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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

フランス革命はなぜ起こった?その1

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フランス革命
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フランス革命といえば、数ある「革命」の中でもトップレベルに知名度の高い、歴史的大事件でした。日本でも池田理代子氏作の『ベルサイユのばら』をはじめ、この時代を扱った作品は少なくありません。

 

フランス革命と聞いてイメージされるのは以下のようなものでしょうか?

贅沢三昧な王室にパリの市民が怒り、1789年バスティーユ牢獄を襲撃した。その後フランスの絶対王政は倒れ、人々の自由と平等をうたう人権宣言が出される。しかしやがて革命はギロチンに象徴される流血の惨事となり、最後はナポレオンが出てきて終わりを告げた。

 

 

しかし、革命はなぜ起こり、その結果、社会にどのような影響をもたらしたのか。イマイチわからない人も少なくないのではないでしょうか。かくいう私もその一人でした。今回は、フランス革命の起こった背景と複雑な経緯、そしてその歴史的意義を、追っていきたいと思います。もちろん、全部を詳しく語るには、分厚い本一冊分くらいの文章量が必要になってしまうので、シンプルに、要点をおさえた形で書こうと思います。

揺らぐ絶対王政

 革命が起こる前のフランスは、いわゆる絶対王政だとよく言われます。革命が起こる100年前は太陽王ルイ14世の時代。「朕は国家なり」という有名な言葉が示すように、国王が強い権力を持っていて、フランスの隅々にまで影響を及ぼしていたように聞こえます。

 

 しかし最近の研究によれば、国王の権力や影響力はそんな絶対的なものではなかったようです。そもそも、この時代の「国」というものは国王の私物のようなもので、国境も支配の範囲もコロコロ変わる。軍隊も多くは傭兵だし、地方の統治は、王に忠誠を誓った貴族に任せていることが普通。ネットはもちろん、電話もテレビも自動車もない時代、王の命令や地方からの情報も伝わるには時間がかかるし、正確に伝わるかも怪しい。

 

 実際の絶対王政は、各地の村落、職人組織(ギルド)、教会といった、昔からある団体に自分を支配者と認めさせ、代わりに自治権や免税などの特権を与えるという「間接統治」だったようです。これらの団体は、最近の研究者によって「社団」と呼ばれることが多いです。

社団国家

 これらの社団はまた、多くが古い身分制度の上に成り立っていました。ヨーロッパにおける身分制度とは、第一身分(聖職者)第二身分(貴族)第三身分(平民)というものです。フランス伝統の議会である三部会も、この3つの身分の代表によって開催されていました。

 

 しかし18世紀のフランスでは、この身分制度も、現実と合わなくなっていました。経済の発展により、貴族と肩を並べるような大金持ちになった平民(いわゆるブルジョワ)もいれば、時代についていけず没落した貴族もいました。科学の進展も、身分制度や絶対王政、王権神授説に疑問をなげかけます。

 

 その結果、ヴォルテールモンテスキュールソーといった思想家が、新しい考えを世に広め、人々の考えを変えていきます。サロンやカフェでは、こうした考えを知った人々が意見を交わし、交流を深めていきますが、そこには身分の壁はありませんでした。このような変化が、「伝統的」な社団に支えられた絶対王政をゆるがすことになります。

 

 つまり、革命はある日突然起こったのではなく、古い制度と社会の変化とのギャップがあちこちに「ひび割れ」を生じさせ、いつ決壊してもおかしくない状況だったのです。

税を取るなら議会を開け!

 1776年、アメリカ植民地がイギリスからの独立戦争を始めました。当時イギリスとライバル関係にあったフランス王家は「敵の敵は味方」理論でアメリカを支援し、独立に貢献します。しかしその戦費は、ただでさえ赤字続きだった王室のお財布事情を一層厳しくしてしまいました。

 

 1783年アイスランドのラキ火山と日本の浅間山が立て続けに大噴火し、アジア、アメリカ、ヨーロッパ一帯はその噴煙で寒冷化。各地で大飢饉が発生し、フランスでも小麦の値段が跳ね上がりました。

 

 しかし王室の財政赤字は解消しなければなりません。1786年王室の財務総監カロンヌは、新しい税を課すことを提案。これは特権階級を含めた全身分を対象としていました。当然ながら、免税特権を持っていた貴族は「国王の横暴だ!」と猛反発。「新しい税を認めさせたければ三部会を開け!」と要求しました。上記の三部会は、17世紀のルイ13世の時代以降、170年以上開催されていなかった(国王の一存で決められた状態)ため、これはある意味、貴族たちによる国王への挑戦状でした。

 

 時の国王ルイ16世は最終的にこれを認め、1789年5月に全国三部会が開かれることが決まりました。これに先立ち、地方で州議会が開かれますが、そこでは人口面で圧倒的多数だった第三身分(平民)が多数当選。自分たちの意見を出せる場が現れたとして、その勢いは増していきました。その一人、エマニュエル=ジョゼフ・シェイエスは、『第三身分とは何か』という名のパンフレットを作って、これからの主役は第三身分と訴えるようになります。

 

 政治を議論することへの規制も緩和され、政治クラブもあちこちで結成されます。その一つは、後にジャコバン修道院の食堂を拠点としたことから、ジャコバン・クラブと呼ばれ、フランス革命に多大な影響を与えることになります。

 

 しかし今度は第三身分と、特権階級の第一身分第二身分との対立が生じました。1789年5月5日、予定通り全国三部会が開かれますが、その議決方法が決まっていませんでした。第三身分(と、彼らに同調する一部の聖職者や貴族)は「州議会と同じく個人投票の多数決にしよう」と主張。そうすれば、頭数で第三身分側の意見が優勢になるからです。

 

