18世紀前半~アジアとヨーロッパの逆転劇~
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18世紀は話が長くなるので、前半と後半に分けたいと思います。(1760年くらいまで)
この時代、アジアの各地にあった国々では、(中国を別として)王やスルタンの権力がゆるみ、次第に地方の自立や、国の分裂が起こる傾向がありました。江戸幕府のように改革によって危機を乗り切った所もあれば、イランのように王朝自体が崩壊してしまうなど、その結果は千差万別でした。
ヨーロッパでは逆に、覇権争いの中で強力な政府や君主が現れ、いわゆる富国強兵のような政策が採られるようになります。
その一環で、ヨーロッパ諸国はこれまで以上に海外にも進出し、アメリカやアフリカのみならず、弱体化の始まったアジアにも影響力を強めていくことになります。
もくじ
日本
1701年当時、日本の将軍は5代将軍徳川綱吉でした。すでに生類憐みの令が出されており、江戸幕府の財政は苦しくなっていました。1707年には富士山が噴火し、幕府に追い打ちをかけます。
綱吉の死後、儒学者の新井白石が幕府の立て直しを図りますが、思うような成果は出ず。そこで抜擢されたのが、紀州(現和歌山)での財政再建に成功した実績のある人物、徳川吉宗でした。
8代将軍に就任した吉宗は、享保の改革と呼ばれる政策を実施していくことになります。まず、天領(幕府直轄地)からの税収だけでは財政不足だったため、1722~30年、各藩から一定の割合で米を納めてもらう、上米の制を実施して、財源を確保しました。(その代わりに参勤交代を短縮)。
また、有能でも身分(収入)の低い人間を効率よく起用すべく、足高の制を実施します。大岡越前守などは、この政策で起用され、大いに活躍したといいます。この他、飢饉に備えたサツマイモの導入、町民の意見を得る目安箱の設置も吉宗の時代に行われた政策です。
このような政策で幕府の財政は持ち直しました。吉宗のおかげで江戸幕府の寿命は、もう百年延びたとも言われています。
朝鮮半島・中国・モンゴル
朝鮮王朝では前世紀から少論派、老論派という党派が争いを繰り広げていました。1724年即位した英祖は、各党派から官僚を平等に起用する、蕩平策を実施。その争いを収めることに成功しました。彼の治世は50年に及びます。
この頃朝鮮社会は、二毛作による米の増産や鉱山の開発などにより、庶民の中にも経済面で成功する人々が出てきました。言ってみれば朝鮮版ブルジョワの出現です。こうした、従来には存在しなかった人々の出現は、伝統的な儒教的社会を変えていくことになります。
一方の中国(清)では、康熙帝、雍正帝、乾隆帝という名君が続き、経済発展と皇帝の権限強化、そして征服活動と、あらゆる面で清の黄金期を迎えます。
康熙帝は1717年、税制改革を行いました。それまでの人頭税(人間一人ひとりに課される税)を、地租(その土地から得たものの一部を納める税。いわゆる年貢はこれ)に含めるようにして、税を一本化。当時の清では前者を「丁銀」、後者を「地銀」と呼んだため、この制度を「地丁銀制」と呼びます。
この結果、清の人口が大きく増加しました。(ナゼかというと、それまでは丁銀逃れのために人数のサバ読みがあったからです)。いや、実際コメの生産技術向上や開墾も積極的に行われ、清の人口はそれまでの1億人前後から、一気に3億人にまで上昇したといわれています。一方、皇帝自身も倹約に努め、この頃の中国財政は非常に潤沢でした。
外交面では、ジュンガル(モンゴル西部にいた遊牧民国家)から攻撃を受けたチベットを救うという名目で、1720年にチベットを支配下に置きました。一方で、自分たち(満州族)と支配下の中国人(漢民族)の融和にも力を注ぎました。
60年を超える治世を全うした康熙帝は、1722年に没。続く雍正帝は、1729年、政府内に軍機処と呼ばれる部署を設置しました。彼は軍事機密を扱うこの部署を活用することで、外部には知られない情報を掌握。「情報」という武器の独占は、皇帝の権力を大いに高めることになります。
続いて1735年、乾隆帝が即位。彼の治世も60年に及びますが、その間対外戦争を繰り返し、清の支配域を史上最大に広げます。前述のジュンガルは、現在の新疆ウイグル自治区を中心に、清に対して抵抗を続けていましたが、1755年ついに降伏し、その支配を受けました。現在の中華人民共和国が、チベットやウイグルまでをその領土に含めているのには、このような経緯があったのです。
