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9世紀~海賊の栄光・イスラムの伝道~

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9世紀に入ると、ヨーロッパでは北欧ヴァイキングの活動が本格化します。中東のアッバース朝ではバグダッドのカリフ政権から自立する動きが見える一方、遠く離れた場所にもイスラム教が伝わっていきました。両者に共通するのは、交易です。

西ヨーロッパ

 ローマ帝国の後継者という偉大な称号を得たカール大帝ですが、彼が814年に没し、息子のルードヴィヒも840年に亡くなると、3人の子供(カールの孫)がフランク帝国を3つ(西フランク中部フランク東フランク)に分割してしまいます(843年ヴェルダン条約)。これは息子たちに平等に財産を分ける、フランク族の伝統にのっとったものでした。

フランクの分割

 

3つの王国は870年にも再編され(メルセン条約)、西フランク東フランクイタリアの3王国となります。これらはいずれも西欧の大国として強い存在感を放っていきますが、これについては後の時代に取っておきましょう。

イギリスのグレートブリテン島では、後述のようにヴァイキングの襲撃を受けますが、これを撃退したのがウェセックス王国アルフレッド大王でした。こうして名声を得たウェセックス王国により、アングロ・サクソンの七王国が統一されてゆきます。この地は後に「アングロ人の土地」という意味から「アングロランド」転じて「イングランド」と呼ばれるようになります。

北欧・東欧

 同じ頃、ヨーロッパ人を震え上がらせたのが北欧からやって来たヴァイキングでした。ヴァイキングとは小型の船を巧みに操り、略奪を働く非キリスト教徒の事で、ロンドンやパリといった大きな都市や、貴金属の多い教会なども度々その被害に遭っていました。

西欧の人々からヴァイキングはノルマン人とかデーン人とかと呼ばれ、恐れられていましたが、やがてキリスト教世界の仲間入りを果たし、ノルウェーデンマークスウェーデンという国になっていきます。

ヴァイキング活動

彼らはまた、略奪者だけではなく、商人でもありました。9世紀半ばを過ぎる頃には、北欧から東スラヴ人(ロシア人らの先祖)の居住地を経て、黒海に出る商業ルートが形作られます。この結果ノヴゴロド国という、後のロシアに繋がる国も誕生しますが、その形成にはヴァイキングの首領も大きく関わっていたとされます。

 

 東ヨーロッパのバルカン半島では南スラヴ系人々が住みつき、ここでもキリスト教が受け入れられていきます。ただこの地域はローマ教会とビザンツ教会の境目にあり、半島西部のクロアチア人がローマ・カトリックを受け入れたのに対し、東のブルガリア王国は国王ボリス1世東方正教を受け入れてビザンツ帝国の勢力圏に入りました。こうしてバルカンの宗教地図は複雑化していきます。

中東・アフリカ

 8世紀末までにイスラムの征服活動はおおむね完了しました。これは中東における戦いが一段落し、「パクス・イスラミカ(イスラムの平和)」というべき時代を迎えたことを意味します。

 

次の課題は、アッバース朝が、大きく広がった領地をいかに統治するか?というものでした。そこで役人を用いた官僚制度などが整備されましたが、それには支配層のアラブ人ではなく、大帝国を何度も築いた「経験」と「知識」を持つ ペルシャ人 がうってつけでした。

 

ササン朝滅亡後、ウマイヤ朝支配下にあったペルシャ人ですが、アッバース朝の時代になると官僚学者など幅広い分野で活躍の場を与えられ、宰相など高い地位に就いた者も少なくありませんでした。この時代の代表的知識人で、数学、天文学の分野で活躍したフワーリズミーは、ペルシャ人と言われています。

適材適所

 一方、軍人として起用されたのが、中央アジアに住むテュルク人でした。彼らは元々遊牧民であり、馬を操る能力に長けていたため、軍人奴隷(マムルーク)として扱われていきます。奴隷といっても黒人奴隷のような扱いではなく、主人に仕える傭兵のような存在です。

 

ペルシャ人、テュルク人が次第に活躍の場を広げる一方、アラブ人のカリフ(イスラムの宗教指導者)はだんだん名目的なものとなっていきます。その結果、エジプトのトゥールーン朝、イランのターヒル朝、中央アジアのサーマーン朝など、地方行政を任され、バグダッド政府から自立する王朝も出現していきました。