一方、特権階級(第一、第二身分)側は、「伝統的な身分別の投票」を主張。つまり第一身分、第一身分、第三身分がそれぞれ「YesかNoか」を投票するもので、特権階級が結託すれば「2vs1」と第三身分より有利になるわけ。

 

これじゃ、らちが明かないと、第三身分の人々は、独自に議会を設置し、彼らに同調する第一、第二身分にも合流を呼びかけました。その中心人物が、貴族出身ながら第三身分の代表議員となっていたオノーレ・ミラボーで、この議会を、身分を超えた「国民」によるものとして、「国民議会」と名付けます。これを認めない特権階級の人々は、ルイ16世に頼んで、6月20日会議場を封鎖してしまいます。

球戯場と牢獄

 そこでミラボー、シェイエスら国民議会の人々は、近くの球戯場へ場所を移し、「(絶対王政を規制する)憲法を実現するまで、私たちは解散しない!」ことを誓いあいました。これが有名な球戯場(テニスコート)の誓いです。

 

 こうして議員たちが新しい政治的な運動を続ける一方、パリでは失業者や飢饉を逃れてきた人々により治安が悪化していました。ヴェルサイユの王室も、パリのこうした人々を取り締まり、また、国民議会の動きに圧力をかけるために軍隊を派遣し、パリ市民に緊張が広がっていました。

 そのような中の1789年7月、当時の財務総監だったジャック・ネッケルが、第三身分寄りだとして王室から解任を宣告されてしまいます。ネッケルは、政治運動の規制緩和にも大きく関わっており、民衆に人気がありました。それなのになぜクビに?王による弾圧か?あの軍が攻めてくるのか?

フランス革命

 このような噂が広がり、7月14日ついに民衆は蜂起。武器を奪って、かつて政治犯収容所だったバスティーユ牢獄を襲撃しました。この事件をきっかけに、フランス革命というドラマの幕が切って落とされることになります。

大恐怖・人権宣言・ヴェルサイユ行進

 革命の一報は、パリから地方の農村にも広まり、農民たちも動き出します。しかし彼らは、必ずしも、世の中を変えたいという崇高な思いでも立ち上がったわけではありません。

 

 むしろ逆で「パリで市民が貴族たちを攻撃した、貴族たちが仕返しするかもしれない。」という疑心暗鬼や恐怖心が伝染、拡大し、地元の領主や貴族の館を襲ったのでした。大恐怖と呼ばれるこの出来事は、噂と不安が連鎖して広がったパニック現象だったと考えられています。

 

 勘違いされがちですが、バスティーユ牢獄事件も、大恐怖も、「球戯場で誓いを立てた」議員の人々が起こしたり、けしかけたものではありません。むしろ彼らはこうした反乱を恐れ、火消しに躍起になりました。8月4日、国民議会は「封建的特権の廃止」を宣言します。つまり、領主が農民に課していた負担や、領主が持っていた裁判権などの特権が廃止され、課税の平等負担が決まります。

 

そして8月26日には「フランス人権宣言」が発せられました。それまで「あって当然」だった身分制度や王権神授説、貴族らの免税特権が否定され、人々はみな自由で平等な「個人」として扱われる。また、国のかじ取りをするのはフランスに住む「国民」だ(国民主権)として、参政権の拡大や言論の自由も保証されました。現在の日本国憲法にも取り入れられている重要な権利や文言が、フランス人権宣言に言及されていることからも、この宣言は、後の歴史に大きな影響を与える重要なものでした。

 

 ただし、参政権は女性には認められていないなど、現代人から見ればまだまだ不完全なものではありました。ただ、当時の人から見れば、時代の最先端を行く考えを形にしたものであったことは、間違いないでしょう。

 

 では、時の女性たちは革命に無関係だったかというと、無論そんなことはありません。例えばオランプ・ド・グージュという劇作家は、上記の「女性に参政権が認められていない」ことをいち早く指摘した女性でした。しかしこうした個人の活動以上に歴史を動かしたのが、10月5日に起きたヴェルサイユ行進でした。

 

 大恐怖による農村の混乱により流通網が乱れ、バスティーユ牢獄襲撃後に貴族が続々とパリを脱出したことによって雇い止めにあった失業者が増加するなど、パリ社会は疲弊していました。特に食料不足は深刻でしたが、市民はこれを国王に訴えます。

 ルイ16世や王妃マリー・アントワネットは当時パリ郊外のヴェルサイユ宮殿に住んでいました。ルイ16世は歴代のフランス国王の中でも、開明的な人物だったといわれていますが、それでも伝統的な王室に浸っていた王族達にとって、世の中の変化を受け入れるには限界があり、封建的特権の廃止宣言もフランス人権宣言も無視していました。

 

 王室が革命をつぶそうとしているのでは?当時パリの台所を預かっていた女性たちを中心に、パン不足の原因が王にあると、はるばるヴェルサイユまで行進、抗議活動を行いました。しかしいざ、ルイ16世が現れると、一転して「国王バンザイ!」コール。まだまだ市民にとっても王様は特別な存在だったことが垣間見えます。

 

 結局ルイ16世は、2つの「宣言」を認め、パリ市民に満足な量のパンを供給することを約束しました。また彼らの訴えにこたえて、ヴェルサイユ宮殿からパリのテュルリー宮殿に住まいを移すことになりました。

 

 激動の1789年が終わり、1790年に入ると、本格的に政治改革が始まります。経済は自由化され、ギルドや国内関税は廃止。教会が持っていた広大な土地は国有化され、人々に売却されました。こうして財政改革はある程度進み、7月14日には、革命1周年を祝う「連盟祭」というお祭りが盛大に開かれるなど、この段階ではまだフランスの未来は明るいと思われていました。しかし、そんな時代は長くは続きませんでした・・・

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