加えて現在のモンゴルも当時は清の支配下にありました。モンゴルではチベット仏教を信じる人が多く、多くの寺院が築かれていました。一方で北に進出していたロシアとの交易が18世紀頃から積極化し、ロシア~清の間にあるモンゴルを多くの商人が通るようになりました。その中継地として発展した町の一つが、チベット仏教寺院の門前町でもあるフレーという名の町、現在のウランバートルです。
東南アジア
中国の人口増は留まることを知らず、18世紀になると東南アジアに進出する者も膨大な数になっていきました。いわゆる華僑の先祖となる人々の社会が生まれます。
ベトナム南部の広南国では、カンボジアから奪ったメコン川河口付近に中国人が住み着くことを許しました。サイゴン(現ホーチミン)もこうして発展した町の一つです。シャム王国(タイ)でもこの頃、香辛料に代わる新しい交易品が輸出されるようになります。それが現在も輸出盛んなコメで、その主たる輸出先は人口の増加した中国でした。このため王都アユタヤにも中国人商人が増加していきます。タイを含むインドシナ半島の農村では、コメの二期作が本格化し、輸出に回せるほどの収穫を期待できるようになりました。
一方国王の権威は徐々に失われ、黎朝のベトナム(現ベトナム北部)や、タウングー朝のビルマでは、地方の自立が進みました。このうちビルマではタウングー朝の都が1752年に崩壊し、この王朝が滅亡。事態を素早く収束した、コンバウン村のアラウンパヤーなる人物が王位に就きました。コンバウン朝の成立です。また、ラオスのランサン王国は、最盛期を誇ったスリニャウォンサー王が17世紀末に没し、王位継承争いが生じました。この結果王国は3つに分裂して力を失っていきます。
中国人はマレー半島やジャワ島にも進出。東南アジアにおけるオランダ人の拠点バタヴィア(現ジャカルタ)では18世紀、中国人商人が急増し、両者が衝突するように。1840年にはオランダ人による中国人虐殺事件が起こるなど、相互不信に陥っていきます。ジャワ島東部のマタラム王国は、オランダの存在感が増すのを嫌がり、中国人側に立ったため、今度はオランダ人とマタラム王国まで争いが広がるようになっていきます。
マレー半島では、ヨーロッパ人の占領したマラッカに代わり、半島南部のジョホール王国が発展。オランダ人や、スマトラ島北部のアチェ王国などと貿易面で競うようになりました。ジョホールは18世紀前半一度内紛で崩壊しますが、海洋技術を身に着け、地元の地理にも詳しいブギス人と呼ばれる人々によって再建。その拠点はマレー半島沖合の島、リアウに遷されました。以後ブギス人は副王として、この国の事実上の統治者となっていきます。
南アジア
インドのイスラム王朝ムガル帝国は、6代目皇帝アウラングゼーブの元、支配域を最大にしましたが、彼は極端にイスラムを重んじ、ヒンドゥー教徒やシク教徒を締め付ける政策を行っていました。1707年彼が没すると、翌年シク教徒が大規模な反乱を起こしたのをきっかけに、それまでムガル皇帝に従っていた非イスラム教徒の国々が次々と自立。これらの国の一部は、17世紀後半に成立していたマラータ王国(インド南西部)を中心に同盟を結びました(マラータ同盟)。やはり人口面ではヒンドゥー教徒が圧倒的に多いインドで、彼らを軽んじたことは、アウラングゼーブの失策だったといえるでしょう。
一方、インドの沿岸部では別の争いが起きていました。大航海時代以降インドには、アジアの貴重な交易品を求めて多くのヨーロッパ商人が進出し、商館やヨーロッパ風の街を建設していました。中でも18世紀インドで主導権を争っていたのは、イギリスとフランスでした。両国はヨーロッパ大陸での戦いに合わせるように、この遠いアジアの地でも火花を散らすことになります。
西アジア・北アフリカ
西アジアでは17世紀から引き続き、トルコを中心としたオスマン帝国と、イランを中心としたサファヴィー朝が二大巨頭となっていました。しかし、すでに最盛期を過ぎていた両国は、統治体制がゆるみ、地方の反乱を抑えることが難しくなっていました。
1709年カンダハルという町で反乱を起こしたミール・ヴァイスは、イランからの自立に成功。アフガニスタンの原型となる国がこの時創られました。ミール・ヴァイスの息子マフムードは、1722年に王都イスファハーンを攻撃し、この街を壊滅させます。この事件をもって事実上サファヴィー朝は滅亡し、イランは数か国に分裂してしまいます。