 

 イスラム教は交易を通じても伝わりました。ラクダを用いたキャラバン隊はサハラ砂漠を越え、アフリカとも取引を盛んに行うようになります。これにより現在のマリ付近にあったガーナ帝国や、チャド湖周辺に成立したカネム王国といった、アフリカ系の王国が発展。こうした国もイスラム教を受け入れていきました。

 

他方、キリスト教を重んずるエチオピアのアクスム王国は、周囲をイスラム王朝に囲まれ、その勢いを失っていきます。

インド・東南アジア

 インドは7世紀後半にヴァルダナ朝が衰退して以降、不統一の状態が続いていました。9世紀の北インドではプラティハーラ朝という王朝が広範囲を支配しましたが、この王朝も西からやって来るイスラム勢力に悩まされました。宗教に関してもう一つ言えば、インドにおける仏教は衰退し、ヒンドゥー教がその中心となっていきます。

 

 東南アジアでは、この頃からアンコールが王都として拡大。カンボジアのみならずインドシナ半島南部全域に大きな存在感を持っていきます(ただしアンコールワットの建造はまだ先)。

 

インドネシアのジャワ島では、王家を一時乗っ取ったシャイレーンドラ家により 巨大建造物 が建造されます。これが東南アジア有数の仏教遺跡ボロブドゥールです。しかしこの後シャイレーンドラ家は追放され、旧来のサンジャヤ王家が復活。ジャワ島の統一が進みました。

東アジア

 モンゴル高原では、8世紀に安史の乱平定で活躍した回鶻(ウイグル)という遊牧民の国がありました。しかし840年、別の遊牧民キルギスとの争いでこの国が崩壊。しばらく高原には巨大な遊牧民国家は存在しなくなります。

 

日本では平安時代が始まった頃です。奈良時代に腐敗した仏教を立て直すべく、最澄空海が海を渡り、で修業をしました。しかしその唐もこの頃には皇帝の力が弱まり、貴族の内紛が絶えない不安定な状況でした。

 

9世紀後半には大規模な農民反乱を引き起こし(黄巣の乱)、唐の崩壊は時間の問題となります。唐の衰退と共に遣唐使の頻度も下がり、9世紀末、遂に菅原道真の進言により停止されます。既に中国から多くを学んでいた日本は、この頃から独自の文化(国風文化)を成熟させていくことになります。

アメリカ・太平洋

 ユカタン半島のマヤ文明はこの頃、大きな変動が起きました。ティカルコパンといった半島南部の諸都市が一気に衰退したのです。その原因には諸説ありますが、人口増加や干ばつにより、旧来の都市ネットワークが機能しなくなってしまったというのが有力です。以後、マヤの重心は、チチェンイツァなど北部に移っていきます。

 

太平洋の人々は、ポリネシアの島々にまで進出していましたが、この頃になると更に遠方へ漕ぎ出し、遂にはハワイイースター島の土を踏んだとされます(諸説あり。あくまでも9世紀前後と思ってください)。

主な出来事

804 アヴァールフランクに敗れ崩壊(中央ヨーロッパ)

804 最澄および空海へ渡航(日本・中国)

814 カール大帝没(西ヨーロッパ)

820 ボロブドゥール完成(ジャワ島)

828 張保皐チャン・ボゴ新羅から自立(朝鮮半島)

838 ヴァイキングのデーン人、イングランドに侵攻(北欧・イギリス)

840 ウイグル崩壊。モンゴル高原の統一性失われる(モンゴル)

843 ヴェルダン条約 フランク帝国が3王国に分裂(西ヨーロッパ)

862 ノヴゴロド国建設(ロシア)

864 ボリス1世、キリスト教受け入れ(東欧ブルガリア)

866 応天門の変(日本)

868 トゥールーン朝成立。アッバース朝から自立(エジプト)

9世紀後半 キュリロスメトディオス兄弟、スラヴ人にキリスト教布教(東欧)

870 メルセン条約 旧フランク帝国再編(西ヨーロッパ)

875 サーマーン朝成立。アッバース朝から自立(イラン・中央アジア)

875 黄巣の乱。唐が不安定化(中国)

886 アルフレッド大王、デーン人からロンドンを奪還(イギリス)

894 菅原道真の進言により遣唐使が停止される(日本)

895 ハンガリー平原にマジャール人侵入(東欧)


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