎると、この条約に反対。もはやスルタン中心の政府では国が持たないと、対決姿勢を鮮明にします。

1922年、ケマルはセーヴル条約を修正したローザンヌ条約を結んで、少しだけトルコの領地を回復。もはや彼こそがトルコの事実上の代表となっていました。この行いにイスタンブールのスルタン側は反発しましたが、もはや力の差は歴然でした。同年、ケマルはスルタンの廃止を宣言し、ここにオスマン帝国は最期を迎えました。トルコ共和国の誕生です。

 

こうして、ケマルは新生トルコの大統領となり、首都もスルタン派の多いイスタンブールから、彼の本拠地アンカラに遷りました。アンカラの新政府は、イスラム的な法律やそれまで文章に用いていたアラビア文字を廃止。宗教色を排した法律やアルファベット表記に置き替えました。文字を変えれば、子孫は今までの書物を原文で読めなくなる。こうすることで、過去の社会に戻ることを防ごうとしたのです。

トルコ革命

 

今までにない徹底的な社会改革の結果、トルコは現在に至るまでイスラム系の国でもかなり宗教色の薄い国となっています。(ワインを始め、アルコールも普通に飲まれます。)数々の功績から、現在彼は、ケマル・アタテュルクという敬称で呼ばれています。アタテュルクとは「トルコの父」という意味です。

首都の座は譲っても・・・

こうしてイスタンブールは、首都の地をアンカラに奪われてしまいました。しかし、交易の十字路ヨーロッパとアジアの接点という立場は今も変わらず、現在に至るまでトルコ最大の人口を誇る大都市であり続けています。郊外を含めた都市圏の人口は、アンカラが約500万人なのに対し、イスタンブールは約1400万人(東京都全体の人口に匹敵)にもなっています。

 

さて、前述のように、近年は中東とヨーロッパとの関係が(良くも悪くも)何かと注目を集めるようになっていますが、その仲介役として、トルコという国自身の存在も大きくなっています。経済成長も順調なため、現在のエルドアン大統領は長期政権を維持しています。

現在のトルコ

ところが、隣国ギリシャとは、キプロス問題などをめぐって関係は必ずしも良くありません。キプロスはトルコの南に浮かぶ島国ですが、1974年クーデター事件が起きて以来、国がギリシャ系住民とトルコ系住民によって分断されています。ギリシャ、トルコともに、自国民と同じ住民を相手が脅かしているとして、対立が続いているのです。(この問題については、いずれ書きたいと思っています)

 

 

こうした背景もあってか、ギリシャではイスタンブールのことを未だに「コンスタンティノープル」と呼んでいるのだとか。互いの歴史が長く、一方が他方を支配していた過去もある両国ですが、歴史が対立ではなく、相互理解を生むものとして利用されることを願うばかりです。

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