中でもサファヴィー朝のアフシャール家は有力な一族で、1736年正式にサファヴィー朝を終わらせた後、自ら王を名乗るようになります(アフシャール朝)。彼(ナーディル・シャー)は周囲への攻撃を繰り返し、イラン統一を進めましたが、1747年暗殺されたため、その野望は果たさせませんでした。
17世紀末オーストリアに手痛い敗北を喫したオスマン帝国は、西洋文明が進んでいることを痛感。18世紀初期、スルタンのアフメト3世は遅れなるものかと、西洋文化の導入に踏み切ります。フランスを始めとするヨーロッパの芸術文化、風習が、イスタンブールの宮廷に持ち込まれました。こうして芸術面で大きな変化が生じますが、これを当時流行した花から、チューリップ時代と呼んでいます。しかし技術や社会制度についてはまだまだ抵抗が強く、オスマン帝国を本格的に変えるには至りませんでした。
この間帝国下に置かれた北アフリカやバルカン半島では、中央の力が弱まったことで新たな権力を持つ者が出現しました。チュニス(現チュニジア)のフサイン家、トリポリ(現リビア)のカラマンリー家は、地方政権のトップの座を独占し、事実上国王のような権力を手に入れました。バルカン半島では、商業で力を得たギリシャ人(ファナリオティス)が、やはり地方行政や教会のトップを牛耳るようになります。
アラビア半島には当時統一的な国が存在せず、アラブ系の王族により、各地に部族社会が形成されている状況でした。その一つ、サウード家は、イスラム教の原点回帰を訴えていたワッハーブという宗教改革者と手を結び、厳格なイスラム系の王国を築き上げます。ワッハーブ王国(または第一次サウード王国)です。ワッハーブ王国はその後、宗教的に”堕落している”オスマン帝国に対抗するようになります。
中南アフリカ
西洋人による奴隷貿易は、18世紀ピークに達していました。現ガーナの地にあったアシャンティ王国など、欧米との付き合いで発展する国がある一方、生産年齢人口の激減はアフリカ伝統社会を破壊していきます。
ソンガイ帝国亡き後のサハラ地方では、チャド湖周辺のボルヌ王国や、現ナイジェリア北部のハウサ諸国がサハラ交易の主役となっていました。しかしこうした国々もまた奴隷貿易に携わっており、しかも18世紀には、ヨーロッパ人やアラブ人など外国商人に貿易の主導権を握られていました。
こうした状況を批判したのが、フラニ族と呼ばれる、イスラム系遊牧民。彼らは奴隷貿易に手を染めるボルヌやハウサに対し、”正しいイスラム社会”を追求して聖戦(ジハード)を始めました。18世紀前半には、西アフリカのフータ・ジャロン地方(現ギニア~セネガル南部あたり)にフラニ人最初の本格的な王国が成立。フラニ聖戦と呼ばれるこの活動は、断続的に19世紀まで続くことになります。
そのほかの地域を見てみると、アフリカ東部のエチオピア王国や、アフリカ南部のモノモタパ王国も、各々内部分裂を起こし、戦国時代のような群雄割拠の状態が続きました。
反対にマダガスカル島では、中央高原地帯に住んでいたメリナ人の王国が次第に勢力を拡大していきました。
ロシア・北欧・ポーランド
1700年、北欧で大きな戦いが始まります。北方戦争と呼ばれるこの戦いは、バルト海を支配下に置いていたスウェーデンと、それに挑むロシア帝国の戦いでした。
ピョートル大帝率いるロシア軍は、時のスウェーデン王カール12世を戦死させるなど大打撃を与えました。そしてバルト海の一角に新しい都市を築き、モスクワから遷都。この都の名は、ピョートル(ペテル)の名を採ってサンクトペテルブルグと名づけられました。
こうしてロシアはバルト海沿岸に領地を広く広げました。現在のバルト三国のうち、エストニアとラトビアに当たる地域はこの時ロシア領となります。この勝利を成し遂げたピョートル大帝の改革はしかし、国内では不評でした。改革のスピードが速すぎたためです。そのため1725年にピョートルが没すると、改革にも「修正」が加えられていきます。
バルト三国についていえば、残るリトアニアは当時、ポーランド王国に含まれていました。東ヨーロッパの大国だったポーランドですが、この頃はマグナートと呼ばれる少数の大貴族が国王に代わり社会を牛耳っていました。彼らは自分の利益に見合った国王を即位させたいと互いに争うようになり、1733年にはポーランド継承戦争が勃発。この戦争はロシア、オーストリアなど外国列強を巻き込み、戦後は特にロシアの陰におびえるようになります。
一方スウェーデンでは、国王カール12世が戦死したのを機に絶対王政が終わり、貴族たちが力を握りました。彼らの政治的な自由度が高まったことから、「自由の時代」と呼ばれています。多様な意見が出される中、政党の原型のようなものも誕生。また、北方戦争で荒廃したフィンランド(当時スウェーデン支配下)の開発も積極的に行われました。
スウェーデンのライバルだったデンマークは、北方戦争でロシアを支援しますが、戦後は経済政策に力が入れられました。一時的に交流の途絶えていたグリーンランドに再び進出し始めたのもこの頃です。
南ヨーロッパ
スペインでは、断絶したハプスブルク家に代わってフランスと同じブルボン家のフェリペ5世が王位に就きました。この工作を敷いたのは、当時のフランス王、ルイ14世です。
しかし、このままではスペインがフランスに吸収されかねず、そうなればヨーロッパ随一の大国ができあがってしまう。これを恐れたイギリス、オランダ、ハプスブルク家の本拠オーストリアが、フランス・スペインに対し戦いを挑みます。スペイン継承戦争(1701~13)です。激しい戦争の末、1713年のユトレヒト条約でスペインとフランスの合同は禁止されましたが、以後、スペインはフランスの影響を強く受けることになります。
その隣国ポルトガルは、反対(?)にイギリスへ接近。1703年メシュエン条約が結ばれます。この条約で両国の貿易強化がうたわれましたが、それは次第にポルトガルの対英従属化へと変わっていきます。
なお、スペイン・ハプスブルク家下にあった南ネーデルラント(ベルギー)は、スペイン継承戦争後、オーストリア・ハプスブルク家下に置かれました。
小国に分かれていたイタリアでは、スペイン継承戦争で活躍したサヴォイア公国(イタリア北西部)が、地中海のサルディニア島を得て、1714年サルディニア王国として再出発します。しかしそれ以外の地域では、オーストリア・ハプスブルク家(ミラノやトスカーナ)やブルボン家(ナポリやシチリア)の君主が並び立ち、オーストリアやフランスの影響を強く受けました。
フランス・オーストリア・ドイツ
イタリアの状況に象徴されるように大陸ヨーロッパでは、長年の宿敵ハプスブルク家とブルボン家の覇権争いが続きました。
オーストリアを中心としたハプスブルク家は当時、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ベルギー、そしてイタリア北部(いずれも現在の国名)と、ヨーロッパ各地に領地を持っており、神聖ローマ帝国の皇帝の座も事実上独占していました。フランスにしてみれば、周囲をこの宿敵に囲まれた格好でした。
1740年、当時のオーストリア君主カール6世が死去し、女王マリア・テレジアが即位しましたが、女性君主を認めない国も多く、ここにオーストリア継承戦争が起こります。フランスは無論、反ハプスブルクの立場でこれに参戦しました。
が!この戦争でオーストリアを最も悩ませたのはフランスではありませんでした。新たな大国が北から進出してきたのです。それがプロイセン王国でした。
ベルリンを中心としたこの国は、17世紀の三十年戦争後に軍事改革などを行って強大化し、1701年に王国に昇格。そして1740年即位した大王フリードリヒ2世も、国の発展を第一に考え、産業や福祉の分野でプロイセン王国の地位を高めていきました。「君主は国家第一のしもべ」という言葉を彼は残しています。つまり、国王は最も自国のために尽くさねばならない、という信念です。
その大王が、プロイセン発展のため、オーストリアに対し領土をよこせと言ってきました。結局オーストリアはこの戦争に敗北し、プロイセンに資源豊富なシュレジエン地方(現チェコとポーランドにまたがった場所)を渡すことになりました。
マリア・テレジアは自身の地位を守ったものの、オーストリア継承戦争でプロイセンの強大な軍事力を見せつけられ、何と宿敵フランスのブルボン家と手を結びます。外交革命と呼ばれたこの大転換は、旧来の方針にとらわれない、現実的な見方のできたマリア・テレジアだからこそ可能だったのだといわれています。
オーストリアとプロイセンは1756年にも再び戦い、各々の陣にフランスとイギリスが付きました。1763年までかかったこの戦争を七年戦争と呼びます。ヨーロッパではこのような国際戦争が何度も繰り返されることとなります。
イギリス
17世紀初頭から、イングランドとスコットランドは同じ人物を国王としていました(同君連合)が、あくまで「外国」同士の関係でした。しかし革命や経済的な問題から、1707年に合同法が施行され、両国は一つの国に。ここにグレートブリテン王国(=イギリス王国)が成立します。
当時の君主はアン女王でした。しかし彼女は後継者に恵まれないまま1714年に死去し、スチュアート朝が断絶しました。次の王はドイツ・ハノーファーで生まれ育ったジョージ1世。彼は英語も話せず、イギリスに対する愛着も乏しかったことから、とても政治を任せられる人物ではありませんでした。
このため、「王は君臨すれど統治せず」という原則が生まれ、王は政治に参加しなくなります。当時のイギリスはヨーロッパで戦争がある度これに参加し、宿敵フランスと相争っていたので、重要な決定のできる人物が求められたのです。その重責を担ったのが責任制内閣という組織。初代首相はウォルポールという人物で、彼自身は平和的な外交を重んじていましたが、時代がそれを許しませんでした。
社会の成熟とともに、科学技術も発展。例えばインドの繊維産業に対抗する形でイギリス人はより効率的な糸つむぎの方法を研究。ジョン・ケイの開発した飛び杼は、後の機械化につながる発明品でした。
農業面でも、休耕地をなくすノーフォーク農法が生まれ、生産技術が向上。農村でも大量生産が始まるようになります。イギリスにおけるこの農業革命は、18世紀後半に本格化していきます。
一方、前世紀に栄光を飾ったオランダは、国力の面でイギリスにお株を奪われ、世界に対する影響力を失っていきました。
南北アメリカ
北アメリカでには、後のアメリカ合衆国となるイギリス人の植民地と、カナダ、ケベック州に当たるフランス領(ヌーベル・フランス)が各々開拓を続けていました。そして両国の間で戦争が起こると、この植民地も同様に争いを繰り広げていました。
1756年、フランスがネイティブアメリカンと結んで、英領アメリカの植民地に侵攻する、フレンチインディアン戦争が勃発。これが同年起こった七年戦争(墺・仏vs普・英)と連動してやはり63年まで続くことになります。そして戦争はプロイセンとイギリスが優勢のうちに終わり、ヌーベル・フランスはイギリス領に組み込まれました。一方で、植民地に住む人の中には、本国の都合で大きな犠牲を強いられることに、次第に不満を持つようになります。
スペイン統治下の中南米植民地では、前述のとおり王家がハプスブルク家からブルボン家に代わったという大きな事件が起こりました。本国の後れっぷりを痛感したブルボン王家は、王権強化の改革を行い、これにより植民地の政治体制も変化していくのですが、それが本格化するのは18世紀後半のことでした・・・
主な出来事
1701 プロイセン公国、王国に昇格(ドイツ)
1701 スペイン継承戦争開始~13(ヨーロッパ)
1702 赤穂浪士の討ち入り事件(日本)
1707 イングランドとスコットランドが合同。グレートブリテン王国に(イギリス)
1709 サファヴィー朝からカンダハル政権分離(アフガニスタン)
1710 ブハラ・ハン国から、コーカンド・ハン国分離(中央アジア)
1713 ユトレヒト条約(ヨーロッパ)
1716 徳川吉宗、征夷大将軍に就任。享保の改革開始(日本)
1717 ペルー副王領から、ヌエバ・グラナダ副王領分離(南米)
1720 サヴォイア公国、サルディニア島獲得、サルディニア王国に改称(イタリア)
1721 ウォルポール政権成立(イギリス)
1721 北方戦争終結。ロシア、バルト海をスウェーデンより奪う。(北欧)
1722 康熙帝没。雍正帝即位(中国)
1724 英祖即位(朝鮮半島)
1726 フータ・ジャロン王国成立(西アフリカ)
1733 ポーランド継承戦争~35(ヨーロッパ)
1735 乾隆帝即位(中国)
1736 サファヴィー朝滅亡。ナーディル・シャー、アフシャール朝興す(イラン)
1740 マリア・テレジア即位。オーストリア継承戦争起こる~48
1741 ブーサイード朝成立(オマーン)
1744 ワッハーブ王国(第一次サウード王国)成立(アラビア半島)
1752 コンバウン朝成立(ミャンマー)
1756 七年戦争~63(ヨーロッパ)
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